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侵食の始まり

Auteur: 中岡 始
last update Dernière mise à jour: 2025-08-26 14:14:50

店を出た時、雨はもう止んでいた。

だが、アスファルトにはまだ水たまりが残り、街灯の明かりが歪んで映っていた。

佐伯はポケットに手を突っ込んだまま、ふっと息を吐いた。

吐いた息が、夜の空気に溶けていく。

佐山は、その横を歩いていた。

肩を並べる距離。

だが、決して先には出ない。

後ろにも下がらない。

絶妙なポジションだった。

「お前、変なやつだな」

佐伯がぽつりと言った。

「そうですか?」

「普通、新人が上司と飲みに行って、あんな話聞くかよ」

「でも、部長が話したかったんでしょう?」

佐山は、柔らかい声で返した。

相手の心に触れる時だけ出す、特有の声音。

それを、佐伯は意識せずに受け取っていた。

「……まあな」

佐伯は、認めるように呟いた。

その声には、もういつもの「部長」の威圧感はなかった。

「話すだけで、少しは楽になりますよ」

佐山は、そう言いながら、夜風に目を細めた。

だが、心の中は冷たかった。

今の会話も、すべて計算通りだった。

「この人は、もう少しで崩れる」

その手応えを、佐山は確かに感じていた。

佐伯は、会社では「頼れる男」を演じている。

家庭では「完璧な夫」を演じている。

だが、その実態は、ただの孤独な男だ。

誰にも本音を言えず、誰にも弱さを見せられず、ただ役割をこなしているだけの人間。

そんな人間は、簡単に崩れる。

自分の居場所が揺らぎ始めた時、自分から手を伸ばしてくる。

佐山は、それを知っていた。

「部長」

佐山は、わざと歩く速度を落とした。

「何だ?」

「俺、たぶん部長の役に立てますよ」

「……」

「だから、何でも言ってください」

佐伯は、足を止めた。

街灯の下で、佐伯の背中がほんの少しだけ揺れたように見えた
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