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黒瀬の独白

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-09-06 10:31:55

黒瀬は、深夜の静まり返った自宅マンションに帰り着いた。

ネクタイを緩める手が、少しだけ震えている。

そのことに自分で気づきながらも、どうすることもできなかった。

靴を脱ぎ、玄関に置かれた鏡に目をやる。

映るのは、疲れ切った男の顔。

額には薄く汗が滲み、目の奥には赤い疲労の滲みがあった。

ジャケットをソファに投げ、洗面所へ向かう。

蛇口を捻ると、水が静かに流れた。

掌ですくい、顔を洗う。

冷たい水が皮膚を伝い、首筋に落ちる。

だが、その冷たさすら、今は感覚が鈍い。

顔を上げると、鏡の中に自分がいた。

その目が、他人のように見えた。

長い間、何も感じないふりをしてきた。

経理の数字だけを見て、会社の金の流れだけを操って、心を閉じていた。

だが、今日は違う。

鏡の向こうから、美沙子の声が蘇る。

「黒瀬、欲しいものは全部手に入れなさい。自分で動けば、手に入るから」

耳の奥で、あの声が響いた。

美沙子の声は甘かった。

けれど、同時に冷たかった。

「……その結果がこれか」

黒瀬は低く呟いた。

誰もいない部屋に、その声だけが落ちる。

手が震えている。

分かっているのに止められない。

洗面台の横に置いたグラスを持ち上げようとしたが、指先が震えて掴めなかった。

グラスがカタリと音を立てた。

「何やってんだ、俺は」

黒瀬は自分にそう言い聞かせるように呟いた。

だが、答えは出なかった。

美沙子と組んで、ここまで来た。

会社の経営を裏で操り、数字をいじり、資金を動かした。

料亭藤並の名義も、裏帳簿の管理も、自分が手を下してきた。

そのたびに、美沙子は言った。

「大丈夫よ、黒瀬。私が全部守るから」

その言葉を信じた。

いや、信じたふりをして、自分にも言い訳してきた。

美沙子についていけば、自分は沈まない。

そう思い込もうとしてき
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  • 支配されて、快楽だけが残った身体に、もう一度、愛を教えてくれた人がいた~女社長に壊された心と身体が、愛されることを思い出   沈黙の夜、決断はまだ

    湯浅は玄関の扉を静かに閉めた。深夜のマンションには、ただ空調の音だけが微かに流れている。スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを外すと、首筋がわずかに冷えた。湿った夜気が、まだ体にまとわりついている。リビングには藤並が眠っていた。ソファに身体を丸め、ブランケットをかけたまま、浅い呼吸を繰り返している。時折、眉間にわずかな皺を寄せ、夢の中でも何かと戦っているようだった。湯浅はその横顔を見つめた。柔らかく光るリビングの間接照明が、藤並の頬をなぞる。唇はわずかに開き、無防備な寝息が漏れていた。「……」湯浅は何も言わず、ポケットから煙草を取り出した。換気扇の下に立ち、一本だけ火をつける。吸い込んだ煙が、肺の奥でゆっくりと広がる。けれど、煙草の味はほとんど感じなかった。黒瀬が動けば、全てが終わる。それは間違いない。裏帳簿も、料亭の名義変更も、融資書類も、全部揃っている。あとは黒瀬が証言すれば、美沙子は完全に詰む。「……守れる、はずだ」湯浅は自分に言い聞かせるように呟いた。けれど、その声は胸の奥に沈んでいくばかりだった。藤並を守るためだ。それだけは、何度も自分に誓ってきた。だが、そのために何を犠牲にしているのか。自分の心が、どこまで冷えているのか、分からなくなっていた。煙草の先が赤く光る。灰がぽとりと落ちた。ソファの藤並が、小さく身じろぎする。その肩が微かに震えているのを、湯浅は見逃さなかった。夢の中で、まだ何かに怯えている。それが美沙子の記憶か、過去の傷か、それとも自分のせいか。「……」湯浅は煙を吐き出した。そのまま窓の外を見やると、ビルの灯りが滲んでいた。深夜の都会は、相変わらず無表情で、ただそこにあった。「これで蓮を守

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  • 支配されて、快楽だけが残った身体に、もう一度、愛を教えてくれた人がいた~女社長に壊された心と身体が、愛されることを思い出   証拠の再確認

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  • 支配されて、快楽だけが残った身体に、もう一度、愛を教えてくれた人がいた~女社長に壊された心と身体が、愛されることを思い出   壊れないという自覚

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