「黒瀬さん、逃げ道は考えてありますか」湯浅の声は静かだった。氷の溶けかけたウイスキーのグラスを、指先で軽く押し回しながら、そのまま黒瀬の表情を観察している。黒瀬は黙ったまま、グラスの中をじっと見ていた。氷がわずかに崩れ、音を立てた。その音だけが、重い沈黙の中に響いている。「社長のために沈むつもりですか」湯浅はさらに続けた。声は低いが、柔らかさを装っている。だが、その中にある鋭利な刃は隠しきれない。黒瀬はその言葉に、明らかに反応した。テーブルの下で、握った拳が震えている。だが、表情だけは崩さなかった。視線をグラスから動かさず、まぶたを伏せたまま、唇の端をわずかに上げる。「お前、本気で言ってるのか」「ええ、本気です」湯浅は即答した。その答えに、黒瀬はさらに視線を下げた。グラスの中の氷が、また一つ、崩れた。「俺が証言すれば、社長は終わる」黒瀬は心の中でそうつぶやく。だが、その先が続かない。「だが、それをやれば、俺も無傷では済まない」その思考が、黒瀬の中で堂々巡りする。社長と自分は、共犯だ。名義変更も、帳簿操作も、全て自分の手を通している。だから、もし湯浅が本当に証拠を持っているなら、自分はもう逃げられない。「俺が潰れるか、美沙子が潰れるか。どっちだ」黒瀬の額に、汗がじわりと浮かぶ。バーの冷房は効いているはずなのに、首筋に嫌な湿気がまとわりついていた。「黒瀬さん」湯浅の声が、さらに低くなる。そのトーンに、黒瀬は背筋をわずかに強張らせた。「俺は別に、全部暴くつもりはありません」「……」「でも、誰かが証言しないと、全部美沙子社長の思い通りです」「……湯浅、お前、証拠って言ったな」黒瀬は唇を噛みながら
Last Updated : 2025-08-22 Read more