جميع فصول : الفصل -الفصل 320

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第311話

もともと悠真と結衣の恋は、冬川家によって引き裂かれた。この話は瑞原市では誰もが知るところだった。その後、結婚した悠真は星乃を冷たくあしらいながらも、結衣のために盾となり雨風を防ぎ、結衣を守り続けた。事情を知る人も少なくなく、彼と結衣の復縁を願う声は、離婚を待ち望む声よりも多かった。だからこそ、二人が「よりを戻した」ときは、まるで美談のように語られた。業界でも今回の婚約を期待する声が多かった。ただ、周囲の人たちは知らない。婚約前夜、悠真が星乃にひとつのメッセージを送っていたことを。メッセージの内容は、彼女に復縁を考え直す最後の機会を与えるというものだった。星乃はその文面を一瞥しただけで、悠真の番号を着信拒否に設定した。翌日、彼と結衣の婚約ニュースがあっという間に広まり、業界中が騒然となった。星乃はそのニュースを見ても、心はまったく波立たなかった。ただ、手に入れた証拠を何度も確認していただけだった。毎晩のように星乃は登世の見舞いに病院へ通っていた。けれど行く前には必ず使用人に連絡を入れ、冬川家の誰かがいないことを確認してから向かった。もう冬川家の誰とも関わりたくない。そして、冬川家の人間も同じ気持ちでいると、星乃は信じていた。けれどある日、どうしても鉢合わせを避けられなかった。忘れ物を取りに戻ってきた花音と、病院の廊下でばったり出くわしたのだ。花音は星乃を見て、あからさまに目を細めた。「何しに来たの?お兄ちゃんと結衣さん、もうすぐ婚約するんだよ。そんな見え透いた演技したって無駄。お兄ちゃんはもう、過去になんて戻らないから。知らないの?二人、もうウェディングフォトまで撮ったの。ドレスもタキシードもお兄ちゃんが自分でデザインを頼んだんだよ。しかもね、服だけじゃないの。式の準備も全部お兄ちゃんが自分で決めてるの。あなたと結婚したときなんて、あんなに無関心だったのにね」星乃は、元々何も感じなかった。けれど花音の言葉で、どうしてもあの日々を思い出してしまう。悠真は最初から自分を好きではなかった。だから結婚式の準備はほとんどなかった。ウェディングフォトさえ撮らなかった。ドレスもタキシードもすべて自分で手配した。けれど結婚当日、悠真はまったく合っていないスーツを着て現れ、式の途中で電話がか
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第312話

星乃はもう一度、髪についたほこりをぱんぱんとはたいた。帰ってきたときにすでに整えていたはずなのに、律人と並んでみると、やっぱり自分のほうがちょっと雑に見えてしまう。でも、最近はおしゃれを気にする気分でもなかった。「身内の前くらい、気楽でもいいでしょ?」星乃はにこっと笑って言った。「律人も少しは気楽にすればいいのに。髪、毎日そんなに時間かけて整えてるの?もったいなくない?」彼のきっちりセットされた髪を見ながら、ざっと見積もっても三、四時間はかかっていそうだと思う。自分なんて、今はもう化粧に三十分かけるのさえ面倒だと感じているのに。律人は軽く髪をかき上げた。「時間の無駄じゃないよ。ヘアセットしてる間にニュースを聞いたり、株を見たり、他のこともできるし」少し口元をゆるめた。「それに、僕が髪を整えなくなったら、うちのスタイリストが仕事を失うだろ」「……余計な心配だったみたいね」星乃は苦笑した。――やっぱり人間って、違う生き物なんだな。自分の考えが浅かった、と痛感する。黙り込んだ星乃に、律人がさらりと言った。「スタイリスト三人いるけど、一人分けてあげようか?」「いやいや、大丈夫だ!」星乃は慌てて首を振った。そんなお給料払えないし、そもそも工場で働いてるのに、あんな完璧なメイクをしていたら浮くに決まってる。星乃が断ると、律人はそれ以上は何も言わなかった。助手席のドアを開けて、「乗って。今日はジムには行かない。別のところに連れて行く」「どこ?」星乃が聞く。「海。夜の海がきれいだって聞いたから」少し意外に思いながらも、星乃は特に気にせず車に乗り込んだ。エンジンがかかると、律人のスマホが車のモニターと連動した。その瞬間、画面に「悠真と結衣の婚約」のニュースが一瞬映った。星乃はようやく、律人の意図に気づいた。律人もその小さなニュースに気づいたようだった。彼は静かに星乃の表情を見て、すぐに指先で画面を切り替えた。「ありがとう」少し沈黙してから、星乃がそう言った。律人は指を止め、ふっと笑う。「そんなにかしこまらなくていいよ。さっきみたいに気楽なほうがいい。それに、この件は僕にとっては電話ひとつで解決できることだから、感謝なんていらないよ」彼の軽い言い方が、かえって胸にしみた。
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第313話

星乃は、まさかここで悠真に会うとは思ってもみなかった。どうやら悠真も同じだったようで、彼女を見た瞬間、わずかに表情が固まった。結衣は悠真の腕をそっと引き抜こうとする動きを察して、さりげなく力をこめ、そのまま彼の手を握ったまま一歩前へ出た。星乃の拳は無意識のうちに強く握りしめられる。これまで、流産の件が結衣の仕業だと疑ってはいたが、確かな証拠はなかった。けれど、数日前になってようやくその事実を突き止めたのだ。結衣こそが、自分の子どもを殺した張本人だった。再びその顔を見た瞬間、星乃の胸の奥に、燃えるような怒りがせり上がってきた。笑みを浮かべた結衣の顔。その笑顔はまるで得意げになっていくかのように変わり、目つきも挑発的になっていった。星乃は奥歯を噛みしめ、胸の中の炎が一気に燃え上がるのを感じた。今すぐにでも飛びかかって、我が子の仇を討ちたい。怒りで体がわずかに震える。だがその時、律人の腕がそっと自分の肩に回されたのを感じて、星乃は必死に怒りを抑え込んだ。律人の言葉が頭をよぎる。――敵とやり合うなら、一撃で仕留めろ。逆に、それができないうちは、下手に動くな。星乃は深呼吸をして、無理やり心を落ち着けた。その変化を、結衣は見逃さなかった。ほんの少し前、星乃の殺気に近い視線を感じて一瞬たじろいだが、律人が簡単に彼女をなだめてしまうのを見ると、結衣は口の端を上げた。――なるほどね。悠真と別れたあと、もう次の男にすがってるってわけ。視線をカウンターの上にある指輪へと向け、目が一瞬だけ光る。そして、軽い調子で笑いながら言った。「悠真、この指輪、素敵ね」「婚約式の準備もほとんど終わったけど、肝心の指輪だけまだ決まってないの。これにしようかしら?デザインも凝ってるし」そう言って、店員に向き直る。「すみません、これ包んでもらえます?」店員は気まずそうに言った。「申し訳ありません、こちらは律人様がこちらのお客様に特別にオーダーされたもので、販売はしておりません」そう言って、星乃の方を指さす。それを見て悠真の眉がわずかにひそめられ、胸の奥に得体のしれない苛立ちが広がった。「なるほど。確かに、星乃にはよく似合ってるな」結衣は赤いベルベットの箱から指輪を取り出し、星乃の手を取って微笑む。「
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第314話

そう言って、結衣は星乃の手を取った。口元には笑みを浮かべながらも、握る手にはわざと力を込めている。星乃は、指先に鋭い痛みを感じた。結衣の顔に浮かんだ挑発めいた笑みを見た瞬間、彼女がわざとやったのだとすぐに悟る。元々、星乃は結衣に対して少し苛立っていた。反射的に手を上げかけたが、すぐに気を取り直し、口元に作り笑いを浮かべたまま、結衣の手首をつかむ。「もういいわ」口ではそう言いながら、その手は結衣の腕をなぞり、そっと力を込めた。以前、律人から教わったことがある。もし相手との力の差が大きいときは、静かに肩や腕の関節を外したり、軽くツボを押して一時的に動けなくしたりできる、と。結衣が陰で仕掛けてくるなら、こちらも受けて立つまで。星乃は的確に場所を探り、少しだけ力を入れた。結衣が短く悲鳴を上げ、腕がぐにゃりと力を失って垂れた。「星乃、いったい何をしてるの?」星乃はわざときょとんとした顔で見返す。「え?私、何かした?」律人が一歩前に出て、結衣の感覚のない腕を軽く持ち上げた。「脱臼してるな」星乃はくすっと笑う。「結衣、体弱すぎじゃない?ちょっと触っただけで脱臼するなんて。……指輪なんかより、日光浴の方をおすすめするわ。日差しを浴びてカルシウムでも補ったら?暗いところばかりにいると、次は骨折しちゃうかもよ」脱臼した腕をもう片方の手で支えながら、結衣の顔は怒りで真っ赤になった。律人が笑いながら悠真に視線を送る。「悠真さんも、もう少し婚約者を大事にしないとですね。今は腕だけで済んでるけど、もし結婚式のときに指でも脱臼したら、指輪つけられませんよ?」「そうね」星乃も明るく相づちを打つ。「結衣が怪我したところで、恥をかくのは冬川家のほうだし」その言葉に、悠真の顔は一瞬で冷えきった。氷のように無表情になっていくその様子を見て、星乃は思った。彼はきっと怒ったり、威嚇して自分を黙らせようとするだろう、と。きっと結衣をかばって、自分を睨みつけてくるだろうと覚悟した。けれど、悠真は何も言わなかった。ただ静かに結衣の腕を支えた。そして結衣の不満げな視線を無視し、そのまま彼女を抱えるようにして店を出ていった。その背中を見送りながら、星乃は少し驚いた。負けを認めたように黙って立ち去る悠真を見るのは、これが初
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第315話

星乃は一瞬、息をのんだ。次の瞬間には指先で指輪を探り、刃を弾き出して反撃しようとした。けれど、その人は動きを止め、彼女の肩を押さえて身体を反転させ、壁際へと追い詰めた。悠真の両手が、彼女の体の両脇を囲うように壁につく。彼の呼吸は荒い。星乃は赤く染まった彼の目尻を見つめ、わずかに息を止めた。こういう悠真を見るのは初めて……ではない。二度目だった。最初は数年前、ふたりがエレベーターに閉じ込められたときだ。電気も消え、真っ暗闇の中で悠真は閉所恐怖を起こし、全身がこわばっていた。星乃はなんとかして彼の恐怖を和らげようとした。救助が来たとき、悠真は今と同じように。怯えて、混乱して、どうしようもなく無力で、そして、ひどく脆かった。星乃は今の彼を見つめながら、しばし言葉を失った。「星乃、俺にどうしてほしいんだ?」悠真は手を離し、複雑な声で言った。「復縁を拒んだのはお前だ。なのに、今度は結衣に嫉妬して傷つけた」その言葉で、星乃はようやく彼の目的を悟った。――結衣のために怒鳴り込んできたのだ、と。さっきまで、もう悠真は変わったのかもしれないと思っていた。でも違った。ただ、怒りの矛先を自分ひとりに向けただけ。星乃は思わず笑った。「嫉妬なんてしてないわ。悠真、あなた、どれだけ自分に酔ってるの?離婚した後、誰と付き合おうが、婚約しようが、結婚しようが、私には関係ない」悠真も皮肉げに笑った。「じゃあ、結衣の腕はどう説明する?お前の仕業じゃないのか?」店での出来事を彼はすべて見ていた。それでも騒ぎ立てず、見逃してやったのだ。「そうよ、私がやった」星乃は静かに彼を見つめたまま言う。「それで?彼女のために私に手を上げるの?仕返しでもするつもり?」悠真は、その目の奥に浮かぶ警戒に、胸の奥がざらついた。律人の前では、彼女はこんな顔をしない。彼は深く息を吐き、胸の奥の苛立ちを押し殺すようにして声を落とした。「星乃、俺たちは夫婦だった。結衣と結婚したことに腹を立ててるのはわかる。でももう決まったことだ。それに、復縁を断ったのはお前の方だ。だったら、もう過去にこだわるな。彼女をわざと敵視するのもやめて、現実を受け入れろ」その言葉を、自分自身にも言い聞かせているようだった。今回の婚約発表は、
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第316話

星乃は彼の仕草を見て、自分のこれまでの年月がどうしようもなく哀しく、そして滑稽に思えた。こんなにも長い間、自分は周囲から疎まれ、笑われ、嘲られてきたのに、悠真は見て見ぬふりをしてきた。なのに今はどうだろう。結衣とはまだ結婚もしていないのに、すでに彼女のために前の障害を片っ端から取り除いている。――ただ、残念なことに。自分が終わらせたのは結婚と感情だけ。けれど、子どものための復讐は、まだこれからだ。星乃はそれを口には出さなかった。悠真がもう止めようとしないのを見て、ためらうことなく踵を返し、そのまま歩き去った。玄関を出ると、ちょうど律人の車がゆっくりと出てくるところだった。星乃はドアを開けて助手席に乗り込む。律人は彼女の顔色が冴えないのに気づき、しばらく考え込んだあと、すぐに察したように言った。「悠真に会ってきたんだな?」星乃は少し間を置いて、うなずいた。「……でも、なんでわかったの?」と首をかしげる。律人は軽く笑って答えた。「さっき店の中で、彼が君を見る目が違ってたから。どうせ後で一人で探しに行くと思ったんだ」「じゃあ、あなたは……」星乃は言いかけて、結局、言葉を飲み込んだ。律人はその意図を読んだように微笑んだ。「『なんで予想してたのに、教えてくれなかったの?』って聞きたいんだろ?」星乃は小さくうなずいた。「言っても意味ないよ。彼の性格からして、君に会うと決めたら、いつか必ず会いに行く。逃げても無駄だ。だったら最初から逃げないで、話をつけたほうがいい」それに、彼が悠真を止める理由なんて、どこにもない。悠真は自分の手で、自分の結婚を少しずつ破綻へと追い込んでいる。律人にとっては、それほど痛快なこともない。本音を言えば、花火でも上げたいくらいだ。……もっとも、その本音を星乃には言わなかったが。星乃は律人の言葉に一理あると思い、静かにうなずいた。それ以上は何も言わなかった。……ショッピングモールの中。星乃が去ったあと、悠真の胸には、妙な重さが残っていた。すべてが順調なはずなのに、胸の奥に大きな石が沈んでいるように息苦しい。星乃を見つけたとき、怒って責められるかもしれない、あるいは嫉妬混じりに詰め寄られるかもしれない――そんな展開も考えていた。だが、どちらでもなか
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第317話

ちょうどそのとき、結衣も悠真の姿を見つけた。彼女は再び以前のような穏やかな表情を取り戻し、柔らかく微笑んだ。「悠真、おかえり」悠真はようやく我に返り、少しだけ険しい表情をゆるめた。軽くうなずき、彼女のもとへ歩み寄る。「手の具合はどうだ?」「まだ少し痛むけど、もうほとんど大丈夫」結衣は手首を軽く回しながら答えた。彼の沈んだ顔色を見て、結衣はそっと声を落とす。「悠真、星乃を責めないであげて。彼女の気持ちはわかるの」そう言って少し間をおき、遠くを見つめながらつぶやくように続けた。「一度はもう諦めようって思っても、ふとした瞬間に後悔してしまうものなのよ。だから、私とあなたが一緒にいるのを見たとき、彼女が怒るのも無理ないと思う。本当はね、この件は私にも責任があるの」結衣はため息をついた。「星乃が私に怒ってるってわかってたのに、あの場に顔を出すべきじゃなかった。まさか、あんなに私を恨んでるなんて思わなかったわ。もう恋人ができたって聞いてたから、少しは憎しみも薄れてると思ってたのに……」彼女の言葉を聞き終えると、悠真はまた眉をひそめた。律人が贈ったあのダイヤの指輪。その輝きを思い出した途端、胸の奥がざらつく。思わず、口をついて出た。「律人は遊び人だ。星乃と彼に未来なんてあるはずがない」きっと星乃自身も、それに気づいている。だからこそ、結衣に対してあんなに敵意を向けたのだろう。そう考えた瞬間、悠真の体からふっと力が抜けた。結衣はその変化をはっきりと感じ取った。表情が一瞬こわばり、掌をぎゅっと握りしめる。悠真が星乃と律人に未来はないと言ったとき、その声の奥に喜びがあったことを、結衣は聞き逃さなかった。これまで必死に自分をだまし続けてきたけれど、今はもう認めざるを得ない。悠真の心には、長い結婚生活の中で、確かに星乃への情が根を下ろしてしまっているのだ。それは決して深く強いものではない。けれど、もし星乃が自ら離婚を切り出さず、もし自分があの手を使わなければ、悠真は決して離婚などせず、今も星乃の隣にいたはずだった。結衣は拳を握りしめ、胸の奥でざらつく不安を押し殺した。それでも、顔には穏やかな笑みを浮かべる。「悠真、私たちの婚約って、もともと花音のいたずらみたいなものだったでしょ。
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第318話

車を降りた途端、潮の匂いを含んだ湿った海風が頬を打った。風の中には、海水特有の少し生臭い匂いも混じっている。暗い夜空の下、海と空が遠くで溶け合うように一本の線を描いている。遠くから見ると、きらめく星々が海面に落ちたようで、息をのむほどに美しかった。星乃は、風にあおられて舞う髪を気にする暇もなく、目を丸くしてその光景を見つめた。「すごくきれい……」思わず声がこぼれる。「もっときれいなのは、これからだよ」律人が笑いながら言って、顎で遠くを示した。星乃もその方向を見る。暗かった海の上に、ゆっくりと白い灯りがともり始めた。光は次第に増えていき、やがてそれが一隻の豪華なクルーズ船の輪郭だと気づく。「行こう」律人が前に出る。星乃は彼の後ろについて歩き、船がタラップを下ろすのを待ってから一緒に乗り込んだ。デッキの上は昼間のように明るく、客たちはみな華やかに着飾り、上品に会話を交わしながらグラスを傾けていた。星乃は、今日は律人と二人きりだと思っていた。せいぜい友人が数人いるくらいだと。こんなに人がいるなんて思いもしなかった。中規模のパーティーといっていいほどだ。――どうりで。彼があれほどドレスにこだわった理由が、ようやくわかった。その華やかさに気圧されて、星乃は自然と背筋がこわばる。律人がそっと腰に手を回し、落ち着かせるように言った。「大丈夫。みんな普通の人だから」――むしろ、緊張するのは向こうの方だろう。瑞原市での白石家の地位を思えば、彼らが律人を恐れてもおかしくない。「律人さん、星乃さん」そのとき、グラスを持った女性が笑顔で声をかけてきた。星乃は反射的に頭を下げ、引きつった笑みを浮かべた。相手はただ挨拶しただけだったのに、あまりに丁寧な礼に驚き、あたふたと頭を下げ返す。星乃は思わず手を伸ばして相手を止めようとしたが、ちょうどそのとき船が揺れた。その拍子に、彼女のグラスに触れてしまう。ワインがこぼれ、相手の服に赤い染みが広がった。「す、すみません!」星乃は顔面が真っ白になり、慌てて謝った。「いえ、私の方こそ。手が滑っただけで……!」相手も焦ってそう言い、場の空気がいっそう混乱する。そんな中、律人がふっと笑って前に出た。近くのスタッフから温かいタオルを受け取り、星乃の手についたワイン
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第319話

星乃の目がぱっと明るくなり、驚いたように律人の方を見つめた。律人はそんな彼女の顔を見て、ふっと安堵の色を浮かべ、心の中で小さくため息をついた。彼は、彼女のこういう前向きで負けず嫌いなところが好きだった。でも同時に、少しだけ嫉妬もしてしまう。彼の目の前で、星乃が嬉しそうにしている時の多くは、たいていUMEの未来の話をしている時だった。本当は、彼女がUMEの未来を考えるとき、自分たちの未来のことも少しだけ思い浮かべてくれたらいいのに――そう思っていた。「律人、来てたのね」柔らかな女の声が隣から聞こえた。星乃が振り返ると、長い巻き髪にドレスをまとった女性が、ワイングラスを手にこちらへ歩いてくるところだった。胸元にはアンティーク調のブローチ。穏やかで上品な雰囲気の女性だ。星乃はその姿を見た瞬間、どこかで見たことがあるような気がした。律人?その呼ぶ声も、妙に親しげに聞こえる。星乃はちらりと律人を見た。二人の自然な視線の交わり方を見て、胸の奥で小さくつぶやく。――もしかして、律人の元カノ?「あなたが、星乃デザイナーね?」星乃が考え込んでいると、女性がにこやかに声をかけた。その言葉に、星乃は一瞬きょとんとした。ここ数年、周りからは「星乃さん」や「奥さま」、あるいは「星乃」と呼ばれることがほとんどで、「デザイナー」と呼ばれるのは本当に久しぶりだった。胸の奥に、少し複雑な感情が広がる。かつての彼女の夢は、優れたAIロボットのデザイナーになることだった。でも、結婚生活の中で、その夢をほとんど忘れかけていた。「デザイナー」と呼んでくれたこの人は、きっと初めてだ――そう思うと、自然と好感を抱いていた。「紹介するよ。僕のおばさんの、白石恵理」と律人が言った。星乃は目を丸くする。「おばさん?お若いですね」星乃は思わず驚いてしまう。どう見ても律人と同世代にしか見えない。白石家は子どもの数が多く、年齢が律人と近い叔母もいると聞いていた。ただ、星乃が会ったことのある人はもうずっと昔のことで、しかもそのときは特別な状況だった。顔はよく覚えていないが、声と、その人が最後に言った言葉だけは、今でも忘れられない。「前を向いて。もう振り返っちゃだめ」淡々とした声が響いた瞬間、星乃ははっとした。
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第320話

恵理は見ていられず、星乃を病院まで送った。そして、沙耶が海外で行方をくらましていたように見せかける偽の痕跡を作り、圭吾をうまく引き離した。ようやく星乃は、少し息をつくことができた。白石家に生まれ、圭吾のそばに立つことを選んだ律人は、そういう人をこれまで何人も見てきた。それどころか、彼が見てきた中にはもっと悲惨な末路を辿った者もいた。圭吾は狂人で、そして自分もまともではなかった。白石家では、残酷さがなければ生き残れないのだ。なのに今、律人は圭吾にも、過去の自分にも、吐き気がするほどの嫌悪を覚えていた。――こんなのは間違っている。星乃のような子は、本来なら眩しい未来を歩むはずだった。陽の光の下で笑いながら、まっすぐに生きていけるはずだった。そんな彼女の青春と未来が、誰かの私欲や復讐心のせいで壊されるなんて、あってはならない。約一時間後。星乃と恵理が個室から出てきた。何を話していたのかはわからないが、二人とも穏やかな笑みを浮かべ、空気は驚くほど柔らかかった。「じゃあ、いい取引ができるといいね」恵理が笑顔で手を差し出す。星乃もその手を握り返し、にっこりと笑った。「はい、よろしくお願いします」「じゃ、二人でゆっくり話して。私は邪魔しないから」そう言って恵理は、星乃と律人の間にちらりと視線を送り、意味ありげに微笑むと踵を返した。「で、何の話?」律人は星乃の笑顔を見ながら眉を上げて、少しおどけたように聞く。星乃はいたずらっぽく口元を緩めた。「秘密」律人はそれ以上追及せず、ふっと笑って彼女の頭を優しく撫でた。……その夜、病院。登世の容体が少し良くなり、ようやく意識が戻った。まだ起き上がることはできなかったが、かろうじて声を出せるようになっていた。ただ、体はまだとても弱っており、話せるのは短い言葉だけ。花音は知らせを受けて慌てて駆けつけてきた。祖母のベッドにすがりつき、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、「怖かったの」と泣きじゃくる。雅信と佳代もすぐに駆け寄り、登世の容体を心配そうに尋ねる。「おばあちゃん、まだ起きたばかりなんだから、そんなに話しかけないで」悠真が静かに言った。その言葉に、ようやく皆もはっとして黙り込む。登世は何も言わず、病室の中をゆっくりと見回した。「おば
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