彼女しか救わなかったから、子どもが死んでも泣かないで のすべてのチャプター: チャプター 301 - チャプター 310

328 チャプター

第301話

これは自分の手で、星乃と別の男をくっつけてやったってことか?悠真は思わず苦笑した。だが数分後には、すっかり表情を落ち着かせ、手元の契約書を見つめた。すでにサインを済ませている。これで本当に、星乃との関係はきっぱり終わったのだ。そう思うと、悠真の黒い瞳に複雑な光が一瞬だけ走った。……星乃は契約書を持って病院を出ると、車に戻り、大きく息を吐いた。正直、悠真があの条件を出してきたとき、薄々わかっていた。あれは自分を侮辱するためのものだと。悠真はもともと自分に興味なんてなかった。結婚して五年、関係が悪化してからは、夜を共にすることなんてほとんどなく、あったとしてもいつも自分のほうから無理に近づいていった。悠真のほうは、自分とそういう関係になること自体、ほとんど好んでいなかった。それでも、最近のあの妙な様子には少し怯えていた。まさか本気で「一緒に寝ろ」なんて言うんじゃないかと。何度も関係を持ってきたとはいえ、悠真が結衣と過ごした過去を思い出すと、どうしても嫌悪感が込み上げてくる。けれど結局、悠真はいつもの悠真だった。十分も経たないうちに、星乃の口座に入金の通知が届いた。金額は契約書に記されていた通り。星乃はもう一度、胸をなで下ろした。悠真は少なくとも、約束だけは守る人だ。すぐにそのお金をUMEの口座に振り込み、数件の電話をかけ、工場の設立を正式に動かすよう指示を出した。この件は明日、智央と遥生に話すつもりだった。だがなぜか智央が先に財務部から聞きつけたらしく、慌てて電話をかけてきた。「星乃、そのお金……どこから入ってきたんだ?」智央の声は驚きで少し上ずっていた。星乃は遺言書の件を簡単に説明した。ただし、悠真のことには触れず、「遠い親戚から」とだけ言った。「お前……」智央はしばらく黙り込んでから、複雑な声で言った。「そんな大金、全部つぎ込むなんて……もし失敗したら、全部なくなるんだぞ?」星乃は答えた。「ええ、怖くないわけじゃないですよ。ですが、私にできることは、もうこれくらいしかないです」五年という時間を無駄にして、手元にある資源はほとんどなく、遥生とUMEのためにできることは、もう限られていた。UMEを大きくするには、リスクを取るしかない。そして、そのリ
続きを読む

第302話

遥生はいつも穏やかで、話し方にもほとんど感情の起伏がない。だからあの日、電話越しに低く沈んだ声を聞いたときも、星乃は特に気に留めなかった。けれど今思えば、あれは明らかに心配している声だった。星乃はこのところの遥生の様子を思い返す。言葉の調子、そして連絡の頻度の減り方――すべてがおかしかった。しばらく考えたあと、彼女はようやくひとつの可能性に思い至る。遥生は、何かに足止めされている。UMEであれほどの騒ぎがあったのに、会社を誰より大事にしていた遥生が、状況を分かっていて戻らないなんてありえない。もし戻れないとしたら、それはトラブルに巻き込まれているからだ。そして、彼が関わる可能性がいちばん高い相手は……圭吾。けれど、遥生は沙耶の兄で、沙耶の失踪にも無関係だ。圭吾が彼を無意味に追い詰めるなんて、ないはず。――そう、何か特別な理由がない限り……その「特別な理由」に思い当たった瞬間、星乃の胸の奥がずしりと沈んだ。……病院。結衣が病室に戻ると、悠真が窓辺に立っていた。彼は部屋に背を向け、外をぼんやりと見つめている。結衣が声をかけようとしたとき、テーブルの上の書類が目に入った。「相続放棄の契約書」その文字を見た瞬間、結衣の目が輝いた。そっと近づき、数ページめくる。最後の署名欄に星乃の名前を見つけた途端、口元が自然と浮き上がる。――星乃が相続を放棄した。ふん、なかなか賢いじゃない。今日の午後、登世がまだ手術室にいる間に、冬川家はすでに不穏な空気を察していた。もし登世が手術台を下りられなかったら……と、裏でひそかに話し合いを始めていたのだ。どうやって星乃に財産を手放させるか、その策略を。あれほどの大きな家が、本気で登世の遺言に従うはずがない。星乃はそれを分かっていた。だから先手を打って条件を出したのだ。もっとも、その要求はずいぶんとふっかけたものだった。これだけの金額があれば、人生二週分は悠々自適に暮らせるだろう。結衣は心の中でそう鼻で笑い、書類をもとに戻した。そのとき、かすかな物音に気づいたのか、悠真が振り返った。「もう帰って休め。病院には俺がいるから大丈夫だ」結衣だと気づくと、彼は淡々とそう言った。けれど、その声にはほんの少し寂しさのようなものが混じっていた気がし
続きを読む

第303話

星乃は結局、遥生と連絡がつかなかった。仕方なく、せめて気をつけてほしいという短いメッセージだけを送った。遥生は一度決めたことを簡単に引っ込めるような性格じゃない。誰が何を言っても、自分の意志を曲げないタイプだ。だからこそ、彼が時間を稼ぐつもりなら、その間に自分ができることを最大限にやらなきゃいけない。だが、圭吾に足止めされているというのは、星乃の推測にすぎなかった。少し考えたあと、星乃は律人に電話をかけてみた。けれど、今度は律人も出なかった。特に気にせずスマホをしまい、星乃はそのまま家へ向かった。車を停め、別荘の前まで来ると、そこに律人の姿があった。彼はうつむいてスマホを見つめ、何かに集中している。星乃は思わず手を上げかけたけれど、あまりに真剣な表情だったので声をかけるのをためらった。そっと足音を殺して近づく。あと二メートルほどのところで、律人の低く落ち着いた声がふいに響いた。「帰ってきたの?」そう言ってスマホをポケットにしまい、自然な仕草で振り返る。笑っている――けれど、その笑みにはどこか冷たい影があった。星乃は、さっき電話を切ったことを怒っているのかと思い、気まずそうに「うん」とだけ答えた。「病院に行ってた?」「……どうしてわかったの?」星乃は少し眉をひそめる。すぐに、はっと気づいた。登世の病状はもう隠しきれない。律人が自分と登世の関係を知っているなら、自分が病院に行くのを察するのは当然だった。このあときっと登世の容体について聞かれるだろうと思ったのに、律人は何も言わず、彼女の前に歩み寄ってきた。少し身をかがめ、星乃の目の前に顔を寄せる。その距離の近さに、星乃の身体が固まる。頬がじんわりと熱くなるのを感じた。思わず後ずさろうとした瞬間、律人の腕が先に動き、彼女の腰を引き寄せた。温かな掌が薄い布越しに背中へ触れ、ぐっと力がこもる。そのまま引き寄せられ、星乃の身体は律人の胸に倒れ込んだ。彼女の顔がさらに赤くなる。「悠真に会ってきた?」耳元に落ちた低い声は、どこか甘く、そして苛立ちを含んでいた。星乃はどきりと胸を鳴らせた。「うん……でも、私は……」言いかけたその瞬間、律人の唇が彼女の言葉を塞いだ。前とは違う。そのキスには、激しく燃え立つような支配欲が
続きを読む

第304話

律人は、彼女が部屋に入っていくのを見届けてから、ようやくスマホを取り出した。さっき見た投稿は、すでに削除されていた。数分前、業界内ではある動画が爆発的に拡散されていた。動画の時間表示は今夜だ。悠真と星乃が病院の廊下で並んで立ち、互いを見つめるその距離は近く、どこか切なげな空気が流れている。最後の場面には、二人の会話が映っていた。「俺と、一晩、寝ろ」悠真の声は冷たく低い。星乃はためらいもなく答えた。「いいわ」動画は明らかに編集されており、画質は粗いのに音声だけが妙にはっきりしていた。続いて映ったのは、送金記録のスクリーンショット。金額は数十億円。たった一本の動画と一枚の送金記録。それ以上の説明はなかったが、想像をかき立てるには十分だった。投稿者は騒ぎを大きくするつもりはなかったようで、投稿から五分ほどで削除。そのため大きな議論にはならなかった。律人はふっと笑った。――やはり、思った通りだ。あの投稿は、自分に見せるためのもの。星乃との仲を揺さぶるための、安っぽい挑発。手口としては、あまりにも稚拙だった。翌日。星乃のもとに、まだ遥生からの返事はなかった。胸の奥に不安が渦巻くが、それを押し込み、彼女は工場建設プロジェクトの準備に集中した。夜になってようやく、彼女はスマホを手に取り、律人とのチャット画面を開いた。何をどう切り出すべきか、少し迷う。この数日、二人の会話は多くなかったが、それでも忙しい合間を縫って、ほんの数分でも言葉を交わすことはあった。話題のほとんどは、律人のほうから切り出すものだった。律人はときどき、道端で見かけた小さな花の写真を撮って送ってきたり、車の上で眠って伸びをする猫の姿を共有してきたりした。それに、星乃の近況をたずねたり、その日のデートの予定を相談したりすることもあった。でも今日のトークルームは、異様なほど静かだった。まだ怒っているのかもしれないと思いながら、星乃は少し考えた末、試すようにメッセージを送った。【車の調子が悪くて……今日、迎えに来てもらえる?】 五秒も経たないうちに、返信が届く。【会社で待ってて】そして数分後。【ついたよ】星乃が会社を出ると、律人の赤い高級オープンカーが入口に停まっていた。律人は片肘をドアに
続きを読む

第305話

律人の笑顔は、いつもと変わらず穏やかだった。透明なレンズの奥、淡い色の瞳が静かに光っている。星乃は、彼の言葉が嘘ではないと感じた。昨日よりずっと落ち着いた様子だったからだ。どう切り出せばいいかを考えながら、視線を少し揺らす。「星乃、僕は君の彼氏だよ。何か言いたいことがあるなら、遠慮せずに聞いて」考えがまとまる前に、律人がまるで彼女の心を読んだように口を開いた。「僕の気持ちなんて探らなくていい。君の顔を見るだけで、もう十分嬉しいから」柔らかく微笑みながら、彼は彼女を見つめる。車に乗ったときから、彼女が上の空なのは気づいていた。さっきも彼の機嫌を取るような言葉を口にしていたが、律人は馬鹿じゃない。彼女に何か頼みたいことがあるのだと、すぐに分かった。そして、何を聞きたいのかもだいたい察していた。星乃は唇をきゅっと結んだ。もう遠回しにするのはやめて、この一日ずっと胸の中で渦巻いていた疑問を、思い切って口にした。「この数日、遥生から……連絡、あった?」やっぱり、と思いながら律人の口元にうっすらと笑みが浮かぶ。星乃と遥生の息の合い方に喜ぶべきか、それとも嫉妬すべきか――正直、自分でもわからなかった。ただひとつ確かなのは、彼には分かっていた。もし遥生のことを急いで知りたくなければ、星乃が自分に連絡してくるはずがないということを。沈黙した律人を見て、星乃は自分の勘違いかもしれないと思った。遥生はいつも抜け目がない。短期間で瑞原市に戻れないなら、きっと事前にいろいろ手配しているはず。けれど、遥生は自分が不安がることを気にして言わなかったのかもしれない。智央はこの件には関係がないし、ボディーガードたちに頼めることも限られている。そう考えると、律人こそが一番頼れる相手だった。遥生も、自分と律人の関係を知っている。だからこそ、危険を感じたときに彼に連絡を取った可能性が高い。律人はUMEの出資者でもある。公私どちらの立場から見ても、最適な相手だった。けれど律人が何も言わないので、星乃は自分の思い過ごしかと不安になった。彼の気分を害したのではないかとも思う。名義上の恋人の前で、別の男の話を持ち出すのはさすがに気が引けた。星乃は笑って、何でもないふうに言った。「ごめんね、ちょっと気になっただけで…
続きを読む

第306話

星乃は驚きと喜びが入り混じった顔で彼を見上げた。「……中に入ってみようか」律人が言う。「どうせ別荘に戻っても、またこっそり病院に来るだろう?」「僕は、君が冬川家の人と付き合いがあっても構わないよ」彼はすでに調べていた。登世はこの数年間、星乃にとてもよくしてくれていたのだ。五年も家族のように過ごした関係は、たとえ切ろうとしても簡単には断ち切れない。星乃は、彼が自分の考えを見抜いていたことに驚くと同時に、胸の奥に温かい感謝の気持ちが湧いた。――そう、確かに彼の言う通りだった。冬川家にいた頃、登世はいつも星乃をかばってくれた。年の節目には毎回お年玉をくれて、今回もまた、困っていた彼女を助けてくれた。そんな登世が病気だと聞けば、会いに行かないはずがない。もし律人が反対したら、彼女は別の機会を見つけてこっそり行くつもりだったのだ。律人はそんな彼女を見つめながら言った。「ただし、一つだけ条件がある。悠真とは、復縁しないこと」悠真が何を仕掛けてきても構わない。星乃の心が自分にあると確信できるなら、自分は何も恐れない、と律人は思っていた。星乃はその言葉に、真剣にうなずいた。「しないよ。もう彼とは、すべて終わったから」あの日の悠真の態度を思えば、それが本気で別れを意味していることもわかっていた。律人は何か言いかけたが、結局、口をつぐんだ。星乃は登世が目を覚ました喜びに浸りながら、もう一度使用人に電話をかけた。まだ冬川家の誰も病院に来ていないと確認すると、彼女は階段を上がっていった。冬川家。悠真は欄干に寄りかかり、床から天井まである窓の前に立っていた。視線の先には、少し離れた場所に置かれたノートパソコンの画面。そこには、登世の病室が映し出されていた。星乃は病室に入ると、自然な動きで登世のベッドへと歩み寄った。片手で登世の手を握り、もう片方で布団の端をそっと直す。ほんの一分も経たないうちに、花の水を替え、果物皿からナイフを取って、手慣れた様子でフルーツを剥き、登世の手に差し出した。その一つひとつの動作が、あまりにも自然で、穏やかで、そして優しかった。悠真は、かつてはそんな姿を何とも思っていなかった。むしろ、必要以上だと感じたことさえある。だが今は、うまく言葉にできない何かが、胸の奥に広がっ
続きを読む

第307話

その言葉を聞いて、花音は一瞬ぽかんとした。「……どうして、それを?」悠真が答える前に、彼女は何かを思い出したように目を見開いた。「星乃が今、病院に行ってるって?まさか……遺言のためじゃないでしょね?」そう言いながら、花音の表情が一気に緊張する。「お兄ちゃん、早く病院のスタッフに連絡して!星乃を中に入れないで。きっと、おばあちゃんの株を狙ってるに違いないわ」昨夜、星乃が悠真のもとを訪ね、遺言放棄の契約書にサインしたことを、悠真は花音に話していなかった。だが、花音の言葉を聞いた彼は、少しのあいだ言葉を失う。そして、しばらくしてからゆっくりと口を開いた。「……星乃は、君が思ってるほど悪い人じゃないかもしれない」「お兄ちゃん、騙されちゃだめ。悪くないとしても、それほどいい人でもないでしょ。忘れたの?今の彼女はお金のことしか考えてないのよ。あなたと離婚して、冬川家に不利なことをする可能性だってあるじゃない」花音にはもう一つ、心の中で疑っていることがあった。登世が株を星乃に譲ろうとしたのも、星乃がそそのかしたからじゃないかと。少し前、登世の寿宴の前に、花音は星乃がひとりで登世の部屋から出てくるところを見ていた。そのときは、遥生のことで頭がいっぱいで深く考えなかったが、今思えば、あれがきっかけだったのかもしれない、と。そう思うと、花音はいてもたってもいられず、焦ったように言った。「お兄ちゃん、何してるの?早く行って!」悠真は、心配そうに急き立てる花音をしばらく見つめた。そして、数秒の沈黙ののち、机の上に置かれていた一枚の書類を手に取る。「星乃はもう、遺言の権利を放棄したよ」淡々とした声でそう言って、花音に契約書を見せた。花音は一瞬、目を丸くする。書類を受け取って数枚めくり、すべての条項を自ら放棄すると書かれた文面に目を止めると、不安げに眉を寄せた。「……これ、本物?偽造じゃないの?」悠真は首を横に振る。「この契約は法的に有効だ。星乃は自分の意思で遺産を放棄した。冬川家の株も、一切受け取れない。たとえおばあちゃんが渡そうとしても、それはもう無効になる」「じゃあ、星乃は何のために病院へ?ほかに何か企んでるの?」花音は小さくつぶやいた。その疑いの言葉に、悠真の胸の奥が不思議とざわついた。息苦しい
続きを読む

第308話

しばらくしてから、悠真は大きく息を吐いた。……登世は意識を取り戻したが、まだ話せるほどの力はなかった。星乃は登世に軽くあいさつして、登世にゆっくり静養するよう伝えると、そのまま病室を後にした。──すぐに冬川家の人たちがやってくるだろう。もう、あの家の誰とも顔を合わせたくない。そしてきっと、冬川家の人たちも自分に会いたくはないはずだ。本当なら、星乃はこのまま真っすぐ帰るつもりだった。けれど運命のように、彼女はどうしても会いたくなかった相手と出くわしてしまった。結衣。病院の玄関を出たところで、ちょうど中へ入ってこようとする結衣と鉢合わせになったのだ。結衣もまさかここで星乃に会うとは思っていなかったのか、足を止めてわずかに目を見開いた。星乃はそのまま見ないふりをして通り過ぎようとした。だが、結衣の方はそうする気はなかったようだ。足を止め、口元に笑みを浮かべながら声をかけてくる。「星乃、あなたもう悠真と離婚して、きっぱり関係も切ったんでしょ? なのにわざわざここに来て、恥をかきに来たの?」悠真がいないときの結衣は、もはや取り繕う気などなかった。嘲るように小さく笑う。「『元妻』っていうのはね、死んだ人と同じでいいの。もう二度と彼の前に現れないのが正解よ。それに、出てきたところで無駄よ。彼はもうあなたなんて見てないから。たぶん知らないでしょ? 悠真はもう私を冬川家に連れて行ってくれたの。私たち、婚約することになったの。これ、私たちの婚約パーティーの招待状」結衣は、上品な封筒を取り出して星乃に差し出した。彼女の表情をじっと観察しながら。悲しそうな顔でも、悔しそうな顔でもしてくれればよかった。けれど星乃の表情は驚くほど静かで、招待状に目を落としても、ほんの少しまぶたを動かしただけだった。その無関心な様子に、結衣はかえって戸惑った。「そう。おめでとう」星乃は淡々と答えた。「望みが叶ってよかったわ」封筒の中の名前には確かに「冬川悠真・葉山結衣」と印字されていた。印刷されたばかりなのか、文字のインクの匂いがまだほんのり残っている。おそらく昨夜、星乃が悠真との関係を完全に終わらせたそのあとに決まったことなのだろう。ここまで来たら、結衣がこんな分かりやすい嘘をつく必要もない。星
続きを読む

第309話

車は郊外の墓地の前で止まった。星乃は車を降りて、律人に向かって言った。「ちょっと待ってて」そう言って墓地の中へ入り、一つの墓碑の前に立った。それは、彼女の子ども・希の墓だった。墓碑はきれいに磨かれていて、埃ひとつない。誰かが来て掃除をしたのだろう。きっと悠真だ。彼以外に、ここへ来る人はいない。けれど、それが何になるというのだろう。遅れてやってくる愛なんて、もう何の価値もない。彼はこの子を愛していた。それでも、子どもを殺した犯人を見逃した。子どもの死を、見て見ぬふりした。星乃は自嘲するように笑った。あの子の死は、今も心の奥に刺さったままの棘だ。さっき結衣が婚約の話をしたとき、どうしても、このかわいそうな子のことを思い出してしまった。婚約をすれば、いずれ結婚して、きっとまた子どもができる。やがて家族に囲まれて、幸せな日々を過ごすのだろう。けれど自分の子どもは、あの事故の日のまま、永遠に時が止まっている。もしあのとき、自分が少しでも早く身を引いていれば。もし、あの日あの人を探しに行かなければ。もしかしたら、あの子は今も生きていたのだろうか。そんな考えが浮かんで、星乃は首を振った。この思いを頭の中から追い出すように。自分は被害者だ。あの子を殺した張本人ではない。自分まで一緒になって自分を責める必要なんてない。そう思うと、星乃は苦笑して、心を込めて選んだ花束を墓碑の前にそっと置いた。「……希?」いつの間にか律人が後ろに立っていた。「君の子ども?」星乃の肩が一瞬こわばったが、すぐにまぶたを伏せ、振り返らなかった。「僕は、そういうこと気にしないよ」律人は彼女の気持ちを察して、穏やかで静かな声で言った。「誰かを心から愛して、自分のすべてを差し出せるのって、すごいことだと思う。君のことは調べた。知るべきことは、もう全部知ってるよ」律人は本当に気にしていなかった。以前はただ利用するつもりだった。彼女から必要な情報を引き出すために。けれど、彼女への想いが深まるにつれ、その過去を知っても、嫌悪や拒絶はなかった。むしろ、怒りを覚えた。悠真への不信が、より一層強くなっただけだった。星乃の目のふちが赤く染まっている。律人は何も言わなかった。今この瞬間、言葉も慰めも、無意味だから
続きを読む

第310話

「ちょうどいい、これ……君が興味ありそうな資料があるんだ。見てみる?」律人がそう言った。星乃は涙をにじませながら、彼を見つめた。律人はスマホを取り出し、画面に一つのファイルを映し出す。それは以前、星乃のことを調べていたときに偶然手に入れた、白石家の関連会社が提出した自動車工場の報告書だった。「この車、当時結衣が運転してたやつだ。調査結果によると、衝突の瞬間、彼女は減速どころか、アクセルを踏み込んでたらしい」星乃は一瞬、息をのんだ。――つまりあの事故は結衣がわざと自分にぶつけた、命を奪うつもりで。けれど、胸の奥で小さな希望が灯ったのも束の間、すぐにそれは萎んでいった。「でも……ただの報告書じゃ、何の証拠にもならないわ。しかも車はもう処理されたのよ」目を覚ましたときには、事故のことはすべて悠真が人を使って処理済みで、「事故」として片づけられていた。納得できなくても、あの頃の彼女には調べ続ける力も、立ち向かう資格もなかった。悠真と争える力もなければ、真相を追うだけの資金もない。それに、もし本当に証拠を突きつけたとしても、悠真は結衣を守るために、何をしてくるか分からない。律人がふっと口元をゆるめた。「もし僕が、車はまだ処理されてないって言ったら?」「……え?」星乃は目を見開いた。「本当に?」律人はうなずいた。「それだけじゃない。ドライブレコーダーも、車内の映像も、全部僕の手元にバックアップがある」車を処分する際、たまたま彼の目に留まったのだという。冬川家から送られてきた車だったため、念のため保存しておいたら、思いがけず役に立ったらしい。「もし結衣を『故意による殺人未遂』で告訴したいなら、白石家で最高の弁護士をつけてやる」律人が静かに言った。星乃はしばらく黙り込み、目を伏せた。律人が片眉を上げる。「……情でもわいた?」星乃は小さく首を振る。「違う。まだ足りないの」もし結衣を訴えれば、悠真はどんな手を使ってでも止めようとする。その妨害を乗り越えるのは難しい。たとえ訴えが通ったとしても、自分が流産したのが結衣のせいだとしても、罪は軽い。数日で済むような刑で、冬川家が動けば、処罰なんてさらに軽くなる。自分の子は死んだのに、彼女は少し痛い目を見ただけで終わる。――それじゃ、全然足り
続きを読む
前へ
1
...
282930313233
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status