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All Chapters of 君にだけは言えない言葉: Chapter 21 - Chapter 30

80 Chapters

さざなみ 02

 なんであいつがここにっ……。 一切他のテーブルの様子を見ることなく、まっすぐ裏へと戻ってしまった。 この想像以上の動揺を、せめて悟られなかったと思いたい。  表情にも特に出したつもりはないし、不審な態度もとらなかった……はずだ。その証拠に、周囲のスタッフも誰も何にも気付いていない。 だけど反して俺の心臓は、今にも飛び出そうなくらいに大きく鳴っていて、抑えようと意識すればするほど、呼吸まで苦しくなるほどだった。 ここ一年ほどは、ほとんど思い出すことすらなくなっていた。  河原に出会って、彼に接するにつれ、その存在にどんどん上書きされていったからだ。そうして、河原への気持ちをはっきり自覚した頃には、すっかり過去のことにできていた。……つもりだった。 この期に及んで胸が痛むようなことはない。  なのに鼓動はこんなにも顕著な反応を見せている。 まさか気持ちがまだ残っていた、なんてあるわけないけど――。 ……いつ日本に帰ってきたんだよ。 俺に「久しぶり」と言ったその客は――その金髪男は、俺が過去に関係を持ったことのある相手の一人だった。  そしてその中で唯一、俺の気持ちが残っていた人物……。 特別トラブルがあったわけでなく、ある意味上手くいっていたとも言える関係を、もう二度と顔を合わせることもないと、唐突に終わらせたのは俺だった。河原と出会うより更に一年前、俺が大学、彼が院を卒業する時のことだ。 だけどそれには彼も納得していたのだ。元々彼自身、卒業と同時に渡米して、そのまま向こうで仕事をするつもりでいたし、それは大学に入学した時には既に決まっていたことだった。  一旦渡米してしまえば、まず数年は帰国できないだろうという話で、実際その後もアメリカで順調な日々を送っていた……はずなのだ。 彼の名前は見城将人。年齢は俺より三つ上。 木崎が騒ぐのも無理はなかった。  イギリス人の血を引くクォーターということもあるのか、その整いすぎている容姿やスタイルは、ただ
last updateLast Updated : 2025-09-10
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さざなみ 03

    *** 「お疲れ様でした。お先でーす!」 17時になると、木崎はいつもどおりにそう残し、さっさと更衣室へと引き上げていった。「じゃあ、俺も上がるな」 「うん、お疲れ。気をつけて」 それに遅れること数分、俺も仕事を切り上げる。キッチンでコーヒーを入れていた河原に声をかけると、彼はいつも通りの笑顔でそう返してくれた。 ……大丈夫。河原には何も気づかれていない。「たまには早く寝ろよな」 名残惜しくも背を向けると、背後から更にそう重ねられる。俺は思わず足を止めた。「暮科、いつも遅いんだから……」 「……」 独りごとのように続けるその声に、とくんと小さく心臓が鳴った。  まさか河原からそんなふうに言われるなんて思わなかった。 いや、実際その通りなのだ。俺はいつも寝るのが遅いし、それこそ河原とは正反対に、平均して睡眠時間も短い方だと思う。 ……そうか。  俺のことを知っているのは、見城だけじゃない。なんならもう河原の方が詳しいかもしれない。「……了解」 思い至ると、じわりと胸の奥が温かくなった。つられるように顔まで緩んでしまいそうになり、おかげで振り向くこともできず、俺はただ肩越しに軽く片手を挙げるしかなかった。 ……分かってる。 期待しちゃいけないってことは。  だけど束の間、勝手に浸るくらいなら……。 俺は隠すように口元を押さえながら、二階へと続く階段を上っていった。    *** 「あ、おつかれー」 「……まだ帰ってなかったのかよ」 更衣室に向かう途中、店長に呼び止められた。そのまま店長室に入るように促され、しばらく話し込んだ後、「うん、暮科待ってた」 普段ならとっくに誰もいなくなっているはずの更衣室のドアを開け
last updateLast Updated : 2025-09-10
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〝よほどのこと〟 01

 翌日――。  俺は珍しく出勤前に河原の部屋に立ち寄った。 河原とは同じマンションに住んでいたが、普段から特に示し合わせて一緒に出勤、なんてことはしていない。  同じシフトの日に、偶然一緒になった時などは自然とそうなってはいたが、少なくともこんなふうに階上にある河原の部屋まで迎えに行くなんて、それこそどうしても寝坊が心配な朝などの限られた日だけのことだった。「――あぇ? 暮科」 インターホンを押すと、なんの応答もなくドアが開く。その隙間から顔を覗かせた河原は、歯ブラシをくわえたままだった。「いや……どうでもいいけどお前、相手確認してからドア開けろよ」 「あーはは、ごめん。気をつける」 ……この調子だと今回だけじゃないな。 とりあえず上がってと促され、俺は素直に靴を脱ぐ。ばたばたと洗面所に消えた河原の後ろ頭に、「お前、寝癖……」と溜息を重ねながら。  今日のシフトは変更もないため、俺も河原も遅番だ。  だが、昨日店長に言われた通りなら、今日のスタッフはぎりぎりのはず。このまま行けばやはりどこかで河原もホールに出る羽目になるだろう。 見かねた木崎が通しで残ってくれるという話もあるにはあったのだ。  あったのだが……。その木崎からさっき連絡があった。「ごめん、通しどころか……早退しちゃった」 熱が出た、と――。 正直、当てにしていた分、マジかと思った。  思ったけれど、なってしまったものは仕方ないので、このままどうにか乗り切るしかない……。 それもあって、俺は河原の部屋を訪れたのだ。  これはもう、彼にも正直に経緯を告げ、一応の覚悟をしてもらっておく方がいいと思ったから。「で……え? 何かあった?」 河原からすれば、特に何もない日に俺が迎えにくるなんて珍しいと思ったんだろう。  タオルを持ったまま戻ってきた河原は、リビングに立っていた俺を目にしてわずかに首を傾げた。「まぁ、行きながら話す」
last updateLast Updated : 2025-09-11
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〝よほどのこと〟 02

    ***  閉店後――。  俺は更衣室の窓際で、一人煙草を吹かしていた。 いつもの指定席であるソファの上には、河原が横たわっている。  その目元には濡れタオルが乗せられていて、身体にかけてあるのは俺のコート。彼はそのまま動かない。  予想通り、河原は店に着くなり店長に呼び出されていた。  そしてその結果――数回とは言え、実際ホールに出たのだ。 注文を取るでもなく、料理を運ぶでもなく、彼に回した仕事は基本テーブルの片付けのみだったが、それでも客には声をかけられる。  常連の女性客などは、その物珍しさに過剰に反応していたほどで、逆に見ているこっちが余計な緊張をしてしまうくらいだった。 水の残っているグラスを倒す、箸やフォークを床に落とす、なんて失敗は時折していたが、幸いというか、それも客のいないテーブルでのことだったし、俺やもう一人のスタッフがすぐに「失礼しました」と声かけすることもできていたので、特に河原のせいで苦情がくるようなこともなかった。 そうしてなんとか繁忙時を過ぎた頃には、河原も裏方に専念できるようになり、ようやく店はいつも通りの様相に戻った。 ギリギリではあったものの、乗り切ることができて良かった。それには俺もほっとしたし、もう一方のスタッフも俺を見て気が抜けたみたいに破顔していたくらいだ。 ……けれども、反して河原は、その後も浮かない顔のままだった。 通常業務に戻ってもどこか様子がおかしく、表情も暗かった。  俺が話しかけても作り笑いのようなものしか返らないそんな状態が、結局店が閉店を迎えるまで続いたのだ。 いつまたホールに出なければならなくなるかわからないと、気が気じゃなかったのかもしれない。加えて、自分が重ねた失敗についてしきりに謝っていたから、それを気にしすぎていたのかも……。  あれくらいの失敗、誰だって――俺だっていまだに――やることなのに。 そして終業後、河原は、俺と共に更衣室へと戻ったと
last updateLast Updated : 2025-09-11
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〝よほどのこと〟 03

   *「……」 くわえ煙草のまま、何気なく振り返ると、ちょうど河原が目を覚ましたところだった。「……何時……?」 独り言のようなその声に、俺は持っていた灰皿に煙草の灰を落とし、改めて彼の方へと向き直った。「二時」 「二時……」 俺の言葉を反芻するように呟きながら、河原は緩慢に身体を起こす。  ずり落ちそうになった濡れタオルを掴みながら、軽く額を押さえるその姿に、「大丈夫か。……飲めそうなら、それ、水――」 俺はとっさに声をかけ、傍らのテーブルの上を指差した。そこには水の入ったグラスが置いてあった。「あ……ありがと」 河原は小さく咳払いをしてから、大人しくそれに手を伸ばした。 あぁ、思ったより大丈夫そうだ。顔色もだいぶ良くなっている。  幾分ほっとした俺は、外していた煙草を口に戻し、再び窓の外へと視線を投げた。 落とし気味とは言え、更衣室には明かりがついている。  この辺りは大通りに面した繁華街だが、深夜2時ともなればだいぶ閑散としている。なので特になにが見えるというわけでもない。 もう少しすればクリスマス用のイルミネーションに彩られる地域ではあるけれど、それだって24時には消灯するから、どのみち遅番の終業後にそれを目にする機会はない。 ……つーか……。 ゆらゆらと紫煙をくゆらせながら、ガラス越しに河原が水を飲む様を一瞥する。その様子に問題がなさそうなのを確認してから、俺は改めて息をついた。 マジなんなんだよ、いったい……。 今日は本当に大変だった。  だけどそれは、店のこと――河原のことがあったからだけじゃない。 ようやく落ち着いたかと思った気持ちが、再び一気に波立つような事態――。できれば考えたくないが、それでも考えないわけにもいかないような出来事が、その日はもう一つ起きていた。 20時半くらいだったと思う。  平日のわりに多かった客足も落ち着き、河原も完全に裏へと戻し、そうしてようやく一息ついた頃だった。 その瞬間、俺は思わず閉口した。  聞き慣れたドアベルの音に続いて姿を見せた客が、昨日、二度と来るなと願ったばかりの相手だったからだ。 ……金髪で、長髪の…………見城将人。 反射的に視線を向けた俺に気付いた彼は、何食わぬ顔してにっこりと微笑んだ。 ――最悪だ。 ……昨日の
last updateLast Updated : 2025-09-11
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〝よほどのこと〟 04

    * 「ねぇ、今日って他にスタッフいない? さっき外から見かけた子……気のせいじゃなかったと思うんだけどな。制服着てたし……」 会計をする頃には、すでに別のスタッフも戻っていたのに、知ってか知らずか見城は俺しか対応できないタイミングで席を立った。そしてコーヒー2杯分の代金を、一旦出しかけた千円札を引っ込め、一万円札に替えて差し出してきた。 なんで小さいのがあるのに一万円……と思ったが、なるほど、この話をするための時間稼ぎがしたかったわけか。……相変わらず手慣れている。「髪がさ、こう……ふわっと長めの」 「この店のスタッフ、短髪の方が少ないですから。それこそ制服なんて、みんな着てますし」 「それはそうかもしれないけど……。って、そうだ。名前。今日出てたスタッフの名前教え――」「そんなこと俺の口から言えるわけねぇだろ」 個人情報だし。そういう規則だし。そうじゃなくても誰のことも言わねぇよ。「はは、それはまぁそうか……。……あ、ちなみにさ」 呆れたように溜息をついても、彼はなおも食い下がろうとする。 そうやって、誰にでも当てはまりそうな、どうでもいいような話で繋いでまでいったい何がしたいのか。  俺をからかって遊びたいだけならせめて仕事中はやめてほしい。  ……いや、今更プライベートで会おうとは思えねぇけど。「ここの制服って……」 「ありがとうございました」 更に何か言おうとするのを遮るように、俺はその手に釣りを押し付けた。  そうして、「いいからさっさと帰れ」「なんなら今度こそ二度と来るな」とばかりに、出入り口のドアを開けに行く。 その背後で再び声が上がる。「ベストってさ、着ても着なくてもいいの?」 「……は?」 「ベスト」 「ベスト?」「うん。その子着てなかったんだよね、ベスト。静とは違って……上はシャツだけ、だったように見えて」「――…」 俺は
last updateLast Updated : 2025-09-12
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〝よほどのこと〟 06

    *** 「寒くなったなぁ……」 共に店を後にして、通い慣れた通りを並んで歩く。不意に吹き抜けた突風に河原は肩をすくめ、それから思い出したように俺を見た。「そういえば暮科、今年はまだマフラーしてないな……?」 「あぁ、今年は新しく買うつもりで……それがまだ買えてなくて」 「そっか……まぁなかなか買いに行く時間もないよな」 特に暮科は……。と、どこか申し訳なさそうに労われ、俺は小さく首を振った。「単に俺がその気にならなかっただけだし……それに一応、去年まで使ってたのがまだ――」 あるにはある、と続けようとして、俺はそこで言葉を切った。 部屋のクローゼットにしまってあるそのマフラーは、俺が大学生の頃からずっと愛用していたものだ。  特に誰かにもらったとかでなく、普通に自分で気に入って買った濃いグレーのウールのマフラー。自分なりに手入れはしていたが、そろそろ買い替えてもいいかと思っていたところだった。 とはいえ、そこまでくたびれているというわけでもないので、使おうと思えば普通に使える。  そう考えた矢先、思い出したのはまたしても見城のことだった。 学生の頃に、ということは、イコール彼と会う時にも使っていたということだ。  彼は俺が寒がりなのも知っていて、それならと新しいマフラーをプレゼントしてくれようとしたこともある。そうでなくとも抜け目のない彼のことだ。だからきっと……そのマフラーのことだって覚えているに違いない。 ……昔借りた見城のマフラーは当たり前みたいにカシミヤだった……なんてことはこの際どうでもいい。  要は今更変に指摘でもされたら面倒だと――また来ると言っていたし――そう思い至った俺はひとまず話を誤魔化すことにした。「……いや、やっぱり近いうちに買いに行く」 「? うん?」 束の間の沈黙を経て、俺が苦笑混じりに呟くと、河原はわずかに首を傾げながらも素直に「そっか」と頷いてくれた。 ……そう、|河原《お前
last updateLast Updated : 2025-09-12
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〝よほどのこと〟 05

    * 「――な。暮科?」 名前を呼ばれていることに気づいて、俺は瞬いて焦点を合わせた。  ガラスに映る河原が、不思議そうに俺を見ていた。「あぁ、悪い」 俺は努めて思考を切り替え、くわえたままになっていた煙草を口から外す。 いつのまにか煙草の灰は随分長くなっており、今にも落ちそうになっていた。  俺はそれを持っていた灰皿の上で弾くと、そこにそのまま穂先を押し付け、火を消した。「帰れそうか?」 振り返り、河原の元へと足を向ける。「ああ、うん。もう大丈夫……」 「急がねぇし、別にゆっくりでいい」 テーブルに灰皿を置きながら、わずかに頷くと、彼はほっとしたように「ありがとう」と微笑った。 ――が、次の瞬間、その目がはっとしたように見開かれる。慌てたように時計を振り返り、「やっ、でも暮科は明日も仕事だし、確かまた早番じゃっ……、ぁ……っ」 「……!」 膝の上にあったコートすら跳ね除ける勢いで立ち上がった彼の身体が、そのまま前方にぐらりと傾く。 俺は慌ててその身を受け止め、崩れ落ちそうになる彼の腰を引き寄せた。遅れて足元にコートが落ちる。「……大丈夫か」 疲弊している上、急に立ち上がったせいで、立ち眩みでも起こしたのだろう。河原はとっさに掴んだ俺の服をそのままに、浅い呼吸に肩を上下させていた。「ごめ……」 震える呼気に、声まで掠れている。 意図せず腕の中に収まった彼の身体は、こんな時だからか思いのほか小さく感じた。  身長は5センチ程度しか変わらない。体型だけなら、俺の方がむしろ痩せ型なくらいなのに。「……とりあえず、俺も明日休みになったから」 「え……」 「代休。もらえた」 ゆっくり顔を上げた彼と目が合う。俺はあえて鷹揚に笑った。 その刹那――。 ――…。 見つめ返してくる
last updateLast Updated : 2025-09-12
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深意と真意 01

 そもそも河原が昔の知り合いに似ているなんて、本当なんだろうか。  確かに見城が家族で渡米したのは中学を卒業してからで、それまではずっと日本にいたと言っていたけど……。 ということは、それ以前の知り合いということか?  河原がアメリカにいたという話は聞いたことがないし、もしその話が本当なら、それくらいしか考えられない。 ……あぁ、苛々する。 その真偽が知れないことにも、こんなふうに、この期に及んでまたあの男に振り回されている自分にも。 そして何より、見城が河原に目をつけた――興味を持ったということが、俺の焦燥をますます駆り立てる――。 見城には、初めて出会った瞬間《とき》から何度も心の中を引っかき回されてきた。  それは数年前――結果としてセフレみたいな関係になってからも変わらなかった。 だから俺は彼との縁を切ったのだ。  ……ある意味、傷の浅いうちに。 どうせそこに未来なんてなかったし。  性的指向だけの問題じゃない。そもそも彼の思い描く未来に俺はいなかったから。……最初から、最後まで。 彼にしてみれば、単なる暇つぶし。ただちょうどいい距離に俺がいたからで、俺が拒まなかったから。それだけの理由で続いていた関係に過ぎなかったのだ。 言うなれば期間限定の疑似恋愛。  それを俺は甘受していた。全てを知りつつ、それでも彼の隣にいたいと思ったから。……あくまでもその当時は、の話だけど。 でももう、それも完全に吹っ切れている。納得もしているし後悔もない。その不毛な関係にも、その終わらせ方にも未練はない。 だって今の俺には別に想う相手がいる。  ここでの見城との再会は想定外だったけれど、その気持ちが今更揺らぐことはない――。    ***  見城がどういうつもりなのか、考えても答えの出なかった俺は、渋々ながらも一度ちゃんと話してみようと覚悟を決めた。  いまだにいちいち振り回さ
last updateLast Updated : 2025-09-13
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深意と真意 02

    *** 「眩し……」 いつもの煙草を1カートン、ついでに朝飯――兼昼飯と缶ビールを二本買って、最寄りのコンビニを後にする。するとさっきまで雲に隠れていた太陽が煌々と明るく輝いていて、その眩しさに思わず顔をしかめた。 相変わらず外気は冷たいし、風が吹けばそれだけ寒い。もうすぐ12月という時期なのだから仕方ないのは分かっているが、そんなことにすら苛立ちを感じてしまう自分にはもはや呆れるしかなかった。 どんだけ余裕ねぇんだよ……。 重ねた舌打ちは半分自分に向けたもの。 コンビニの敷地内には灰皿が置いてあり、ささやかな喫煙スペースが設けられている。  朝から一本も吸っていなかった俺は、堪えきれずその場で箱を開け、取り出した一本を早速口にくわえた。ポケットに突っ込んでいたライターを取り出し、穂先に火を点ける。「おーい」 そこにどこからかそんな声が聞こえてくる。  まぁ当然のように取り合わないけど。  だってそれが自分に向けられているものだとは思えないから。 けれども、「くーれーしーなー、せーい」 次には名前で、それもフルネームで呼ばれてしまえば、さすがに反応しないわけにはいかない。  俺は怪訝に思いながらも顔を上げた。 こんなところで一体誰だ……呼ばれるこっちが恥ずかしいわ。などと思いながら視線を巡らせると、やがて少し先のガードレールが切れた辺りに、嫌味なくらい目を引く真っ赤な高級車が止まっているのが目についた。 そしてその左側の運転席には、「やぁ」 これまたわざとらしいほどに、にこやかな笑顔で手を振る男の姿が――。「見城……」 気がつくと、俺は無意識にその名を呟いていた。「さっきアリアに行ってきたところなんだ」 「……そうですか」 「うん。土曜日は比較的時間がとれそうでね」 ……だからなんだって言うんだよ。 相手が誰だか分か
last updateLast Updated : 2025-09-13
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