*
「――な。暮科?」
名前を呼ばれていることに気づいて、俺は瞬いて焦点を合わせた。
ガラスに映る河原が、不思議そうに俺を見ていた。「あぁ、悪い」
俺は努めて思考を切り替え、くわえたままになっていた煙草を口から外す。
いつのまにか煙草の灰は随分長くなっており、今にも落ちそうになっていた。
俺はそれを持っていた灰皿の上で弾くと、そこにそのまま穂先を押し付け、火を消した。「帰れそうか?」
振り返り、河原の元へと足を向ける。
「ああ、うん。もう大丈夫……」
「急がねぇし、別にゆっくりでいい」 テーブルに灰皿を置きながら、わずかに頷くと、彼はほっとしたように「ありがとう」と
――が、次の瞬間、その目がはっとしたように見開かれる。慌てたように時計を振り返り、
「やっ、でも暮科は明日も仕事だし、確かまた早番じゃっ……、ぁ……っ」
「……!」膝の上にあったコートすら跳ね除ける勢いで立ち上がった彼の身体が、そのまま前方にぐらりと傾く。
俺は慌ててその身を受け止め、崩れ落ちそうになる彼の腰を引き寄せた。遅れて足元にコートが落ちる。
「……大丈夫か」
疲弊している上、急に立ち上がったせいで、立ち眩みでも起こしたのだろう。河原はとっさに掴んだ俺の服をそのままに、浅い呼吸に肩を上下させていた。
「ごめ……」
震える呼気に、声まで掠れている。
意図せず腕の中に収まった彼の身体は、こんな時だからか思いのほか小さく感じた。
身長は5センチ程度しか変わらない。体型だけなら、俺の方がむしろ痩せ型なくらいなのに。「……とりあえず、俺も明日休みになったから」
「え……」 「代休。もらえた」ゆっくり顔を上げた彼と目が合う。俺はあえて鷹揚に笑った。
その刹那――。
――…。
見つめ返してくる
忘れていたつもりもないのに、河原の包帯に血が滲んでいたことに気付いたのはもう少しあとのことだった。 服もろくに着ないまま、慌てて手当てをし直した俺を見て、河原はくすりとおかしげに笑った。 俺は「余裕だな」と目を眇め、わずかに首を傾げた河原をそのまま肩へと担ぎ上げた。慌てる河原を横目に「その手じゃ洗えねぇだろ」と続け、次には否応なしに浴室へと連行して――。 ……その後のことは、覚えてはいるが語らない。 年末が近くなっても、相変わらず見城は店に通ってきていた。毎週土曜日の午前中と、そしてあの日以降は火曜日の夕方も。 いい加減、「本当に暇なんだな」と皮肉ってみたこともあったけれど、それでもあいつは「一年ほど休暇をもらったんだ」と微笑うだけで、少しも堪えた様子は見せなかった。相変わらず強かな男だと思う。 ちなみに、出演予定だった冬の舞台は結局降板していて、その前の夏の舞台も体調不良ということで降板していたらしい――と、聞きもしねぇのに教えてくれたのは木崎だった。 ……別に今更どうだって構わねェけど。 というか、それより何より気になることがあるのだ。見城はいまだに口を開けば河原のことばかりで、そうなるとやっぱり見城の狙いは河原なのではないかと思えてしまう。そのくせ河原には俺のことばかり聞いてくるというからわけがわからない。 三年経っても相変わらずあの男の本音は読みづらいということなのだろうか。だからと言ってそこをそれ以上掘り下げても良いことにはならない気がするから、俺も意識して触れないようにしているけれど。 俺と見城の仲を取り持ってほしいという申し出に対し、河原が返事を保留にしたことは今でもちょっと根に持っている。二人が互いの連絡先をいつのまにか交換していたことだって正直気に入らないが、それについてもひとまず目を瞑ることにした。 河原の気持ちがちゃんと俺にあると知ったからでなく、なんとなく見城は、河原にだけは無害であるような気がしたからだ。それくらい、河原について話す時の見城は穏やかで優しい表情をしているように見えた。 そしてそう気付
「んっ……ぁ、ぅあ……!」 水音がたつほど潤滑は十分でも、それによって生まれる異物感や圧迫感まではどうにもできない。もしかしたら痛みもあるのかもしれない。それでも今度こそやめろとは言わない河原の、切なげに歪むその眉間に唇を押し当てる。 宥めるように、慰めるように。……こんなにも好きだと伝えるように。「……さっきはああ言ったけど、無理強いはしねぇから」 指を増やしたばかりだった手を一旦止めて、うっすらと汗を浮かせた額に口付けながら呟く。するとややして河原が小さく睫毛を震わせ、濡れた瞳を覗かせた。「あ……や、その……ちょっと怖い、けど……」 河原は躊躇うように双眸を揺らし、けれども次にはそっと手を伸ばす。頭を浮かせて瞬く俺の首へと、掲げた腕を絡めてくる。「かわは……」 「でも俺、お前に触れられるの、いやじゃないし……」 「――……」 「いやじゃないっていうか……むしろ、好きみたい、っていうか……」 俺は河原の顔を見た。河原は真っ赤に染まった表情を隠すように俺の肩口へと顔を寄せ、回した腕にぎゅっと力をこめた。「だから、その……」 ほとんど呼気だけのような声が、耳を掠める。思わず息を呑んだ。 改めて心臓を射貫かれたような気分になり、刹那には一気に体温が上がる。「――わかった」 返した声は、自分でも笑えるくらい余裕がなかった。「ふ……っ」 時間をかけて馴染ませた胎内から、指先を引き抜く。河原の背筋が小さく震え、細い糸を引いていた体液がぷつりと途切れた。 あえかに漏れる吐息にすら腰の奥が重くなる。束の間ほっとしたように脱力する河原を見下ろしたまま、俺は無言で顔を近付けた。整いきらない呼吸を直に感じながら唇を重ね、その傍ら、自らの下衣を寛げる。「ん、んっ……」 表面を触れ合わせるだけだった口付けを徐々に深める。唇を食み、合わせを舐めた舌先で歯列を割って口蓋をなぞる。一方で河原の膝裏に両手を添えると、そのまま掬うように
「だめ……っ、だめ、や、あ……!」 片手間に膝下まで引き下げた衣服が意図せず河原の動きを制限していた。だが当の本人はそれにも気付かないほど余裕をなくしているようで、次には恐慌したように俺の髪を掴んできた。 指先が髪に絡んで、かすかな痛みが頭皮に走る。それでも強引に引き剥がすほどの力はなく、それならと俺もやめてはやらない。さっきも言った通り、ここまで来てやめるつもりも待つつもりもないのだ。「くれ、し……っ、も、俺っ……ぁ、っ――!」 このまま達してしまうことに躊躇する河原の心情は手に取るようにわかる。わかっていながら、俺は更に追い上げる。 あえて水音を立てて喉奥への抽挿を深くする。わかりやすく鼠径部を張らせる姿態を横目に、その速度を徐々に速める。数拍後、河原は堪えかねたように白濁をあふれさせた。――俺の口内で。俺の舌の上で。「……っ、……」 引きつったように腰を震わせ、断続的に吐き出されるそれを、残滓まで全て吸い上げる。濡れた唇を舐めながら顔を上げると、河原が呆然とした様子で目を開けた。「……だから、離せって言ったのに……」 その視線の先で俺がこくんと喉を鳴らすと、いっそう信じ難いように瞳を見開かれる。浅くなった呼吸の中、これ以上ないほど顔を赤く染め、河原は口元を腕で覆いながら顔を背けた。 ……ばかだな。そんな態度、よけい俺を煽るだけなのに。 俺は声なく笑みを浮かべると、おもむろに河原の片手を掴み、指先にそっと口付けた。「河原……続けていいんだよな」 唇を触れさせたまま、逸らされた河原の横顔ををまっすぐ見つめる。 ちゅ、とかすかな音を立てて爪先を啄むと、ややしておずおずと河原は俺に視線を戻し、「い……いい、よ」 いまだひどく恥ずかしそうにしながらも、小さく頷いてくれた。「まぁ、だめって言われても続けるけどな」 「……じゃ、じゃあなんのために聞いて……」 「お前の口からいいよって聞きたかったから?」 「……!」 揶揄めかすように言って笑うと、河原は信じられないとばかりに閉
***「お前……本当に俺のこと好きだったんだな」 今になってようやく実感する。直接気持ちを伝えられても、まだどこか夢のように思っていたのかもしれない。「俺、そう言ったつもりだったけど……」 珍しく不服そうに呟いた河原の額を、そっと撫でる。 分かってる。それはもう伝わってる。今更信じてないわけじゃない。 元々偏見はなかったらしいが、かと言って男に興味があったわけでもない河原が、俺に抱かれることを受け入れてくれた時点でそれはもう疑う余地もなかったのだ。「でもお前、待てとか嫌だとかばっか言いやがるし」 「そ……れは、だから……」 そのくせ、この期に及んで試すようなことを言ってしまうのは、可愛くない俺の性分ゆえか、それとも、「俺にも……その、心の準備が……」 「心の準備な」 ただそんなふうに恥ずかしがる河原をもっと見たいと思ってしまうからだろうか。……多分、どっちも合っている。 俺は思わず緩みそうになる口元を引き締め、澄ました顔で目を眇めた。「――まぁ、どのみちこれ以上は待たねぇけどな」 言うなり、不意打ちのように河原の下肢を割って置いていた膝をその下腹部へと密着させる。すると河原は過剰なほどびくりと腰を震わせ、俺の袖を片手で掴んだ。「んぁ……! あ、待……っ」 「だから待たねぇって言ってんだろ」 逃げたいように身動いだ河原のそこは、しっかりと兆したままだった。俺は密やかに安堵しながら、片手でその腰を撫で、急くようにベルトに手をかけた。 続けざまに前たてを寛げ、晒した下着の中に断りもなく手を入れる。とっさに閉じそうになる河原の下肢を更に膝で広げさせ、指先に触れたそれを手の中に包み込んだ。「くれ、しっ……」 河原の顔がたちまち赤く染まる。 リビングの窓が壁一面にあるおかげで、照明をつけなくても明度はそれなりに保たれていた。既に目が慣れていたこともある。だからその表情はちゃんと見える
俺は無言で顔を伏せ、緩く隆起する他方の突起に舌を伸ばした。 「っふ、……ぁ!」 周囲の淡い色付きから先端まで、何度も焦らすように舌先を触れさせては離し、河原の呼吸の隙を見て、不意打ちのように口内に引き入れる。 すると反射のように河原の背中がびくりと浮いて、上擦った短い声が口から漏れた。思わず口端がかすかに上がる。「や、待っ……、そこ、は、もう……っ」 「そんなに言うほど弄ってねぇだろ……」 「でも、嫌……だっ、離しっ……」 そう言って緩く首を振る河原は、目元や頬だけでなく、耳や首筋まで赤く染めていた。思いがけず自分が上げてしまった声に、一瞬我に返ってしまったようにも見える。 だからと言って、もちろん俺がそこで退くわけもない。 河原が制止を求めたり、躊躇して見せるのはとにかく恥ずかしいからに違いない。それは表情や反応、下肢に当たるそれが兆していることからも明らかだった。 それに――。「今更嫌だなんて言わせねぇよ」 「あ……違、そういうわけじゃっ……」 「なら、いい加減観念しろよ。……大丈夫、優しくするから」 俺自身、もう待ってやれるほどの余裕はない。「っ、んんっ……!」 唇を添わせていただけの胸の先に再び舌先を絡めると、河原は咄嗟に息を呑んだ。それでいて俺の肩口や髪を掴む手に、痛みを伝えるほどの力が込められることはない。 俺の言葉にどうにか従おうとしてくれているのがわかる。そんなところも健気で可愛いと思う。愛しくてたまらなくなる。「んっ……ぅ、ぁ……っ」 相変わらず口元は必死に押さえようとしていたけれど、次第に甘さを帯びた声が漏れ出るようになってくる。俺の手や舌の動きにつれて戦慄く唇が、声を抑えようと押し付けられる手の甲との隙間で熱っぽい吐息をこぼすのだ。「んあ……!」 河原が酸素を求めるように口を開く。その瞬間、俺はあえて高い水音を立てて突起を吸い上げた。河原は一際熱っぽい嬌声を上げ、びくりと胸元を跳ねさせる。「河原……なぁ、わかってるか」
「バレたらクビかな」 「クビにはならねぇだろ。一応理由も嘘は言ってねェし」 「それはそうだけど……」 「……まぁ、あとで木崎に何か奢る羽目にはなるかもしれねェけどな」 あのあと、河原は怪我を理由に早退し、俺もその付き添いだと言って一緒に店を出た。普通に考えれば河原一人帰せばいい話だが、そこは事情を知っている木崎が横から上手い具合に説明してくれた。 だからまぁ、そのうちまた面倒なことを言ってくるかもしれないが、今ならそれくらい安いものだとも思う。「……でも、やっぱりちょっと」 「気が引けるって?」 「うん……」 その後はもちろん病院にも行った。だが思いの外俺の処置が適切だったらしく、結局簡単な消毒をしたのち同じように包帯を巻き直されただけで、あとは経過観察とされてしまった。「つっても、もう帰ってきちまったもんは仕方ねぇだろ」 「そう、だけど……」 「じゃあ、もういいから黙れよ」 そうして俺と河原はいつものように同じマンションに帰ってきた。更に言えば、同じ部屋――俺の部屋に。 マンションのエントランスを抜け、いつものようにエレベーターが降りてくるのを待っていた。間もなくドアの開いた箱の中は空っぽで、それをいいことに俺は河原の手を取り、引っ張り込むようにしてその中へと乗り込んだ。 突然のことに河原は驚いたように目を瞠り――それでも、繋いだその手を振り解いたりはしなかった。ただ戸惑うように視線をうつむかせ、頬を淡く染めて、ひどく緊張している時のように冷えた指先をかすかに震わせていた。……まるで初めて会った日のように。 だからだろうか。気がつくと俺は記憶を辿るように河原の顔を覗き込み、そのまま誘われるようにキスをしていた。六階で扉が開く寸前、掠め取るように唇の表面を触れ合わせただけのそれは、けれどもあの時よりもずっと熱を帯びた余韻をそこに残した。 ***「……河原」 部屋に入るといっそう理性は霞み、シャワーを浴びるどころか寝室に行くのももどかしく、俺は急くよ