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さざなみ 03

Author: 市瀬雪
last update Last Updated: 2025-09-10 17:00:21

   ***

「お疲れ様でした。お先でーす!」

 17時になると、木崎はいつもどおりにそう残し、さっさと更衣室へと引き上げていった。

「じゃあ、俺も上がるな」

「うん、お疲れ。気をつけて」

 それに遅れること数分、俺も仕事を切り上げる。キッチンでコーヒーを入れていた河原に声をかけると、彼はいつも通りの笑顔でそう返してくれた。

 ……大丈夫。河原には何も気づかれていない。

「たまには早く寝ろよな」

 名残惜しくも背を向けると、背後から更にそう重ねられる。俺は思わず足を止めた。

暮科お前、いつも遅いんだから……」

「……」

 独りごとのように続けるその声に、とくんと小さく心臓が鳴った。

 まさか河原からそんなふうに言われるなんて思わなかった。

 いや、実際その通りなのだ。俺はいつも寝るのが遅いし、それこそ河原とは正反対に、平均して睡眠時間も短い方だと思う。

 ……そうか。

 俺のことを知っているのは、見城あの男だけじゃない。なんならもう河原の方が詳しいかもしれない。

「……了解」

 思い至ると、じわりと胸の奥が温かくなった。つられるように顔まで緩んでしまいそうになり、おかげで振り向くこともできず、俺はただ肩越しに軽く片手を挙げるしかなかった。

 ……分かってる。

 期待しちゃいけないってことは。

 だけど束の間、勝手に浸るくらいなら……。

 俺は隠すように口元を押さえながら、二階へと続く階段を上っていった。

   ***

「あ、おつかれー」

「……まだ帰ってなかったのかよ」

 更衣室に向かう途中、店長冴子さんに呼び止められた。そのまま店長室に入るように促され、しばらく話し込んだ後、

「うん、暮科待ってた」

 普段ならとっくに誰もいなくなっているはずの更衣室のドアを開け

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