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第73話 セレスティナの戦準備 - 2

last update Dernière mise à jour: 2025-10-13 20:15:11

 辺境の城は、巨大な生き物のように、静かに、しかし力強く呼吸をしていた。

 数日前まで、その呼吸は不規則で浅かった。どこにどれだけの栄養、すなわち物資があるのかを正確に把握できず、ただ目前の脅威に場当たり的に備えることしかできなかったからだ。だが、今は違う。

「軍師殿の命令だ! 第三倉庫に備蓄されている矢羽根のうち、三百を至急、西の砦へ!」

「承知! 帳簿に記帳の上、すぐに輸送部隊を編成する!」

 城の中庭で交わされる兵士たちの声には、以前のような混乱や焦りの色はなかった。セレスティナが構築した兵站管理システムは、まるで人体の神経網のように、城の隅々にまで張り巡らされていた。物資の流れは完全に可視化され、どこで何が不足し、どこに余剰があるのかが一目瞭然となった。そのおかげで、兵士たちは初めて、自分たちがどれだけの力を持っているのかを正確に知り、揺るぎない自信を持って決戦の準備に臨むことができていた。

 その巨大な生き物の、頭脳と心臓。

 軍師執務室で、セレスティナは一枚の巨大な羊皮紙の上に、静かにペンを走らせていた。

 それは、辺境の地図ではなかった。彼女が描いていたのは、王国の中枢、王都に広がる、貴族たちの複雑怪奇な勢力図。まるで、巨大な蜘蛛の巣のようだった。

 三日三晩にわたる棚卸しで、彼女は辺境の「体」を完璧に把握した。だが、それだけでは足りない。戦に勝つためには、敵の「体」をも、自らのもの以上に知る必要があった。

 彼女は、机の上に広げた羊皮紙を、三つの区域に分けていた。

 一つは、蜘蛛の巣の中心で、最も濃いインクで記された名前の群れ。彼らは、宰相ゲルハルト・ヴァインベルクに、金と、血と、そして恐怖によって繋がれた、絶対的な忠誠を誓う者たち。セレスティナのペンは、彼らの名を記すたびに、紙を抉るかのように力がこもった。

 もう一つは、蜘蛛の巣の外縁で、薄いインクで記された名前たち。彼らは、ヴァインベルクの専横に、内心、強い不満を抱いている者たちだ。だが、その力は弱く、今はただ息を潜めているに過ぎない。

 そして、最も広く、最も多くの名が記された、中間の領域。

 日和見。風の吹くままに、強い側へと靡く者たち。彼らの心を、いか
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