タオルを受け取った手をぎこちなく握りしめ、拓海は立ちすくんでいた。宏樹はそれ以上、近寄らなかった。部屋の中心には乾きかけた空気があり、互いの温度だけが取り残されていた。
「風邪ひくぞ」
宏樹がやわらかく促す声は、穏やかで、どこか遠かった。
拓海はうなずき、ゆっくりと踵を返した。足元には雨のしずくがしみた靴下の跡が点々とついていた。部屋の照明がその濡れた足跡に薄い影を落とす。脱衣所までの廊下を、拓海は無言で歩く。
シャツを脱ぎ捨て、冷えた肌にタオルを当てる。濡れた髪が額に張りつき、温もりと冷たさが交互に皮膚を撫でていく。タオルの繊維が水を吸うたび、指先にかすかなざらつきが残る。
「そっか」
宏樹が言ったその一言が、脳裏にこだまする。
まるで、既に何度も同じ相談を受けたような、答え慣れた声色。驚きも、戸惑いも、戸口すら見せなかった。
だが、それがかえって拓海の胸に、冷えた水のように広がっていた。
理解されたのに、どこにも届いていない。寄り添ってくれたのに、触れられていない。
母さんだったら、もっと狼狽えて、困ったように笑ったかもしれない。言葉を選んで、何度も確かめようとして、うまく言葉にできず、でも抱きしめてくれたかもしれない。
あの人は、いつもそうだった。
拓海は新しい部屋着に着替え、髪を乾かしもせずに自室に戻った。扉を閉めた瞬間、まるで自分だけが世界から切り離されたような錯覚に襲われる。
机の上には勉強道具と閉じたままの参考書。開けたままのカーテンの向こう、雨はまだやまない。街灯の光が濡れたアスファルトを照らしていて、音もなく降る雨の粒が、静かに光を砕いていた。
ベッドに腰を下ろし、背中を丸めて膝を抱えた。自分の腕のなかに収まる体の小ささが、こんなにも孤独に感じるのは、何年ぶりだろう。
あれほど勇気を出して、ようやく言えたことだったのに。
心の中には、もう少し違う反応を期待していた自分がいた。手を伸ばしてほしかった。叱られてもよかった。もっと、拓海個人として向き合ってほしかった。
でも、宏樹はただ、「そっか」と言った。
講義が終わると、教室を出る学生たちの足音と、ざわついた声が廊下に溢れ出した。拓海は、肩にかけたトートバッグの紐を握りしめながら、そっと人波を避けて歩く。春とはいえ、午後の日差しは強く、ガラス張りの廊下に反射する光が、彼の目を細めさせた。大学に入ってまだ数日。講義の進みは早く、誰が誰だかも把握しきれないまま、ただ時間だけが過ぎていく。誰かと会話を交わすわけでもなく、名前を呼ばれることもなく、拓海は透明な存在としてその場にいた。ふと、校舎の影の落ちる植え込みのそばで、誰かが声をかけてきた。「君、文学部? てか、出版志望でしょ?」その言葉に、拓海は思わず足を止めた。見上げると、背の高い青年が、飄々とした笑みを浮かべてこちらを見ている。黒縁のメガネ。ゆるく巻いた髪。胸元には、レインボーカラーのピンバッジが小さく光っていた。「えっと…どうして…」「だって、ガイダンスでの自己紹介で言ってたじゃん。拓海くんでしょ。俺、小日向慧。慧って書いて、けい。よろしく」いとも簡単に距離を詰めてくるその空気に、拓海は少し圧倒された。「…覚えてたんだ」「わりと、覚えてるタイプ。ていうか、俺も編集志望なのよ。ほら、同志」そう言って、慧は握手を求めるように手を差し出してきた。拓海は戸惑いながらも、その手をそっと握る。指先が、ほんのりと温かい。会ったばかりの相手とは思えないほど、慧の立ち居振る舞いには、揺るがない自信があった。「このあと、空いてる? 学食ってもう激混みだし、近くのカフェ、穴場知ってるんだよね。良かったら、行かない?」拓海は一瞬、断る言葉を探しかけた。だが、それよりも早く、別の感情が胸に浮かんだ。…話してみたい。慧の、軽やかさの裏にあるもの。自分を堂々と示すその強さ。さっきまでの無色の時間が、淡く色づき始めていた。「…うん。行く」その答えに、慧は満足そうに笑った。校舎を出ると、春風が二人の間を通り抜ける。通学路には、新入生らしいグ
鍵が回る音が、やけに大きく耳に残った。新居のドアを開けた瞬間、ひやりとした空気が胸の奥まで滑り込む。誰もいない空間には、すでに設置された冷蔵庫の無音や、壁際に積まれた段ボールの影が、やけに存在感を放っていた。春だというのに、部屋の匂いは乾いた埃と少しの孤独を混ぜたようで、まだ「生活の温度」がどこにも宿っていない。玄関に靴を並べると、手に持っていたトートバッグが自然に床へ滑り落ちた。その音が、部屋全体に反響する。拓海はゆっくりと腰を下ろし、段ボールの山を見上げた。『衣類』『書籍』『キッチン用品』。黒マジックで書かれたラベルは、どれも手書きで、祖母が手伝ってくれたものもあった。小さな箱の一つに、マグカップが二つ入っていたのを思い出す。宏樹が使っていた白いマグと、自分が選んだグレーのやつ。なぜか、どちらも持ってきていた。カーテンはまだ付けていない。窓の向こうには、隣のアパートの白い壁と、ゆるやかに揺れる洗濯物。風が吹くと、それがこちらに手を伸ばしてくるように見えた。「これが、一人暮らし…か」言葉に出してみても、実感は湧かない。声は空間に吸い込まれ、返ってくるものは何もなかった。拓海はゆっくりと立ち上がり、部屋の中央に置かれた段ボールを一つずつ開け始めた。音もなく、ただガムテープを剥がす音と、自分の呼吸だけが耳を満たす。何かを取り出しては、棚に置き、クローゼットに押し込み、流れるように動く。頭の中は空白に近く、身体だけが手順通りに動いている感覚だった。一段落ついた頃には、夕方の光が斜めに差し込み始めていた。部屋の隅に差し込む日差しが、床の埃をうっすらと照らしている。窓を開けた。春の風が、乾いた部屋にやっと入り込む。カーテンレールの金具が風に揺れ、カチリと鳴る。その音が妙に心に刺さった。拓海は窓辺に腰を下ろし、風の匂いを嗅いだ。草の匂い。花粉の匂い。遠くで子どもの声がする。トラックのエンジン音も聞こえる。どれも、誰かの暮らしの音だ。でも、ここにはまだ、誰の声も、誰の音もしない。ふと、宏樹の背中を思い出す。あの朝、駅まで送ることもなく、ただ玄関で「じゃあ」と言ったきりの
窓の外、風が木の枝を揺らしていた。どこか遠くで虫の声がひとつ、そしてまたひとつ、夜の冷たさを際立たせるように響いてくる。宏樹は部屋の灯りを落とし、デスクの前に静かに座っていた。キーボードには触れず、画面も消えたままのノートパソコンが、そのままそこに置かれている。手元には一冊のノート。表紙は少し色褪せ、角が丸くなっていた。何ヶ月も閉じたままにしていたそれを、今夜、ふと手に取った。ページをめくる音が静寂に溶けていく。途中まで埋められた文字の列が、まるで誰かに語りかけるようにそこに残っていた。その筆致に、かすかな熱が宿っていたことを思い出す。拓海のいない部屋は、相変わらず静かだった。洗い物の数も、炊飯器の設定も、ひとり分に変わったはずなのに、生活はどこか歪なままだ。あの少年の声が、笑いが、問いかけが、この部屋の空気を少しずつ変えていたのだと、今なら分かる。けれど、宏樹は電話をかけなかった。あまりに多くのことを、まだ言葉にできそうになかった。ただ、目の前のノートに、ゆっくりと手を伸ばす。白いページがそこにあった。何も書かれていない、まっさらな空間。ペン先を静かに置く。何かが始まる気配だけが、確かにそこにあった。同じころ、拓海もまた、自分の部屋の窓を細く開けていた。風が、薄いカーテンをやさしく持ち上げる。祖母の家の夜は静かで、遠くから電車の音がかすかに届く。天井の灯りはすでに消され、机の上には進学説明会のチラシが一枚、折り目もつけられずに置かれていた。その表紙に書かれた「文学部」の文字を、拓海はじっと見つめていた。窓の外を仰ぐと、星がひとつ、木々の隙間から顔を出している。あの人も、いま、同じ空を見ているのだろうか。そんなことを考える自分に、拓海は少しだけ苦笑した。けれど、電話はしない。今はまだ、話すべきことが見えない。ただ、見えない距離の先で、何かが動き始めている気がした。それが未来なのか、再会なのかは分からない。それでも、自分が書いた言葉が、今日の自分を繋ぎ止めてくれている気がする。進路票のコピーをファイルに入れながら、拓海は小さく
窓の外に差し込む夕陽が、教室の机をひとつずつ淡く照らしていた。長く伸びた影が、床の上に静かに溶けていく。放課後の教室にはすでに半分ほどしか生徒がおらず、数人がプリントをめくる音と、椅子を引く小さな軋みだけが残っていた。拓海は前かがみになり、机の上に配られた白い紙をじっと見つめていた。進路希望調査票。名前欄の下に「第一希望 第二希望」と、整然と並ぶ罫線がまっすぐに引かれている。隣の席では、クラスメイトがペンを走らせながら、ため息混じりに言った。「うちの親がさ、経済学部にしとけって。将来困らないからだってさ」もう一人が笑いながら同調する。「オレも。正直、どこでもいいんだけどな」そんな言葉が当たり前のように教室を満たす。拓海はそれを聞きながら、胸の奥に小さな波紋が広がるのを感じていた。どこでもいい。それができたら、どれほど楽だったろう。ペンを握る指先に力が入る。けれどなかなか書き出せない。罫線がこちらを試すように、無言で揺れていた。目を閉じる。あの書斎の匂いが、ふいに鼻先をかすめた。コーヒーと紙と、インクの混じった匂い。風が抜ける窓辺、背を向けてキーボードを叩く音。そして、ときおり読み上げられた文章の断片。生きている人間よりもずっと鮮やかに、宏樹の言葉たちが頭の中に蘇る。誰かを、真っ直ぐに見つめるような文章だった。拓海には、まだそれが「好き」という感情なのか分からなかった。ただ、読みたかった。誰よりも先に、深く、理解したかった。それは、あの人のことを知りたかったからかもしれないし、もう知るすべがないとわかっていたからかもしれない。手が、動いた。「文学部」と、一文字ずつ、慎重に書き込む。まるで何かを刻むように。そして、その下の欄。自由記入欄に、ためらいながらも、ペン先を走らせる。「出版・編集に興味あり」その言葉が、まっすぐ線に乗った瞬間、胸の奥で何かが静かに着地した。好きだからなりたい、わけじゃない。宏樹の書いたものを、世界で一番深く読める人間でありたい。それが、自分に
カタリ、とキーボードの隅が揺れたのは、右手の薬指がわずかに動いたせいだった。けれど画面は変わらない。白いまま、まるでこちらの内側を映し返す鏡のように、空白のページがじっと宏樹を見返していた。ランプの灯りが、机の上だけを照らしている。外はすっかり暗く、雨でも降ったのか、窓の向こうの空気が湿っていた。風の音もしない。音は、何もなかった。左手がカップを探したが、そこにあるはずの湯気はすでに冷えきっていて、唇をつけた瞬間、無味な水のような苦味が広がった。「……違うな」自分に向けてそう呟いてみる。だがその言葉すら、指先を通ってはくれない。カーソルは依然として瞬きを続け、何ひとつ、綴られていなかった。机の脇には、積まれたままの資料と、何度も書き直したあとの原稿用紙。その端が少しめくれていた。風など吹いていないはずなのに、不意に誰かがそこに触れたような錯覚を覚える。「君なら、どう書く?」誰に向けての問いか、自分でも分かっている。書斎の右手、奥の椅子。かつて拓海がよく、そこに足を投げ出して本を読んでいた。音も立てずに現れては、気がつくと隣にいて、視線だけで「邪魔してないよ」と主張してきた少年。目を閉じれば、彼の気配はまだ、そこにある気がした。だが開けば、ただの空っぽの椅子だ。何もない。誰もいない。「いないのか、君は」口に出すと、それはあまりに確かな言葉だった。いない。ただ、それだけの事実に、ここまで身体が固くなるとは思わなかった。背中にあった誰かの呼吸が、いつの間にか消えていて、それでも気づかないふりをしていたのだ。ページが白いままなのは、言葉がないからではない。誰に向けて書くかを、見失っていたからだ。拓海の存在が、宏樹の書く物語の背後にあった。それは意図して取り込んだわけではなく、自然と染み込んだ温度だった。彼の目線、息遣い、思考の揺らぎ。そうしたものが、どれほど創作に必要だったか。失って初めて知る。「君が、そばにいる生活が、物語だったのか」その事
縁側に腰を下ろすと、木の軋む音がわずかに背中を押した。空はすっかり秋の気配で、どこか澄んでいて、湿気を含んだ夏の空気は、もう庭の隅にも残っていなかった。目の前に広がる庭は、背の低い金木犀がぽつぽつと咲き始め、朝露を含んだ葉が風に揺れていた。その匂いにまじって、味噌汁の湯気が鼻をくすぐる。台所からは澄江の足音と、味噌椀を並べる控えめな音。「たく、冷めるわよ」呼ばれる前に行こうと思っていたのに、その声に反応して立ち上がった自分が、少しおかしくて、拓海は唇の端を小さく曲げた。食卓には、焼き魚と小鉢が二つ、炊きたての白米が湯気を上げている。「いただきます」手を合わせると、澄江が目を細めて頷いた。静かな時間だった。テレビもついていない。新聞も読まない。箸が茶碗に触れる音と、鳥の鳴き声と、遠くで聞こえる車のエンジン音だけが、日常の音として部屋に広がっていく。「今日は、畑のほうに大根を植えようと思ってるの」澄江の言葉に、拓海は「うん」と返す。それは約束ではなく、共有された予告のようなものだった。何をするでもなく、ただ一緒にいるというだけの、静かな肯定だった。目を落とすと、味噌汁の中で豆腐がふわふわと揺れていた。その白さを見ているうちに、ふと、あの朝を思い出す。宏樹の背中。言葉を交わせなかった食卓。味噌汁をすする音の後、彼は「昨日のことは忘れろ」とだけ言った。拓海は何も言えず、ただ無表情で皿を洗った。あの瞬間、何かが壊れたと思った。けれど今は、あの沈黙すら、過去の出来事として胸の底に沈んでいる。箸を休め、ふと庭を見る。金木犀の奥、石畳の隙間から小さな草が顔を出していた。伸びようとしている、ひたむきな緑。「拓海、もうすぐ寒くなるわ。毛布、出しておかないとね」「…うん。夜、ちょっと冷えるもんね」他愛のない会話。でもその温度が、どこか落ち着く。宏樹の声が、背中が、ふと脳裏にかすめる瞬間がまだある。洗面所でタオルを手にしたとき。歯磨き粉の残りが少なくなったことに気づいたとき。買い物メモに