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境界線の夜

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-09-22 16:45:05

夜の海辺は、昼間とはまるで違う顔を見せていた。

空は墨を流したように深く、その中にいくつかの星が瞬いている。波打ち際には灯りがなく、ただ月の光がわずかに水面を照らしているだけだった。

風は少し冷たく、しかしどこか心地よい。潮の香りは強く、身体の奥にまで染み込むようだった。

拓海はゆっくりと砂浜を歩いていた。靴の中に細かな砂が入り込み、かすかにじゃりっと音を立てるたび、現実感が戻ってくる。

けれど隣にいる宏樹の気配は、どこか非日常の中にいるようで、それが心地よかった。

ずっと、この時間が続いてくれたらいい。そんなふうにさえ思えた。

「…ねえ、宏樹さん」

歩を止め、拓海は声をかける。

宏樹は足元に広がる砂の模様を眺めたまま、顔だけを少し向けた。

「うん?」

「俺、昔さ…海って、ちょっと苦手だったんだ」

「苦手?」

「うん。小さい頃、母さんが夏に倒れたことがあってさ。家族で出かけた海で、急に具合が悪くなって、救急車で運ばれて…」

言葉を切ると、潮の音がその隙間を満たした。

波がさらい、また寄せる。

足元の砂に波が触れ、また引いていく。

「それから、なんとなく…海って、“何かが終わる場所”ってイメージになっちゃってた」

声に出してから、拓海は初めてそれが本音だったのだと気づく。

胸の奥にしまっていた幼い記憶は、決して消えていなかった。ただ、しまったまま大人になってしまっただけだった。

隣で宏樹が歩みを止めた。

言葉はなかった。ただ、ゆっくりと手が差し出される。

ためらいながら、拓海はその手を取った。

ぬくもりが、静かに伝わってくる。

指の形も、手のひらの大きさも知っているはずなのに、今夜はなぜか少し違って感じた。

確かに握られている。繋がっている。

それだけのことが、どうしようもなく救いだった。

「じゃあ、今日は」

宏樹がゆっくりと口を開く。

「何かが終わ

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