七年目の裏切り――私は身代わりだった のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

25 チャプター

第11話

結衣の気持ちがようやく落ち着き、手続きをしようとしたときには、すでに彼が署名を済ませ、戻ってきていた。二人で警察署を出て、暖色の街灯の下に立つ。「付き添ってくれてありがとうございました。よかったら、名前と電話番号を教えてもらえませんか?」そう口にしてから、結衣は相手の端正な顔立ちと整った姿勢に気づき、慌てて付け加えた。「ちゃんと落ち着いてから、改めてお礼がしたいだけなんです」今の彼女は身一つ、夜もすでに更けていて、たとえお礼を買いに行こうとしても店など開いていない。男性は軽く笑い、スーツの内ポケットから名刺を一枚取り出して差し出した。「大したことじゃないので、気にしないでください。でも、知りたいことは全部そこに載ってます。もし今後何かあれば、いつでも連絡してください」今の時代、スマホでQRコードを読み取るのが主流で、名刺のような形式ばった連絡先は珍しい。結衣は両手で金の箔押しが施された名刺を受け取り、その名前を心の中で繰り返した。――桐谷慎一(きりたに しんいち)。苗字が、司と同じだ。奇妙な縁を感じたが、それよりも名刺に記された職業の方が目を引いた。「弁護士」弁護士といえば、口が立ち、堂々としていて、近寄りがたいイメージしかなかった。けれど慎一の柔らかな物腰は、その先入観をあっさり覆す。「僕も、お名前を聞いてもいいですか?」結衣は小さく答えた。「結衣、結ぶに衣と書きます」夜明けが近づき、タクシーもつかまりにくい時間帯だった。慎一は自然な流れで言った。「名前もわかったことですし、もう他人じゃありませんね。送っていきましょう」その口調も仕草も、春の陽だまりのように温かく心地よい。結衣はここまで世話になったのだ、もう少し甘えてもいいと思った。慎一に言われてその場で待っていると、彼は車を回してきた。途中、モモの話をきっかけに、他愛ない会話をいくつか交わす。ほどなくしてマンションに到着すると、慎一は迷うことなく住宅棟に近い側の門から車を入れた。どうやら土地勘があるらしい。深くは聞かなかったが、別れ際、偶然通りかかった人が驚きの声を上げた。「桐谷先生?結衣?二人で一緒に帰ってきたの?」声の主は結衣の姉、美沙だった。スポーツウェア姿で、これから朝のランニングに出るところらしい。「お姉ちゃん、知
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第12話

美沙はまだ何か聞きたそうだったが、歩いているうちに家に着いてしまい、そのまま口をつぐんだ。玄関を開けると、ちょうど朝食が食卓に並んだところだった。結城家の両親は、結衣の姿を見るなり驚きの表情を浮かべる。父の誠(まこと)が首をかしげて言う。「結衣、予定より早く帰ってきたのか。先に連絡をくれれば迎えに行ったのに」結衣は笑みを作った。「驚かせたかったの。そしたら偶然、下でお姉ちゃんに会って」母の恵子(けいこ)は少し困った顔で笑う。「そんなことなら早く言ってくれたら、私たちもっと楽しみにできたのに」そして表情を改め、問いかける。「向こうで何か嫌なことがあったんじゃないの?」結衣は母から箸を受け取り、笑顔のまま答えた。「たまたま海城市でサイン会があることになったから、少し早めに戻っただけ」「でも、その目はどうしたの?」「モモが逃げちゃって、慌てて泣いちゃったの。もし外に連れて行くなら、絶対リードは離さないでね。ほら、早く食べよ。お腹ぺこぺこ」昨夜モモが騒いでくれたおかげで、今こうして家族に心配されても理由を作れる。あれがなければ、もっと根掘り葉掘り聞かれていただろう。ただ、美沙だけはその説明を鵜呑みにしなかった。朝食後、部屋の片付けを手伝うふりをして、結衣を部屋に引っ張り込む。「正直に言って。司との間に、何かあったの?あいつに傷つけられたの?」「私たち、もう終わったの」結衣は苦笑もせず、淡々とこれまでの経緯を話した。言葉にして初めて、自分が彼のためにどれだけ無駄な時間と気持ちを費やしてきたかを痛感する。最初から自分のものではなかった男に、こんなにも尽くしてきたなんて――あの時間は本当に無駄だった。話を聞き終えた美沙は、瞬時に怒りを露わにした。「前からあの男はやめとけって思ってたけど、せいぜい冷たいとか、自分勝手とか、頼りないとか、その程度だと思ってたのよ…まさかあんたを身代わり扱いしてたなんて!はぁ?ドラマの悲劇ヒロイン気取りかっての」「悲劇のヒロインは普通女の方でしょ」結衣は冷静に言った。「彼は、どちらかというと恋愛ドラマの主人公タイプ。私は彼に恋する当て馬か、途中で消える脇役」もうこの長すぎる芝居は終わりにする。舞台は彼ら二人に譲ってやればいい。美沙は妹の静かな表情を見て、もう何を言っても無駄だと
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第13話

週末、結衣は家でしっかり休養を取り、万全の姿でサイン会の会場に姿を見せた。連載小説家である彼女にとって、小説出版後のサイン会はファンとの交流の場でもある。わざわざ足を運んで本を買うのは、ほとんどが熱心な読者だ。予想以上に長い列ができていた。結衣は機嫌よくファンの要望に応じ、ツーショット写真でも、最初のページに宛名入りのサインでも、すべて快く引き受けた。ただ、書き続けるうちに手首がだんだん疲れ、時おり振ってほぐす。何冊目かも分からない頃、差し出された本を受け取ると、その上に新品のリストレストが置かれていた。値札もまだ付いたままだ。ファンから小さな贈り物を受け取るのは珍しくないが、ここまで気の利いたものは滅多にない。結衣は、こんな気の利いたことをするのは若い女性だと思い、顔を上げて微笑んだ。「ありが……」そう言いかけて、慎一の笑みを浮かべた目と目が合った。彼も自分の小説を読むなんて、しかもファンだったとは。予想外すぎて、結衣は一瞬その場がサイン会であることすら忘れ、まばたきを繰り返した。慎一が柔らかく言う。「長く書いていると手首がつらいだろうと思って。これを使えば少し楽になるはずです」結衣は我に返り、素直に礼を言った。「ありがとうございます。サインはどうしますか?宛名入りでもできますが」「じゃあ、この本が僕のだってわかるようにしてくれればいい」彼は前に並んでいた読者のリクエストを真似るように言い、さらに付け加えた。「本当はただリストレストを渡すだけのつもりだったんだけど、みんな並んでるから、僕もちゃんと並ぶことにしました」列の長さを見れば、顔見知りだからと割り込めば非難の的になるのは明らかだった。結衣は、彼が恋愛小説を読むのを恥ずかしがっているのだと思い、微笑んでサイン本を渡した。「わかりました。来てくれてありがとうございます」彼女の小説は、自分と司をモデルにした恋愛物語。読者のほとんどは女性で、男性はパンダ並みに珍しい。しかも慎一のように容姿も雰囲気も際立つ男性となれば、列に並んでいる時から注目されて当然だった。案の定、後ろの読者たちは彼らの様子を興味津々で見ている。「知り合いっぽいよね?」「かっこいいし、声も優しい。出版社が雇ったモデル?でも年齢が合わないか」「モデルがわざわざ並ぶわ
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第14話

このニュースは、読者グループに爆弾を投げ込んだような衝撃だった。その後のサイン会では、数人おきに「どうして?」と聞かれたが、結衣は説明のしようもなく、ただ「現実と小説は別物です」と答えるしかなかった。きっとそう遠くないうちに、出版社は宣伝文句に「亡くなった恋を弔う作品」とでも加えるのだろう。結衣に異論はなかった。サイン会が終わると、裏口から一人で会場を出た。来るときもタクシーだったし、帰りもそうするつもりだった。ところが、道路の向こうで慎一が手を振っていた。そばにはわざわざ停めた車と、尻尾をプロペラのように振るモモがいる。なんてことのない光景なのに、今の結衣には不思議と温かく映った。彼女は歩み寄ってモモを抱き上げ、察したように聞く。「モモ、お姉ちゃんが頼んで連れてきたんですか?」慎一は笑って、あっさり認めた。「ああ。本当は会場に連れて行こうと思ったんですけど、人混みが苦手みたいで。先に外で待ってましたよ」結衣は苦笑いした。「ごめんなさい、桐谷先生。ご迷惑かけちゃって」その言葉には二つの意味があった。サイン会での冷やかしに巻き込んだこと、そして美沙が彼をわざわざ呼び寄せたこと。まるで無理やり会わせるようなやり方だ。慎一はまた笑った。「それは逆ですよ。僕のせいで君はファンの前で私生活を話す羽目になったんです」「私は、彼女たちを騙したくなかっただけです。いつかは言うことになるから」「じゃあ、お詫びに食事でもどうですか?今、僕たち二人とも独り身だし、もっとお互いを知る機会にもなります。実は家からもせっつかれてるんです」三十代を過ぎれば、家族が急かすのも珍しくない。結衣はモモを抱きしめながら、正直に言った。「私、いい結婚相手にはなれないと思います。失敗したばかりなの、知ってますよね?」慎一は気にも留めずに答えた。「だからこそ、新しい恋を始めるのにちょうどいいじゃ無いですか。君は素敵だし、僕はモモも好きです。もしよければ、これから一緒に育てましょう」モモの頭を撫でると、モモは嬉しそうに鼻を鳴らし、彼の手に顔をすり寄せた。小動物に好かれる人は、きっと悪い人じゃない。結衣の心がわずかに揺れる。「はい。でも少し考えさせてください」同じ頃、遠く離れた街では司が自宅の玄関で、スマホの動画を繰り返し再生していた
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第15話

唯は一瞬だけ慌てたが、すぐにいつもの調子を取り戻し、逆に責め立てた。「なんでそんなに怒るの?あの犬、危うく私を噛みそうになったのよ。友達にちょっと愚痴るくらい、何が悪いの?それに本当に毒殺したわけじゃないし」立て続けの言い訳に、司は言葉を詰まらせた。まるで自分が彼女に悪いことをしたかのような錯覚さえ覚える。だが、あんな悪意に満ちた言葉を「愚痴」で片付けられるのか?ふと、結衣がモモを連れて帰ってきた日のことを思い出す。彼女は一度も雑種だからと嫌ったことはなく、自分の手で洗ってやり、毛も整えてやっていた。そのとき、ポケットの中でスマホが鳴った。司は雑念を振り払い、電話に出る。友人が切羽詰まった声で告げた。「早く来い!バーの監視カメラ映像が復旧した!」「わかった」司は即座に引き返し、唯の呼び止めも無視して現場へ急いだ。もう疲れ切っていた。信頼できる友人は、司が到着する前に例の映像を用意してくれていた。司は監視室に入り、再生ボタンを押す。映し出された光景は、唯の証言とはまるで違っていた。画面には、からかうようにモモを挑発する唯の姿。そして止めようとした結衣を、逆に侮辱する唯。司が駆けつける直前、唯は再びモモを挑発し、結衣は彼女が噛まれないよう軽く手を押しただけだった。決して強く押したわけではないのに、唯はまるでバネ仕掛けのように倒れ、車道近くまで転がっていった――これが本当に唯なのか。我がままで目的のためには手段を選ばないことは知っていた。でも、ここまで酷いなんて――モモは当然、飼い主を守ろうと吠え立てた。結衣は終始モモをしっかり抱きかかえ、モモは唯に一切触れていなかった。司は苦しげに目を閉じた。唯は自分に訴えたとき、その事実には一言も触れず、自分の被害だけを強調した。司は唯に電話をかけた。彼女はすぐに出たが、電話に出るなり、文句を言った。「出て行ったくせに、何の用?」「結衣があのとき、なんでお前を押したのか知りたい」司は初めて、彼女に厳しい口調で迫った。唯は反射的に反発しかけたが、何かを察して取り繕った。「私より、あの女と犬が大事なの?あの犬が私を噛もうとしたからよ。あの女は犬をかばって、私と揉めたの。あの犬なんてとっくに毒殺されてるべきなのに、うるさくて迷惑よ」「犬だって
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第16話

もし司の予想が正しければ、結衣はすでに彼とつながる全ての連絡先をブロックしている。司は歯を食いしばって、ドアを押し開け、すっかり片付けられた結衣の部屋で、彼女が言っていた箱を見つけた。そこには部屋中の私物がきれいに詰め込まれていた。空っぽのクローゼット。もうこの部屋の主は二度と戻らない。司は目を血走らせてその光景を見つめた。スタッフが結衣の指示どおりに入室し、箱を運び出そうとすると、司は阻んだ。「帰ってください。この荷物はもう寄付しません!」スタッフは当然引き下がらない。「これは結城さんの物で、すでに処分方法も指示されています」「俺が金を出します。新しい物を買って困っている地域に送ればいいだろう。この部屋は俺にも半分権利があります。動かすなと言ったら、もう触るな!」「お客様、困らせないでください!」こんな面倒事は初めてだという顔をされる。司は感情が抑えきれないとわかっていたが、深呼吸して言った。「彼女に電話してください。俺が話す」スタッフは両手を広げ、呆れたように言った。「あなた、結城さんの元カレですよね?もう引っ越したのに、何をそこまで。男ならもっと器を持たないと。別れた女にしつこくする男なんて誰も好きになりませんよ」「誰が別れたって!?」司は怒りを爆発させた。「早くそのスマホを貸せ!直接話す!」自分がブロックされていることなど認めたくなかった。たとえスタッフにはバレていても。押し問答の末、司はスタッフのスマホを奪い、素早く発信履歴からかけ直した。数秒も経たずに電話はつながった。スタッフは隣でため息をつき、もう任せることにした。結衣は、スタッフが何か困っていると思い、落ち着いた声で言った。「佐々木さん、暗証番号が開かないんですか?シャープキーを押してから入力してみてください。それでもだめなら、すぐ管理会社に連絡しますから……」細かく説明していた結衣は、ふと受話口から聞こえる荒い息に気づき、言葉を止めた。それはスタッフの声ではなかった。彼女がかつてよく知っていた、もう一人の声。この日がいつか来ることは分かっていた。結衣は電話を切らず、静かに沈黙の時間を与えた。数日ぶりに結衣の声を聞いた司は、思わず動揺し、震える声で問い詰めた。「結衣……お前、何がしたいんだ?」本来なら普通の質問も、彼が口にす
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第17話

慎一の声は上機嫌で、軽やかに弾んでいた。その調子を聞きながら、司の胸にはさらに苦い思いが広がる。だが、年齢のあまり離れていない叔父の前で弱みを見せたくはなく、曖昧に言った。「大したことじゃない。ただ、海城市に行こうと思ってて。でも最短の便でも明日になる。それで、結衣の様子を見てもらえないかと思って」「そうか」慎一は結衣の名前を聞くと、軽く笑った。「知ってるよ。今日は彼女のサイン会にも行った。すごく賑やかだった」「……見たよ」司は叔父の読書趣味に口を挟むつもりはなかった。ただ声を落とし、絞り出すように言った。「彼女との間には誤解があって、それを解きたくて。でも今は電話にも出てくれない。慎一さん、頼むから俺の代わりに伝えてくれ。もう一度だけ、チャンスをくれって」頭を下げるような頼みは、屈辱以外の何ものでもなかった。慎一は一瞬沈黙し、声の軽さを消して言った。「悪いけど、それはできない。君たちはもう別れたし、彼女は近いうちに新しい恋人ができると思う」「そんなはずはない!」司は即座に否定した。「何かの間違いだ。彼女が海城市に戻ってまだ数日なのに、そんなすぐに吹っ切れるわけがない」「信じるかどうかは君の自由だ」「慎一さん、あなたは弁護士で、言葉を扱うのが上手いんだから、今回は本当に頼むよ。彼女に決断を急がないよう伝えてくれ。俺が着いたらすぐ会いに行く。そうすればきっと気持ちが戻るはず……」慎一はその必死さに口を挟めず、すべて言わせたあとで問いかけた。「言いたいことは、それだけか?」「他にもある。でも残りは会ってから話す!」ふたりにはこれまでの思い出と、モモという絆がある。会ってしまえば全てが通じ合い、電話のように冷たくはならない――司はそう信じていた。慎一は小さくため息をついた。「わかった。君の言葉は伝える。でも、答えるかどうかは彼女次第だ」「ありがとう!」司はほっとして何度も礼を言い、その足で最短の便を手配した。時間さえ来れば、海城市に飛び立つつもりだ。同じ頃、レストランの席で慎一は電話を切り、向かいの結衣に言った。「申し訳ない、結城さん。せっかく僕が招待したのに、急に電話を取ることになって」結衣は微笑んだ。「電話くらい大したことです。仕事の話ですよね?」弁護士という仕事柄も理解していた。だが慎一
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第18話

結衣は目を輝かせ、ふっと笑った。「実は、あなたと食事に行くって決めたときから、試してみようと思ってました。相手が誰かより、その人が私の過去と無関係ってことの方が大事です。新しい始まりになるかもしれないから」慎一は、結衣からすればまるで関係ないことのような返事をした。「わかった。じゃあ、甥にはできるだけ早く説得して、元カノにこれ以上関わらないように言いますね」「……その二つの話に何か関係あるんですか?」結衣は眉をひそめた。そしてふいに、雷が落ちたような考えが頭をよぎり、目を見開いた。「まさか……あなたの甥って、司?」慎一は申し訳なさそうにうなずいた。「本当はもっと早く伝えるべきだったけど、僕もさっき確信したばかりで。それまではただの推測だったから」結衣は、二人の年齢差を思って可笑しさすら感じた。「じゃあ、あなたはあの人のおじさんってこと?叔父がこんなに若いなんて思わなかったです」相手が年上のお見合い相手だと思えば少し大きく感じる年齢差も、叔父という立場なら急に若く見える。「はい。僕と司はそんなに歳が離れてないから、普段は『おじさん』じゃなく名前で呼ばれてる」慎一は結衣の疑問に一つずつ丁寧に答えた。「彼に彼女がいるって話は聞いたことがあったけど、詳しいことは知らなかったんです。仕事の拠点は海城市だから、ほとんどこっちで過ごしているし」結衣は口元をわずかにゆるめた。「仕方ないです。だって彼、私のことを家族に紹介するつもりなんてなかったんですから。でも大丈夫ですよ。彼が胸を張って紹介する彼女に、すぐ会えますよ」唯が、今回もまだ司を手のひらで転がし続けるつもりかはわからない。慎一は柔らかな眼差しで結衣を見つめた。「これまで、ずいぶんつらい思いをしてきたのですね」結衣はもう過去のこととして割り切っていた。冗談めかして言う。「もうどうでもいいんです。あの人たちが私を怒らせたら、私は毛を逆立てるだけ」笑いながらも、慎一はうまく笑えなかった。長年「身代わり」にされ続けるなんて、笑えることじゃない。結衣は表情を引き締めた。「それでも、あなたはまだモモを一緒に育てたいと思いますか?」これはちゃんと考えなければならないことだった。慎一は穏やかだがはっきりと言った。「もちろん。君は僕と試してみるって言ってくれから、誰にも
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第19話

結衣がモモを抱いて家に戻ると、両親は散歩に出ていて、家にいたのは美沙だけだった。美沙は単刀直入に聞いてきた。「どう?桐谷先生みたいな大人の魅力、気に入った?」「うん……とても落ち着いていて、優しくて、私の気持ちもちゃんと考えてくれる人よ。でも……司のおじさんなの」結衣は少し気まずそうに、慎一に見つけた最大の「欠点」を口にした。美沙の目が輝く。「そんなの欠点じゃなくて、むしろプラスでしょ!考えてみなよ。あんたが彼と付き合えば、司にとっては『おばさん』になるんだよ!」「でも……」「でもじゃない。ほかに欠点があるかどうか、それだけ教えて」結衣は黙り込んだ。美沙は興奮して肩を揺さぶった。「つまり、合ってるってことじゃん!」結衣もそれは認めたが、こう付け加えた。「でも、知り合ってからまだ短いし……もし他に欠点があったら、あとから気づくのは嫌なの。確かに彼はとても誠実そうだし、新しいスタートには悪くないと思う。ただ……離婚専門の弁護士だから、別れるのは大変そう」これを聞いた美沙は首を振った。「あんた、悲観的すぎ。司がクズだったからって、他の人まで一括りにしないの。もう少し勇気を出しなよ」結衣も勇気を出したいとは思う。けれど、その代償がまた耐えられないものだったら――そう考えると踏み切れなかった。美沙は彼女の表情を見つめ、真剣に提案した。「じゃあ、モモに選ばせれば?あの子が彼を受け入れたら、それも縁ってことで。逆なら、そのとき諦めても遅くない」翌晩、結衣はモモを連れて散歩に出かけた。近くの公園へ向かう途中、またあの見覚えのある車を見かける。慎一の車は、彼本人のように落ち着いて控えめな外観で、よく見なければ高級ブランドの最上位モデルだと分からない。結衣は立ち止まり、声をかけた。「桐谷先生、また偶然ですか?」モモのほうが結衣よりもずっと熱烈だった。慎一を見るなり、今にも飛びつきそうに身を乗り出す。美沙の「モモに選ばせれば」という言葉は、ほとんど答えを決めたようなものだった。慎一も、見つかったと分かると隠す様子はなかった。長い脚で車を降り、手にした上品な箱を差し出す。「君を追いかけるなら、それなりの態度が必要だと思って。通りがかった行きつけのスイーツ店で、これを買ってきたんだ。気に入ってくれるといいけど」
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第20話

「わかりました」結衣は少し迷ったあと、笑みを浮かべた。「でも『桐谷さん』じゃちょっと他人行儀ですね。下の名前で呼んでもいいですか?」慎一は満面の笑みを見せた。「もちろん。じゃあ僕も『結城さん』って呼ぶのはやめる」呼び方が変わるだけで、二人の距離はぐっと近づいた。モモもその空気の変化を察して、結衣の目の前で慎一に寄り添う動作を、より遠慮なくするようになった。その日から慎一は、結城家の常連となった。両親の手料理を味わい、家の中に入って電球を替えるのを手伝ったこともある。結衣が仕事で忙しいときは、代わりに散歩までしてくれた。美沙は二人が日ごとに親しくなるのを見て、からかうのをやめなかった。「どう?モモの選択、なかなかいいでしょ?」結衣は何も答えなかったが、振り返ったとき口元に笑みがこぼれていた。新しい人と新しい生活を始める感覚は、確かに悪くない。その日の午後も、慎一は仕事帰りに結衣の家を訪ね、チョコレートケーキと赤いバラの花束を持ってきた。チョコレートケーキよりも、その花束の意味は、曖昧で、どこか甘い響きを持っていた。結衣は受け取り、代わりに手作りのクッキーを手渡した。「ネットのレシピ通りに作ったの。焦げなかったから食べられるはずよ」慎一は宝物を受け取ったように喜び、その場で何枚も食べた。「君、食レポライターに転職できるよ」モモは今日のおやつにフリーズドライがないと知ると、急いで慎一の足元に回り込み、前足で彼の脚をちょいちょいと突いた。「モモ、やめなさい」結衣がたしなめる。慎一はクッキーがバター味で犬も食べられるとわかると、半分に割ってモモに与えた。その後、まるで手品のようにポケットから犬用ソーセージを取り出した。「ほら、モモのことを忘れるわけないだろ」その目も声も、とことん優しい。こんな人となら、激しい恋ではなくても、一生穏やかに暮らしていけそう。結衣はそう思った。「人は、自分によくしてくれる人じゃなくて、元からいい人を選ぶべき」という言葉が頭をよぎる。慎一はまさにそんな人だった。気づけば結衣の心は、無意識のうちに彼のほうへ傾いていた。モモが安心しきってお腹を見せているのを見て、司の叔父であることすら忘れそうになる。その夜、両親と美沙はそれぞれ用事があり、結衣は出版社からのゲラ確認を引き
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