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七年目の裏切り――私は身代わりだった

七年目の裏切り――私は身代わりだった

By:  狼天薄雲Completed
Language: Japanese
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「お姉ちゃん、この前紹介してくれたあの人……やっぱり会ってみたい」 電話の向こうで、結城美沙(ゆうき みさ)は少し驚いたように声を上げた。 「どうしたの、急に?この前まで、『一生、桐谷司(きりたに つかさ)以外と結婚しない』って言ってたじゃない?」 数日前の大げさな宣言を思い出し、結城結衣(ゆうき ゆい)は胸の奥がひどく滑稽で、情けなくなる。 「夢から覚めたと思ってくれればいいよ」 「わかった。その人、ちょうど来月の初めに帰国するみたい。日にちが決まったら連絡するね」 電話を切ったあと、結衣はスマホにリマインダーを入れた。 来月初めまで、あと半月。夢から覚めたのなら、そろそろ現実に戻るときだ。

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Chapter 1

第1話

「お姉ちゃん、この前紹介してくれたあの人……やっぱり会ってみたい」

電話の向こうで、結城美沙(ゆうき みさ)は少し驚いたように声を上げた。「どうしたの、急に?この前まで、『一生、桐谷司(きりたに つかさ)以外と結婚しない』って言ってたじゃない」

数日前の大げさな宣言を思い出し、結城結衣(ゆうき ゆい)は胸の奥がひどく滑稽で、情けなくなる。

「夢から覚めたと思ってくれればいいよ」

「わかった。その人、ちょうど来月の初めに帰国するみたい。日にちが決まったら連絡するね」

電話を切ったあと、結衣はスマホにリマインダーを入れた。

来月初めまで、あと半月。

夢から覚めたのなら、そろそろ現実に戻るときだ。

そう思った矢先、寝室のドアが開いた。

司が柔らかな笑みを浮かべ、小さなケーキの箱を手渡してきた。「三時間並んで買ってきたんだ。食べてみて」

結衣は受け取って箱を開けた。

やっぱり、ショートケーキだった。

結衣はそれを机の端に置き、淡々と告げる。「今日はケーキの気分じゃない」

司は隣に腰を下ろし、彼女をそっと抱き寄せた。「また誰かが結衣を怒らせた?俺が懲らしめてあげる」

結衣は小さく苦笑した。

三年も付き合ってきて、何度も「チョコレートケーキが好き」と伝えてきた。

けれど、彼が買ってくるのはいつもショートケーキだった。

最初は、ただ売り切れていたのだと思っていた。

一週間前の夜までは。

その日、司が風呂に入っている間に、テーブルの上のスマホが光った。

画面に表示されたのは、【ゆいふふふ】というアカウントの投稿通知。

【いろんなスイーツを試したけど、やっぱり桜並木通りのショートケーキが一番!】

そのアカウントは、彼が通知までオンにしている相手だった。

名前を見た瞬間、胸の奥に嫌な予感が走る。

自分の名前と、あまりにも響きが似ていたから。

結衣はすぐにそのアカウントを検索し、この三年間の投稿を貪るように遡った。

彼女は明るくて社交的で、世界中を旅していた。写真に映る姿は、美しく、そして華やか。

今は海外にいるようだったが、もうすぐ帰国するらしい。

プロフィールには「浅川唯(あさかわ ゆい)」とある。

結衣と唯、漢字は違えど、読みは同じ。

この時点で、結衣はもう薄々気づいていた。

さらに数日後、司のSNSアカウント名が「ショートケーキ」なのを偶然目にする。

大の男がそんな名前を付けるのは奇妙だ。しかも、司の性格には合わない。

だが、唯の投稿を思い出した瞬間、すべてが繋がった。

彼女の「一番好きなスイーツ」がショートケーキ。

司は、唯の「お気に入り」になりたくて、その名を名乗っていたのだ。

三年前、わずか一度会っただけで熱心にアプローチしてきた理由。

三年間、言葉を交わすたびに「結衣」と口にしながら、いつもショートケーキばかり買ってきた理由。

それらすべてが、唯の存在に行き着く。

彼が呼んでいたのは「結衣」じゃなく、「唯」だった。

司は何も気づかず、甘やかすように声をかけてくる。「もしかして、生理で機嫌が悪い?甘いもの食べたら気分も良くなるよ。この店のショートケーキ、本当においしいから、一口だけでも」

胸の奥に重い石を押し込まれたような息苦しさのまま、結衣は言った。「だから、ショートケーキは好きじゃないって言ってるでしょ!」

司は一瞬だけ固まり、予想外の反応に目を見張る。

その時、電話が鳴った。

彼は出てすぐ、驚きから喜びへと表情を変える。「うん、すぐ行く」

電話を切る彼の手が、小さく震えていた。

靴を履いて出ていくとき、慌てて鉢植えにぶつけるほどだった。

テールランプが遠ざかるのを見送りながら、結衣はスマホを開き、唯のSNSをチェックする。

そこには、空港前で撮った写真とコメント。

【やっと帰ってきた!ショートケーキ、会いたかったよ!】

今日が、唯の帰国日だったのか。

結衣は画面を消し、そっと息を吐いた。

自分という「代用品」は、そろそろ退場の時だ。
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第1話
「お姉ちゃん、この前紹介してくれたあの人……やっぱり会ってみたい」電話の向こうで、結城美沙(ゆうき みさ)は少し驚いたように声を上げた。「どうしたの、急に?この前まで、『一生、桐谷司(きりたに つかさ)以外と結婚しない』って言ってたじゃない」数日前の大げさな宣言を思い出し、結城結衣(ゆうき ゆい)は胸の奥がひどく滑稽で、情けなくなる。「夢から覚めたと思ってくれればいいよ」「わかった。その人、ちょうど来月の初めに帰国するみたい。日にちが決まったら連絡するね」電話を切ったあと、結衣はスマホにリマインダーを入れた。来月初めまで、あと半月。夢から覚めたのなら、そろそろ現実に戻るときだ。そう思った矢先、寝室のドアが開いた。司が柔らかな笑みを浮かべ、小さなケーキの箱を手渡してきた。「三時間並んで買ってきたんだ。食べてみて」結衣は受け取って箱を開けた。やっぱり、ショートケーキだった。結衣はそれを机の端に置き、淡々と告げる。「今日はケーキの気分じゃない」司は隣に腰を下ろし、彼女をそっと抱き寄せた。「また誰かが結衣を怒らせた?俺が懲らしめてあげる」結衣は小さく苦笑した。三年も付き合ってきて、何度も「チョコレートケーキが好き」と伝えてきた。けれど、彼が買ってくるのはいつもショートケーキだった。最初は、ただ売り切れていたのだと思っていた。一週間前の夜までは。その日、司が風呂に入っている間に、テーブルの上のスマホが光った。画面に表示されたのは、【ゆいふふふ】というアカウントの投稿通知。【いろんなスイーツを試したけど、やっぱり桜並木通りのショートケーキが一番!】そのアカウントは、彼が通知までオンにしている相手だった。名前を見た瞬間、胸の奥に嫌な予感が走る。自分の名前と、あまりにも響きが似ていたから。結衣はすぐにそのアカウントを検索し、この三年間の投稿を貪るように遡った。彼女は明るくて社交的で、世界中を旅していた。写真に映る姿は、美しく、そして華やか。今は海外にいるようだったが、もうすぐ帰国するらしい。プロフィールには「浅川唯(あさかわ ゆい)」とある。結衣と唯、漢字は違えど、読みは同じ。この時点で、結衣はもう薄々気づいていた。さらに数日後、司のSNSアカウント名が「ショ
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第2話
結衣は一晩かけて荷物を整理した。服、本、この家で少しずつ増やしてきた小物や壁掛けもすべて。かつては自分がこの家の女主人になると信じて、心を込めて飾りつけた場所。けれど、その持ち主と一緒に、この家から消えるべき時が来た。その夜、雨は一晩中降り続いた。司が帰ってきたのは翌朝だった。白いシャツ一枚のまま、全身びしょ濡れで、結衣を見ると、一瞬だけ視線が泳ぎ、気まずそうに笑った。「もっと寝てればよかったのに。なんでこんな早く起きてるの?」「朝の空気が気持ちいいから」司はうなずき、特に気にも留めずに言った。「じゃあ、先にシャワー浴びてくる」「司」「ん?どうした?結衣」「昨日の夜……」「ああ、昨日は残業だよ。クライアントが急に作業を言いつけてきてさ、徹夜で片付けて、飯食う暇もなかった。ほんと疲れたよ……」人は嘘をつくとき、やたらと饒舌になる。細かい話を盛り込み、少しでも信じてもらおうとする。司もそういう人間だった。普段は口数が少なく、なだめるでさえ長々と言葉を連ねることはないのに。「ただ聞きたかっただけ。昨日出かけたときはコート着てたよね。そのコートは?会社に忘れた?」司はほっとしたように息をつき、笑って答える。「ああ、会社だよ。大丈夫、寒くない」「そうか。じゃあ早くシャワー浴びてきて」司は近づいてきて、結衣の髪をくしゃっと撫でた。「俺の結衣は、そんなに俺のこと心配してくれるのか?」結衣は軽く頭を傾け、手を避けるようにすり抜けた。「早く行って。濡れたままだと体に悪いよ」司の手が宙に止まり、少し驚いた顔をする。けれど、自分のびしょ濡れのシャツを見下ろして笑った。「そうだな。結衣まで濡らすわけにはいかないしな」やがて浴室からシャワーの音が聞こえてくる。結衣はこれまで司のスマホを覗いたことはない。司も、彼女が見るとは思っていないのか、いつも無造作に置いている。――ブッ。スマホが震えた。【唯:ショートケーキ、もう家に着いた?】【唯:コートありがとう。本当にあったかかった】驚きはしなかった。昨夜、彼が慌てて出て行ったとき、結衣の中ではすでに予想がついていた。ただ、予想と現実は別物だ。結衣は自分のスマホで、唯のアカウントを検索した。30分前に、新しい投稿
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第3話
週末、司たちの同窓会があった。結衣は本当は行きたくなかったが、司が何年も思い続けてきた唯という女性が、どんな人なのか気になった。着いた頃には、会場のカラオケはすでに賑やかだった。司の友人、田中勇介(たなか ゆうすけ)が首に腕を回してきた。「なんだよ、やっと来たな。唯が帰ってきたんだぞ、お前もやっと長年の想いが実ったな」司は少し慌てて、勇介を押しのける。「変なこと言うなよ」「変じゃねえって。お前が唯のこと想ってるの、同級生なら誰だって知ってるだろ」そう言いながら、勇介は司の後ろにいる結衣に気づく。ニヤリと笑って尋ねた。「で、この人は?」司は少し気まずそうに答える。「……俺の彼女」勇介は目を丸くした。「彼女?お前、彼女なんて作ったのか?知らなかったぞ。ずっと唯を待ってたんじゃないのか?」司の表情が曇る。その時、人混みの中から明るく華やかな声が近づいてきた。「誰が彼女作ったって?」勇介が手を振る。「唯、こっち来いよ。司が彼女できたって言うんだけど、信じられなくてさ」司が何年も心に抱き続けてきた女性が姿を現した。結衣はこれまでSNSでしか見たことがなかったが、ついに本人と対面する。確かに綺麗だった。しかも一瞬で目を奪われるような、強い存在感を放つ美しさ。これでは司が何年も忘れられなかったのも無理はない。唯は結衣を一目見て、疑わしげな、そしてどこか敵意を含んだ目を向ける。「司、本当にこの人が彼女なの?」司は喉を動かし、言葉を探すように口を開いた。「彼女は……」結衣は口元を引きつらせ、淡々と口を挟む。「私はちょっと忘れ物を取りに来ただけ。この部屋に置いてきたものがあって」司は驚いたように結衣を見る。彼女は視線を返さず、足元だけを見つめていた。勇介が尋ねる。「何を忘れたんだ?」「……イヤリング」「来る前、掃除のおばさんが片付けてたけど、イヤリングは見なかったな。よかったら聞いてみるか?」「ありがとう」結衣はすぐに背を向け、足早にその場を離れた。背後で、勇介が笑いながら司をからかう声が聞こえる。「唯に焼きもち焼かせたくて、わざとそう言ったんだろ?可哀想にな、あの子はただ物を取りに来ただけなのに利用されて」さらに唯に向かって言う。「お前も、司をこんなに追い詰めるなんてひ
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第4話
司が帰ってきたとき、結衣はニュースを見ていた。画面には夜のニュース番組が流れている。司は気まずそうに笑って聞いてきた。「どうしたんだ?ニュースなんて。結衣、前は一番見ないって言ってただろ」「嘘ばっかり聞かされるから、たまには本当にあったことを見たくなったの」司は一瞬、言葉を失ったように固まる。やがてため息をつき、口を開いた。「結衣、誤解だよ。俺と唯はただの親友だ。勇介は口が悪くて適当なことばっかり言うんだ。気にするな」「そう」「そうだ、本当にそれだけ」「じゃあ、ひとつ聞いてもいい?」「なんだ?」結衣は司の目をまっすぐ見た。「男女の間に、本当の意味での友情ってあると思う?」司は一瞬だけ沈黙し、その表情が少し陰った。「……あると思う」きっと今、唯のことを思い出しているのだろう。彼が唯を想ってきたことは、周囲の誰もが知っている。何年も待ち続けても、唯が彼に与えた立場は「親友」のまま。唯は、彼の好意を当然のように受け取りながら、一度も正面から応えようとはしなかった。もし唯にとってそれが友情なら、司の気持ちはいったい何なのだろう。――ブブッ。司のスマホが鳴った。画面をちらりと見た途端、表情が変わり、すぐに車のキーを手に取る。「結衣、俺……」「また取引先に呼ばれたんでしょ。早く行って、待たせないで」司は少し迷ったように見えたが、そのとき電話がかかってきた。スピーカーから、鳥のように明るい唯の声が響く。「司、メッセージ見た?早く来て!」「見たよ。今行く」玄関に向かいながら言った。「結衣、変なこと考えるなよ。明日帰ったら、結衣の大好きなショートケーキ買ってくるから」結衣が答える前に、司の背中はもう見えなくなっていた。静まり返った部屋で、結衣の目がわずかに赤くなって、小さくつぶやいた。「でも、私……ショートケーキは好きじゃない」好きなのは、ずっとチョコレートケーキだった。そして結衣は悲しいことに気づく。司が呼ぶ「結衣」という名でさえ、本当に自分を呼んでいるのか、もうわからない。その名の向こうに、別の女性を呼んでいるのかもしれない。わかっていても、自分から傷つく道を選ぶように、結衣は唯のSNSを開いた。そこには夜用の生理用品の写真。【やっぱり、私の習慣
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第5話
結衣がカフェに着くと、唯はすでにそこにいた。完璧なメイクに高そうなバッグ、背筋をぴんと伸ばして座っている。結衣を見ると、骨の髄まで染みついた優越感を隠そうともせず、軽蔑を浮かべた目で言った。「ここ、ペット禁止なんだけど」結衣はモモを抱えて来ていた。最近はやることが多く、モモは分離不安が出ていて、一人で留守番させるのが心配だった。「じゃあ、外に出るよ」「たかが犬でしょ。しかも雑種。まるで宝物みたいに抱えて」「モモは私の宝物だよ」唯は口の端を吊り上げた。「じゃあ、あんたのセンスって本当に最悪ね」「司もモモのこと好きだよ」「へえ?じゃあ私と別れてから、司のセンスは地に落ちたわけだ。ペットの趣味も、彼女の趣味もね」唯は結衣を上から下まで値踏みするように眺めた。結衣は冷たい声で言った。「浅川さん、私を呼び出したのは、こんなくだらないことを言うため?」唯は笑った。「あんた、私にそんな口きいていいと思ってるの?自分でもわかってるでしょ。あんたが司と一緒にいられるのは、私と下の名前の響きが同じだからよ」「それで?」「知ってる?司って、あんたの前にも何人か彼女がいたけど、みんな少なからず私に似てたのよ。でね、私が『嫌い』って言った瞬間、司は迷いなく別れてきたの」結衣は抑えきれずに言った。「司の気持ちがわかってるなら、どうして弄ぶようなことをするの?」「お互い様よ。私が遊びたくて、彼も遊ばせてくれる。それだけ。あんたに関係ないでしょ?」「好きにすればいい。もう行く」結衣はモモを抱き上げて立ち上がり、背を向ける。「ねえ」唯が呼び止めた。「もしあんたが私に頭を下げるなら、司に別れないよう言ってあげてもいいけど?」結衣は眉をひそめ、振り返った。「あんた、何がしたいの?」「別に。ただ面白いから。男を手のひらで転がすのって、最高に気分いいのよ」「……」「司があんたの生理日を知ってると思う?どのメーカーのナプキン使ってるか知ってる?私、三年も離れてるのに、私の好みは全部覚えてるの。あの人は私の言うことしか聞かない。あんたが私にお願いすれば、私の代わりとしてそばにいられるかもよ?」「結構よ。私は自尊心も人間としてのプライドもある。あんたたちの遊びに加わるつもりはない」結衣の怒りを感じ取ったのか
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第6話
唯が倒れたのは、ちょうど道路脇だった。そこへ自転車が通りかかり、唯は少しぶつかった拍子に地面へ尻もちをついた。目にいっぱい涙をためて、甘えるように声を上げる。「司、なんでこんなに遅いの……」司はほとんど飛びつくように駆け寄り、膝をついた。「ごめん、遅くなった。どこかケガしてない?」「足が痛い……すごく痛いの」司は迷わず、唯を抱き上げ、腕の中に抱えた。「病院で診てもらおう」「でも、結城さんがまだここにいるよ……」唯はわざとらしく、モモを抱いて立っている結衣をちらりと見た。目の前では、女が泣き、男が心配そうに抱きしめる。まるで恋人同士の茶番を見せられているようだった。通りかかった自転車の男性までもが唯に向かって言う。「彼氏さん、本当に君のこと大事にしてるんだね」呆れを通り越すと、笑いがこみ上げてくる。通行人にとってはこの二人が本物のカップルで、正真正銘の恋人である自分の存在など見えていないらしい。司の目は血走り、まるで怒りに我を忘れた猛獣のように結衣を睨みつけた。「文句があるなら俺に言え。なんで唯を傷つけた?ここは車道のすぐそばだぞ。自転車で済んだからよかったけど、もし車だったら誰が責任取るんだ、お前か!?」結衣はどう説明すればいいのかわからなかった。そもそも、自分が説明するようなことでもない。司の腕の中で、唯がいかにも優しそうな顔で司を引き止める。「もういいよ、大げさにしないで。結城さんもわざとじゃなかったはず」「俺はこの目で見たんだ。お前が唯を道路に押したのをな!唯、お前は優しすぎるんだ!」「もう……私って、昔からこうやって甘いでしょ?」司の目に宿る心配は、もはや隠しきれないほどだった。「海外で一人で暮らして、どれだけ大変だったか……」くだらない茶番を、結衣はこれ以上見る気にも、言い争う気にもなれなかった。「心配なら、病院で徹底的に診てもらえばいい。診察代も慰謝料も、私が払う。じゃあね」「待て」司が低い声で言った。「謝れ」結衣は信じられない思いで振り返った。「今、何て言った?」「唯に謝れ。今すぐだ」結衣は思わず笑い出しそうになる。「ここ、カフェの目の前よ。まずは店の監視カメラでも見て、状況を確認してから言いなさいよ。誰が謝るべきか、はっきりするでしょ」「唯を押
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第7話
翌朝早く、結衣はモモに最後のワクチンを打ちに行った。ワクチン手帳を受け取ると、動物病院の先生が言った。「これでモモのワクチンは全部終わりです。もうほかのワンちゃんと普通に遊べますよ」結衣は聞いた。「このくらいの年齢で、長時間のフライトって大丈夫ですか?」「貨物室での預かりですか?」「はい」「モモはまだ幼いし、もともと野良だったから少し分離不安があります。できるだけ長時間、飼い主さんと離れない方がいいですね」結衣は困ったように眉を寄せた。「近いうちに海外に行く予定なんです。絶対に一緒に連れて行きたいんです」先生は少し考えて答えた。「じゃあ、一度に長く飛ばず、乗り継ぎを分けて飛ぶ方法を試してみては?乗り継ぎの間にモモを落ち着かせてあげられます」結衣はうなずき、動物病院を出た。そして先生の助言どおり、チケットを手配した。国内からスイスまで、本来は八時間のフライトを四区間に分け、それぞれ二時間ずつに。最終的に三日かかってようやくスイスに着くことになるが、モモのためなら構わなかった。姉の美沙に電話をかけると、話を聞いた美沙も賛成してくれた。「安全第一よ。急がなくていいから、モモも自分も、ちゃんと大事にしてね」「うん、わかってる、お姉ちゃん……」突然、強い吐き気が喉までこみ上げた。結衣はその場にしゃがみ込み、息もできないほど吐いた。まだ電話は切れていなかった。美沙が慌てた声を上げる。「結衣、大丈夫!?」しばらくして落ち着いた結衣は、息を整えて答えた。「平気。ちょっと食べたものが悪かったみたいで、吐き気がするだけ」美沙はしばし沈黙し、それから言った。「結衣……妊娠してるかもしれないよ」その言葉は、鈍器で頭を殴られたように響き、結衣はしばらく動けなかった。モモを一時的に動物病院に預け、結衣は病院に向かった。そして検査結果に記された文字を見て、呆然とする。【胎児7週、心拍確認】産婦人科の医師が尋ねる。「おろしますか?それとも産みますか?」結衣は喉が詰まり、答えられなかった。混み合う産婦人科で、医師は続ける。「まずはお相手と話し合って決めてください。決まったらまた来て。次の方どうぞ」結衣はうなずき、診察室を出た。外のベンチに腰掛け、スマホを握りしめる。彼に電話すべきか迷っ
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第8話
中絶というものは、人によっては生理が一度来た程度で終わる。だが、人によっては、死ぬほどの痛みに襲われる。結衣は後者だった。妊娠週数は浅く、薬での中絶が可能だった。薬を飲んだあと、結衣は洗面所で六時間も痛みに耐え続けた。便器の中は、鮮烈な赤に染まっていった。彼女は小さく丸めたティッシュを手に、婦人科の診察室に戻った。医師は慣れた様子で、その中の小さな塊を綿棒で押しのけ、うなずく。「胎嚢は完全に出ています。もう帰って構いません。ご家族に迎えに来てもらってください」家族?もう彼女に家族はいない。唯一の家族は、今もペットショップで待っているモモだけだ。結衣は立ち上がろうとして、あまりの痛みに膝が折れそうになった。そばの看護師がすぐに支えてくれた。「大丈夫ですか?」結衣は小さく礼を言った。「平気です。ありがとうございます」「ご家族は?お子さんのお父さんは来ていないんですか?電話番号を教えてくれれば呼びますよ」「結構です……」言い終える前に、結衣のスマホが鳴った。通話をつなぐと、司の怒声が飛び込んでくる。「なんで電話に出ないんだ?逃げても責任は逃れられないぞ。唯が痛くて泣いてるんだ、謝って何が悪い」ちょっと擦りむいただけで泣く?じゃあ、中絶したばかりで立つのもやっとの自分は、何になる?「司、もう一度言うけど、行かないし、謝らない」「そういうなら警察を呼ぶしかない。三年一緒にいたんだ、こんなことはしたくない。だから素直に来て、謝ってくれ。唯は心の優しい子だから、きっと許してくれる」「警察を呼べば?調べた上で、それでも私が謝るべきだと言うなら、そうするから」そう言って、結衣は電話を切った。看護師が温かいお茶を差し出し、しばらく休ませてくれる。病院を出た結衣は、その足でモモを迎えに動物病院へ向かった。モモは彼女を見るなり、嬉しさを抑えきれないように鳴き続けた。獣医が笑って言う。「モモは、本当にあなたのことが大好きなんですね」結衣の目が少し潤む。「はい。モモだけは、変わらず私を想ってくれるから」「そういえば今日は彼氏さんと一緒じゃないんですね。前はワクチンのとき、いつもお二人で来てたのに」「もう彼氏はいません」「そうだったんですか……すみません、知らなくて……」「
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第9話
結衣はかつて、この街こそが自分の帰る場所だと思っていた。一度離れたら生きていけないほどだと信じていた。けれど、本当に飛行機に乗った瞬間、胸の奥は意外なほど軽かった。放すことは、思っていたほど難しくなかった。預けたのはモモだけで、ほかには何も持ってこなかった。最後に窓の外へ視線を投げた瞬間、スマホの着信音が現実に引き戻す。司だった。相変わらず、唯に謝りに来いという催促。ちょうどCAが近づいてきて声をかける。「お客様、飛行機がまもなく離陸しますので、電源を切るか機内モードにしてください」「はい」画面が黒くなったその瞬間、結衣はこれまでにないほどの解放感を覚えた。――司は何度も電話をかけたが、つながらない。もう一度発信する。「おかけになった電話は、電源が入っていないか……」自動音声を途中で遮るように通話を切った。向かいに座っていた唯が、つま先で彼の足を軽く蹴る。「さっきから話してるのに、聞いてなかったでしょ?」「悪い」司は眉間を揉みながら答える。「なんて言った?」唯はすぐに笑顔を見せる。「ここに私がいるのに、ほかの誰を気にしてるの?」司は少し迷ったが、結局口にした。「結衣はいつもスマホの電源を入れっぱなしにしてた。俺が連絡できなくなるのが嫌だって言ってたのに、今日はずっとつながらない」嫌な予感がよぎる。何かあったのか――?だが、唯の言葉がその思考を遮った。「心配するのも大事だけど、男の人って女心わかってないのよ。今ごろ彼女は、司が必死で謝りに来るのを待ってるのかも。そうすれば、上から目線で好き放題命令できるでしょ」その一言で、司の中の不安はあっけなく薄れた。そうだ、彼女に何が起きるというのか。きっと、前のことが気に入らなくて、駆け引きしているだけだ。自分は悪くない。理由もなく頭を下げる必要はない。唯が続ける。「そうだ、さっき見たんだけど、近くに人気のタピオカ屋さんがオープンしてて、ネット注文できないの。並ばなきゃ買えないんだけど、私出かけたくないから、買ってきてくれる?」司はこれまで唯の頼みを断ったことがなかった。今回も同じだ。結衣の行き先などもう気にも留めず、タピオカを買いに出かけた。――その頃、結衣はすでに別の街に降り立っていた。海城市の空は、雲ひとつな
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第10話
結衣がモモを抱えてマンションの門をくぐろうとしたとき、近くからクラクションが鳴った。その音に驚いたモモは、結衣の腕を振りほどき、マンションとは反対方向へ全力で走り出した。「モモ!戻って!」必死に呼びかけても、怯えきったモモは一向に止まらない。結衣は空のケージを抱えたまま走ったが、車の流れと赤信号に阻まれてしまう。横断歩道を渡ったときには、もうモモの姿はどこにもなかった。途方に暮れた結衣は、道行く人に声をかけて回る。「すみません、小さな雑種犬を見ませんでしたか?こんな大きさで、首輪をしています」「すみません、うちの犬が驚いてこちらに走ってきたんですが、どちらへ行ったかご存じないですか?」「首輪をした、小さめの黄色い雑種犬です」「ありがとうございます……」声をかけ続けるうちに、喉はからからになり、胸は不安でいっぱいになる。気づけば見知らぬ場所まで来てしまっていたが、それでも探すのをやめられなかった。時間はどんどん過ぎ、空はすでに暗くなりかけている。街灯が灯った瞬間、結衣の心は折れた。人気のない曲がり角に身を寄せ、壁にもたれてゆっくりとしゃがみ込む。そして顔を腕に埋めて泣き出した。声は小さかったが、涙はあっという間に袖を濡らす。あまりに泣きじゃくっていたため、足音が近づいてきたことにも気づかなかった。ふと、目の前にティッシュの箱が差し出される。「こんばんは。何か悲しいことがあったんですか?よければ力になれるかもしれません」低く落ち着いた、安心感を与える男性の声だった。結衣が顔を上げると、そこには穏やかで上品な顔立ちの男性が立っていた。三十代半ばほどの男性で、淡いグレーのオーダースーツをさらりと着こなし、胸ポケットからはハンカチが半分のぞいていた。その装いは一目で「エリート」を連想させるが、言葉には不思議な親しみやすさがあった。「安心してください。怪しい者じゃありません。ただ、もう遅いですし、事情を話したくなければタクシーで送りますよ」「ありがとうございます……」結衣は自然と泣き止み、モモを見失った経緯を話した。男性は優しくうなずきながら言う。「このあたりの道は複雑じゃありません。モモが落ち着いたら戻ってくるかもしれませんし、一緒に探しましょう。僕はこの辺に詳しいので」結衣はティッシュを
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