All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 311 - Chapter 320

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第311話

友也はもともと遠慮という言葉を知らないタイプだが、佳苗にここまで苛立たされたのは久しぶりだった。怒りに火がついた彼は、もはや相手の顔色をうかがう気など一切ない。「佳苗さん、お前さっき、秀一が社長の座についたのは、全部自分たちのおかげだって偉そうに言ってたよな。はっきり言わせてもらうけど、秀一が藤原家みたいな、ちょっと油断したら命まで落としちまうような環境で勝ち残れたのは――全部、彼自身の実力だ!」たしかに烏山家は秀一に恩がある。でも、美穂がいる藤原家で、秀一がどんな地獄みたいな日々を送ってきたのか、佳苗たちは何一つ知らなかった。なのに、秀一の人生がやっと上を向き始めた途端、佳苗はすぐ連絡をよこし――金が欲しい、家が欲しい、仕事をよこせとせがんだ。秀一は昔の恩を思って全部受け入れ、ただの一度も断らなかった。なのに烏山家は、それを「恩返し」だと思うどころか、当然のように受け取っていた。友也は冷ややかに微笑む。「佳苗さん、自分と比べて、玲さんの恩なんて大したことないみたいな言い方をしてたよな?けど、人に恩を押しつけて報酬をせびる時点で、お前は一生玲さんには勝てないよ!玲さんは秀一の母親の形見を見つけたとき、秀一が『恩を返したい』って言っても十年以上連絡すら寄こさなかった。やっと連絡が来たと思えば、『一度手を貸してくれたらそれで十分』って言っただけだ。……まあ、秀一が彼女と関わりを持ちたかったから、自分から何度も彼女を助けたけど、そもそも玲さんからは何かを頼んできたことなんて一度もなかった。だから、佳苗さん。恩を返してもらうために結婚を迫ったなんて、玲さんはそんなことをする図々しい女性じゃない。むしろ、秀一が少しずつつ彼女との距離を縮め、やっと結婚までこぎつけたのだ」そのとき、友也の脳裏に、かつてのあの衝撃の瞬間がよぎる。秀一が玲への、心の底に潜む想いをぶちまけた告白――友也は今でも思い出すだけで心がむず痒くなる。何せその告白を聞いたのは彼が初めてだった。その時のショックを、一生誰かに共有できないと思っていたが……視線をあげると、佳苗、健吾と由紀子の三人ともベッドの上で固まったまま、顔がまるで石のように青ざめていた。その様子を見て、友也は「今だ」と言わんばかりに、さらに爆弾を投下する。「ついでだ。本音を言うと――秀一は
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第312話

常識を超える親切心は、無知の表れか、したたかな打算の結果だ。当時の烏山家は生活が苦しく、家族三人で山の奥に住んでいた。そんな状況で、誰とも知らない子どもを拾って育て、しかも七年間借金までして治療を続けた――普通なら、あり得ない。友也の最後のひと言を耳にして、健吾と由紀子はビクリと肩を震わせた。もともと口を挟む勇気もない様子だったのに、今はさらに縮こまり、佳苗の顔もみるみる青ざめていく。だが友也本人は、彼らの反応など気にも留めていなかった。さっきの言葉も、つい口をついて出ただけのようだ。言いたいことを一気に吐き出すと、そのまま洋太の腕を引っ張り、大股で病室を出ていく――秀一が玲のもとへ向かったのなら、自分も雨音に本音を伝える「作戦」を立て直さなければ。そんな気持ちが、足取りをさらに軽くしていた。友也たちを無理に引き留めたりはせず、佳苗は力が抜けたようにベッドに座り込んだ。彼らの姿が見えなくなったあと、健吾と由紀子は慌ててドアを閉め、汗を拭いながら肩を寄せ合う。「あ、危なかった……佳苗、もう二度と水沢さんと口論なんてするんじゃないぞ!もし秀一くんがいたら、俺たちは本当に大変なことになるからな!」何しろ、秀一は用心深い男だ。周囲のちょっとしたつぶやきでも、違和感があればすぐに察してしまう。佳苗もさすがに彼の「恐ろしさ」を理解している。ただ、唇を噛んで眉間に深いしわを刻みながら、ぽつりとつぶやいた。「秀一さん……さっき先に帰ったでしょ?大丈夫だよ、私たちが疑われることなんてない」「そうだけど、やっぱり安心できないというか……」由紀子は娘の手を握り、やつれた彼女の顔を見て涙ぐむ。「……いっそ、私たちもう実家に帰りましょう?首都から離れてるけど、ここ十数年でずいぶん綺麗になったのよ。観光地も増えて、前みたいに不便じゃなくなったの。秀一くんが買ってくれた家を売って、実家で民宿でもやれば、穏やかに暮らせるわ。それに、あんたが植物状態だった間ずっと思ってたの……首都の暮らしは、私たちには危険すぎるって。秀一くんのそばなんてなおさらだし、こんな世界に、私たちがついていけるはずがないわ。あの玲って子を心配してくれる親はいないし、随分大胆な性格みたいだから、秀一くんのそばにいたいっていうのなら、放っておきましょう?佳苗ちゃん……あんたには私た
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第313話

「……し、秀一さん?」玲は、秀一が突然上着を脱ぎ捨てたのを見て一瞬ぽかんとした。さっきまで口に出そうとしていた言葉も、そのまま喉の奥で止まってしまう。次の瞬間には、秀一がためらいもなく大股で近づき、そのまま熱を帯びた腕にきゅっと抱き込まれた。包み込むように広い胸板と、体温のこもったぬくもり。まるで世界で一番安心できる大きな毛布に包まれたようだった。彼の大きな手は玲の細い腰に回り、ゆっくり力を込めていく。小さくて柔らかな彼女の身体を、自分の胸の奥まで溶かし込もうとするかのように。「玲。俺の名前、もう一度呼んでくれ」低くかすれた声が耳もとをくすぐり、言葉と同時に触れた薄い唇が玲の耳たぶをそっと噛むように触れた。一瞬で身体の芯まで熱が広がり、玲は自分が燃え上がりそうなのを感じる。それでも――かろうじて残った理性をつかみ、真っ赤になった顔で慌てて声を上げた。「秀一さん……急に上着を脱いだのって、もしかして……消毒液の匂いを私に嗅がせないように、ですか?」前に一度、彼の胸に寄りかかったとき、かすかに消毒液の匂いがしていた。だから今、抱きしめる前にわざわざ上着を脱いだ理由は、きっとそこ。でも本当は、秀一がそこまで気を遣う必要なんてないのに。「秀一さん、例のお友達のところに行ってたなら、私は怒りませんよ」玲は優しく笑いかけた。「今日帰りが少し遅かった時点で、もしかして彼の様子を見に行ったのかなって思っていましたから。もう目覚めて何日か経つし、少しは安定してるんですよね?」「……わからない」秀一はしばらく黙り込んだあと、短く答えた。「玲……あいつの話は、あまりしたくない」「え?」どういうこと?まさか彼と何かあった……?玲が心配そうに見上げた、その時だった。秀一が突然、玲をふわりと抱き上げ、そのまま迷いなく階段のほうへ歩き出した。何度も経験した流れなので、彼が何をしようとしているのか、玲はすぐに悟る。さっきまで秀一の友達のことで気を揉んでいたのに、一瞬で頭から吹き飛び――代わりに慌てふためく。手には置き損ねた蜂蜜水。「秀一さんっ、これ……蜂蜜水、まだ……飲んでなくて……!」「あとで一緒に飲めばいい」強引で、逆らう余地のない声。そう言いながら、秀一はもう寝室に入り、足でドアを閉め、蜂蜜水の入ったグラ
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第314話

もはや体だけではなく、魂まで持っていかれそうになった――そう思った玲は、汗に濡れた秀一の胸元に両手をついて、どうにか距離を取ろうとした。息も絶え絶えに震えながら、やっとの思いで声を絞り出す。「秀一さん……わ、私、何か……気に障ったことを、しました……?」それは自意識過剰などではない。最初は、秀一が友達と何かあって気持ちが揺れているのかもしれないと思った。けれど今の秀一の様子は、どう見ても自分のせいで動揺している。案の定、秀一の暗い瞳がかすかに揺れ、玲の手をきゅっと握り、指を逃がさないように絡みつく。「……不安なんだ。もし、いつか君が怒って……いなくなったらって」「え、どうしてそんなことを?」玲は少し困惑した。秀一が不安になる理由が全然わからないから。「今まで怒らせたことなんてないし、私はそんなに短気じゃないですよ?怒った勢いで出ていくタイプに見えるんですか?」「……わからない」普段はどんな状況でも冷静で、判断を誤らない男が――今は迷子みたいな目で、ただ玲を見つめている。「玲は優しい。ずっと優しい。だから……一度怒ったら、もう戻ってきてくれない気がして。俺……弘樹と同じ道を辿るんじゃないかって怖いんだ」以前、友也が「第二の弘樹」になりかねないとからかったことがあるが、今、自分もそうなるのではないかと心底から恐れている。玲はそんな秀一を見て、静かに微笑みを収める。彼が本気で怯えているのだとわかったから。彼女は少し考え、それから真剣に言った。「秀一さん。もしあなたが弘樹と同じになるかもって思ってるなら……私は最後に一度だけチャンスをあげます。弘樹が私を裏切った時、私は彼に選ぶチャンスを与えました。彼は私を選ばなかったから、思い切って別れたんです。だからあなたにも、同じように『最後のチャンス』をあげます。もしそれすら大事にできないなら……その時は、もう二度とやり直すチャンスをあげません」秀一は短く息を呑み、目の奥で黒い光が揺れた。そして、深くうなずく。……その夜、玲はまたも疲れ切って、秀一に抱きしめられたまま眠りに落ちた。本来なら――不安を落ち着かせたのだから、少しは穏やかになると思っていた。「体力勝負」のほうも、ひとまず休戦になると信じていた。けれど、不安を手放した秀一は、むしろ迷いが消えた分
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第315話

「ご、ごめんなさい……!」玲は、振り返った拍子にぶつかってしまうとは思っておらず、慌てて謝った。確かに今回はお互い不注意の事故に近いが、相手が車椅子に座っていることもあり、玲は自分に過失がなくても真っ先に頭を下げていた。そして落ちた保険証を拾おうと身をかがめ――次の瞬間、細く白い手が先にカードを押さえ、そのまま拾い上げた。やせた女性は、カードに記された名前と写真をじっと見つめる。そして、ゆっくりとした声でぽつりとつぶやいた。「高瀬……玲?あなたが高瀬玲さんですね?ネットであなたと藤原秀一さんのニュース、たくさん見てましたよ。実は私、あなたたち夫婦のファンなんです」にこっと、優しい笑みを浮かべて。玲は思わず瞬きをし、頬がじわりと熱くなる。照れくさく鼻を触りながら、困ったように笑った。「そうですか……私と秀一さん、確かに以前は色々とニュースになっちゃって……でも、ファンの方がいるなんて思いませんでした。えっと……お名前は?」「烏山佳苗です」佳苗は静かに名乗りながら、玲を見上げた。落ちくぼんだ瞳が、一瞬だけかすかに揺れる。「初めまして、よろしくお願いします」玲は知る由もないが、実はこの「偶然の出会い」は、佳苗が仕掛けたのだった。昨日の午後。健吾と由紀子は、何時間も彼女に「秀一くんのことは諦めなさい」と言い聞かせていた。けれど、佳苗の意志は固かった。五年間、彼女は動くこともできず、まるで出口のない巨大迷路に迷い込んだようだった。そんな中で唯一、行き先を示してくれた光が秀一だった。植物状態になる前、佳苗の秀一への想いは、ただの少女の淡い恋だったとしたら、目覚めた現在では――地獄の底に落ちた者が唯一の光にすがるような感情へと変わっていた。もし彼女が一生目覚めなかったのなら、秀一が誰かと結ばれたところで諦めざるを得なかっただろう。でも、こうして目覚めた以上――秀一は、彼女のものであるべきだ。だから、どれだけ「秀一が本当に愛しているのは玲だ」と周囲に言われても、佳苗の意思は揺るがない。もっとも、佳苗は決して無謀な女性ではない。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」ということを、誰よりも理解していた。だから彼女は両親の言葉を聞き流し、ひとりでスマホを開き、玲と秀一について徹底的に調べ上げるつもりだった。だが、まさか
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第316話

その夜、佳苗は結局一睡もできなかった。まるで自分を痛めつけるように、スマホを抱えたまま、あのニュースや映像を何度も何度も再生し続けていた。その無理がたたったのだろう。翌朝、佳苗の体調はまた不安定になっていた。主治医は診察後、念のためと判断し、佳苗を車椅子に乗せ、藤原グループ傘下の病院で詳しい検査を受けることを提案した。ロイヤルホテルのスイートには簡単な診療設備こそあるものの、MRIのような大型機器は病院に行かないと使えないからだ。ところが――病院に着いた瞬間、まるで神様が仕組んだかのように、佳苗の目に玲の姿が飛び込んできた。佳苗はすぐさま主治医を適当な理由で遠ざけると、ひとりで車椅子を操作し、まっすぐ玲へとぶつかっていった。……そして今。佳苗の視線は、まさに昨夜ほとんど徹夜で見続けた「その顔」と重なる。一晩中見続けたのだから、実物を見れば多少は感覚も麻痺していると思っていた。だが現実の玲は、画面越しよりもさらに鮮烈で、佳苗の息を奪った。日の光の下、玲は淡い水色のワンピースをさらりと纏い、余計な飾りなどひとつもない。艶やかな黒髪は、淡い黄色のシュシュでゆるくまとめられ、顔には一切の化粧もない。なのに――唇は自然な赤みを帯び、肌は白くなめらかで、目元は澄んだ水のようにきらきらと輝く。その姿は、まるで彼女だけが美肌フィルターをかけられているようで、女性である佳苗でさえ胸をぎゅっと掴まれるほどだった。しかも今の玲は、数ヶ月前の記者会見のときよりもずっと綺麗だった。彼女には「幸福に包まれている人間」だけが持つ、満ち足りた光が宿っている。乱れて灰色に沈む今の世界と、五年間眠り続け、骨ばった自分とは正反対の、明るく鮮やかな存在だ。かつて玲が現れる前、自分も明るく、輝く側の女の子だったはずなのに。そう考えていると、保険証を握りしめた手に力がさらに強まり、指先が白く変色し、関節まで折れてしまいそうだった。だが玲は、そんな佳苗の内心など露ほども知らず、ただ丁寧に微笑み返した。「こちらこそ。私たちのことを応援してくれて、本当にありがとう」そして佳苗の車椅子にそっと手を添え、自然な調子で言う。「烏山さん、移動は大変でしょう?診察室、どこに向かうのか教えてくれれば、私がお連れしますよ」「だ、大丈夫です!」佳苗は慌てて手を振り
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第317話

「ち、違います……まだ妊娠はしてません……」玲は受付票を握りしめたまま、佳苗が勝手に覗き込んでくるとは思わず、気まずそうに説明した。「ただ、そろそろ妊娠を考えていて……今日は婦人科の先生に相談に来ただけです。身体を整えるための薬も処方してもらおうと思って」「ほ、ほんと……?」佳苗は一瞬ぽかんとしたあと、さっきまで青ざめていた顔にようやく血色が戻り、胸の痛みもいくらか和らいだようだった。「じゃあ……本当に、子どもはいないんですね?」玲はこくりと頷く。嘘ではない。ただ、佳苗の落差の激しい反応を見ていると、どうにも違和感が拭えなかった。佳苗は自分たち夫婦のファンだと言っていたはずだ。普通、応援している夫婦の間に子どもができたなら、喜ぶべきであって、ショックな顔をするはずがないのだ。玲はなんとなく、車椅子を押していた手をそっと離し、警戒心をのぞかせた。「烏山さん。そちらの診察が終わっているなら、私の保険証を返していただけますか?まだ診察が控えているので」「あっ、ごめんなさい!持ったままでした……!」佳苗は慌てて保険証を差し出し、自分の反応が大きすぎたせいで玲に不信感を与えたと察したのか、急いで申し訳なさそうに言い添えた。「高瀬さん、さっきあんな態度をしたのは……ただ、あなたがちょっと羨ましくなっただけです。ご存じないと思いますが、私……昔、ひどく怪我をしてしまって、身体にも後遺症が残っていて。だから、あなたみたいに健康な女の子を見ると……もしあの時、怪我してなかったらって、つい思っちゃうんです」言葉の途中で、佳苗の目尻が赤く染まる。素直で、どこか弱々しいその姿は、嘘をついているようには見えなかった。玲は保険証を受け取り、身体の悪い相手にこれ以上きついことも言えず、口調を少しやわらげた。「怪我をしたことは残念ですが……烏山さんはまだ若いですし、ちゃんと治療すればきっとすぐ回復しますよ」「ありがとうございます。実は私、兄みたいな友達がいて、彼も同じことを言ってくれたんです。だから……植物状態になってたとしても、どうにか意識を取り戻せました」佳苗は目元をぬぐい、どこか照れたような、でも深い思いを滲ませる声で続けた。彼女も植物状態から目覚めた――玲は息をのみ、目の前の女性を改めて見た。「そうなんですね……偶然だけど、夫
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第318話

玲が眉を寄せ、思わず佳苗の去っていったほうを見やると――その先から、ひとりの男性が足早に現れ、無言のまま佳苗の車椅子を押し、急いで連れ去っていった。その後ろ姿がどこか見覚えがあり、胸の奥に、ざらつくような嫌な違和感が広がる。玲は衝動のまま、そっと後を追おうと足を踏み出した――その瞬間。すっと、誰かの影が目の前に立ちはだかり、進路を遮った。玲は驚いて顔を上げる。そして、相手の顔を確認した途端、表情が一気に冷えた。弘樹だった。会いたくない人に限って会ってしまう。玲は今日、次から次へと予想外の人間に出くわしてばかりだ。ただ、弘樹もまた偶然ここに来ていたらしく、傍らには秘書らしき男性が付き添っている。だが、その薄い色の瞳は、玲だけをまっすぐ見ていた。「玲、どうして病院に?何かあったのか?」「別に、何もない」玲は深入りされたくなくて、そっけなく返すと身をかわした。「それじゃ」「待って、話はまだ終わってない。何もないなら、病院に来た理由ぐらい言えるはずだ。今持ってるの、受付票か?見せて」弘樹は落ち着いた声ながら、妙な執着をにじませたまま、玲の手元へと手を伸ばしてくる。だが、さっき佳苗に情報を覗かれたことで、玲は完全に警戒していた。伸びてきた弘樹の指が触れる前に、玲は素早く受付票をポケットへ押し込み、ぐっと弘樹を押し返す。「どんな理由で来たって私の自由でしょ?そんなに詮索しないでもらえる?私、あなたが何で病院に来てるかなんて一言も聞いてないけど」「社長は手を怪我されていて……」次の瞬間、弘樹の秘書が慌てて前に出て、押し返された弘樹を支えながら、困ったように玲へ訴えた。「玲さん、あまり強く押さないであげてください。社長、今すごくお身体が弱っていて……」玲は一瞬かたまり――その時ようやく、弘樹の不自然な姿勢に気づいた。彼はずっと、片手を背中に隠していたのだ。さっきよろめいた拍子に、その手が前へ出る。包帯が何重にも巻かれ、そこからじんわりと血が滲んでいた。秘書は、待ってましたとばかりに一気にまくしたてた。「玲さん、社長は……少し前に怪我をされたんです。でも全然病院に来ようとしなくて、傷がどんどん悪化してしまって……今日、無理やりお連れしたところなんです。たぶん、傷が感染しているかもしれません。陶器の人形の破
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第319話

秘書がそう言い終えるや否や、まるで一秒でも遅れれば玲に呼び止められるとでも思っているかのように、弘樹のそばから逃げていった。残された玲は、呆れた気持ちでその場に立ち尽くす。まさか秘書が、彼女に強引に弘樹を押し付けてくるとは思いもしなかった。だが、こんな手を使えば自分はお手上げだ――そんなふうに思っているのなら、完全に見当違いだ。「診察に付き添うつもりはないから」玲は弘樹をまっすぐ見つめ、きっぱりと告げる。「もう子どもじゃないんだから、医者くらい一人でもいけるでしょ?それに私は綾じゃない。もし本当に女性に付き添ってほしいなら、彼女に電話するべきよ」もちろん、秘書が去った今では、玲が綾に電話する気など毛頭ない。というのも――あの狂犬めいた性格で、今まさにアート展で玲をはめようと準備を進めている綾のことだ。もし玲から電話が来たら、今以上に暴走するだけだろう。弘樹はすぐに返事をせず、淡い色の瞳でじっと玲を見つめた。やがて横に下ろした手を、ゆっくりと指先まで強く握り込む。「玲……本当に、俺がどうして怪我をしたのか、少しも気にならないのか?」それは、先ほど秘書も「聞いてほしい」と願っていた質問だ。だが玲は結局聞かなかった。それで耐え切れなくなったのか、弘樹自身がその質問を口にした。玲は眉間のしわをゆっくりと解き、表情を整えた。そして真剣な声音で、きっぱりと告げる。「ええ、気にならないわ。陶器で切ったにせよ、刃物で切ったにせよ――あなたの怪我は、もう私には関係ないから」「……関係ない?」弘樹は玲の言葉を繰り返し、ふっと笑った。その瞳の奥には、かすかな陰が灯る。「玲、もし今日怪我したのが秀一だったら……ほんの少し血が出ただけでも、お前はしつこいくらい詮索してたんじゃないのか?」「自分と秀一さんを比べないで」玲は即座に反論した。「秀一さんは、あなたとは違うから」――昨夜、秀一は、いつか自分も弘樹のようになってしまうのではないかと、不安そうに彼女を見つめていた。それでも玲の心のどこかで明確な声が響いていた。秀一は、決してそうならない、と。だからこれ以上、弘樹が縁起でもないことを口にする前に、玲は身を翻し立ち去った。余計な言い合いになるのを避けたかったのもあり、婦人科の診察すら受けず、そのまま足早に病院を出た。
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第320話

「そ、そうですか……無理もないですね」秘書は半ば泣きそうな顔で話題を切り替えた。「それより社長、そろそろ時間ですし、診察室に行きましょう。まずは処置を――」「行かない」弘樹は淡々と首を振った。次の瞬間、秘書を押しのけるようにして立ち上がり、怪我した手を鉄製の椅子の尖った角へとゆっくり近づける。「っ!?社長、何をするんですか!」秘書の目が見開かれる。「危ないですよ!怪我した手をさらに傷つけたら、悪化どころじゃ――」「……俺が、わざと悪化させたいと思っていたのなら?」弘樹は静かに言って、玲が去っていった方向へと視線を向けた。金縁眼鏡の奥で、瞳だけが不思議なほどやわらかく揺れる。「玲はいつも言う。秀一は彼女を守って、甘やかしてくれるって……でも俺だって秀一と同じで、彼女を守ることができる」茂は、弘樹を使い勝手のいい刃物にしようとしている。その刃が誰に向けられるのかはまだわからないが、なんとなく――玲が深く傷つけられてしまう予感がした。これ以上、彼女を傷つけるわけにはいかない。誰かに利用され、彼女を傷つけることならなおさらだ。だから――自分という「刃物」を鈍らせればいい。使い物にならないほどに。そうすれば少しでも、玲を守ることができる。弘樹は秘書に淡々と言った。「この手を、思いきりここにぶつければ……回復まで半月はかかるだろう?」「……っ、そ、それは……半月以上は確実に……」秘書は動揺し、冷や汗が落ちた。「でも社長、痛いどころの話じゃありません!元々処置が遅れて悪化してるのに、さらに痛めつけたら……神経にでも障って、障害が残ったらどうするんですか?」弘樹は答えなかった。かつて玲が手を怪我した時のことを思い出す。父が残した嫁入り道具を、雪乃に売られたと知り、怒りのまま高瀬家に乗り込んだ日。自分の手を血まみれになるまで傷つけた、あの日。その時、弘樹は何の反応も示さなかった。玲の血だらけの指を見ても、ただ綾の隣に立ったまま、綾がブランドバッグを振りかざして「玲は大袈裟すぎ」と嘲るのを黙って受け流した。本当は、叫び出しそうなくらい焦っていた。すぐ駆け寄って玲の手を確かめたかった。自分の手で包帯を巻いてあげたかった。そして綾の口を塞ぎ、あの場から追い出してやりたかった。だがあの時、彼は何もしなかった。だから、その
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