LOGIN雪乃の目には狂気じみた光が宿り、吐き出される言葉はますます過激になっていった。「私が高瀬家に尻尾を振った?じゃあ、あんたのあの三年は何なのよ。弘樹さんに尻尾を振ってたんじゃない?でも結局どうなった?片想いのまま相手にされず、冷たく捨てられただけじゃない!もっとも、弘樹さんがあんたじゃなくて綾さんを選んだのは当然でしょ?あんたみたいに卑屈で、何でも我慢して、見返りも求めない子を好きになる男なんて、この世にいないのよ。綾さんは少し短気でも、欲しいものは全部掴んできた子。あんたの十年以上の献身なんて、笑い話にしかならないわ!弘樹さんに捨てられたからって、急に高瀬家を否定し始めて……恩知らずにもほどがあるわよ。こういうところ、あんたと秀一さん、本当にそっくり。育ててもらって恩を返すどころか、結局どっちも噛みついてくるんだから!」雪乃は叫び散らし、胸の奥に押し込めていた本音までも吐き出してしまった。だが、その大声とは裏腹に、周囲の空気は凍りついたように静まり返った。玲はただ、じっと雪乃を見つめていた。雪乃の後半の罵倒には反応していない。彼女の心を刺したのは――最初のほうの言葉だった。もし、今のが聞き間違いでなければ……玲はゆっくりと顔を上げ、雪乃を真正面から見据えた。「母さん……私と弘樹が付き合ってたこと、最初から知ってたの?私が高瀬家にいた頃から、彼と交際してたってことまで?」その瞬間、雪乃の目が大きく見開かれた。自分が取り返しのつかないことを口走った、と悟ったのだ。そう――雪乃は知っていた。玲と弘樹が交際していたことも。綾が現れ、二人の関係が崩れていく過程も。だがその頃、彼女は何も知らないふりを続けていた。もう、隠し通すことはできない。雪乃は観念したように、玲の問いに答えるしかなかった。「……ええ、知ってたわよ。あんた、必死に隠していたつもりみたいだけど……あんなの、見ればわかるわよ。弘樹さんを見るあんたの目つきも態度も、全部。隠し方が下手すぎるのよ」「――じゃあ、どうして?」玲はきっぱりと遮った。「どうして、弘樹が私と付き合っているって知ってるのに、綾が家に来たとき、何も言わずに彼女を暖かく迎え入れたの?」普通の母親ならそんなことはしない。たとえ娘を愛してなくても、娘の恋人が浮気して、他の女を連れて
雪乃は玲を指さし、怒りのまま罵倒し続けた。このところ雪乃は、玲を仕留めようと決めて以来、精神状態は張りつめた糸のようだった。保身のために娘を切り捨てる。その覚悟はできていても、秀一の鉄壁の守りのせいで、どれだけチャンスを待っても決定的な隙を見つけることができなかった。ところが数日前、突然「烏山佳苗」と名乗る女性から連絡が来たのだ。自分の素性と目的を明かし、雪乃に「協力して欲しい」と頼んだ。その存在に驚きつつも、雪乃は初めて知った――完璧に見えた秀一にも、玲以外ひそかに想っている女性がいると。呆れはしたが、雪乃はすぐに佳苗との協力を受け入れた。雪乃一人では、玲に近づくのが困難だ。だが佳苗は秀一の身近な人間、しかも二人の目的が一致している。雪乃にとってこれ以上ない味方だ。そのため今日、雪乃がこっそり佳苗と会うために病院へ来ていた。リハビリ室のトイレで、ついに佳苗と接触し、実行のための細かな段取りをすべて決めたのだ。実行日は――アート展の開幕の日。玲はRの人気に便乗するため、当日は絶対に会場へ来る。そこにはRのファンが大勢いて、皆が玲を激しく嫌っている。そして、佳苗は巧みに秀一を玲のそばから遠ざけるという。孤立無援になった玲はまさに俎板の鯉で、逃げ場などどこにもない。そして玲さえ死んでくれれば、雪乃が観光地のスタッフと手を組み、玲の父を殺すよう仕向けた罪も、永遠に闇の底へ沈む。残すは計画を実行するのみ。雪乃はそんな上機嫌で、別棟に入院している弘樹の様子でも見に行こうと思った矢先。玲が、廊下で弘樹へ話していた言葉を耳にしてしまった。以前の雪乃だったら、秀一を恐れて堪えていたかもしれない。だが今は違う。秀一には、深く想い続けてきた幼馴染がいると知ったのだ。つまり――玲なんて、秀一にとっては大した価値がない。そう思えた瞬間、雪乃の中で恐怖は霧散し、怒りだけが残った。……玲は、久しぶりに見た雪乃の姿に驚いていた。だがすぐに思い当たる。弘樹が入院している以上、雪乃が病院に来るのは当然だ。むしろ、実の娘以上に可愛がってきた茂の息子なのだから、世話してあげるくらい何もおかしくない。そしてこの激しい罵倒――きっと弘樹のことで気が立っているのだ、と玲は冷静に判断した。ゆっくりと息を整え、手に持ったビニール袋を握り直
玲は、大体察しがついて、ふっと笑みを浮かべながら電話に出た。「もしもし、秀一さん?友也さんから聞いたんですよね。さっき病院で、弘樹に呼び止められたって。でも心配しなくて大丈夫です。もう完全に片づいてます。弘樹の挑発は全部不発でしたし……たぶん、あれだけ堪えてたから、しばらくは私の前に現れる元気もないと思います」エレベーターが閉まる直前、弘樹の顔色までは見えなかったが、あの秘書の悲鳴で、彼の体調がかなり悪化したのは間違いなかった。その言葉を聞いた秀一は、スマホを握る手にぎゅっと力を込めた。そして、しぼり出すように低く震えた声を落とす。「……玲。俺を信じてくれて、ありがとう」「当然でしょ。だって秀一さんは、いつだって私のことを信じてくれたじゃないですか」玲は柔らかく笑い、声を落として囁いた。「秀一さん、前にも言いましたよね。私にとって、無条件で味方になってくれる最初の人は、あなたなんです」たとえ強引な父親を前にしても、秀一は一度も玲のために引いたことがない。その一点だけでも、弘樹は永遠に勝てない。それにもう一つ、玲が弘樹の言葉を一切信用しなかった理由があった――綾の存在だ。「秀一さん、もうすぐアート展ですけど……綾、悪質なメディアを何社も使って私を叩こうとしてますよね?あれ、多分弘樹と連携してるんじゃないかと思って。片方は正面攻撃、もう片方は世論で攻撃。挟み撃ちでメンタル折ろうとしてる、みたいな」「心配いらない。どんな手を使われても、アート展当日は俺がそばにいる」秀一は深く息を吐き、まっすぐな声音で続けた。「そして、アート展が終わったら……玲。ずっと言えずにいたことを、ちゃんと話したい」「わかりました」玲は素直に頷いた。秀一が「アート展のあと」と言うなら、その時に聞けばいい。わざわざ駄々をこねて先に聞こうとはしなかった。玲の返事に、秀一の険しい表情がようやく少し緩む。机の上に置かれた玲の写真を見つめながら、穏やかな声で言った。「玲。最近は大事な時期だから……もう一度、君の周りに二人、ボディーガードをつけ直す。今回は前よりずっと信頼できる人間にした」前回のボディーガードは腕は立っても頭が回らなさすぎて、佳苗に近づく隙を与えてしまった。その二人はもう外され、機転の利く新しい人材が手配されている。一度経験したことだし
弘樹が、玲と秀一の関係をかき乱そうとしたのは、これが初めてではない。けれど、そのどれもが失敗に終わり、最後には自分がみじめになるだけだった。――そこまでして、何の意味があるの?玲は心の底からそう思いながら告げ、もう言葉を重ねることもせず、弘樹の手を振り払って、友也とともに歩き出した。今回は、弘樹もあっさりと弾き飛ばされた。そばにいた秘書が慌てて支えなければ、そのまま倒れていたかもしれない。ちょうど玲がエレベーターに乗り込もうとしたとき、背後から震える声が飛んできた。「玲……俺がもっと頑張れば、まだ間に合うと思ってた。まだやり直せるって……お前は、俺がどっちも欲しいんだろうって言ったよな。でも、もし同じことを秀一がしたら?もし秀一も、いつか『どっちつかず』をしてるところをお前が見つけたら、お前はどうする?玲……その時も、今の俺みたいに、秀一を迷わず捨てていけるのか?」真っ赤に充血した弘樹の目は、玲に縋りつくようで、対照的に顔色は紙みたいに白い。やつれた頬も、痛々しいほどだ。玲は答えなかった。もう二度と、弘樹の挑発に乗らないと決めていたから。次の瞬間、エレベーターの扉が閉まり、二人の間に完全な境界が下ろされた。その途端、弘樹の視界が急に暗くなり、張りつめていた意識がぷつりと切れる。ぐらりと体が崩れ、秘書の必死の呼びかけと「医者を!」という声だけが虚しく響いた。だが、玲が振り返る気配は、最後までなかった。……そのあと、玲は終始おびえ気味の友也に付き添われ、無事に雨音の病室へたどり着いた。雨音は、下で何があったか知らない。今日、退院の付き添いとして玲を呼んだから、友也は来ないと思っていたのに、まさかの予想外。友也はちゃっかり居座り、雨音がどれだけ嫌味を言っても動じる気配すらない。結局、諦めた雨音の頬は、怒りでりんごみたいに赤く染まった。だが、横で見ていた玲には、どうもそれだけじゃないように思えた。この短い入院期間――たった二日ほどだったが、二人の関係性はずいぶん変わった。まずは友也。今までは短気で、少しでも雨音の言い方が気に障ると、大声を上げて出ていくようなタイプだったのに、今日は十回以上とげとげしい言葉を浴びても、ただ俯いて大人しくしているだけだった。その友也の変化に、雨音の方もまんざらでもな
「それは無理だ、玲。俺はこの世界で誰よりも、お前を大切に思ってる」弘樹は低い声で言い切り、ついに玲の目の前まで歩み寄った。視線は鋭く、抑えていた感情がにじむ。「玲、最近ずっと病院に来てるだろ?だったら……水沢さんの病室だけじゃなく、ほかの場所も行ってみるといい。もしかしたら、いろいろ『気づく』ことがあるかもしれない」それは――秀一が、玲に知られたくない「誰か」を病院に匿っている、という暗示だ。だが。病院を自由に歩き回れなんて、まともな言い分じゃない。玲は怒りに息を吐き、皮肉げに笑った。「へえ……それはいいアドバイスね。実は、これからも病院に来るつもりだったのよ。前に来たときは、あなたが割り込んできて中断されたから、もう一度きちんと診てもらおうと思って」そして、さらりと続けた。「なんせ、私と秀一さん……妊活を始める予定だから。病院に通うことも増えるの。慣れておかないとね」空気が、一瞬で止まった。危機感を覚えた友也が口を挟もうとしたが、それも不要になった。弘樹の整った顔は、玲の言葉とともに完全に凍りついたのだ。しばらく沈黙が続き、ようやく、搾り出すような声が落ちる。「……玲。お前、自分が何を言ってるのかわかってるのか?」次の瞬間、彼は玲の手首を掴んだ。負傷していないほうの手は震えが止まらない。「妊活?お前と秀一が?そんなことできるはずがない!」妊娠の前提には、男女としての関係がある。玲も秀一も、ずっと慎重で、距離感に厳しいと思っていたはずだ――弘樹の常識に照らせば、あり得ない。そばにいた秘書も、ごくりと喉を鳴らしたが、今回は口をつぐんだ。普通の男なら、自分の愛する女性に触れたいと思うのは当然のことだから。弘樹が「ふたりの間に何もない」と信じてきたのは、事実より願望にすぎなかった。そして今、玲の言葉で、それが無残に剥がれ落ちた。玲はまっすぐ弘樹を見つめ、はっきりと言った。「そう、私と秀一さんは妊活中。それも――ずっと前からよ。あなたと初めて病院で会った日、私が産婦人科の番号札を取ってたの」つまり――玲と秀一は、もうとっくに「本当の夫婦」だった。そして玲は、秀一との子を望んでいる。それは永遠に一緒にいたいという、確固たる意思の証だ。弘樹は言葉を失った。押し寄せる痛みと現実が、呼吸すら奪っていく。だが
弘樹の秘書はわかっていた。弘樹が「あの件」を玲に伝えれば、状況を一気に覆せるだろう。だからこそ、またしても弘樹が玲に言い負かされ、すっかり萎れているのを見て、慌てて声をかけた。そろそろ本題に入れ、と。案の定、その言葉に弘樹の動きがわずかに止まる。次の瞬間、さっきまでの憔悴しきった気配がゆっくりと変わり、彼は深い眼差しのまま、玲へと一歩近づいた。玲は眉を寄せる。今日、彼が自分を呼び止めたのは、本当に話したいことがあるらしい。そこは理解したが、なぜか胸の奥がひどくざわつく。理由はわからない。ただ、よくない予感だけがゆっくりと心の底から湧き上がってきて――反射的に、一歩後ずさっていた。その瞬間だった。待っても来なかったエレベーターが、唐突にピンと開いたのだ。中にいたのはまさかの友也だった。しかも息を切らせ、どう見ても急いで駆けつけてきた。まるで、弘樹に絡まれた玲を助けにきたかのように。友也は玲を見つけた瞬間、大股で近づいてくる。「玲さん!雨音から、今日退院の手伝いをしてくれるって聞いて、迎えに来たんだ。間に合ってよかった……で、なんで弘樹がここに?玲さんにこっそり会ってるなんて、綾が知ってるのか?」最後の一言だけ、妙に語気が強くなる。あからさまな牽制だった。この間、佳苗の件でもめたとき、秀一と陰で話していた内容が弘樹に聞かれた。だからこそ今日、弘樹が玲を引き止めていた理由も、友也には一瞬で察せられた。どうせ佳苗の件に尾ひれをつけて、玲に吹き込もうとしているのだ。佳苗のことは秀一自身が伝えるべきであって、弘樹が口を挟むべきものではない。だから弘樹の企みを阻止するために、友也は全速で駆けつけたのだ。弘樹はわずかに目を細め、友也の意図を読んだように口元を歪めた。だが、今の弘樹の立場はあまりに危うい。ここで綾が呼ばれでもしたら、面倒どころでは済まない。――だが、佳苗の件をはっきり口にはできなくても、「匂わせる」ことならできる。金縁の眼鏡を指先で押し上げ、息を荒らす友也へと静かに視線を向ける。「友也、そんなに焦ってどうした?俺はただ、玲と少し話をしただけだ……何をそこまで怯えている?俺が何かまずいことを口にすると思ったのか?それとも――君の親友が抱えている秘密を、俺が暴すのが怖いのか?」「何言ってるの?」友也が







