素羽は二秒ほど沈黙してから、背を向けて歩き出す。「素羽!」司野が立ち上がり、追おうとする。だが動いた途端、美宜が強く抱きしめてきて、興奮した声で叫ぶ。「行かないで、司野さん、お願いだから行かないで」その足音がぴたりと止まったのを耳にして、素羽の瞳にはあざけりが浮かぶ。胸が痛い。喉も痛い。目も、じんじんと痛む。いつの間にか雨が降り出し、しとしとと降る雨粒が体にあたって、ただ冷たさだけが募る。「奥様、お送りしましょうか」岩治が慌てて追いかけてくる。素羽はぽつりとつぶやく。「司野は……私に連絡しようと思ったことがあるの?」岩治は言葉を選びながら返そうとする。「社長は……その、連絡しようと……」だが、その嘘を全部言い終わる前に、素羽が遮る。「もう嘘でごまかさないで。飛行機はもう、三十分も前に飛び立ってるのよ」その間、一度も電話は鳴らなかった。司野は、もう自分のことなんて完全に忘れている。もし自分が事故のニュースを見ていなければ、今ごろまだ馬鹿みたいに空港で待っていたんだろう。けれど、病院まで来てみたところで、賢い選択だったとは思えない。現実を目の当たりにするだけ、自分がさらに愚かに見えるだけだ。岩治は何も言えず、ため息をひとつつく。「お送りしましょう」「いいわ」素羽は皮肉っぽく笑う。「あの二人のそばにいてあげなさいよ。美宜がまた何かしないとも限らないし、あなたがいれば少しは助けになるでしょ」そう言って、素羽はタクシーを止めて乗り込む。ドアが閉まった瞬間、涙が雨と混じって頬を伝う。病院の前で、こんな素羽のような人を何度も見てきた運転手が、気遣うように声をかける。「気を落とさずに。世の中、乗り越えられない壁なんてありませんよ」素羽は、誰かがいなくたって人は生きていけるってわかっている。でも、どうしても心が痛い。このやるせなさは抑えきれない。彼女は景苑の別荘には帰らず、自分の小さなマンションに向かう。森山たちにこんな情けない自分を見せたくなかった。恥ずかしい。びしょ濡れのまま帰宅した素羽は、骨の芯まで冷え切り、服を脱ぐなりバスルームへ直行する。シャワーを浴び終えると、そのまま布団に潜り込む。いろいろ予防はしたけれど、やっぱり熱が出てしまう。夢の中で、素羽は炎の中にいたかと思えば、次の瞬間に
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