All Chapters of 流産の日、夫は愛人の元へ: Chapter 131 - Chapter 140

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第131話

景苑別荘にて。司野は森山に、酔い覚ましのお茶を淹れてもらうよう頼む。その頃、まだ寝ていない梅田がキッチンで小声でぼやいている。「まったく、妊活中の身で、毎晩あんなに酔っ払ってばっかり……本当にどうかしてるわ」後で琴子にしっかりご報告しよう、と心に決めている。主寝室。司野は素羽をベッドにそっと横たえ、毛布をかけてやる。ふと腰に触れたとき、彼女が以前よりずいぶん痩せたことに気づく。前はちょうど良いくらいの健康的な体型だったのに、今では骨の感触がはっきり伝わる。司野の眉がわずかに寄る。こんなに痩せていたら、そりゃ体調も崩すし手術にもなる。コンコン、と控えめなノック。「旦那様、酔い覚ましのスープができました」森山が声をかける。「持ってきて」司野はスープの碗を受け取り、「俺がやるから、休んでて」と森山に言う。森山はすぐに碗を渡し、ドアを静かに閉めて出ていく。夫婦喧嘩は珍しくないけど、司野がここまで気遣うなんて……まだ絆は切れていない、とほっとする。司野は素羽を支えて自分の肩に寄りかからせ、彼女の顎をそっとつまむ。「目を開けて。これ、飲んで」素羽はぼんやり目を開ける。表情は虚ろで、まるで時が止まっているかのよう。「何見てる?早く飲め」司野は碗をもう一度、唇の近くまで持っていく。素羽はかすかに呟く。「これ、夢じゃないよね?」その声はあまりに小さい。「何だって?」彼女はまた目を閉じて、つぶやく。「きっとこれ夢だよ……じゃなきゃ司野が私にこんなに優しいはずないもの」これには司野も、はっきり聞き取れた。……司野は心の中で苦笑する。自分、そんなに冷たかったか?「夢じゃない。言うこと聞いて、飲め。じゃないと明日、頭痛くなるぞ」素羽はもう一度、司野の顔をじっと見つめる。まるでその奥まで覗き込むように。「ほら、早く」素羽は素直に、まるで人形のように司野の手に導かれ、スープを飲み干す。「口、拭け」それにもまた、素直に従う。この従順さこそ、司野が昔から好きだった素羽そのもの。司野はようやく満足する。「もう寝ろ」素羽は言われた通り横になるが、その手は司野の服の裾をしっかり掴んだまま離さない。司野はその手元をちらりと見る。素羽の瞳はうるんでいて、頼りなく「行かないで……」
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第132話

雲ひとつない青空。太陽は高く、朝の光が眩しい。素羽はぐっすり眠り、目覚めたときには口が少し渇いているだけで、二日酔いの気配すらほとんどない。ベッドの上で大きく伸びをしながら、声を上げる。「楓華、お水ほしい」「はい、奥様」返事とともに、森山が温かい水を運んできてくれる。その声に、素羽の手が止まる。振り返って見ると――「あれ、森山さん?どうして?」ここでようやく、自分が景苑の別荘に戻っていることに気づく。「私、いつ帰ってきたの?っていうか、どうやって帰ったの?」昨夜はたしか、楓華の家でお酒を飲んで、そのまま泊まったはずなのに……森山はにこやかにコップを差し出す。「旦那様が奥様をお姫様抱っこで連れて帰ってくれたんですよ。昨夜の旦那様は本当に優しかったです。私に酔い覚ましのスープを作らせて、それも自分の手で飲ませてあげてましたし。ほら、朝になってのどが渇くだろうから、出かける前に私にちゃんと頼んでいきましたよ」森山は、ここぞとばかりに司野の株を上げることを忘れない。家の中の潤滑油になるのが、彼女の得意技だ。ぬるま湯が喉を潤していく。素羽は、じんわりと体がほぐれていくのを感じる。昨晩の、途切れ途切れの記憶――あれは夢じゃなかったんだ。本当に起きていたことなんだ。階段を下りていくと、ちょうど司野が運動から戻ってくるところだった。ジャージ姿で汗をぬぐう司野は、朝の光を浴びて眩しいほど爽やかだ。「夫の容姿は妻の誇り」――昔はそう思っていた。でも今は、ただの重荷でしかない。あまりにも眩しすぎて、周囲の女の子たちの視線を集めるばかりか、自分でも手綱を握れた試しがない。ぼんやりしていると、朝露で濡れた花束が突然、手のひらに落ちてきた。司野が言う。「花屋の店長が、女の人はみんなこういうのが好きだって言ってたから」素羽は艶やかなバラをじっと見つめる。結婚してから、記念日でもない日に花をもらったのは、これが初めてだ。素羽が戸惑っていると、森山が早速場を和ませる。「奥様、なんてきれいなお花。美人と花束、最高の組み合わせですね」司野の真意はわからないけれど、素羽は礼儀で「ありがとう」とだけ呟く。司野は、「じゃあ、シャワー浴びてくる。あとで一緒に朝ごはん食べよう」と言って、さっと去る。彼がいなくなると、森山が
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第133話

「嫌いじゃない。でも、うちみたいな家だと、子どもは絶対に必要なんだ」素羽は静かに尋ねる。「もし私が産まなかったら、どうする?」司野は当然のように言う。「体は健康だろ?なら、産まない理由なんてない。」産みたくない。彼との子どもなんて、欲しくない。素羽は口元だけで微笑み、「そうね、体は元気よ」と淡々と答える。司野は、彼女が以前の手術のことを気にしていると思い込んでいるらしい。「心配いらないよ。医者も、もう体は回復してるって言ってた。ちゃんと調整すれば、すぐにでも子どもはできるさ」本当に有言実行の人だ。朝食を食べ終わると、すぐに司野は車を出して、「週末デートだ」と連れ出してくれる。でも、正直、現実味がない。まるで夢の中みたいで、どこか居心地が悪い。もともと二人の関係は、ごく普通の恋人たちのような段階をすっ飛ばして、いきなり「長年連れ添った夫婦」から始まったようなものだった。ショッピングモールを歩き、買い物をして、ランチを外で食べる。食後、司野が聞く。「映画でも観る?」「うん、いいよ」と素羽は答える。こうして彼が与えてくる普通のデートの全部が、かつて素羽が密かに夢見ていた光景だった。特に観たい映画もないので、その時一番人気のコメディを選ぶ。「コメディの本質は悲劇だ」なんて誰かが言っていたけれど、本当に悲しいのは、コメディを観て笑っているはずなのに、心がちっとも晴れない自分自身かもしれない。映画が始まって間もなく、司野に美宜から電話がかかってくる。また心臓が苦しいみたいだと。司野は珍しく申し訳なさそうな顔をして、「ごめん」とだけ言い残し、急いで劇場を出ていく。予想通りの展開。素羽はもう、驚きもしない。ずっと、こうだったから。でも、頭では納得していても、心がついていかない。胸の奥がきゅっと痛む。人間が一番傷つくのは、期待と欲望の両方を持ったときだ。司野は、冷たく突き放してくれればいいのに、ときどきこうして優しさを見せてくる。ようやく心が動きかけたとき、決まって無造作にその糸を切ってしまう。本当に、残酷な人だ。司野は去り、映画は続く。まわりは皆カップルや家族ばかり。一人きりの座席で、素羽は頬の濡れた跡をそっと指でぬぐう。面白い映画なのに、どうして自分は泣いているんだろう。映画が終わるこ
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第134話

部屋の空気が、一瞬で抜け落ちたみたいに静まり返る。呼吸さえも止まってしまう。司野が張り詰めていた気を、素羽の細く尖った顎に目が合った瞬間、ふっと下げる。「昨日のことは事情があったんだ。俺たちはこれから先、まだ長く一緒にいるんだから……次は必ず埋め合わせる。でもさ、無関係な人を巻き込むのだけはやめてほしい。美宜は体が弱いんだ、刺激なんて絶対に受けられない」司野の言う「埋め合わせ」なんて、素羽にとってはただの安心材料だ。結局、自分をなだめて、彼の大事な人を守りたいだけなんだろう?素羽は淡々と返す。「彼女に何かするつもりはない」美宜に何をしろっていうの?自分が恥をかくだけで、他には何も意味なんてない。……世の中は本当に狭い。誰かが誰かを知っていて、その誰かがまた別の誰かの親戚だったりする。まさか美宜と亜綺が親友で、しかも亜綺が琴子の遠縁の親戚の娘だったなんて、素羽は思いもしなかった。どう考えても縁もゆかりもない三組の人間が、本家の古い屋敷に集まっている。そして素羽は、長男の嫁として、琴子に呼ばれて客人のもてなしをすることになる。美宜と親しげに話す亜綺を見て、素羽は琴子が自分を呼んだ理由を理解する。亜綺は無邪気な笑顔で素羽に挨拶する。「お義姉さん、初めまして、私、亜綺って言うの。司野お兄さんの従妹なんだ」初対面を装う亜綺に、素羽も話を合わせる。「初めまして」琴子が言う。「亜綺は初めて北町に来たのよ。司野の嫁として、ちゃんともてなしてあげて」そう言われてしまえば、断ることもできない。「わかりました」亜綺は微笑みながら言う。「お義姉さん、しばらくお世話になるね」口ではそう言うけれど、態度は全然遠慮がない。美宜と一緒に買い物に行けば、素羽に荷物持ちを頼み、食事に行けば素羽に全部支払わせ、美容院でも素羽を付き添わせる。亜綺はわざとらしく言う。「お義姉さん、私のこと、うるさいって思ってない?」素羽はまるで感情がないように言う。「もしそうだと言ったら?」亜綺はくるんとしたまつげをパチパチさせて言う。「じゃあ、琴子おばさんに聞かなきゃ。私、何かお義姉さんを怒らせることしちゃったのかな」亜綺が美宜と気が合う理由が、素羽にもよくわかる。似た者同士ってやつだ。自分の口を閉ざすのは、素羽の得意技だ。亜
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第135話

亜綺の髪を整えている美容師が、思わず吹き出して笑ってしまう。亜綺は鏡越しにその美容師を鋭く睨みつける。美宜の目には、たちまち涙が溜まって、今にもこぼれそうだ。まるで、世の中で一番の理不尽な目にあったみたいに。その時、亜綺が大きな声で呼ぶ。「司野お兄さん、こっち!」素羽はその声に振り返る。すると、司野が足早に美容院へ入ってくるところだ。「私と美宜、もうすぐ終わるから」亜綺は挑発するように、素羽にちらりと視線を投げる。司野は素羽がいるとは思っていなかったのか、特に動揺も見せず、淡々と話しかけてくる。「お前はやらないのか?」素羽は淡々と答える。「私は、こういう薬品が苦手なの」そう言えば、今まで一緒に暮らしてきて、素羽がパーマをかけたり髪を染めたりした姿なんて一度も見たことがない。ただの黒髪ストレート。シンプルで、清楚。素羽は続ける。「せっかく来てくれたし、亜綺の世話はもういいよ」須藤家に嫁いでから数年、顔を合わせるべき親戚はみんな会った。けれど亜綺のことは、今回が初耳だ。本当に、この遠縁の従妹と司野が親しくなるなんて、どうしても信じられない。司野がわざわざここに来たのも、どう見ても美宜が目的だ。素羽が美容院を出ようとしたその時、不意に手首を掴まれる。司野が、まさかの行動に素羽は驚きを隠せない。司野が静かに言う。「二人を家まで送ってから、俺たちは一緒に帰ろう」美宜は、二人の繋がれた手を見つめて、視線を揺らす。素羽は、司野の考えていることがまったく読めない。そんなことして、美宜の気持ちを気にしないの?なのに、気がつけば自分も妙な気分になっている。美宜の顔に悔しそうな影が浮かぶのを見ると、なぜか少しだけ溜飲が下がった気がして……自分の心がだんだん歪んでいくのを感じてしまう。美宜は打たれ弱くて、たった一度のこういう仕打ちにも耐えられず、髪を整え終えるやいなや、もう素羽に絡む余裕もなく、ふてくされて帰ってしまった。素羽はその後ろ姿を見送りながら、皮肉を込めて言う。「今夜、本当にあの子の家に泊まらないの?」司野はすでに車のエンジンをかけている。「俺が泊まるのは、彼女の体調が悪いからだ」素羽は口元を歪めて、嘲るように笑う。まるで「ズボンは脱いだけど、何もしてないんだから浮気じゃない」って言ってるみた
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第136話

この返事は、素羽は全くの予想外だった。これまで、司野の「関係ない」という態度なんて、素羽から見ればただの言い訳で、詭弁の類だった。けれど、彼の人となりを知っているからこそ、死者の願いを盾にするような卑怯な人間じゃないと分かっている。そこまで腐ってはいない。素羽は口を開きかけ、しばし言葉が出ない。友人の死は彼にとって小さくない衝撃だったはずだ。でなければ、今でもこれほど悲しみが続いているわけがない。けれど……「司野、友達との約束を守って、情に厚い男でいるのは別に構わない。でも、忘れないで。私は、あなたの正式な妻なのよ?」友人のお願いを大事にするのは分かる。でも、正妻の自分をそんなに簡単に裏切っていいの?死人と争う気はない。けれど、美宜は生きている。しかも、事あるごとに自分を挑発してくる恋敵だ。見て見ぬふりなんて、自分には無理。膝の上に置いた手が、突然司野に握られる。次の瞬間、車内に彼の真剣な声が響く。「ごめん。今まで気が回らなかった。素羽の気持ち、今後はちゃんと考える」この態度は、まるでパンチが綿に当たって消えるようなもの……とも違う。だって、彼の言葉からは、確かな謝意が伝わってくるから。でも、その謝意で胸のつかえが消えるわけじゃない。喉の奥に引っかかったモヤモヤは、行き場を失ったままだ。多分、その原因は美宜の恋心なんだろう。司野は、友達の願いを捨てきれない。彼は善人だ。美宜の気持ちだって、彼がコントロールできることじゃない。きっと、そう。素羽は、そう自分に言い聞かせる。夜は更けていく。景苑の別荘、主寝室。司野が素直に気持ちを話してくれたことで、夫婦の空気は少し和らいだ気がする。今夜は、特に熱い夜になった。そして、久しぶりに、二人は夫婦らしい夜を過ごす。全てが終わったあと、素羽が余韻に包まれていると、タイミング悪く司野のスマホが鳴りはじめる。この音には、もうPTSDみたいな反応が出る。「出ないで」と言う間もなく、電話の向こうから美宜の声が聞こえてきた。いつもと同じ口調、同じパターン。「体調悪いの……司野さん、そばにいてほしい」素羽の目から光が消えかけた、その時――予想外の返事が聞こえてきた。「ちょっと待ってて。今、医者を呼ぶから」驚いたのは、素羽だけじゃない。美宜も
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第137話

「素羽、顔色がいいね。まさか、もうすぐ離婚して苦しみから解放されるってやつ?」そう言われて、素羽の表情が一瞬だけ止まる。苦笑いを浮かべながら答える。「よく十の寺を壊すより、一つの縁を切るなって言うじゃないですか。なんでそんなに私の離婚を応援してくれるんですか?」雅史は、質問には答えずに言う。「その様子だと、また離婚する気はないってこと?」今の素羽は、たしかに一時的に離婚を保留にしている。素羽がまだ言葉を探していると、雅史は続ける。「壁に頭をぶつけて痛い思いしないと、君は後戻りしないタイプだね」そう言い残して、手を背中で組みながら部屋を出ていく。清人と素羽の間を通り過ぎる時、清人を横目で睨んで一言。「役立たず」「……」素羽は師弟のやりとりには全く気付かない。ただ、雅史の言葉が胸に残っている。実際、素羽は自分が頑固だと分かっているし、司野の説明も信じて、もう一度だけチャンスをあげたいと思っている。祐佳の時だって、彼はちゃんと自分の潔白を証明してくれた。新しいプロジェクトが決まると、どうしてもやることが増えて、残業が当たり前になる。夜の九時。清人が声をかける。「もう遅いし、今日はこの辺にしようか」素羽も時計をちらりと見る。確かにもう遅い。パソコンを閉じて、オフィスチェアから立ち上がる。長いこと座っていたせいで足が少し痺れて、バランスを崩して足首をひねってしまう。思わず声が漏れ、清人がすぐに支えてくれる。「大丈夫?」清人の腕に体を預けて、素羽は首を横に振る。「うん、大丈夫」そう言いつつも、動かすと足首に鈍い痛みが走り、思わず息を呑む。それを聞いて、清人は素羽を椅子に座らせ、しゃがみ込むと、彼女の靴を脱がせる。「ちょ、ちょっと……」止める間もなく、左足はもう靴から解放されている。清人は素羽の足を自分の太ももに乗せ、足首を軽く揉む。その瞬間、素羽はまた息を呑む。手を止めて、清人が言う。「多分、足首を捻挫してるな。ちょっと待ってて、下の薬局でスプレー買ってくる」「大丈夫だよ、少ししたら治るって……」清人のほうがずっと慎重だ。「その足は、事故の後遺症があるんだから、ちゃんとケアしないとまた癖になるよ」そう言われて、素羽はもう何も言えなくなる。スタジオの近くに薬局があるから、清人は
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第138話

司野が突然現れたことに、素羽は本当に驚く。「なんで、ここに?」司野は質問に答えず、逆に問い返してくる。「お前、足どうした?」「さっき、ちょっとひねっちゃっただけ」その視線が清人の手元をかすめる。司野の目が一瞬きらりと光ると、彼は迷いなく清人の手から素羽を引き寄せ、自分のそばに囲う。「うちの嫁なんで、もう有瀬さんに迷惑かけるまでもない」清人は顔色一つ変えず、薬の入った袋を素羽に差し出す。「足、薬を塗ってね。夜寝る前にも、もう一度ね」「うん」素羽が受け取ろうとした次の瞬間、袋はあっという間に司野の手に渡ってしまう。司野は何も言わず、素羽をひょいと抱き上げ、車へと連れていく。素羽が挨拶する暇もなく、車はそのまま走り出す。車の中。素羽はハンドルを握る司野を見つめ、気になったことを口にする。「それで、どうして来たの?」司野はやっぱり答えない。「来ちゃダメか?」「いや、そういうわけじゃないけど……」素羽は戸惑う。今まで、こんな扱いをされたことなんてなかった。戸惑いもするし、でも……ちょっとだけ、嬉しい。「お前たち、普段もあんな感じなの?」司野の言葉に、素羽は一瞬きょとんとする。どういう意味だろう?「べたべた、してたじゃないか」「足をくじいただけだよ」司野の目が陰る。「自分が既婚者ってこと、忘れるな」素羽の心は一気に冷める。せっかく嬉しかった気持ちも、彼のその一言で一瞬にして消えてしまう。「結婚して五年だよ。私がどんな人か、さすがに分かってるよね?」自分は、そんなふしだらな女に見えているのだろうか。司野は淡々と、「お前にその気がなくても、相手にその気があるかもしれない」素羽はすぐに、誰のことか分かる。「清人先輩は誠実な人だよ。人妻に手を出すような人じゃない」「誠実?」司野は鼻で笑う。「一つだけ言っておく。須藤家の名を汚すことは許さない」素羽の胸が重くなる。結局、彼は自分を信じていないのだ。車が家の前に着くと、素羽は黙ってドアを開ける。足をかばいながら家へ向かう――けれど、数歩も行かないうちに司野に抱き上げられる。「ちょっ……」「暴れるな。落ちたいのか?」反論する気力もなく、素羽は大人しく腕の中におさまる。一日忙しく働き、素羽はすっかり疲れていた。部屋に戻ると、す
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第139話

素羽は、芳枝の指先を丁寧に整えながら、今度司野と旅行に行くことを打ち明ける。「ゆっくり楽しんできなさい。私のことは心配しなくていいから」芳枝がそう言うと、素羽はふわりと微笑む。「今は本当に幸せだから、おばあちゃんも余計なこと考えず、しっかり体を大事にしてね」素羽はよくわかっている。祐佳の一件が、芳枝の胸にしこりを残していること。いつも素羽に申し訳なさそうに接している。けれど、彼女は彼女、家族の問題は家族の問題――昔から、素羽はきっちりと線を引いている。祐佳は、司野の子をネタに騒いだ挙句、結局は中絶してしまい、今は部屋で静養している最中だ。細かいことはさておき、最近しばらくは松信たちも大人しくしているはず。いや、正確にいえば、大人しくせざるを得ない。何しろ、今は司野という大きな後ろ盾がいる。しばらくは誰も手出しできないし、万が一忘れたとしても、時が経てば熱も冷めるだろう。……今回の旅行のため、素羽は一週間も前から、こまごまと二人分の荷物をまとめ始めていた。素羽のご機嫌な様子は、そのまま司野にも伝わる。彼もまた、口元に微かな笑みを浮かべて聞いてくる。「そんなにうれしそうにして、どうしたんだ?」「だって、旅行だもん。楽しまない理由がないでしょ」暖色の灯りが部屋を包み、素羽の姿をやわらかく照らす。その穏やかで優しい雰囲気に、司野はいつも心をほぐされる。彼女はまるで、温かな湯船のような存在だ。どんなに冷えた体も、一緒にいるだけですぐに温まり、心のざわつきもすっと鎮まっていく。今もそう。荷作りに動き回る素羽を見ていると、何とも言えない家庭的な空気に包まれ、司野の胸はじんわりと温かく、同時にくすぐったくなる。喉がごくりと鳴り、司野は素羽の腰を引き寄せ、衣装ダンスに押しつける。そのまま、優しく唇を重ねた。素羽が気付く間もなく、息を奪われていく。結婚して五年、互いの体にはとっくに慣れ親しんでいる。素羽も思わず司野の肩に腕を回し、二人の呼吸が重なっていく。司野は彼女の耳元に唇を這わせ、優しくついばみながら、かすれた声で囁く。「そろそろ、子どもを作ろうか」甘美な夜の流れに身を委ね、素羽は司野の首にぎゅっとしがみつく。司野は彼女の腰を支え、まるで子どもを抱くようにベッドまで運び、そのまま二人で大きなベッドに倒れ込む
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第140話

司野の電話はずっと繋がらないままだ。何度かけても、誰も出てくれない。素羽は不安になりながら、今度は岩治に連絡を取ろうとする。あの人なら二十四時間いつも携帯を手放さないはずなのに、なぜかこちらも応答がない。素羽の胸はざわつく。不安が胸を締めつける。もしかして、二人とも何かあったんじゃ――そんな考えが頭をよぎる。顔色が瞬く間に青ざめていくのが自分でもわかる。とにかく、何か手がかりを探さなくちゃ。素羽はスマホでニュースアプリを開き、社会ニュースの欄を探る。まさかとは思いながら、事故のニュースがないか必死でスクロールする。まさか、本当に。ちょうど一時間前、空港へ向かう高速道路で大きな連鎖事故が起きたという速報が目に飛び込んできた。画面の写真には、何台もの車が無残にぶつかり合っている。惨状に、素羽の顔から血の気が一気に引く。足ががくりと崩れそうになり、必死で椅子の背もたれにつかまってなんとか立っている。我に返った瞬間、素羽は空港を飛び出し、事故現場へと急いで向かう。現場はすでに警察の手で封鎖されていて、タクシーも中に入れない。途中で降ろしてもらい、息を切らしながら走って駆けつける。現場は、泣き声、叫び声、救急車のサイレン、煙が立ちこめていて、目もくらむような混乱だ。素羽は半ば取り乱しながら規制線に突っ込み、必死に司野の名を叫ぶ。「ここから先は入れません!」警察官に遮られて、線の外で立ちすくむ。「夫が、中にいるんです!」素羽は喉を詰まらせながら、必死に訴える。遠くのほうで、あれは――司野の車じゃないか。見るも無残に原型をとどめていない。素羽の心臓が締め付けられる。「すべてのケガ人はすでに病院に運ばれました。病院で確認してください」警察は一歩も譲らない。まるでロボットのように指示を受けた素羽は、そのまま踵を返し、病院へと向かう。病院の中は修羅場だ。怪我人であふれかえり、血の匂いが漂い、恐ろしいほどの騒然さ。司野には連絡がつかない。素羽は看護師を捕まえて尋ねるしかない。「すみません、名航道(めいこうどう)から搬送された怪我人はどこですか?」看護師もてんてこ舞いで、立ち止まる間もなく、手早く場所を指差して去っていく。素羽はその方向に駆けだす。もはや何も考えられず、ただ彷徨う素羽。そのとき、岩治の声が、まる
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