All Chapters of 流産の日、夫は愛人の元へ: Chapter 321 - Chapter 330

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第321話

素羽は分かっていた。今ここで司野と一緒に立ち去らなければ、清人はきっと安らかに休めないだろうと。「戸田さん、ここはお願いしますね」去り際、素羽は岩治に後を託した。素羽が部屋を出ていくのを見届けると、清人はそれまでの穏やかな表情を消し、淡々と、しかし拒絶の色を滲ませて口を開いた。「戸田さん、お気遣いなく。一人で大丈夫ですから」それは、あからさまな遠回しの拒絶だった。岩治も無理に居座るつもりはなく、穏やかに微笑んで応じる。「では、専門の付き添いを手配しましょう」「必要ありません」「いえいえ、そうおっしゃらずに。あなたはうちの奥様のために、これほどまでに尽くしてくださったのですから。当然のことです。どうか遠慮なさらずに」岩治は、自分の言葉に棘が含まれていることを自覚していた。だが、立場が対立している以上、それは避けられないことでもあった。司野の病室は、清人と同じ階にあり、廊下の端と端に位置していた。病室に入ると、素羽は適当な椅子を選び、腰を下ろした。そのあまりにも無関心な態度に、司野は陰鬱な声を絞り出す。「何か言うことはないのか」素羽は問いを返した。「何て言ってほしいの?」「お前は一人だと言ったはずだ。なぜ清人がここにいる」「じゃあ、あなたこそどうしてここにいるの?」「お前の初めてのコンペだ。側にいてやりたかった」――側にいたい?その言葉は、空から札束が降ってくる話と同じくらい、現実味を欠いていた。素羽の心は、よどんだ湖のように凪ぎきっている。波一つ立たないまま、「清人先輩も、あなたと同じ理由よ」静かに返された言葉に、司野は露骨に不快感を示した。「あいつにそんな権利があるか!お前の夫は、この俺だぞ!」――俺の女に、なぜよその男が付き添う必要がある。「私はあなたの妻だけれど、あなたこそ、これまで私を美宜の後回しにしてきたじゃない」司野は反射的に否定する。「いつ、そんなことをした!」素羽は真っ直ぐに彼を見つめた。その澄んだ瞳は、彼の内側まですべて見透かしているかのようだった。「思い出させてあげようか?」司野は一瞬言葉に詰まったが、すぐに弁明する。「それとこれとは話が別だ。状況も、性質も、まったく違う」素羽は「ふーん」と小さく頷いた。「そうね。美宜に比べた
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第322話

その言葉は、司野の顔からさらに血の気を奪った。それでも、掴んでいた手は苦々しげに解かれた。無論、素羽の願いを聞き入れるつもりなど、彼には毛頭なかった。病室を出ると、廊下では岩治が待ち構えていた。視線が交わった途端、岩治は弁解するように口を開く。「有瀬さんのお世話を怠っていたわけではございません。あちらの病室から追い出されてしまいまして。ですが奥様、ご安心ください。すでに専門の付き添いを手配いたしましたので、あちらには人が付いております」「ありがとう」「滅相もございません。何かご用でしょうか?私めが代わってまいりますが……」素羽は躊躇いなく、簡潔に告げた。「彼の傷口が開いたわ。お医者様を呼んできてちょうだい」司野と清人は、揃って経過観察のために入院することとなった。素羽は一日の大半を夫である司野の傍らで過ごしはしたものの、清人のことをないがしろにするわけではなかった。再び清人の病室へと向かう素羽の後ろ姿を、司野は見るからに色を失った顔で見送った。だが、素羽はそれに取り合おうとも、気にかける素振りも見せない。たとえ四肢を縛り上げられようと、彼女は行くつもりだった。司野がいかに非道な振る舞いに及ぼうと、自分まで同じ土俵に下りるわけにはいかない。司野とて、ここは異国である。内心思うところはあっても、力ずくで我を通せる状況ではなかった。主人の表情が苦渋に歪む様を傍らで見ていた岩治は、心中で深く息を吐き、とうとう堪えきれずに口火を切った。「社長。そのように奥様を罪人のごとく監視し続けては、心がますます離れていくだけでございますよ」そもそも女性というものは、強引さよりも優しさに心惹かれるものだ。だというのに、我が主人が口を開けば、まるで肥溜めに落ちた石のように無骨で頑な一言が返ってくるばかり。これでは、誰が好いてくれようか。容姿と財力に恵まれているからとて、すべてが意のままになるわけではない。現に奥様は、社長に対してあからさまな冷たさを見せている。このままでは、夫婦どころか仇敵にさえなりかねない。お二人がいがみ合うのはご勝手だが、間に挟まれる者の苦労も考えていただきたい。すり減るのは、結局この私なのだから。司野は岩治を睨みつけ、感情の読めぬ平坦な声で言った。「お前は、随分とあいつを理解している
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第323話

S市で半月ほどを過ごし、傷もようやく癒え始めた頃、一行は帰国の途に就いた。四人は同じ便に乗り合わせている。司野は、当然のように自分たちへ張り付いてくる清人が、虫唾が走るほど気に食わなかったが、岩治の忠告を思い出し、かろうじて言葉を呑み込んで耐えていた。旅客機が着陸するやいなや、もはや我慢の限界とばかりに司野は素羽の手を掴むと、清人に別れの挨拶をさせる間もなく、空港の外へと強引に連れ出した。その場に残った岩治が、後始末を引き受ける。「有瀬さん、お迎えは?もしよろしければ、こちらでお車を手配いたしましょうか」清人はどこか壁を作るように、そっけなく断った。「結構です」その返答は岩治の想定内であり、深追いはせず、一礼を交わすと先にその場を辞した。空港の外では運転手が待ち構えていたが、そこには車から降り立ったばかりの美宜と利津の姿もあった。「司野さん!」司野は足を止めた。「なぜここに?」美宜は司野の全身をしげしげと眺め、心配を露わにする。「谷川さんから聞いたわ、お怪我をされたって。大丈夫なの?お加減は?傷は深くないの?」司野の瞳に、一瞬、不快の色が閃いた。向かいに立つ利津を睨めつけ、内心で毒づく。――余計なことを。「何でもない」美宜は納得がいかぬ様子でなおも食い下がった。「国内の先生にもう一度診ていただいた方がいいわ。今すぐ私たちが送っていくから」そのやり取りを見ていた素羽は、司野に掴まれた手を振りほどこうとする。「美宜さんのご厚意を無駄になさらないで。早く行ってさしあげたら?」――ちょうどいい。私とて、この男と一緒に帰りたくはなかったのだから。逃れようとする素羽の手を一層強く握りしめると、司野は美宜の申し出を無下に断った。「もう治った。美宜を送り届けてやれ」言葉の後半は、利津に向けられたものだった。それだけを言い捨てると、司野は素羽の手を引き、振り返ることなくその場を立ち去った。車に乗り込むと、司野はようやく手を離した。「俺を試すような真似はよせ。言ったはずだ、美宜とは疚しい関係などないと」素羽は彼に握られていた手首を労るようにさすった。――まったく、自意識過剰にもほどがある。試すだなんて、私にそんな意図など微塵もないというのに。それに、あの二人の関係がど
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第324話

素羽は言葉を失った。何と返すべきか、皆目わからなかった。それからの時間は、雅史の助手としてひたすら仕事に没頭した。せっかく手にした好機である。鉄は熱いうちに打たねばならない。雅史もまた根っからの仕事人間で、時間を忘れて打ち込むうちに、気づけば窓の外には夜の帳が下りていた。不意に覚えた空腹感が、彼を現実へと引き戻した。「飯を食ってから帰れ」その提案に、素羽は素直に頷き、家政婦が用意してくれた夕食を共にいただくことにした。だが、箸に手を伸ばすより早く、彼女のスマートフォンが鳴動した。司野からの着信だ。素羽が出ようとした瞬間、雅史がそれをひったくると、無造作に拒否ボタンを押し、あまつさえ電源まで切ってしまった。「もとより食欲がないんだ。飯の前に、胸焼けのするような真似はさせんでくれ」「……」――先生が食欲不振だなんて、ありえるはずがない。雅史の食欲は、食べ盛りの若者にも引けを取らない。若者よりもよほど健啖家であることを素羽は知っていたが、小言を恐れて口をつぐんだ。司野の面の皮の厚さは、素羽もとうに承知している。それゆえ、彼が招かれざる客として姿を現したときも、驚きはしたものの、どこか腑に落ちる思いがした。司野は礼儀正しく一礼した。「曽根先生、こんばんは」「お前の顔を見て、すこぶる気分が悪い。そのツラにパテでも塗ってきたのか? なぜそうも厚かましい。わしがいつ中へ入れと許した?」雅史は嫌悪感を隠そうともしなかった。司野は怒る気配も見せず、微笑んで答えた。「妻を迎えに参りました」「彼女がお前の妻になったのは今日が初めてか? 以前は迎えに来ようともしなかったくせに、今さら何の務めだ?」司野は素直に非を認めた。「以前の俺は至らなすぎた。これからは彼女を一番に大切にします。もしお疑いなら、その覚悟は常に見ていていただいても結構です」雅史は吐き捨てるように言った。「四六時中、あんたを見ていろとでも言うのか。わしを何だと思っている。親でもあるまいし、そんな暇があるものか」司野は意に介した様子もなく、あくまで慇懃に尋ねた。「妻を連れ帰ってもよろしいでしょうか」「目が見えんのか? 今、食事中なのが分からんのか」雅史は容赦なく追い払おうとする。「食事の邪魔だ。外で待っていろ」司野が思わず素羽に視線
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第325話

司野は視線を落とし、素羽をじっと見つめていた。その深淵のような黒い瞳の奥に、わずかながら優しさが滲んでいる。「こうすれば、お前の気は晴れるのか?」日はとっくに暮れていたが、街灯が周囲を白々と照らしている。男の瞳に映る光は淡いものだったが、素羽はそこに、これまで一度も見たことのない柔らかな光を見た。それは奇妙で、そして稀有な光景だった。素羽は彼の言葉の意図を察したが、心に浮かんだのはただ冷ややかな嘲笑のみだった。自分の面子を犠牲にして、私を宥めようというのかしら。本当に、自惚れの強い男。素羽はその誘いには乗らず、話を逸らした。「もう遅いわ」そう言い捨てると、素羽は彼の傍らをすり抜けるように車へ乗り込んだ。司野は素羽が対話を拒んでいると気づいたが、望む答えが得られぬと悟ると、それ以上は強いなかった。景苑別荘。車を降りるなり二階へ上がろうとした素羽は、司野に腕を掴まれた。「俺はまだ、晩飯を食っていない」「森山さんに作ってもらえばいいでしょう」司野は念を押すように言った。「お前が食事をしている間、俺はずっと外で冷たい風に吹かれていたんだぞ」その声には、微かな恨みがましさが滲んでいた。「そうしろと頼んだわけではないわ」「素羽」素羽が冷ややかに返すと、司野は眼差しを深くして低く名を呼んだ。「まだ何か?」と、素羽はさも心外だというように聞き返す。司野は彼女を真っ直ぐに見つめた。「お前の作った飯が食いたい」「眠いの」「俺は腹が減っている」素羽は、手首を掴んで離さない彼の力強い指先に視線を落とした。「放してくれなければ、作りようがないわ」その言葉を聞き、司野の眉間の皺がようやく和らいだ。彼は素羽の後に続き、「俺も手伝う」と声をかける。「結構よ」素羽はにべもなく断ると、キッチンのドアをぴしゃりと閉めた。物音を聞きつけてやってきた森山の手伝いの申し出も、彼女はきっぱりと断った。ほどなくして、素羽は出来上がった料理を運んできた。「できたわ」立ち去ろうとする彼女の背に、司野の声が投げかけられた。「ここにいろ」素羽は逆らわなかった。抗っても無駄だと、とうに悟っていたからだ。司野は満足げに料理に箸をつけた。だが、一口含んだ瞬間、その顔はみるみるうちに真っ赤に染まり、慌て
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第326話

「社長、おはようございます」司野は短く頷いた。「コーヒーを淹れて持ってきてくれ」朝一番からコーヒーとは、やはりろくに眠れなかったらしい。岩治は淹れたてのコーヒーを手にオフィスへ入った。「少し休まれてはいかがです?会議の時間を後ろにずらしましょうか」彼が司野の体調を気遣うのは、純粋な親切心からだけではない。上司の睡眠不足は情緒の不安定に直結する。仕事中、些細なことで感情を爆発させかねないのだ。要するに、岩治は今日、とばっちりを受けたくなかった。司野は微かに眉をひそめた。「必要ない。書類をこっちへ」岩治は心の中で溜息をついた。今日は一日中、細心の注意を払って過ごさねばならない運命らしい。司野は一通の書類にサインを終えると、ペンを止めて顔を上げた。「怒っている相手を、どうやってなだめる?」岩治は一瞬動きを止めたが、すぐに口を開いた。「また奥様を怒らせたのですか?」司野の眼差しが、沈み込むように彼を射抜く。岩治は唇を噛んだ。――そうだろうとは思っていたが、睨まれるほどのことだろうか。「奥様は何に対して怒っていらっしゃるのですか?」「分からん」「……」病を治すにも原因の特定が必要だというのに、肝心なことを何一つ語らずに解決策だけ求められても困る。岩治は、ひとまず一般論としての助言を口にするしかなかった。「女性の心というものは、案外脆くて柔らかいものです。根気強く接し、常に相手が何を求めているかに注意を払い、十分な安心感を与えて差し上げてください。そうすれば、おのずと心を開いてくれるはずですよ」――まあ、今の社長には一番難しいことでしょうけど。岩治は心の中でそっと付け加えた。「受け入れられなかったら?」受け入れてもらえないということは、すでに相手が自分を必要としていない。心が離れてしまっているということだ。岩治は再び主人のために心の中で合掌しつつ、慎重に言葉を選んだ。「継続は力なり、ですよ」司野はそれ以上何も言わず、ただ手で合図して彼を下がらせた。岩治は念を押す。「社長、お昼は会食の予定が入っておりますので」司野は短く返事をして、承知している旨を示した。——昼時、素羽は清人と待ち合わせていた。彼女はいくつかの栄養食品を携え、レストランで
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第327話

素羽と清人は自然と距離を取り、安全な間合いを保った。司野が歩み寄ってくると、素羽はそれとなく清人の前に立ちはだかる。清人は彼女の意図を察しつつも背後に隠れることはせず、彼女と肩を並べて立った。一連のやり取りを目の当たりにした岩治は、頭皮がじんと痺れるような感覚に襲われ、胸の内で警報を鳴らした。事態が大きくなる前に場を収めようと、彼も二人の後を追う。素羽も岩治と同じ考えだった。司野が発狂するのを防ごうと、十二分に気を張り詰めている。しかし、その警戒は空振りに終わった。今日の司野は予想に反して、不気味なほど常軌を保ち、異様なまでに冷静だった。清人に対して敵意を示す様子は、これっぽっちもない。司野は素羽に視線を落とし、穏やかな口調で言った。「食事か」素羽「……」岩治は足を止めた。この口ぶり……怒っていないのか。司野が何を企んでいるのか分からず、素羽は曖昧な返事を返す。司野の視線は次に清人へと向けられた。それはむしろ丁寧と言っていいほどだった。「今度時間を作って、夫婦で改めて食事に招待させてくれ。妻が世話になった礼をしたい」清人は一線を引くように答えた。「必要ありません」司野は拒絶など聞こえなかったかのように、素羽の頭に手を置いて軽く撫で、そのまま段取りをつけ始める。「時間はお前が調整してくれ」素羽「……」――まともだなんて、思うのが早すぎたわ。「じゃあ、ゆっくり。俺は仕事があるから」そう言い残し、司野は清人に軽く会釈して立ち去った。この瞬間、当事者である司野を除き、誰も彼の胸中を測りかねていた。岩治は慌てて司野の後を追う。二人が去った後、素羽はこの話題を引きずろうとはしなかった。よほど頭がどうかしていない限り、あの二人を同席させて食事などできるはずがない。素羽は司野の件を、単なる幕間の出来事として聞き流した。「仕事なんでしょ。もう行きなさいよ」清人は言った。「また連絡するよ」素羽は頷く。清人を見送った素羽が車を出そうとした、その時だった。司野から電話がかかってきた。「見送ったか」その言葉に素羽が振り返ると、二階の窓辺に立つ司野が、まるで予定報告のように続けた。「夜は少し遅くなるかもしれない。夕飯は先に済ませてくれ。待たなくていい」素羽はかすかに眉
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第328話

司野と結婚して以来、素羽はそうした場所へは一切足を運ばなくなっていた。彼は刺激の強いものをひどく嫌い、とりわけ食後に体に匂いが残るような料理を毛嫌いしていたからだ。彼の好みに合わせるため、素羽はそれらすべてを断ち切ってきた。楓華もそれを知っていたため、素羽がこの店を選んだとき、少なからず驚いた。「司野に文句を言われるのが怖くないの?」素羽は店員にビールを一本注文し、短く息をついた。「彼に文句を言われるなんて、今に始まったことじゃないわ」司野のために、素羽はあまりにも多くの自分を失ってきた。もう彼の付属品のように、魂の抜けたロボットとして生きるのは御免だった。一本のビールはほとんどが素羽の胃へと消え、彼女の頬には淡い赤みが差した。アルコールは時に本性を解き放つ。彼女の唇には、久しく見ることのなかった笑顔が浮かんでいる。束の間の自由を謳歌するその姿を目にして、楓華の胸には切なさが込み上げ、親友への不憫さでいっぱいになった。素羽の苦労を、楓華は誰よりも理解していた。素羽という人間は、責任感が強すぎる。もう少し薄情で、自分勝手に生きられたなら、これほど苦しまなくて済んだだろうに。「どうして泣いてるの?」素羽がぽかんと尋ねた。楓華は頬の涙を拭った。「目にゴミが入っただけよ」素羽は口元についた酒の跡を指でぬぐい、笑って言った。「私、酔ってないわよ。それくらい見て分からないと思ってる?泣くことなんて何もないわ。今の私は使い切れないほどのお金があって、どこへ行っても最高の待遇。司野と一緒に歩けば、周りの人は最大級の敬意を払ってくれる。誰もが私を見て、なんて運がいいんだって言うわ。私の家柄で司野の妻になるなんて、確かに不釣り合いな玉の輿だものね」素羽はもう一本瓶を開け、楓華のグラスに注ぐと、自分は瓶のまま一口煽った。「今はもう吹っ切れたの。あんたの言う通りだわ。結婚において、感情を除けば、一番大事なのは物質的な豊かさよ。人間、欲張りすぎちゃダメ。あれもこれもなんて望まない。今の私のメンタル、すごく安定してるんだから」考え方を変えれば、景色は一気に変わる。本当に納得しているのか、それともそう思い込もうとしているだけなのか。それは彼女自身にしか分からない。あるいは、彼女自身ですら分かっていない
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第329話

司野は頬を紅潮させた素羽を見つめ、その瞳を暗く沈めた。「……素羽を、あえて傷つけようとしたことなど、一度もない」そう言い残し、彼は素羽を抱きかかえたまま立ち去った。楓華は、その背中を静かに見送る。司野がその言葉を最後まで貫けると確信できたわけではない。ただ、素羽が自分自身で口にした通り、気に病まず、執着せず、心穏やかに過ごせるようになることだけを願っていた。車に乗り込むと、司野は運転手に短く告げた。「出してくれ」酔った素羽は驚くほど大人しく、騒ぐことも暴れることもなく、ただ静かだった。景苑別荘。車が止まり、司野が彼女を抱き上げようとした、その瞬間、ちょうど素羽が目を開けた。澄んだ黒い瞳には、かすかな困惑と迷いが浮かび、自分がどこにいるのか分かっていない様子だった。その茫然とした視線を受け、司野の声は思わず和らぐ。「家に着いたぞ」ワンテンポ遅れて、素羽はようやく自分が景苑に戻ってきたことに気づいた。「……ここは、私の家じゃないわ」彼女の家は、とっくの昔に司野によって壊されてしまっていたのだから。その言葉に、司野はわずかに眉をひそめた。素羽は彼を避けるように、自分の力で車を降りた。足取りはおぼつかず、一歩踏み出すたびに綿の上を歩いているかのようにふらつき、千鳥足になる。司野は彼女の後ろについて歩き、何度も抱きかかえようとしたが、そのたびに素羽に拒まれた。酔っても暴れはしないが、頑固さは健在だ。司野が何かをしようとすれば、素羽はことごとく反抗する。司野は無理強いせず、素羽が倒れそうになった時すぐ支えられるよう、ただ後ろから見守るしかなかった。素羽は蛇行しながらもなんとか二階へ上がり、司野はその間ずっと細心の注意を払って護衛していた。そんな状況でも彼は忘れず、森山に酔い覚ましの飲み物を用意するよう言いつけていた。寝室に入るなり、素羽はベッドへ直行し、そのまま倒れ込んだ。酒の匂いを纏ったまま眠ろうとする彼女を見て、司野の眉間には深い皺が刻まれる。「風呂に入ってから寝ろ」素羽は聞く耳を持たず寝返りを打ち、そのまま眠り続ける。「素羽!」うるさく感じたのか、素羽は毛布を手繰り寄せ、頭まで被ってしまった。「起きろ」このまま放っておくことはできず、司野は毛布を剥ぎ取ろうと
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第330話

素羽は食卓についた。昨夜は酒ばかり飲んで何も口にしていなかったため、空腹を覚えていた。朝食を運びながら、彼女は口を開く。「話って?」司野は箸を動かしたまま、続けるよう促した。「離婚協議書にサインしなかったということは、まだ夫婦関係を続けることを黙認した、という意味だ。夫婦である以上、妻としての責任は果たしてもらう。俺たちのこれからの人生は長い。俺は、自分の結婚生活が針のむしろのような、常に棘の立ったものになることは望んでいない。穏やかに、夫婦生活を維持したい」その言葉を聞き、素羽は箸を止めて視線を上げた。司野は続ける。「もちろん、夫としての責任は俺も果たす。妻としての名誉も与えるつもりだ」素羽は一度瞬きをしてから、「分かったわ」とだけ答えた。「お前の方は、何か言いたいことはないのか」司野が問う。素羽は逆に問い返す。「私の意見なんて、どうでもいいじゃない?」「そんなことはない」素羽は淡々と言った。「子供は産まないわ」司野は即座に返す。「別の条件にしろ」素羽は口角をわずかに上げ、瞳に嘲りを滲ませた。「前にも言ったけど、保証できないことを安易に約束しないで。安っぽく見えるわよ」司野は、素羽が理不尽なことを言っていると感じた。子供を授かることは以前からの計画であり、今さら覆せるはずがない。「俺が一生子供を持たないなんてありえない。須藤家にも継承者が必要だ」素羽は反論せず、静かに頷いた。「じゃあ、他に言うことはないわ」承諾する以外、今の自分に選択肢はなかった。司野は言う。「子供はお前を縛るものじゃない。俺たちの絆になるものだ。お前も以前は子供が好きだっただろう」素羽は、ただ「子供」が好きだったわけではない。かつての彼女は、司野と自分、二人だけの子供を産みたかったのだ。司野の言う通り、子供が二人の絆になり、それがあって初めて、自分たちが一体になれると信じていた。だが今はもう、産みたいとも、何かを証明したいとも思わなくなっていた。素羽は短く、ただ一言だけ告げた。「あなたには子供ができるわよ」素羽が納得したのを見て、司野の眉間の皺はようやく緩んだ。朝食を終え、司野が出勤しようとした時、彼が送ってきた視線の意味は明白だった。素羽は歩み寄り、背伸びをして彼の頬
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