All Chapters of 流産の日、夫は愛人の元へ: Chapter 331 - Chapter 340

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第331話

朝、出社するなり、司野は岩治に花束とギフトの手配を命じた。オフィスを出る際も、岩治は念を押すように繰り返した。「社長、優しくですよ。くれぐれも、優しくです」司野はその忠告を鼻で笑ったが、素羽を迎えに行った時には、口角に自然と笑みが浮かんでいた。冷徹な印象を和らげ、親しみやすい夫を演じるためだ。「プレゼントだ」素羽は差し出された花束を見つめ、それを受け取る。「ありがとう」向かったのはヨーロッパ料理のレストランだった。到着すると、司野は紳士然と車のドアを開け、素羽もまた彼の「お芝居」に合わせて動いた。レストランは司野によって貸し切りにされていた。キャンドル、音楽、赤ワイン、そして生花。欠けるもののない完璧なセッティングは、ドラマで見る「俺様社長のキャンドルディナー」そのものだった。司野は自ら彼女のグラスにワインを注ぐ。「今まで欠けていた分は、これから少しずつ埋め合わせていくつもりだ」彼の自己満足的な「補填」に対し、素羽は一切意見を挟まず、ただ彼の独壇場を静かに眺めていた。——利津は美宜を乗せ、同じレストランへとやって来た。「ここのシェフは、俺がヨーロッパから直接招いたんだ。本場の味が楽しめるぞ」二人が店内に足を踏み入れると、ロビーマネージャーがすぐに駆け寄ってきた。「オーナー、申し訳ありません。本日は須藤様が貸し切りにされておりまして、他のお客様はご案内できないのです」そう、司野が貸し切ったのは、利津の店だった。利津は驚いて声を上げる。「司野が中にいるのか?」マネージャーは頷いた。「はい」「誰とだ?」マネージャーはありのままに答える。「綺麗な女性の方とご一緒です」それを聞いた瞬間、利津の脳裏に一人の顔が浮かんだ。素羽だ。横を見ると、案の定、美宜の顔色はひどく悪くなっていた。「行くぞ。俺が中へ連れてってやる」二人が中に入った時、ちょうど司野が素羽のためにステーキを切り分けているところだった。利津は遠慮なく歩み寄る。「おい司野、水臭いじゃないか。残業だって言ってたのは、これのことか?」素羽はぼんやり考え事をしていたが、その声に驚き、司野と同時に顔を上げた。利津と美宜が並んで現れたのを見ても、素羽の心には波一つ立たなかったが、司野はわずかに眉
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第332話

「嫉妬する人なんていないわ。羨ましく思う人はいるけど」美宜は必死に表情を取り繕ったものの、太ももを強く掴む指先が、抑えきれない感情を雄弁に物語っていた。素羽は口元にかすかな笑みを浮かべる。「羨ましがられるのは当然だわ。司野はこれほど優秀なんだもの。こんな男性を夫に持てるなんて、確かに自慢したくなるほどのことよ。美宜さんも、将来は彼みたいな素敵な男性を見つけてお嫁に行かなきゃ。もし司野より劣るような人だったら、連れ歩くのも格好がつかないでしょう?」司野は、素羽の言葉に棘が含まれていることに気づいていたが、何も言わず、グラスを持ち上げてワインを一口含んだ。美宜は拳を固く握りしめる。「私は、結婚するつもりはない」素羽はさももっともらしく言った。「あら、結婚しないなんてダメよ。ちゃんとしなきゃ。まさか結婚もしないで、司野に一生養ってもらうつもり?血の繋がりもない他人にずっと世話になるなんて、外聞も良くないわ。そう思わない?」美宜の目尻が赤く染まった。「そんなこと……素羽さん、どうしてそんな言い方をするの?」「どうして泣き出すの?私、何か間違ったことを言ったかしら?間違ってないわよね。あなたたち、もともと親戚でも何でもないんだから」素羽が無垢を装った表情を見せると、利津がたまらず美宜に助け舟を出した。「他人だなんて、ひどい言い草だな。美宜ちゃんの姉さんは、かつて司野の恋人だったんだ。関係は深かったんだよ」素羽は焦ることも怒ることもなく、淡々と返した。「あなたも言った通り、それは美宜さんのお姉さんの話でしょう?美宜さん自身に何の関係があるの?それに、お姉さんだって所詮は元カノよ。忘れたの?今、司野の妻は私よ」利津は言葉を失った。言い返せなかったわけではない。ただ、司野が黙認しているその態度が、反論を封じていたのだ。動かしようのない事実が、そこにあった。そのとき、美宜が勢いよく立ち上がった。「気分が悪いので、先に失礼します」利津も立ち上がり、素羽を忌々しげに指差す。「美宜ちゃんの身に何かあったら、司野だって黙っちゃいないからな!」吐き捨てるように言い残し、利津は彼女を追って店を出て行った。嵐のように二人が去り、再び静寂が戻る。素羽は、なおワインを飲み続ける司野を見つめた。「
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第333話

素羽の受賞は、テロに遭遇するという不運に見舞われながらも、その名誉に陰りはなかった。「新鋭デザイナー」という肩書きは、彼女の格を押し上げるには十分すぎるほどだった。さらに雅史の推薦もあり、業界内で名を轟かせるほどではないにせよ、雅史には確かな後継者がいる――その事実は、静かに、しかし確実に広まっていった。司野が素羽を迎えに来たとき、目に飛び込んできたのは、余裕をもって社交をこなし、落ち着き払った様子の素羽だった。その瞬間、素羽の身に光を見た気がした。ひどく輝かしく、まばゆい光だった。司野は車を降り、素羽のもとへ歩み寄る。彼に気づいた者が、驚きの声を上げた。「須藤社長、どうしてこちらへ?」司野は軽く頷き、挨拶を返す。「妻を迎えに来ました」妻を……迎えに!?周囲の視線が一斉に素羽へと集まった。無理もない。そこにいた女性は、素羽一人だけだったのだから。「素羽さんが、奥様だったのですか?」司野は微笑んで応じ、みずから素羽の手を取った。「ああ」その言葉が終わるや否や、人々は我先にとお世辞を並べ立て始める。「道理で、これほど優秀なわけです」耳当たりのいい言葉が、まるで無料配布でもされているかのように次々と飛び交った。一方で、素羽の顔からは先ほどまでの輝きが消え、代わりにかすかな翳が差し始めていた。称賛されたのは素羽本人だけではない。雅史もまた、「素晴らしい弟子を取った」と持ち上げられた。私的な場では、雅史はどこまでも頑固で愛想のない男だが、公の場では自分のためではなく、素羽の顔を立てるために振る舞う。彼女の立場が悪くならないよう、必要最低限の社交性をまとっていた。一同が解散する段になり、司野が社交辞令を口にする。「曽根先生、お送りしましょう」二人きりになると、雅史はもう遠慮しなかった。鼻で笑い、吐き捨てる。「お前の車になど乗ったら、寿命が縮まりそうだ」そう言い残し、袖を払って顔を上げ、そのまま去っていった。素羽も司野の手を振り払った。彼女が車へ向かって歩き出すのを見て、司野は悠然とその後に続く。車に乗り込み、司野はシートベルトを締めながら尋ねた。「家で食べるか、外で食べるか?」素羽は淡々と答える。「別に、どこでも」司野はその声に手を止め、彼女を振り返った。
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第334話

素羽は両腕を組み、車窓へと視線を逸らした。これ以上、無意味な反抗はしない。自分の足首に結ばれた鎖を、今の力では解くことなどできない――その事実を、痛いほど理解していたからだ。司野は彼女の頑なな横顔をじっと見つめ、自分の親切を仇で返されたような気分になり、あえて腰を低くして宥めることもしなかった。車内には不気味な沈黙が流れ、誰ひとり口を開かない。その静寂は、景苑別荘に到着するまで続いた。車が止まるや否や、素羽は待ちきれない様子でドアを開けて降りる。司野も一歩遅れて後に続いた。家に入ると、素羽は真っ直ぐ二階へ上がろうとした。「こっちへ来い。夕食だ」背後から司野の声が響く。素羽は振り返りもせず答えた。「お腹、空いてないわ」司野の声が冷たく沈み、圧倒的な威圧感を帯びた短い命令が放たれる。「来い」素羽の足が止まった。両手は固く握りしめられ、爪が手のひらに食い込む。奥歯を噛み締め、目を閉じ、深く息を吸い込む。そして溜まった毒を吐き出すように、ゆっくりと息を吐くと、手の力を緩め、踵を返して階下へ降りた。ほどなくして、森山と梅田が次々と料理をテーブルに並べる。素羽は俯いたまま、ただ黙々と食事を口に運んだ。司野は彼女の前に汁物の椀を置く。「飲め」言われるままに箸を置き、素羽はスープを啜った。しかし不意に喉に詰まらせ、口を押さえて激しく咳き込む。司野はハンカチを差し出した。「ゆっくり飲め」数度咳き込み、ようやく落ち着きを取り戻すと、真っ赤だった顔も次第に元の色へ戻っていった。司野が言う。「無礼を働いたと感じたなら、これからは姿を見せないようにする。自分を追い詰めてまで気を揉む必要はない」素羽は口元の汚れを拭った。――今さらそんなことを言って、何になるというの?知られるべきことは、すでに知れ渡ってしまったのに。「これからは、何事もお前の意見を先に聞くようにしよう」この言葉が、司野なりの譲歩であることを素羽は理解していた。彼女は、この「謝罪」を受け入れることにした。二人の間の争いが「沈静化」する一方で、影に潜んでいた梅田は情報員と化し、本宅へ連絡を入れていた。電話がつながるや否や、梅田は一切出し惜しみすることなく、琴子に状況を報告し始める。「素羽が司野に八
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第335話

司野はもともと書斎で仕事を片付けていたが、やっているうちに次第に苛立ちが募り、体もなんとなくダルくなってきた。仕事に身が入らなくなり、パソコンを閉じて部屋に戻った。まだ掃除をしていた梅田は、司野が出てきたのを見て笑みを浮かべた。「旦那様、仕事はもう片付けましたか」司野は頷いた。「もう遅い、仕事は切り上げて、休んでくれ」梅田は頷いた。「はい」司野が部屋に入りドアを閉めるのを見届けると、彼女は一瞬にしてシャキッとし、再び聞き耳を立てようと壁際に忍び寄る。すでにベッドに横になって休んでいる素羽を一瞥し、司野はきびすを返して浴室に入った。お湯だと不快だったので冷水を浴びると、すぐに気分がだいぶ楽になった。素羽はもともと眠ってはいなかった。どうしたことか、今夜は格別に暑く感じられ、布団を掛けたくないほどだった。浴室から聞こえてくるパラパラという水音を聞いていると、さらに喉が渇き、体が火照ってくるのを感じた。生理によるホルモンバランスの乱れで、よからぬ邪念を抱いてしまったのだろうか。生理なんて以前にもあったことなのに、なぜ今回はこんなに反応が強いのか。なぜこんなに飢えているのか。素羽は自分自身のこの反応に、嫌悪感すら覚えた。水音が止み、司野が浴室から出てきた。布団がめくられ、隣のマットレスが沈み込む。冷んやりとした冷気が漂ってくると、素羽は思わず心の中で安堵の吐息を漏らした。司野の方へ擦り寄りたい衝動に駆られたが、理性を総動員してそれを抑え込んだ。しかし司野は、彼女のように心地よくはなかった。布団の中がまるで火炉のように感じられ、熱気が凄まじい。目を上げ、頬を赤く染めた素羽を見ると、司野は手を伸ばして彼女の額に触れた。「熱があるのか」素羽は耳鳴りがして、「熱」という言葉が「発情」と聞こえてしまった。自分の邪念を見透かされたと思い込み、羞恥心から逆上して彼の手を振り払った。「発情してるのはそっちでしょ」自らこんな恥ずかしいことをするなんて、死んでも認めたくない!司野は瞬きもせず彼女を見つめた。「顔が真っ赤だぞ、自分でわからないのか?」素羽は手を伸ばして自分の顔に触れてみたが、確かに熱い。ふと視線を落とすと、男の引き締まった胸筋が目に入り、たまらず生唾を飲み込んだ。「なんで服を着てないの?」
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第336話

梅田はその声を聞いた瞬間、呪縛にかけられたかのように全身が硬直した。その場に立ち尽くし、指一本動かすことすらできない。薬の効き目が回り、素羽の体は耐えがたい渇きに襲われていた。彼女もベッドから出ようとしたが、足が床につく前に、そのまま崩れ落ちる。鈍い衝撃音が響き、司野の意識が引き戻された。なぜ梅田がこんな暴挙に出たのか、どうやって薬を盛ったのか――司野には見当もつかなかったが、今はそれどころではない。彼は大声で森山を呼びつけた。まず梅田を逃がさないよう見張らせ、それから家庭医に即刻連絡するよう命じる。二人の異常な状況を包み隠さず伝えさせた。二人が薬を盛られたと聞いた森山は、顎が外れるほど驚愕した。「夫婦なのに、なぜ自力で解決せず医者を?」という疑問が一瞬よぎったが、事態は一刻を争う。彼は馬を飛ばす勢いで家庭医に電話をかけた。司野は再び浴室へ向かい、冷水を浴びて熱を冷まそうとした。一方の素羽は、生理中ということもあり体を冷やすことができず、ただ歯を食いしばって耐えるしかなかった。薬の暴力的な衝動に引き裂かれそうになりながら、素羽は心の中で梅田の非道さを呪った。家庭医は飛ぶような速さで景苑別荘に駆けつけ、すぐさま処置を開始した。三時間近く慌ただしく立ち働き、ようやく二人の状態は落ち着きを取り戻す。司野は念のため二人の血液を採取させ、体内に有害な成分が残っていないか精密検査に回すよう指示した。ようやく一息ついたところで、司野は梅田を目の前に引きずり出した。司野は煙草をくゆらせ、顔には深い陰影を落としたまま低く言う。「吐け。誰に唆された」梅田に隠し通す度胸などあるはずもない。彼女は震えながら事実をぶちまけた。「……琴子様です」司野の手が止まった。「母さんが?」梅田は何度も頷き、琴子から命じられた内容を一部始終白状した。それを聞いていた素羽は、あからさまに大きな溜息をつき、白目を剥いた。――あの女、狂ってる……!孫を欲しがるあまり、正気を失ったとしか思えない。盗み聞きだけならまだしも、薬まで盛るなんて。もしこれで子供ができたとして、胎児に影響が出る可能性を考えなかったのか。万が一、こんな形で作られた子供に何か障害でもあったら、琴子は間違いなく「素羽のせいだ」と責任をなすりつけるに決まってい
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第337話

素羽の視線を受け、司野はどこか居心地が悪そうに目を逸らした。素羽は薄い毛布を体に引き寄せる。「今夜は主寝室で寝るわ」その言葉の裏には、彼と寝室を分けるという明確な拒絶があった。言い捨てると、彼女は司野の気持ちなどお構いなしに部屋へ戻り、内側から鍵をかけた。階下では、残された者たちが気まずそうに視線を交わしていた。司野は梅田にスマートフォンを突き返す。「お前はクビだ」梅田は今にも泣き出しそうな顔で縋る。「旦那様……」「今すぐ出て行け」司野の低い声に、梅田は瞬時に口を閉ざした。肩をすくめるようにして這うように荷物をまとめ、夜更けにもかかわらず屋敷を後にした。司野は二階へ上がり、ドアノブに手をかけたが、やはり鍵がかかっている。扉の前に数秒立ち尽くし、彼は密かに溜息をつくと踵を返し、隣の客間へと向かった。琴子は司野からの電話に怯むどころか、まったく逆だった。懲りることもなく、再び素羽の前に立ちはだかったのだ。ほどなくして、琴子から素羽に本宅へ来るよう呼び出しの電話が入った。素羽は反抗的な嫁を演じ、にべもなく断る。「行きません」「私の言うことが、もう一言も聞けないというの?」素羽は単刀直入に返した。「無駄話なんて、聞くだけ時間の無駄ですから」「素羽!」琴子は貴婦人としての面目を失いかけた。「用がないなら切りますよ」これからは琴子の電話には出ないようにしよう。口論するだけ、疲れる。琴子は吐き捨てるように言った。「どうやら、本当にお前の祖母に会いに行かなければならないようね。目上の者を敬うことも教えられないなんて、どんな教育をしてきたのか、ぜひ聞いてみたいわ」その言葉に、素羽の瞳が鋭く凍りついた。やはり親子だ。脅し文句の引き出しまで、まったく同じ。素羽は琴子の要求を飲むふりをしながら、その裏ですぐさま司野に連絡を入れた。本宅へ呼び出されたのは小言を言われるためだけだと思っていたが、そこには美宜の一家も顔を揃えていた。素羽が到着したとき、一行は和やかに談笑しており、場の空気は極めて睦まじかった。琴子が何を企んでいるのかは分からないが、素羽は「毒を食らわば皿まで」の心境で、意に介さないふりをした。「挨拶もできないの?礼儀知らずね」素羽が席に着くなり、琴子の説教が始まる。素羽は琴子を
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第338話

素羽は淡々と口を開いた。「須藤家の問題に、部外者のあなたが口を挟む筋合いはないわ。自分の立場をわきまえなさい」その言葉が終わるやいなや、美宜の瞳に涙が滲んだ。「素羽さん、どうしてそんな言い方をするの?私はただ、良かれと思って……」「愚か者の親切心ほど、命取りなものはないわよ」素羽は含み笑いを浮かべた。淳子も娘を庇い立てする。「私たちはあなたのお義母様の客なのよ。そんな言い草、あんまりじゃないかしら」素羽は口角を吊り上げた。「私の客じゃありませんもの」――こちらは姑にさえ容赦なく言い返しているんだから、部外者のあなたに文句を言われる筋合いはない。琴子は当初、美宜一家を使って素羽の鼻を明かしてやるつもりだった。だが、今の素羽はただの「タンク」どころか、どこからでも急所を突いてくる「アタッカー」のようだ。道理も通じず、攻撃力も桁違いである。琴子は場を収めようと口を出した。「もういいわ。そんなところで暇そうにしていないで、キッチンへ行って手伝ってきなさい」素羽は悠然と座ったままだ。「嫌よ、疲れてるもの」琴子は反射的に言い返した。「何に疲れているというの?仕事もしていないくせに」素羽は彼女を真っ直ぐに見据えた。「何に疲れているか、お義母さんこそ一番よくご存知なんじゃないかしら?」ふと昨夜の「一件」が頭をよぎり、琴子の胸に一瞬、罪悪感が走った。そこへ、司野が姿を現した。素羽の口元が微かに吊り上がる。「ねえ、あなた。お義母さんに教えてあげて。昨夜、子作りのためにどれだけ頑張って、あなたが疲れ果てたかって」その一言で、リビングの空気は凍りついたように張り詰め、異様な気まずさに包まれた。琴子は心の中で「この女、狂ったの!?」と毒づいた。美宜の瞳には、どす黒い憎悪が渦巻く。――この泥棒猫……!わざと言ってるんだわ!五年もの間、卵一つ産めなかった「役立たず」が、五年経った今さら産めるようになるとでも?美玲もまた、素羽は頭がどうかしたのではないかと疑った。更生施設に入るべきなのは自分ではなく、素羽の方だったのではないか。そうでなければ、これほど急に「発狂」するはずがない。当の司野は、特に驚く様子もなかった。「そんなことまで他人に話す必要はないだろう」素羽は余光で、向かいに座る美宜の顔色を窺った。期待通り、彼
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第339話

美宜の顔は、屈辱と困惑が入り混じった色に染まっていた。素羽は司野のほうへ首を傾げて言った。「ねえ、あなたもそう思うでしょう?」司野も言葉を添える。「素羽の言う通りだ。美宜、お前も確かに結婚適齢期だ。何か要望や基準があるなら言ってみなさい。俺たちが選んでやる」美宜の表情はいっそう強張り、手は無意識のうちに固く握り締められた。淳子が娘の不本意そうな様子を見て、助け舟を出そうとする。「美宜ちゃんは……」言いかけたその時、美宜がそれを遮った。「特に要望はないわ。私を大切にしてくれる人なら、それでいいの」その言葉に、素羽はわずかに眉を動かした。――随分あっさり承諾したわね。いつものように言葉を濁したりしないの?彼女らしくない。司野が尋ねる。「他には?」「特にない」司野は頷いた。「分かった。では、こちらで心当たりを探してみよう」昼食はそのまま本宅で取り、美宜一家も同席した。食後、美宜たちは先に辞去していった。琴子が素羽を責め立てる隙もなく、司野が昨夜の件を切り出した。「お母さん、昨夜のようなことは二度としないでほしい」琴子は視線を泳がせながら、ぶつぶつと不満を漏らす。「結局うまくいかなかったじゃない。それにあの薬は、体に害がないよう特注させたものなのよ」――あんなに高いお金を払ったのに……と、琴子は内心で毒づいた。素羽は冷ややかに言った。「害がないと言うなら、お義母さんが飲めばいいじゃない」終わるはずだった生理は、今日になってまた量が増えていた。生理不順を引き起こしておいて、よくも害がないなどと言えたものだ。「私がそんなものを飲む理由があるわけないでしょう!」「暇だからじゃないかしら」琴子は怒りに目を見開いたが、火がつく前に司野が間に入って鎮めた。「もういい。昨夜のことはこれで終わりにしよう」息子に言われ、琴子は渋々矛を収めた。素羽はそれ以上口を開かなかったが、長居するつもりもなかった。踵を返し、そのまま外へと歩き出す。琴子はその背中を指差し、司野に告げ口した。「見たでしょ、あの態度!まだ私に顔を背けてるわ!」司野は淡々と答えた。「彼女は今、生理中な上にひどい目に遭わされたんだ。気分が優れないのは当然だろう」琴子は言葉を失った。梅田から、素羽が生理中だとは聞いていなかった。それを
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第340話

森山は言った。「柚月という方からです」素羽は一瞬動きを止め、その名前と顔を結びつけようとした。数秒後、ようやく誰のことか思い当たる。ちょうどその時、素羽のスマートフォンに柚月からメッセージが届いた。【素羽さん、実家の特産品を一箱送りました。今日あたり届くはずです】後から歩いてきた司野がそれを見て尋ねた。「いつの間に、柚月なんて人間と知り合ったんだ?」素羽は返信を打ちながら答える。「あなたも知っている人よ」司野は呆気に取られた。自分が知っている?そんな名前の人物に心当たりはない。メッセージを送り終え、スマートフォンをしまった素羽は、意味深な笑みを浮かべて彼を見た。「お義母さんが以前、あなたのところに買い込んできた『無料の生殖道具』のことよ」その説明を聞いた瞬間、司野の脳裏にぼやけた顔が浮かび上がった。即座に眉をひそめ、足元の箱を睨みつける。「何を企んでいる」なぜ素羽があの女と連絡を取り合っているのか。「企むなんて。ただの友達付き合いよ」「あんな女と、何の友達になる必要がある」素羽は逆に問い返した。「どうしていけないの?」司野は、その問い返しに自分を軽んじられたような気がして、不快感を覚えた。「夫のベッドに這い上がろうとした女と友達になるなんて、一体何を考えているんだ」素羽ははぐらかすように言った。「じゃあ、お義母さんがあんな人を連れてきたことについては、どう考えているの?この状況を作ったのは私じゃない。あなたのお義母さんよ」司野が怒る理由がどこにあるというのか。受益者は彼ではないのか。司野が抱かなかったのは彼の勝手だ。だが、その女を連れてきたのは彼の母親であり、彼とその母親の縁は切り離せない。司野は絶句した。怒りの矛先を失ったような、言いようのない無力感に襲われる。「だが、俺は断った」連座させられる必要はないはずだ。素羽は言った。「だから、あなたのことは責めていないわ。でも、私が誰と友達になろうと、あなたが口出しする必要もないはずよ」司野は再び言葉を失った。この件の元凶は琴子にある。根源を辿れば、自分も素羽も被害者だ。波風を立てず、この因果を収めるには、これ以上深追いせず引き下がるしかなかった。——琴子の手際は驚くほど早かった。「紹介する」と言ったそばから、
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