All Chapters of 流産の日、夫は愛人の元へ: Chapter 351 - Chapter 360

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第351話

司野が車に乗り込むと、岩治はドアを閉めようとした。その時、美宜が口を挟んだ。「まだ乗ってないわ」岩治は落ち着いた口調で言う。「美宜さん、私たちは会社へ向かいますので、お出かけであれば別の車を手配いたします」「いいの。今日は司野さんのアシスタントだから」そう言いながら、美宜は車の前に立つ岩治を軽く押しのけ、身を屈めてそのまま車内へ乗り込んだ。「……」岩治は車内の司野をちらりと窺った。司野が否定しない以上、美宜の言葉は事実なのだろう。さらに別荘の入口へ視線を向ける。いつも見送りに現れる素羽の姿はない。岩治は心の中で小さく溜息をついた。――もう、救いようがないな。——美宜が再び港町の瑞基本社に姿を現すと、秘書室にはたちまち新たな騒ぎが巻き起こった。社員たちは互いに顔を見合わせ、誰もが同じ疑問を胸に抱いていた。――どういうことだ?社長夫婦の関係に亀裂が入ったのか。それとも、美宜が再び寵愛を取り戻したのか。だが、答えを知る者は誰一人いない。美宜は柔らかな笑みを浮かべながら社員たちに挨拶を交わし、そのまま司野と並んでオフィスへ入っていった。社員たちは岩治に事情を聞こうとしたが、彼は一言で追い払った。「余計な詮索はするな。身のためだぞ」もっとも、岩治自身も状況を把握しているわけではない。知らないことを問い詰められても答えようがない。彼自身、内心では好奇心に駆られていた。——堀井家の人間が素羽の前に現れたのは、まったくの想定外だった。用事を済ませ、車に乗り込もうとしたその瞬間、裕美がどこからともなく飛び出し、行く手を塞いだのだ。「素羽さん、お願いです。どうかお手柔らかに、私たちを見逃してください」突然の懇願に、素羽は足を止めた。相手の顔を確認し、わずかに目を見張る。あれからまだそれほど時間は経っていないはずなのに、裕美は別人のようにやつれ、急激に老け込んだように見えた。「人違いですよ。私に頼んでも無駄です」素羽は淡々と言った。堀井家の件について、彼女に決定権など何一つない。言葉が終わるか終わらないかのうちに、裕美はその場で膝をついた。「素羽さん、お願いします!どうか堀井家のために口添えをしてください。美宜さんの件、私たちも被害者なんです。息子は
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第352話

親が子のために嘘をつくのは、世の常だ。だが、裕美がその話をした時のあの揺るぎない眼差しは、到底、嘘をついている者のそれには見えなかった。もし本当に、学が自らの意志で薬物を使用していたのではないとしたら、それは一体どこから入り込んだのか。誰が彼にそれを手渡したのか。そしてこの一件において、美宜は事情を知っていた傍観者なのか、あるいはすべてを仕組んだ首謀者なのか。美宜があまりにも素直にお見合いに応じたことに、素羽は以前から拭い去れない違和感を抱いていた。今までの不可解な出来事を繋ぎ合わせていけば、美宜の関与を疑うのは極めて妥当な結論といえる。そこまで思考を巡らせたところで、素羽は静観することを決めた。誰しもが心の奥底に自分本位な毒を飼っている。今の美宜が司野に擦り寄ろうとしているのは、火を見るよりも明らかだ。司野の側にも美宜に対する負い目がある。罪悪感という名の綻びは、人の心を脆くさせる。それが美宜を増長させ、結果として彼女の思う壺に嵌まっていく。その流れが自分にとって有利に働くのであれば、あえてそれを止める理由はどこにもなかった。——初夜の深夜に叩き起こされたことが堪えたのか、あるいは司野なりの「慈悲」だったのか。いつしか彼は、自ら進んで素羽と寝室を分けるようになった。この変化は、素羽にとってこの上なく清々するものだった。その間、司野は仕事以外の時間のほとんどを美宜の介抱に費やし、ついには無理がたたって自分まで風邪をこじらせてしまった。ある、何の変哲もない夜のことだ。岩治から素羽のもとに電話が入った。「奥様、社長がかなり酷く酔い潰れておいででして、少々熱もあるようです。私はまだクライアントの接待が残っておりますので、恐縮ですが、社長を病院へ連れて行っていただけないでしょうか」素羽は淡々と応じた。「住所を送って」電話を切ると、すぐにスマートフォンに住所が届いた。ホテルに到着すると、岩治が待ち構えたようにカードキーを差し出した。「お忙しいところ、申し訳ございません」「いいのよ」素羽が短く答えると、岩治は「では、私は接待に戻ります」と言い残し、足早に去っていった。秘書として、主人の一生を左右する一大事に、彼は真に心を砕いているのだろう。弱り切った社長の姿を見て、奥様が少しでも慈悲の心を抱
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第353話

利権や業績が絡むとなれば、連中の動きは恐ろしく早い。記者たちの手並みも鮮やかで、あろうことかライブ配信まで開始し、現場の状況をリアルタイムで世間に晒し始めていた。ひとたび不祥事が起きれば、そこには地域差別も男女の対立も、ましてや階級の壁すら存在しない。コメント欄は皮肉にも、主役である二人の素性を暴こうとする好奇心一色に染まっていた。「さあ、特定班の諸君、出番だ。この男女の全情報を3分以内に割り出せる有能な奴はいないか?」「ワクワクが止まらない!」画面上は、そんな類の書き込みで埋め尽くされている。素羽も今は、一視聴者として冷徹にこの「不倫騒動」を鑑賞していた。画面の向こうには、狼狽に震える美宜と、無理やり叩き起こされて呆然と自失する司野の姿がある。司野は割れるような頭痛に苛まれているのか、眉間に深い皺を刻んでいた。何が起きているのか、事態を全く飲み込めていない。その時、配信機材を担いだ記者が、容赦のない声を叩きつけた。「須藤さん!ホテルで密会とは、自宅で待つ奥様のことは頭にないのですか?瑞基グループの企業イメージへの影響をどうお考えで!」記者はそのまま、レンズを美宜の顔へと突きつける。「君、どこの店のホステスですか?須藤さんと密会するのはこれで何度目ですか!」記者の怒号のような問い詰めと、隣でひたすら泣きじゃくる美宜の声。それらが混ざり合い、司野の混濁していた脳がようやく再起動した。現状を完璧に把握した瞬間、彼の顔からは血の気が引き、こめかみが激しく引きつった。一方、クライアントとの会食の席にいた岩治は、部下からの報告を受けるなり顔色を一変させた。まるで自分自身が不倫現場を押さえられたかのような、背筋も凍る戦慄に襲われる。岩治は弾かれたように椅子から立ち上がった。困惑して顔を見合わせるクライアントたちを余所に、彼は部下に後を任せると、事態を収束させるべく夜の街へと駆け出した。――万事休すだ。ライブ配信は、記者が司野の身分を暴露した直後、規約違反を理由に遮断された。素羽は、車のフロントガラス越しに点滅するパトカーの赤色灯を見つめていた。これで、十分。これほど明白な不倫現場を押さえられた以上、司野が美宜を守り抜こうとするなら、前回のように検索ワードを削除する程度では済まない。
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第354話

司野は、凍てつくような鋭い眼差しで美宜を射抜いた。「なぜ、素羽に助けを求めなかった」意識を失っていた自分に、その時の記憶はない。だが、美宜には頼れる人間が傍にいたはずだ。美宜は悲痛な声を絞り出し、激しく肩を震わせて泣きじゃくった。その声には、隠しきれない不満と焦燥が混じっている。「司野さん、どういう意味……?まさか、今日の出来事が私の仕組んだことだと疑っているの?助けを求めなかったなんて、どうしてそんなことが言えるのよ。必死で求めたわ。でも、彼女は冷たく突き放して、私を見捨てて行ったの。そのすぐ後よ、警察が踏み込んできたのは……」涙に濡れた顔を寄せ、美宜は司野の耳に吹き込み続けた。先ほどの大騒動で、美宜の名声は地に堕ちた。もともと既成事実を作り、司野を搦め手で縛りつけるつもりではあったが、自らの誇りまでを犠牲にして窮地に立たされることなど、微塵も望んでいなかった。警察を呼んだのが素羽である確証はない。しかし、どちらにせよ、この泥沼の全責任は素羽に背負わせねばならなかった。何しろ、あまりに出来すぎたタイミングだった。まるで精緻に書き上げられた筋書き通りに、事が運んだかのように。「司野さん、私はこれからどうすればいいの?ネットでは誰も彼もが私を尻軽女だと罵っているわ。これじゃあ、もう生きていけない……」美宜はしゃくり上げながら、縋るように訴えた。その様子を傍らで見ていた岩治は、内心で吐き捨てるように悪態をついた。――ああ、忌々しい!この女は泣くことしか能がないのか。事に及ぶ前に、なぜ社長を叩き起こさなかった。今さら涙を見せて何になるというんだ。一体誰が、こんな余計な真似をしろと言った?既婚者である社長に不埒な野心を抱くなど、その厚顔無恥さには呆れるばかりだ。岩治の頭痛は、主である司野のそれにも勝るとも劣らない。今夜は一睡もできず、この不始末の火消しに奔走することになるのは火を見るよりも明らかだった。その時、重苦しい空気を破るようにドアが叩かれた。岩治が応対に出ると、そこには幸雄の側近である執事・直人が、彫像のように佇んでいた。直人は感情を排した声で、単刀直入に告げた。「幸雄様が、直ちにお戻りになれと仰せです」司野は、その言葉を予期していたかのように、静かに目を閉じた。
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第355話

現在のこの窮状は、須藤家が自分を追い詰めた結果に他ならない。素羽は毅然と言い放った。「私と司野さんの離婚を認めてくださるなら、私が記者会見を開き、彼とはとっくに協議離婚が成立していたと公表します。今日の騒動についても、彼と美宜が恋人同士として合意の上で行ったことであり、不倫の事実は一切ないと説明しましょう」幸雄が低い声で問い返す。「……もし、認めないと言ったら?」素羽はその瞳に、一片の躊躇も曇りも見せなかった。「それでも会見は開きます。ただし、語る内容は真逆のものになるでしょう。裏切られた妻として、世間に助けを求めるしかありません。会社の株価に致命的な悪影響が出ることは、おじいさんも望まないはずです」幸雄が口を開くより早く、司野が叫ぶように割って入った。「ふざけるな、ありえない!」しかし、素羽は微塵も動じない。「司野、今回は不倫の現場を押さえられ、その動画もすでに拡散されているの。前回のように、あなたの思い通りに情報を操作できるなんて思わないことね」司野は憎しみを込めて素羽を睨みつけた。「……あの時、俺に意識がなかったのは分かっているはずだ」異変に気づいた時、なぜ引き離さなかった。なぜ誤解を解こうとせず、これほどの大騒ぎに発展させたのか。「酔っていただけでしょ。死んでいたわけじゃないわ」素羽の唇に、冷ややかな嘲笑が浮かぶ。「美宜の面倒を見ると言い出したのは、あなた自身。ベッドの上でああして『世話し合う』のが、あなたの望みだと思っただけよ。無粋に邪魔をして、目が覚めたあなたから『空気が読めない』なんてなじられるのは、もう御免だわ」司野の呼吸が荒く乱れる。「離婚するためなら、これほど卑劣な手段も選ばないというのか?」彼は、素羽がこれほどまでに冷酷になれるはずがないと信じていた。だが、目の前の現実は、彼女が目的のためならなりふり構わず牙を剥くことを冷徹に示していた。「これも全部、あなたに教わったことよ」素羽は静かに告げた。それこそが、司野が自分に刻み込んだ最初の教訓だった。彼女は視線を司野から幸雄へと戻す。「おじいさん、決断を」幸雄の濁った双眸の奥で、老獪な計算が渦巻く。「……明日、記者会見の手配をさせよう」須藤家の名誉という絶対的な天秤の前では、他のすべては些事に
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第356話

「女を抱いたんなら、責任くらい取りなさいよ。じゃないと、亡くなった彼女に妹を裏切ったって知られたら、地獄から這い上がってきて恨まれるわよ」司野の顔の筋肉が、びくりと激しく痙攣した。「素羽、言っておくが、この離婚は絶対にさせない」素羽は何も言わずスマホを取り出し、楓華に電話をかけた。「楓華……」その名を口にした瞬間、司野がそれをひったくり、凄まじい勢いで床へ叩きつけた。画面は一瞬で暗転し、次の瞬間には粉々に砕け散った。素羽はゆっくりと瞼を持ち上げ、冷えきった眼差しで彼を見据える。「携帯を壊せば、すべて解決するとでも思っているの?」司野の呼吸は一つ一つがまるで炎を孕んでいるかのようだった。怒りのせいか視界には二重の残像が揺れ、耳鳴りが激しく響き渡る。次の瞬間、視界が急激に暗転した。身体は制御を失い、そのまま素羽の方へ崩れ落ちていく。「司野さん……!」意識が途切れる直前、司野ははっきりと気づいた。手を伸ばせば自分を支えられる距離に立っていた素羽が、彼が倒れ込む寸前、すっと身を翻して避けたことを。そのまま彼は、無防備なまま床へ叩きつけられた。非難の視線が一斉に素羽へ向けられたが、彼女は自分が何か間違ったことをしたとは微塵も思っていなかった。鉄人のような体を持つ司野が、まさかこれほど突然虚弱に倒れるとは予想もしなかったのだ。彼女はただ、司野が暴力を振るおうとしているのだと思い、本能的に身をかわしたに過ぎない。この予期せぬ事態により、話し合いは一時中断となった。司野は部屋へ運び込まれ、すぐに家庭医が呼ばれる。酒の回った身体に発熱、さらに鞭打ち。いくら頑丈な体を持っていようとも、到底耐えきれるものではなかった。だが素羽は内心、少なからず不満を抱いていた。よりによってこのタイミングで気を失うなんて、わざとではないのか。話し合いは後日に持ち越されるものと思われたが、予想に反して幸雄は決断の早い男だった。彼は即座に医者に命じ、司野に注射を打たせ、無理やり目を覚まさせたのである。須藤家の人間は、やはり容赦がない。彼女が内心やりたかったことを、平然と代わりにやってのけた。司野が目を開けるや否や、幸雄は冷然と言い放った。「明朝、目が覚めたらすぐに素羽と離婚してこい」司野
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第357話

素羽は床に座り、荷造りを終えたスーツケースを見つめながら、ぼんやりと思いに沈んでいた。「ニャー」猫の鳴き声が、彼女の意識を現実へと引き戻す。だんごは素羽の膝へとよじ登り、心地よい場所を見つけると、仰向けになって丸々とした腹をさらした。素羽は、撫でてほしそうにしているだんごを見下ろした。今回は拒まず、そっと手を伸ばして撫でてやると、小さな生き物は気持ちよさそうに喉を鳴らした。この猫に対する感情は、素羽にとってどこか複雑だった。この子の存在そのものが、花を捨てた罪を償おうとする司野の証のようなものだからだ。だんごに罪はない。だが、買い主が買い主である。この子を見るたびに、素羽の脳裏には、あの幼い猫が今もどこかで生きているのだろうかという思いがよぎる。「もう二度と会うことはないわね。お腹が空いたら森山さんを頼るのよ。あの不届きな買い主じゃなくてね。あいつには、あんたへの本物の愛情なんてないんだから」司野が本当に猫を好きなのかどうか、素羽にははっきり見えていた。すべては表面的なパフォーマンスに過ぎない。彼らの婚姻関係と同じだ。かつては偽りの調和を装っていたが、ひと突きすれば脆く崩れ去る。だが、それもようやく終わろうとしていた。心に期するものがあったからだろうか。その夜、素羽の眠りは浅かった。体内時計が鳴る前に、彼女は目を覚ました。一度目が覚めてしまうと、もう眠る気にはなれない。彼女は起き上がり、静かに身支度を整え始めた。朝。森山は、いつになく活気に満ちた素羽の様子を見て、不思議そうに尋ねた。「奥様、今日は何かいいことでも?ずいぶん嬉しそうですね」森山はあまりニュースを見ないため、昨夜起きたスキャンダルのことなど露ほども知らなかった。素羽は穏やかに答える。「もうすぐ自由になれるの」森山には、自由と喜びがどう結びつくのか理解できなかった。それでも、素羽が嬉しそうにしているのを見ると、自分まで嬉しくなる。そこで、彼女は素羽が喜びそうな話をひとつ持ち出した。「そういえば、美宜さんのご両親なんですが、昨日どういうわけか慌てて出て行かれて、それきり戻ってらっしゃらないんですよ」素羽には、彼らが去った理由がはっきりと分かっていた。景苑別荘で最後となる朝食を済ませると、彼女は車を走らせて区役
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第358話

二人の視線がぶつかり合った。司野の眼差しは深く沈み、その奥には読み取ることのできない複雑な感情が渦巻いている。だが、素羽にはそれを読み解こうとする興味など微塵もなかった。今の彼女の胸にあるのは、ただ一つの願い――「離婚」だけだ。司野は机の上のペンを取り上げ、素羽の名前の下に自らの署名を書き込んだ。離婚届に受理印が押されたその瞬間、素羽がずっと握りしめていた拳は、ようやく静かにほどけた。出来たばかりの離婚届受理証明書を手にした途端、抑えきれない笑みが自然と口元に浮かぶ。その一挙手一投足のすべてが、司野の目に焼き付いた。――これほどまでに、嬉しいのか。素羽は両手で証明書を受け取ると、先に立ち上がり、微笑みを浮かべて言った。「須藤さん、翁坂さんと一生お幸せに」証明書をバッグにしまうと、そのまま外へと歩き出す。足取りは驚くほど軽く、まるで身体が宙に浮いているかのようだった。あまりにも現実味がなく、思わず自分の腕をつねってみる。痛い。夢ではない――紛れもない現実だ。司野が後を追ってきた。「車がないんだ。記者会見の会場まで乗せていってくれ」素羽はにべもなく断った。「嫌よ。タクシーでも拾いなさいな」彼が車で来ているかどうかなど、今の彼女には知ったことではない。区役所から出たその瞬間、素羽の頭上でクラッカーが弾けた。同時に、あらかじめ録音されていた音楽が鳴り響く。「離婚おめでとう、幸せを祈るよ。素羽さんならもっと素敵な人が見つかる……」派手な格好に身を包み、まるで結婚式以上にめでたい雰囲気を醸し出している張本人――翔太の姿を見て、素羽の表情が引きつった。区役所の外には、翔太が手配したスタンド花までずらりと並べられている。「僕からのプレゼントだ。見てくれよ」【祝・絶世の美女、素羽。クズ男を蹴り飛ばして新たな人生へ。若いツバメを九人十人と囲って、尽くされる快感を味わえ】素羽は言葉を失った。これが祝福なのか、それともかつて「尽くす側」だった自分への皮肉なのか、判断に迷う。大騒ぎで駆けつけた翔太は、親友である楓華でさえ隅に追いやってしまっていた。花束だけを持って現れた楓華でさえ、翔太のこの気合いに比べれば霞んで見えるほどだ。素羽は呆れたような目で翔太を一瞥し、思わず言いそ
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第359話

流石は翔太、須藤の姓を名乗るだけのことはある。須藤家という一族は、どいつもこいつも一筋縄ではいかない連中ばかりだ。一族の内輪揉めに首を突っ込む気など、素羽にはさらさらなかった。楓華を連れて車に乗り込み、その場を後にした。車内に入るや否や、楓華が力いっぱい素羽を抱きしめた。素羽はその背中をぽんぽんと叩き、冗談めかして言う。「これ以上抱きしめられたら、絞め殺されちゃうわよ」楓華はすぐに応えた。「死なないでよ。数えきれないほどのイケメンたちが、あなたの寵愛を待ってるんだから。いい暮らしはこれからよ」素羽はくすりと笑う。「変なこと吹き込まないで。今は男なんてこりごりだわ」「男が嫌いなら、それでもいいわよ。私が素敵な世界へ連れて行ってあげる。これからは、二人で広い世界を見に行きましょう」幸雄との約束を違えるわけにはいかない。素羽はアクセルを踏み込み、車を記者会見の会場へと走らせた。一方、司野のそばでは、まだ翔太が口を動かしていた。「僕の可愛い甥っ子はいつ生まれるんだ?その時は叔父さんに教えろよ。不義の子とはいえ、須藤家の血を引いているんだ。お祝いの一つくらい包んでやるからさ」司野の表情が険しくなる。「失せろ……」翔太は唇を尖らせ、皮肉たっぷりに言い返した。「兄貴を振ったのは僕じゃないだろ。なんで僕に八つ当たりするんだよ。自分の下半身も管理できねえくせに、偉そうに腹立ててるのか?須藤家の面汚しもいいところだぜ」まったく、おじいちゃんも焼きが回ったものだ。あんな司野より自分の方が劣っているなんて。僕に言わせれば、自分の方がよほど優秀だ。少なくとも、元カノの妹との関係でへまをぶっこくようなバカじゃない。翔太は会見の野次馬に行くつもりで、司野との口喧嘩にこれ以上付き合う気はなかった。「僕は素羽の応援に行くんだ。ついでだ、乗せてってやろうか?」司野はそれを無視し、別の方向へと歩き出した。翔太は鼻で笑う。なるほど、これほど器が小さいんじゃ離婚されて当然だ。彼は愛車のスーパーカーに乗り込み、傲慢にエンジンを吹かして走り去っていった。岩治は車の中から、この一連の茶番を冷静に眺めていた。漏れる言葉といえば、ため息くらいのものだった。実のところ、素羽が来る前から司野と岩治はすでに到着してい
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第360話

素羽は司野に感謝の眼差しを向けると、改めて壇下のメディア関係者たちへ向き直った。「皆様、ご多忙の折、本日の記者会見にお集まりいただきありがとうございます。本日この場にお越しいただいたのは、この機会をお借りして――私、江原素羽と元夫・須藤司野の関係についてご説明するためです」この言葉が投げかけられた瞬間、記者席の一角から声が上がった。「それはどういう意味ですか?元夫とは?以前、須藤さんに同伴して宴席に出席されていたはずですが」素羽は静かに口を開いた。「私と司野は、三ヶ月も前にすでに離婚しております。本来であれば、これは私たちのプライベートな問題であり、公表する必要はないと考えておりました。しかし、須藤さんが誤解されているのを見て、皆様にけじめをつけるべくお話しすることに決めたのです。私たちの離婚は第三者の介入によるものではなく、円満な別れでした。離婚に至った決定的な理由は私にあります。私には、子供を授かる能力がなかったからです。この五年の婚姻期間中、須藤さんは私にとてもよくしてくれました。彼は立派な夫であり、私生活でも至れり尽くせりに世話を焼いてくれました。仕事においても、誠心誠意尽くす素晴らしいリーダーです」司野は思わず、隣に立つ素羽へと目を向けた。彼女の顔に浮かぶ、あまりにも真実味を帯びた表情を見ていると、ふと、かつて自分だけを見つめていたあの頃の素羽が戻ってきたかのような錯覚に陥る。以前、仕事で疲れ果てて帰宅したとき、素羽はいつも心を痛め、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。彼がそれまで見て見ぬふりをしてきたその献身が、今になって鮮やかに脳裏へ蘇る。一体いつから、心の行き違いが始まってしまったのだろう。視線を感じた素羽も、絶妙なタイミングで彼を見返した。司野の瞳に宿る深い情愛を目の当たりにし、彼女は一瞬ぎょっとする。やっぱり、演技が上手いわ。この手の芝居なんて、私よりずっと上だわ。素羽は気を引き締め、完璧な調子のまま締めくくった。「これほど素晴らしい人なのですから、皆様には須藤さんの私生活を執拗に追い回したり、彼や瑞基に対して悪意ある邪推を向けたりしないでいただきたいのです。それらは事実無根の誹謗中傷にほかなりません。この場を借りて、皆様にはこの騒動をここで終結させていただき、これ以
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