玄関の引き戸に手をかけたとき、礼司はふと背後を振り返った。アトリエの扉はまだ開かれたままだった。空間の奥に光はなく、さきほどまで灯っていた天井の照明も、薫の手で消されていた。それでも、まるでその部屋の奥から何かがこちらを見ているような気配が、うっすらと背中にまとわりついて離れなかった。夜は深い。外はすでに寝静まり、敷地の庭にも人気はない。礼司は扉の縁に手を添えたまま、その場に立ち尽くした。体の芯に、奇妙な余韻が残っていた。──なぜ、目を伏せたのか。それを、自分自身に問うていた。描かれていた間、礼司は一度も薫と目を合わせなかった。あれほどの視線を感じていながら、それを返さなかったのはなぜか。怖かったのではない。恥ずかしかったのでもない。ただ、見てしまえば終わると思った。見つめ合った瞬間に、何かが変わってしまう。もう戻れなくなる。その直感が、礼司の目を奪っていた。「帰るんですか」背後から、薫の声が静かに落ちた。振り返らなかった。振り返ってしまえば、また何かが奪われる気がした。「もう遅い」そう応えると、薫は近づいてきた。足音はなかった。ただ、気配だけが徐々に近づいてくる。「今日は、ありがとうございました」その声は、あくまで礼儀正しい響きだった。だが、言葉の外縁に揺らぎがあった。言葉では制御できない何かが、そこに混じっていた。「描けたのか」ようやく礼司は口を開いた。「ええ。まだ完成ではありませんが、今日の線は…残ります」「残す、のか」「ええ」礼司は少しだけ首を傾けて、視線を落とした。足元に影が伸びている。自分と薫の影が、わずかな灯りに重なり合っていた。「不思議だ」ぽつりと漏れた声が、玄関の木枠に反響した。「何がですか」「見られて、描かれて、
最終更新日 : 2025-09-14 続きを読む