光を描くひと、家を継ぐひと~明治を生きたふたりの物語 のすべてのチャプター: チャプター 31 - チャプター 40

62 チャプター

31.目を伏せる、その理由

玄関の引き戸に手をかけたとき、礼司はふと背後を振り返った。アトリエの扉はまだ開かれたままだった。空間の奥に光はなく、さきほどまで灯っていた天井の照明も、薫の手で消されていた。それでも、まるでその部屋の奥から何かがこちらを見ているような気配が、うっすらと背中にまとわりついて離れなかった。夜は深い。外はすでに寝静まり、敷地の庭にも人気はない。礼司は扉の縁に手を添えたまま、その場に立ち尽くした。体の芯に、奇妙な余韻が残っていた。──なぜ、目を伏せたのか。それを、自分自身に問うていた。描かれていた間、礼司は一度も薫と目を合わせなかった。あれほどの視線を感じていながら、それを返さなかったのはなぜか。怖かったのではない。恥ずかしかったのでもない。ただ、見てしまえば終わると思った。見つめ合った瞬間に、何かが変わってしまう。もう戻れなくなる。その直感が、礼司の目を奪っていた。「帰るんですか」背後から、薫の声が静かに落ちた。振り返らなかった。振り返ってしまえば、また何かが奪われる気がした。「もう遅い」そう応えると、薫は近づいてきた。足音はなかった。ただ、気配だけが徐々に近づいてくる。「今日は、ありがとうございました」その声は、あくまで礼儀正しい響きだった。だが、言葉の外縁に揺らぎがあった。言葉では制御できない何かが、そこに混じっていた。「描けたのか」ようやく礼司は口を開いた。「ええ。まだ完成ではありませんが、今日の線は…残ります」「残す、のか」「ええ」礼司は少しだけ首を傾けて、視線を落とした。足元に影が伸びている。自分と薫の影が、わずかな灯りに重なり合っていた。「不思議だ」ぽつりと漏れた声が、玄関の木枠に反響した。「何がですか」「見られて、描かれて、
last update最終更新日 : 2025-09-14
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32.椀を置く音

朝の光が障子越しに柔らかく射し込んでいる。白く、薄い陽の筋が、湯気の立つ味噌汁の表面を淡く照らし、そこに漂う刻み葱が静かに揺れた。食卓には、いつもと同じ器が並んでいた。焼き魚、香の物、小さな小鉢に入った煮豆。配膳も、湯の温度も、膳の並び順も、一切が狂いなく整えられている。それは、美鈴が毎朝繰り返してきた日常の一端だった。その日も、礼司は定刻どおりに席についた。白い襦袢の上に羽織をまとい、髪をきちんと撫でつけ、箸を手に取る所作にはなんの乱れもない。静かに「いただきます」と口にし、味噌汁に手を伸ばす。音も立てずに椀を持ち上げ、唇に当てると、ひと口だけすするようにして飲んだ。だが、美鈴の視線は、その瞬間の礼司の“間”にひっかかった。一拍遅れた。いや、いつもならその言葉の直後に味噌汁へと移る流れが、今日はわずかに遅れた。しかもその「遅れ」には、自覚的な沈黙のような気配があった。何かを内に沈め、消化しきれぬまま椀を口に運んだような…そんな感じ。礼司は、そのまま煮豆をひとつ口に含み、ゆっくりと噛んだ。美鈴は、彼の顎の線を目の端で捉えながら、自分の箸を進める。正面からは見つめない。互いの距離を保ったまま、その呼吸のずれを嗅ぎ取ろうとする。礼司は目を伏せたまま、魚の骨を器用に避けている。「…今日も中原のお屋敷へ?」美鈴は、何気ない調子で問うた。皿の上の焼き魚に視線を落としたまま。「うん。午後から少しだけ」少し間があって、礼司は答えた。声の調子に変化はない。ただ、その一語のあとに何も続かなかったのが、美鈴の耳に残った。彼はふだん、もう少し説明を加える。誰と会うか、どういう用件か。仕事ではなくとも、その背景を自然に語るのが礼司だった。だが今日の返答は、余白が多すぎる。それに──ふと顔を上げた礼司の目が、美鈴の目と合った。その一瞬、確かに視線がぶつかったはずなのに、礼司はすぐに目を逸らした。恥じるようでもなく、焦るようでもなく、ただ、避けるように。まるでそこに映ってしまうものを、彼自身が見たくなかったかのように
last update最終更新日 : 2025-09-15
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33.沈黙を連れて帰る

玄関を開けたとき、夕焼けに染まった空気がほんの少しだけ礼司の肩に残っていた。まだ完全に夜になりきらぬその薄闇のなかで、美鈴は音もなく立ち上がり、襖の向こうに立つ夫の気配を迎えた。礼司の外套の裾がわずかに揺れ、靴の音が板の間に沈む。ごく自然な帰宅の仕草だったが、美鈴の目にはそのすべてが異質に映った。「おかえりなさいませ」そう告げた美鈴の声に、礼司はわずかに顔を向ける。「ただいま」その返事はいつもよりも穏やかで、妙に柔らかかった。それなのに──美鈴の胸の奥では、氷のような予感が音もなくひび割れを起こしていた。礼司の顔には疲れの色が浮かんでいる。だがそれは単なる肉体の疲労ではない。まなざしが澄みすぎていた。夕暮れの空を通り越した先の、もっと遠いところを見て帰ってきたような目だった。上着を脱いで壁の掛けにかける礼司の手つきも、やけに丁寧だった。指の関節が慎重に布をつまみ、決して乱さないようにして引っかける。美鈴はその後ろ姿を見つめながら、台所へと歩いた。やかんの湯がちょうど音を立て始めている。火を弱めて、二人分の湯呑みに茶葉を落とした。「今夜は冷えますね」そう言いながら、美鈴は湯を注ぐ。だが背後から返ってくる返事はない。代わりに、障子越しに紙の擦れる微かな音が聞こえた。礼司は書斎へ向かっていた。美鈴は膳に湯呑みを置いたまま、自分の手の指先に目を落とす。動かそうとしたが、なぜか動かなかった。そこに、夫の持ち帰ったものの“重さ”が残っていた。彼は最近、夕方になると中原邸から戻ってくる。その事実自体は、特に不自然ではない。中原のご子息──薫という青年に絵のモデルを頼まれている、と礼司自身の口から聞いたこともある。礼司の理知的な性格と、社交辞令を上手にかわす物腰を知っていれば、断る方が難しいと美鈴にも理解はあった。だが──それは「話として」納得しているだけのことだった。机に向かっている礼司の背を、美鈴は廊下の影からそっと見つめた。薄い灯りの下、礼司の指先が静かに紙をめく
last update最終更新日 : 2025-09-16
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34.絵のなかの熱

昼の陽は、高窓から静かに差し込んでいた。春を目前にした光はまだやわらかく、書斎の白壁に長い影を描き出している。風の気配はない。障子は閉じられ、部屋の中には時計の音すら響かないほどの沈黙が漂っていた。礼司は外出していた。昼過ぎには戻るとだけ伝え、玄関の音をたてることもなく出ていった。美鈴は客間で家事の手配を終えると、ふとした拍子に書斎の方へと足を向けた。決して物色するつもりではなかった。だが、戸を開けた瞬間、机の上に一枚だけ、他と重ならずに置かれた紙が目に入った。それはまるで、誰かが見つけるのを待っているかのような置かれ方だった。美鈴は迷いをひとつ飲み込むように、障子の敷居を越えた。畳の上に足をすべらせながら近づき、膝を折る。机の上にある紙へと自然と目が落ちる。──それは、夫の顔だった。筆で描かれたごく粗い線。だが、その特徴は一目でわかる。口元の硬さ、眉間のわずかな皺、鼻筋の輪郭。すべてが、彼女の知る礼司だった。だが──何かが違った。紙の上に在る夫は、美鈴のよく知る「夫としての顔」とは異なる何かを持っていた。描かれているのは、無表情にも見える。しかし、その沈黙の奥に、確かに揺らぎがあった。目の焦点はわずかに逸れ、口元にはごく微かな緊張が漂っている。それが、彼を「切り取られた」存在に変えていた。美鈴は手を伸ばしかけて、途中で止めた。触れてはいけないもののような気がした。まるで、そこに夫の心の一部が封じ込められているようだったから。描いたのは薫に違いなかった。美鈴は直感的にそう思った。線が、ただ似ているからではない。その線の中に、描いた者のまなざしが確かに存在していた。描かれる対象を“観察”するのではなく、“見つめている”視線。線の隙間に、その熱が潜んでいる。そして──それに応じている礼司の姿が、そこにあった。無意識なのか、意識的なのかはわからない。ただ、紙の中の礼司は、確かに“応じて”いた。美鈴の中に、静かに熱いものが広がっていく。これはただのスケッチではな
last update最終更新日 : 2025-09-17
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35.答えのない問い

夜の帳が静かに降りる頃、早川家の廊下には行灯の灯りが、まるで薄羽のように漂っていた。襖の向こう、寝間はまだ冷えている。炭火の余熱だけでは、春先の夜には心もとなく、美鈴は足音を立てずに畳の上を歩いた。床の間には夫の羽織が掛けられている。几帳面な人だった。脱いだあとも襟が崩れぬよう、丁寧に整えられているその様子が、かえって美鈴の胸をじくりと締めつけた。布団を敷くのは、美鈴の役目だった。何度となく繰り返されてきた夜の支度。だが今宵は、その手つきがいつもより遅い。畳に広げる動作の一つひとつに、意識が込められていた。襖がふわりと開き、礼司が姿を見せた。「遅くなった」いつもの調子で、穏やかに言う。美鈴は背を向けたまま、小さく首を振る。「お疲れさまです」淡く返されたその言葉に、礼司は特別な反応を見せなかった。ただ、ゆっくりと部屋へと入り、座布団の上に膝を折る。部屋の空気が揺れる。わずかに、乾いた墨の香が混じる。礼司の持ち帰る気配──あのアトリエの空気を含んだままの衣。美鈴は視線を上げずに、敷き終えた布団の縁を整える。「今日は、絵を…?」「…ああ。少しだけな」会話が止む。もう少し突き詰めれば、本題に触れられる距離だった。だが、美鈴はそれ以上、問いを重ねなかった。問いを口にしてしまえば、二人の間にある沈黙の意味が変わってしまう。崩してしまったあとで、元に戻せないことを知っていた。礼司はしばらく黙ったまま、襖の隙間から漏れる灯りを見つめていた。その目は静かだった。怒りも悲しみもなかった。ただ、深い思考の底に沈んでいるようなまなざし。「寒くないですか」美鈴の問いに、礼司は小さく首を振った。「大丈夫だよ」その言葉は、今夜のすべての会話を閉じる鍵のようだった。やがて灯りを落とす。布団に沈むと、微かな綿の音が響いた。二つの寝具のあいだには、わずかばかりの隙間。かつてはその空間にも、柔
last update最終更新日 : 2025-09-18
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36.名前を持たない感情

午前の陽がゆっくりと庭の隅々まで届いていた。風は弱く、それでも葉のあいだからこぼれる日差しが、微かに揺れながら花の上に落ちていた。美鈴は、白椿の花弁にそっと指を添えた。先端がわずかに傷んでいた。今朝咲いたばかりの花には見えなかったが、それでも花はまだしっかりと開いており、冷たい空気の中にほのかに甘い香りを放っていた。彼女は一輪切り取り、手のひらに乗せた。指先に触れる感触は、しっとりとしていて、どこか皮膚のようだった。朝食の後、礼司は何も言わずに外出した。昨晩の沈黙のあと、美鈴はもう問いを立てることをやめていた。代わりに、庭に出た。何かを整えることで、内側の揺らぎに均衡を与えたかった。枝を剪定し、落ち葉を払う。足元で、霜の残滓が溶けて土の匂いを立ち上らせていた。風が吹き、椿の葉がさらさらと鳴った。ふと、どこか遠くで鳴った音のように思えた。美鈴は、その葉音の下で立ち止まる。この胸にあるものは、怒りなのだろうか。彼が誰かに心を寄せている。その“誰か”が薫であることも、もう疑ってはいない。それでも、美鈴の中にわきあがってくる感情は、怒りと呼ぶにはあまりに静かだった。嫉妬、という言葉も違っていた。取りこぼした感情。そう形容するのが近かった。まるで、自分の知らぬあいだに、ほんの少しだけ水面から指をすべらせていたような、そんな感覚。すくい取るには遅すぎた何か。それは悲しみでもなかった。哀れさでもない。ただ、確かに身体の内側に沈み、言葉には還元できない重さを持っていた。美鈴は、切り取った椿を竹かごの上にそっと置いた。庭にひとり。土の香りと、花の気配と、風の音と。それらに包まれているうちに、彼女の中に一つの実感が芽生えていく。この感情には、名前がないのだ。人は感情に名前を与えようとする。悲しみ、怒り、愛情、羨望。だが、今の美鈴の中には、それらいずれにも当てはまらないものが、静かに棲んでいた。あのスケッチを見たときから始まった変化。夫の背に感
last update最終更新日 : 2025-09-19
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37.微笑の理由

午後の陽が静かに応接間を照らしていた。薄絹のカーテン越しに入る光は、真っ直ぐではなく、柔らかな輪郭を描いて室内に落ちる。畳まれた日差しは、漆塗りの茶器や盆の縁に、まるで金箔のような明滅を浮かべていた。美鈴はその光の中で、白磁の湯呑みに熱い湯を注いでいた。小さな湯気が、茶葉の香りとともに立ちのぼる。その香りが、午後という時間の深さをより強く感じさせた。音は少なかった。釜の湯の微かな鳴り、器の触れ合う音。あとは、美鈴の衣擦れの音が、ときおり部屋の静けさを撫でるように滑っていく。来客はまだ奥の書斎にいた。夫の客であり、社の者らしいが、美鈴はそれ以上を問わない。最近、礼司が客を迎えることが増えた。それも変化のひとつとして、美鈴は淡々と受け止めていた。盆に湯呑みをのせ、木の縁に指先を添える。その瞬間、ふと、視線が棚の上の鏡に引き寄せられた。小さな、けれどもよく磨かれた真鍮の縁取りをもつ鏡だった。そこに映っていたのは、美鈴自身の顔だった。微笑んでいた。何も意識していなかった。けれど、明らかに唇はわずかに上がり、眼差しにも、わずかな光が宿っていた。その微笑は、誰かのために向けられたものではなかった。客のためでも、夫のためでもなく、家の女としての義務感からでもない。それは、ふとした拍子に湧いた内なる確信が、形を取っただけのものだった。ああ、自分はもう、この場所に根を張っているのだ──。そんな感覚だった。妻である、という立場に縛られたものではない。女であることに執着したわけでもない。礼司の視線の先に誰がいようとも、もうその方向に目を向ける必要はなかった。彼の変化は、美鈴が最もよく知っていた。言葉にならない距離の兆し、それがどれほど静かに家庭の隙間に浸透していくかも、知っていた。だが今、目の前にある茶器の並びと、その手触りと、湯の香りと、指の動きがあれば、それで十分だと思えた。手を止めずに、美鈴は再び盆の配置を整える。指先の動きは穏やかで、けれど正確だった。彼女の中
last update最終更新日 : 2025-09-20
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38.濡れた掌の距離

アトリエの夜は、昼間とはまったく違う顔を見せていた。窓には障子が閉められ、外の冷気を遮るために分厚いカーテンまで引かれている。空気には絵具の甘い匂いと、灯心の油が溶け合い、奥底で微かに火が灯っている。夜の気配が、部屋のすみずみにまで染み渡っていた。卓上に残るキャンバスは、今日の作業の名残をそのままさらしている。けれど今、そこに向かうべき筆はない。静かな夜だった。時計の針の進む音すら聞こえないほど、すべてが沈黙に包まれている。薫は部屋の片隅に立ち、指先でカーテンの裾を無意識に撫でていた。礼司は椅子に座ったまま、窓際に視線を投げていた。ふたりの間に会話はなかった。ただ、どちらからともなく呼吸をひそめ、静かな緊張が床の上を這うように広がっていく。何かが始まる予感があった。けれど、それが何なのかは、まだ誰も知らなかった。卓上に置かれたグラスの水面が、わずかに揺れる。薫の手が、なにげなくそれを持ち上げ、口をつける。水の冷たさが唇に触れ、体の奥にひんやりとした通路を作る。その感触さえも、どこか遠いもののように思えた。礼司が動く。椅子の背に身を預けると、わずかに軋みが響く。それだけで、薫の全身に稲妻のような緊張が走る。ふたりは今日、ろくに言葉を交わしていなかった。礼司は、絵を描かれるだけの存在ではないことを知っていた。薫が描きたいのは、彼の“生”そのもの。紙の上で再現しきれない、瞬間ごとに変わる気配や、肌の奥の熱――それを求めているのだ、と。そのことに、薫自身が気づいてしまっている。礼司は何も言わず、薫のほうを見た。静かなまなざしだった。怒りも憎しみもない。ただ、どこか迷いと、決意の色が交じり合っている。薫の指先が、小さく震えた。熱が、手のひらの内側にじんわりと集まっていく。この夜は、もういつもの夜ではなかった。アトリエの中の空気が、まるで水面のように、薫の全身を内側から濡らしていく。「……」礼司は唇を開いたが、言葉は落ちなかった。ただ、視
last update最終更新日 : 2025-09-21
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39.ほどける声

窓の外では夜の気配が濃くなるばかりだった。障子の向こうで木々がざわめく音も遠く、アトリエの中だけがまるで別の時の流れに取り残されたような静けさに包まれている。卓上の灯りはひとつだけ。その灯心が描き出す明暗のなかで、薫の横顔が輪郭を曖昧にさせていた。ふたりはまだ距離を取っていた。けれど、その間にはもう会話の余白さえ残っていない。礼司の胸の奥に、奇妙な高まりがあった。理性の水面に浮かぶ小さな波――だが、その波はしだいに大きく、深くなっていく。薫は、俯いたまま唇を結んでいる。手は膝の上に重なり、かすかに指が動いていた。礼司はその仕草を、息を詰めて見つめていた。沈黙が積み重なる。灯りの下、薫の睫毛が長く影を落とす。その睫毛の先に礼司の視線がふれていた。そのとき、薫が、声を押し出すように名を呼んだ。「……礼司さん」たったそれだけの、静かな声だった。だが、その響きは夜の水面に落ちる石のように、礼司の奥底まで波紋を広げた。自分の名を呼ばれたのは、いったい何度目だろう。仕事でも、家庭でも、その名は日々無数の人間に呼ばれてきた。だが今、薫の唇からこぼれたそれは、どこか身体の奥深くに直に届くものだった。礼司は、気がつけば椅子から立ち上がっていた。言葉を探そうとする脳の動きを、身体が追い越していく。理由も確信もない。ただ、薫の顔に手を伸ばしていた。指が頬に触れた。最初に感じたのは、熱ではなく、わずかな震えだった。薫の肌は驚くほど滑らかで、そして細やかに震えている。「……」薫は顔を背けなかった。けれど、瞼をきつく閉じている。そのまぶたの上に礼司の親指がそっとふれ、睫毛が指の腹をくすぐる。触れること。それは、いとも簡単で、いとも恐ろしいことだった。薫の肩が小さく揺れる。息を呑む気配が、微かに聞こえた。礼司の内側に渦巻いていた抑制が、その一瞬、溶けていく。指が頬から、耳の裏、うなじへとゆっくり滑っていく
last update最終更新日 : 2025-09-22
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40.指先に落ちる光

礼司の指先は、まだ微かに震えていた。頬に添えた手は、熱いのにどこか頼りなく、皮膚をなぞるたびに自分の心臓がどこにあるのかも分からなくなる。薫の睫毛が、触れるか触れないかの距離で震え、閉じた瞼の上に礼司の親指が静かにすべった。夜の灯火がその指先に落ち、皮膚の凹凸にそって明るさと影が波紋のように広がる。礼司の目には、薫の顔が不思議な輪郭で映っていた。肌の下で微かに動く血脈や、頬のわずかな起伏。鼻梁からこめかみに抜ける薄い骨の線。今まで何度も見てきたはずの顔だったが、触れてみて初めて知る感触が、そこにはあった。指が滑るごとに、薫の呼吸がかすかに変わる。吸い込まれるように、礼司はその微細な反応に取り憑かれていた。薫の唇が、声にならない音をかすかに零す。その唇の端に親指をそっと触れたとき、薫の全身がほんの少しだけ身を委ねた。礼司は、吸い込まれるようにして薫の頬から首筋へと手を滑らせる。首の下、鎖骨の端に指がたどりつく。薫は逃げなかった。抵抗の気配はどこにもない。ただ、細く張りつめた緊張と、同時に抗いがたい安心が、礼司の掌の中で静かに溶けていく。「……痛くないか」礼司は息を呑みながら問いかける。「痛くないです」薫は低い声で、けれどしっかりと答えた。指先が礼司の手首にそっと重なる。その温度が、礼司の皮膚に伝わる。それだけで、全身がざわつく。礼司は、自分の体がどこからどこまで自分なのか分からなくなるような、奇妙な浮遊感を覚えていた。触れること――その恐れと悦びが、同じ強さで胸に入り混じる。薫の肌は、決して滑らかというだけでなく、熱や鼓動や、微かな震えまでもが伝わる生き物のようだった。手のひらを薫の肩へすべらせる。肩甲骨のあたりがかすかに盛り上がり、柔らかい襟の生地が礼司の指先に引っかかる。礼司はそのまま、ゆっくりと薫の背へと指をすべらせる。シャツ越しに感じる背骨の線は、まるで新しい地図をなぞるように、礼司に未知の道を教えてくれる。薫は、目を閉じて全てを受け入れていた。逃げるでもなく、縋るでもなく、ただ礼司に開かれている。その「開かれている」こと
last update最終更新日 : 2025-09-23
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