中原邸の応接間には、昼の光がしっとりと広がっていた。磨かれた窓硝子から差し込む陽射しは、どこか鈍く、絹張りのカーテンに吸い込まれるように滲んでいる。天井に吊られたシャンデリアの影が、床の大理石に静かに揺れていた。応接間の奥、低いテーブルを挟んで向かい合って座る二人の男。早川礼司と、中原薫。銀器の縁に薄く紅茶の香りが残っていた。午後三時を少し過ぎたばかり。屋敷の中は静まり返っており、庭に面した窓の向こうでは、剪定を終えたバラの枝が風に揺れている。礼司は、薄く砂糖を溶かした紅茶を口に含んだ。薫は、すでにカップを置き、両手の指先を軽く組み合わせていた。その手の甲の色は、外で焼けたのか、わずかに褐色がかっている。指は細く、しかし節は強く、絵を描く者の手だとすぐにわかる。礼司は無意識に視線をそこに留め、すぐに紅茶の残りに目を戻した。「礼司さん。来週、少し時間をもらえますか」柔らかくも芯のある声だった。礼司は顔を上げた。薫の眼差しがまっすぐに自分を見ていた。「時間……?」「アトリエを見に来てほしいんです。ちょうど、整理も終わりましたから」薫の瞳には曇りがなかった。その真っ直ぐさが、かえって礼司の中に小さなざらつきを生んだ。視線の奥に揺れも影もない。何の打算もないままに、ただ『見に来てほしい』と言う。「それは…私に、ですか」礼司の声は自然と低くなった。薫は頷いた。「はい。礼司さんに」庭の風が窓を揺らし、カーテンが一瞬だけ膨らんだ。薫の後ろに光の線が差し込み、黒髪の輪郭を細く縁取る。「…考えておこう」カップをテーブルに戻しながら、礼司はそう答えた。断る理由はなかった。だが、即座に頷けなかった。アトリエ。薫が何を描いているのか、どんな場所で絵を生んでいるのか。見たいという衝動と、それを見てしまったあとの自分を想像する恐れとが、喉の奥で交差していた。薫はそれ以上、何も言わなかった。ただ、軽く頷いたのみだった。そしてその数分後、用件を終えた礼司は屋敷を辞した。
Last Updated : 2025-08-27 Read more