All Chapters of 光を描くひと、家を継ぐひと~明治を生きたふたりの物語: Chapter 11 - Chapter 12

12 Chapters

11.白昼の約束

中原邸の応接間には、昼の光がしっとりと広がっていた。磨かれた窓硝子から差し込む陽射しは、どこか鈍く、絹張りのカーテンに吸い込まれるように滲んでいる。天井に吊られたシャンデリアの影が、床の大理石に静かに揺れていた。応接間の奥、低いテーブルを挟んで向かい合って座る二人の男。早川礼司と、中原薫。銀器の縁に薄く紅茶の香りが残っていた。午後三時を少し過ぎたばかり。屋敷の中は静まり返っており、庭に面した窓の向こうでは、剪定を終えたバラの枝が風に揺れている。礼司は、薄く砂糖を溶かした紅茶を口に含んだ。薫は、すでにカップを置き、両手の指先を軽く組み合わせていた。その手の甲の色は、外で焼けたのか、わずかに褐色がかっている。指は細く、しかし節は強く、絵を描く者の手だとすぐにわかる。礼司は無意識に視線をそこに留め、すぐに紅茶の残りに目を戻した。「礼司さん。来週、少し時間をもらえますか」柔らかくも芯のある声だった。礼司は顔を上げた。薫の眼差しがまっすぐに自分を見ていた。「時間……?」「アトリエを見に来てほしいんです。ちょうど、整理も終わりましたから」薫の瞳には曇りがなかった。その真っ直ぐさが、かえって礼司の中に小さなざらつきを生んだ。視線の奥に揺れも影もない。何の打算もないままに、ただ『見に来てほしい』と言う。「それは…私に、ですか」礼司の声は自然と低くなった。薫は頷いた。「はい。礼司さんに」庭の風が窓を揺らし、カーテンが一瞬だけ膨らんだ。薫の後ろに光の線が差し込み、黒髪の輪郭を細く縁取る。「…考えておこう」カップをテーブルに戻しながら、礼司はそう答えた。断る理由はなかった。だが、即座に頷けなかった。アトリエ。薫が何を描いているのか、どんな場所で絵を生んでいるのか。見たいという衝動と、それを見てしまったあとの自分を想像する恐れとが、喉の奥で交差していた。薫はそれ以上、何も言わなかった。ただ、軽く頷いたのみだった。そしてその数分後、用件を終えた礼司は屋敷を辞した。
last updateLast Updated : 2025-08-27
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12.見送る背中

午后の陽が傾きかけた頃、礼司は中原家の離れ、薫のアトリエへと向かっていた。車を降りた瞬間、湿った土の匂いと、石畳の隙間から立ち上る初夏の熱気が鼻腔をくすぐった。舗道脇に整えられた生垣の中に、咲きかけの薔薇がちらほらと混じっている。門をくぐった瞬間、その甘やかな香りがふいに胸の奥へ忍び込んだ。アトリエの建物は、母屋と同じく瓦葺きの和洋折衷の造りだった。だが、こちらは外壁の塗りがやや粗く、無骨な木枠の窓がいくつも取り付けられている。窓のいくつかは開け放たれており、風が吹き抜けるたびに薄いカーテンが波のように揺れていた。庭先に踏み出した礼司は、木漏れ日を浴びる石段の下で足を止めた。アトリエの扉は半開きになっており、そこから男が一人、ちょうど出てくるところだった。男は若く、背の高い体躯に黒いコートを羽織っていた。開かれた襟元からは、白いシャツの肌着がのぞいており、まだ乾ききっていない絵具の匂いを纏っていた。手には細い布の包みと、丸められたスケッチらしき紙の筒。礼司が立ち止まったことに気づいたのか、男はこちらを一瞥し、すぐに視線を逸らすと、無言のまま石段を降りてきた。薫の声がした。アトリエの奥、扉の内側から。「また近いうちに…」男は軽く肩越しに手を振っただけで、返事らしいものはしなかった。ただ、頬にかすかな笑みが浮かんでいた。満ち足りたような、あるいは、どこか余韻を含んだ表情だった。すれ違う瞬間、男の身体から微かに香水のような香りがした。甘く、そしてどこか汗に近い体温の残滓が混じっていた。礼司は鼻先をくすぐるその匂いに、ほんの一瞬だけ足を止めた。だがすぐに表情を整え、男の背中が庭の出口へと消えていくのを目で追った。背広の後ろ姿は細身で、首筋の髪がやや長めに揺れていた。薫とは違う。まったく異なる輪郭の男。その背が視界から消えた瞬間、礼司はようやく静かに息を吐いた。誰だ、今のは。問いかけは声にならなかった。だが胸の内側で、低く響いていた。薫の声は、確かに男に向けたものだった。誰かと話す声だった。仕事かもしれない。モデルかもしれない。…それ以上の関係かもしれな
last updateLast Updated : 2025-08-28
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