All Chapters of 暴走する愛情、彼は必死に離婚を引き止める: Chapter 331 - Chapter 340

352 Chapters

第331話

島田先生は、今回の入院での主治医だ。真琴の状態については、その都度、彼から信行へと伝えられていた。ふわりと鼻をついた、信行の体からの消毒液の匂い。だから、真琴はあえて探りを入れた。先生に呼び出されて、病院へ行っていたのではないか、と。信行は上着を脱ぎながら、事も無げに答えた。「昨日、島田先生と電話で話したんだ。お前の様子を伝えたら、来週、一度診てもらいに来るようにって」「そう……」脱ぎ捨てられた上着を受け取り、真琴は落ち着いた声で言った。「消毒液の匂いがしたから。先生に呼ばれて病院へ行ったのかと思ったわ」その言葉に、信行の目が一瞬泳いだ。けれど、すぐにはぐらかすように笑った。「いや、先生に呼ばれたわけじゃない。入院している友人がいてね、帰る前に少し顔を出してきたんだ」「そうなのね」真琴は脱ぎたての衣服を抱え、微笑んだ。「分かったわ。それじゃ、早くお風呂に入ってきて。ゆっくり休まないと」さらに、こう付け加える。「江藤さんたちに、夜食でも用意させようか?」信行は身を乗り出して真琴の頬に口づけし、穏やかに答えた。「向こうで食べてきたから、大丈夫だよ」「ええ」真琴は頷き、彼が洗面所へと入っていくのを見送った。ドアが閉まるのを見届けてから、脱ぎ散らかされた服をハンガーに掛けた。明日、使用人たちが洗いやすいように。寝室に戻ると、真琴はスマホを手に机の前に座った。まだ会社には出ていないが、家でプロジェクトの進み具合を確かめるなど、少しずつ仕事に戻り始めていた。スマホを開き、何気なく流し見ていると、由美が新しい投稿を上げていた。【早く良くなりますように】添えられた写真は、どこかの病室の風景だ。さっき信行が言っていた「入院している友人」という言葉が頭をよぎる。間違いなく、由美のことだろう。画面をじっと見つめたまま、真琴はすぐに決めつけることはしなかった。一度画面を閉じ、一明に電話をかける。「先輩、前に言っていた解析用のプラグイン、今すぐ送ってもらえますか?ちょっと確かめたいデータがあって」電話の向こうで、一明はすぐ答えた。「いいよ、今送る」ほどなくして、頼んでいたツールが手元に届く。真琴は届いたプラグインを使い、信行の車載アプリのパスワードを解析した。そして、そ
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第332話

しばらくして、シャワーを終えた信行が戻ってきた。机に向かって仕事を続ける真琴の姿を見るなり、タオルで髪を拭きながら歩み寄る。「まだ体もきついはずだろ。仕事はいいから、今はゆっくり休みなよ」真琴はふと顔を上げ、穏やかに返した。「分かってるわ。あと少しで終わるから」その真剣な眼差しを、信行は愛おしそうに見つめていた。やがて仕事に区切りをつけ、真琴がベッドに戻ると、信行も隣に潜り込んできた。あぐらをかいて座り、彼女の脚を優しく揉みながら、とりとめのない話を振ってくる。真琴は穏やかな顔を崩さず、由美の入院についても、彼がそこへ行ったことについても、一切口にしなかった。ただ、彼の顔をじっと見つめながら、心の中で問いかけていた。この人は、あとどれだけの秘密を隠しているのだろう。どうしてこんなに、何事もなかったかのように笑っていられるの?真琴にじっと見つめられ、信行はふと口を開いた。「どうした?何か話したいことでも?」真琴は首を振った。「ううん、何でもない」そして、余計な隙を見せないように付け加える。「これまでずっと、看病してくれてありがとう」その言葉に、信行はマッサージの手を止め、顔を上げた。「俺たちは夫婦だろ。そんな他人行儀なこと言わないでくれよ」「……ええ」信行はそのまま真琴のそばへすり寄り、その頬に触れた。至近距離で視線が絡み合う。真琴は薄く微笑んだが、すぐにそっと視線を逸らした。けれど信行はそれを許さず、彼女の顔を自分の方へと向かせた。「なんだよ。俺の顔を見るのが照れくさいのか?」「そんなことないわ」真琴が言い終えるより早く、信行は身を乗り出し、彼女の唇を塞いだ。真琴は反射的に身を強張らせ、仰向けにベッドへと押し込まれる形になった。両手を彼の胸に当て、その口づけを拒む。これまでのどんな時よりも強い、本能的な拒絶だった。だが信行はその両手首を掴み、頭の横に押さえつけた。彼は止まらなかった。唇を離すと、今度は頬、耳、首筋へと執拗に唇を這わせていく。やがて彼の手が腰に回り、服のボタンに指をかけた瞬間、真琴はその手首をきつく掴んだ。――嫌だ。信行の手首を握りしめたまま、真琴は彼を真っ直ぐに見つめた。「……やめて」静かな、けれど拒絶に満ちた声で続
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第333話

腕の中に抱かれたまま、真琴は身動きもせず、冷めた声で言った。「……どっちでもいいわ」「じゃあ、その時は賑やかになりそうだな」信行は上機嫌だったが、真琴は顔を上げることもなく、ただ適当に頷いただけだった。それからの数日、信行は驚くほど真面目に家に帰ってきた。朝は早くに出かけ、夕方には真っ直ぐ戻ってくる。由美の病院へ行く様子もなかった。まるで、由美との縁をきっぱりと断ち切ったかのように。真琴の体も日に日に良くなっていたが、手足に力が入らないことだけは、まだ完全には治っていなかった。ずっと家と病院に閉じこもりきりだった彼女を気遣ってか、信行は「午後は早めに帰るから、映画でも見に行こう」と誘ってきた。外に出られると思うと、真琴も少しだけ心が浮き立った。夕方、仕事を終えた真琴は、身支度を整えて下へ降りようとした。けれど、午後ずっと机の前に座りっぱなしだったせいか、階段に足をかけた瞬間、ふいに膝の力が抜けた。そのまま、勢いよく下まで転げ落ちてしまった。リビングにいた紀子は、その音を聞くやいなや、弾かれたように駆け寄ってきた。「お嬢様!お嬢様!」真琴は顔をしかめながら、どうにか這い上がろうとして、ぶつけた膝や手首をさすった。「米田さん、大丈夫よ。なんでもないから」紀子は真琴のそばにしゃがみ込み、怪我がないか確かめる。「階段から落ちて、なんでもないわけないでしょう!」「……そんなに高いところからじゃないから」そう言って真琴はなだめたが、膝は紫色に腫れ、腕や手首、足にもいくつも青あざができていた。……同じ頃、信行はまだ会社にいた。帰ろうとした矢先に、由美の父である長盛がやってきた。信行は仕方なく、部屋へと戻った。そして真琴に「十分ほど遅れる」と短くメッセージを送る。すぐに「分かったわ」と返信がきた。真琴は自分が階段から落ちたことなど、ひと言も書かなかった。机を挟んで、長盛が申し訳なさそうな顔で書類を差し出してきた。「信行くん。今度の件、峰亜工業の入札が通らなかったんだ。うちは十分にやっていける力もあるし、内容だって悪くない。他よりずっと強みがあるはずなんだが」信行は、差し出された書類をパラパラとめくるだけで、すぐには何も答えなかった。確かに内容はまともで、通ってもお
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第334話

信行は契約書の中身を隅々まで確かめた。内容は確かに筋の通ったものだった。これまでの付き合いにおいて、峰亜工業という会社は常に堅実な仕事をしてきた。信行を相手に、小賢しい真似をしたり裏をかこうとしたりする度胸など、彼らにはないのだ。長盛がわざわざ契約書まで用意してきており、企業としての力も十分にある。内容も入札の範囲内だ。そう判断した信行は、それ以上何も言わず、机の上のペンを取ると、甲の欄に自分の名を記した。署名を終えると、信行は契約書を長盛へ差し出して言った。「まずはこれを法務に回して、中身を確認させます。問題がなければ、あちらで判を押させますから」長盛はぱあっと顔を輝かせ、何度も頭を下げた。「ああ、助かるよ、信行くん!手数をかけたね。工事については安心してくれ。峰亜工業の総力を挙げて、完璧に仕上げてみせるから」長盛の丁寧な挨拶に、信行はそっけなく頷いただけだった。彼をドアまで見送ると、自分も急いで帰る支度を始めた。帰り道、車を走らせながら、信行は自分に言い聞かせていた。自分はただ、仕事として正しい判断をしただけだ。峰亜の企画書は、確かに組むに値するものだったのだから、と。そう自分を納得させながら、彼はアクセルを踏み込み、車の速度を上げた。……三十分後。屋敷に戻り、車を降りて玄関をくぐるなり、舞子が慌てて駆け寄ってきた。「信行様!真琴様が先ほど、階段から転げ落ちてしまわれて……!」その言葉を聞いた瞬間、信行の顔が瞬時に険しくなった。「これだけ人手がいて、一体お前たちは何をしていたんだ!」怒鳴りつけるように言い捨て、彼はそのまま二階へと駆け上がった。寝室のドアを開けると、ちょうど紀子が真琴の脚に薬を塗っているところだった。信行の姿に気づき、紀子が声をかける。「あ、信行様。おかえりなさいませ」そう言って、彼女は手にしていた薬瓶を置いた。「では、あとの塗り薬は信行様にお願いしますね。私はこれで下に降ります」「ああ」信行は短く応じ、紀子が部屋を出て行くのを待って、真琴の前に椅子を引き寄せて座り込んだ。真琴の手を握り、焦りを隠せない声で問いかける。「どうして転んだんだ?」信行の心配をよそに、真琴は膝に薬を擦り込みながら、静かに答えた。「少し足に力が入らなかっただけよ
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第335話

信行のバカ、頭が狂ってるんじゃないの!?真琴があんなに弱って、やっとの思いでチャンスをくれて、一緒に芦原ヒルズに戻ってくれたっていうのに!まだあの内海の連中と繋がって、あまつさえ峰亜工業と組むなんて。プロジェクトチームを通さず、勝手に契約を結ぶなんて正気じゃない。自分から身を滅ぼしに行ってるようなもんじゃない。もう、誰が止めても無駄だ。紗友里は大きく息を吐き出したが、眉間のシワはいつまでも消えなかった。やがて車が屋敷に着くと、紗友里は無理やり気持ちを切り替え、いつもの笑顔で玄関をくぐった。「真琴、遊びに来たよ!」真琴も笑顔でそれに応える。「夕飯を作って待ってたのよ、早くおいで」「いい匂い!外までいい匂いがしてたもん。米田さんのご飯でしょ、もうお腹ぺこぺこ!」紗友里は楽しげにダイニングへと向かった。必死に明るく振る舞ってはいたが、紗友里の演技は決してうまいとは言えなかった。特に、信行の顔を見るたびに、あからさまに険のある顔を見せていた。それを見た真琴が、スープをよそいながら尋ねた。「どうかしたの?なんだか、あまり元気がないみたいだけど」スープを受け取り、紗友里は笑って誤魔化した。「ううん、そんなことないよ!真琴に会えるのが一番の楽しみなんだから」そう言いながらも、信行を睨みつける目は「いい加減にしろ、これ以上つけ上がるな、あんまりな真似はするな」と、激しい警告を放っていた。けれど信行は涼しい顔で、その視線を相手にもしなかった。もちろん、峰亜との一件については、一言も口にしない。真琴に知られれば、彼女を深く傷つけると分かっていたからだ。食後、キッチンで果物を用意している紗友里のもとへ、真琴の薬を取りに信行がやってきた。紗友里は冷たく釘を刺す。「いい加減にしなよ。あんまり調子に乗らないで」彼が答える前に、紗友里はさらに畳みかけた。「これ以上、内海家とずるずる関係を続けて、由美と後ろ暗い真似をするつもりなら、真琴はもうチャンスなんてくれないからね。離婚しないで済むなんて、もう思わないことね」その警告に、信行は淡々と答えた。「あれは、ただの仕事だ」紗友里は怒りで胸が張り裂けそうだった。深呼吸して怒りを抑え込み、声を潜めて言い返す。「あんたと由美の関係で、『た
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第336話

水谷社長から届いたメッセージを眺めたまま、真琴は身動きひとつしなかった。夕方に、峰亜工業と契約を交わした?だとしたら、それはちょうど信行から「少し遅れる」と連絡が来た、あの時だ。自分が階段から転げ落ちた時だった。これでようやく腑に落ちた。なぜ紗友里あれほど信行を毛嫌いし、刺々しい視線を向けていたのか。すべては、この峰亜工業の件があったからなのだ。真琴が顔色ひとつ変えずスマホを見つめていると、ふいに口を閉ざした彼女を案じて、紗友里が声をかけてきた。「どうかしたの?」はっと我に返ると、真琴はスマホを机に置き、微笑んで見せた。「ううん、仕事仲間からの連絡よ」そのまま何事もなかったかのように会話を続け、入札の件には一切触れなかった。紗友里が黙っていたのは、自分を傷つけまいとする優しさなのだと分かっていたから。真琴をじっと見つめながら、紗友里は「彼女はすべてを見抜いているのではないか」と感じていた。ただ、それを口に出さないだけ。成美が信行の命を救ったこと、二人がかつて愛し合っていたこと。それらは真琴が入院している間に、母親からすべて聞かされていた。けれど、恩返しということなら、信行はとっくに内海家に十分すぎるほど尽くしてきたはずだ。それに、あの時、助手席に座っていたのが誰だったとしても、命がけで彼を助けようとしたはずだった。そもそも、信行は子供の頃にも別の人に命を救われたことがある。けれど、その恩人のことをいつまでも心に留めたり、執着したりする様子は一度もなかった。話題にすることさえなかった。つまり、信行が惜しんでいるのは恩などではなく、自分の「恋」なのだ。由美を身代わりにしてでも繋ぎ止めたいほど、成美に似たあの顔を求めているだけ。だが、そんな残酷な真実を、今の真琴に伝えることなんて紗友里にはできなかった。また彼女を追い詰めてしまうのが恐ろしかった。それにしても、由美の図太さには呆れ果てる。自分まで入院し、挙句の果てに「うつ」だなんて言い出すなんて。厚かましいにもほどがある。笑顔で真琴の話し相手を務めながらも、紗友里の胸の中は煮えくり返るような怒りでいっぱいだった。夜の十時過ぎ、紗友里が帰った後、真琴は身支度を整えてベッドに入った。峰亜のことも、信行が病院へ行ったことも、結
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第337話

「だから真琴ちゃん、もう争うのはやめて、仲良くしましょうよ。これ以上、信行を困らせるような真似はしないで、私を受け入れて。三人で上手くやっていけばいいじゃない」勝ち誇ったような由美の言葉。もし以前の自分なら、あるいは心の準備ができていなかったなら、怒りのあまり、また心が壊れてしまっていたかもしれない。テーブル越しにじっと由美を見つめた後、真琴は落ち着き払った声で言った。「何度も何度も私の前に現れて、付きまとっているのはどっち?相手を追い出して、独り占めしようとしているのは、一体どっちかしら?」その真っ当すぎる問いに、由美はわざとらしく目を丸くして、無垢な振りをしてみせた。「誤解しないで。そんなつもりはないわ。ただ、真琴ちゃんに私のことを認めてもらいたかっただけなの」……認める?真琴はレモンウォーターのグラスを置くと、静かに、けれど強く由美を射抜いた。「それならこうしましょう。信行と浮気をしているっていう、確かな証拠をちょうだい。そうすれば、あなたを『片桐の妻』の座に座らせてあげるわ」「……」由美は、二の句が継げなかった。まさか、真琴の口からそんな提案が出るとは夢にも思わなかった。一体、何を企んでいるのか。驚きのあまり固まってしまった由美を横目に、真琴はスマホとバッグを手に取ると、さっと席を立った。彼女がカフェのドアを押して外へ出るのを見て、由美はようやく我に返り、慌てて後を追った。その頃、外に出た真琴は、何事もなかったかのようにスマホを操作し、密かに回していた録音を止めた。ビルの入り口まで来たところで、息を切らした由美が追いついてきた。彼女は真琴の腕を掴み、必死に食い下がる。「真琴ちゃん!さっきの話……本気なの?それとも、ただからかってるだけ?」真琴は立ち止まり、振り返って一言一言、噛み締めるように告げた。「分かっているはずよ。私と信行の関係において、別れたくないとしがみついているのは、決して私の方ではないということを」その揺るぎない眼差しを見て、由美の心が動いた。本当のところ、自分が真琴を煽りに来たのは、彼女を追い詰めて離婚を急がせるためだった。由美が欲しいのは、日陰の愛などではない。堂々と「片桐信行の嫁」という名前が欲しいのだ。真琴の腕を掴む手をゆっくりと離すと、由美
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第338話

……オフィスに戻った真琴は、憑りつかれたように仕事に打ち込んだ。気づけば夜の九時。ようやく実験データが片付いた。椅子から立ち上がって軽く伸びをし、強張った足の裏を叩く。ふとスマホを手に取ると、信行からの着信履歴とメッセージが何件も溜まっていた。最後の二通は、「アークライトのビルの下で待っている」という簡潔なものだった。「ふぅ……」重い溜息がこぼれる。避けては通れない、か。わざと時間を潰すような真似はせず、手早く荷物をまとめると、パソコンを落としてオフィスを後にした。一階に降りると、予想通り、車のドアに寄りかかって煙草をくゆらす信行の姿が目に飛び込んできた。真琴に気づくと、彼は吸いかけの煙草を携帯灰皿に押し込み、足早に歩み寄ってきた。そして、慣れた手つきで彼女の髪に触れ、気遣うように言った。「病み上がりなんだ。あまり無理をするな」真琴は薄く笑った。「心配しないで。自分のことくらい、ちゃんと分かっているから」信行は無言で助手席のドアを開け、彼女を促した。真琴は遠慮なく、そのシートに身を沈めた。彼が今日という日をどう取り繕い、どんな言い訳を並べるのか。それを確かめてやりたいという好奇心があった。今の真琴にとって、信行はすでに「自分の人生」の外側にいる人間だ。もはや、彼に何を言われようと心が波立つことはない。車が動き出し、ハンドルを握る信行が、落ち着かない様子で隣の様子を窺う。その後ろめたさは、横顔を見れば明らかだった。由美を病院へ運び去った後で、ようやく置いてけぼりにした妻の存在を思い出したのだろう。しばらくの沈黙の後、信行が重い口を開いた。「……あいつは、心臓移植の手術を受けているんだ」そこで言葉が途切れた。先を続けるのが、ひどく苦痛であるかのように。真琴は表情ひとつ変えず、淡々と応じた。「ええ、分かっているわ」信行はもう一度、真琴の方を向いた。「誤解しないでくれ。あいつとはそんな関係じゃない。あの時はただ、放っておけなかっただけで……特別な感情があるわけじゃないんだ」その必死の弁明を、真琴は柳に風と受け流す。「分かっている。理解はしているわ」だが、そこで真琴が纏う空気が一変した。射抜くような視線を、まっすぐ彼に向ける。「まず言っておくけれど、今日
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第339話

やがて、スマホから由美の勝ち誇ったような声が漏れ出した。「真琴ちゃん、前にも言ったわよね?私たちは二人とも、絶対に成美には勝てないって。嘘だと思うなら、今回のことを見てなさいよ。私が病気になれば、信行はやっぱり病院まで駆けつけてくれるの。それに入札のことだって……」録音が進むにつれ、信行の顔はみるみるうちに青ざめ、どす黒い沈黙に支配されていった。今になって、ようやく思い知った。あの日、真琴が「何か隠し事はないか」と問うた真意を。彼女は、すべてを知っていた。自分と成美の間にあった、あの過去のしがらみを。録音が終わると、真琴は急ぐ素振りも見せずスマホをバッグに収めた。そして、信行をまっすぐに見据え、静かな声で告げた。「あなたが本当に愛しているのは成美であって、由美ではな……」「あいつ……いつ、そんなことを言ったんだ」真琴の言葉を遮り、信行が低く問い詰める。「入院中、初めて外に出た時よ」真琴は、淡々と、一言ずつ突き放すように続けた。「だから、もう無意味な言い争いはしたくないの。ただ、静かにこの結婚を終わりにしたいだけ。あなたと内海家、そして由美との腐れ縁は、これから一生続く。私はその重荷を背負いたくないし、私のこれからの人生を、誰かの影に怯えながら使い果たしたくない。私は、私のために生きたいの。ただ、穏やかな暮らしがしたい。認めるわ。やり直すチャンスをあげると言ったのは、あなたがボロを出すのを待っていたから。あなた自身が、もう逃げられないと悟るのを待っていたのよ。今がその時。もう、終わりにしましょう」冷徹なほど落ち着いた真琴の言葉に、信行が掠れた声で漏らす。「真琴……今回の件は、俺たちお互い様じゃないか」「……お互い様?」真琴は、思わず鼻で笑った。そうね、お互い様。彼は自分の日記を勝手に読み、自分にも「忘れられない誰か」がいると思い込んで、自分を正当化しようとしている。だが、その滑稽な勘違いを正してやる気力すら、今の真琴には残っていなかった。「なら、一つだけ答えて。離婚はできるの?」「……今日は、お前がどうかしている。この話はまた今度だ」信行は逃げるようにそう言い捨てると、黙り込んだ。真琴もそれ以上は追及せず、窓の外へと視線を投げ、一言も発さなくなった。信行も、
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第340話

信行が振り返ると、真琴はすでにベッドの上で上体を起こしていた。彼の方は、すでに着替えを済ませている。真琴の覚醒に気づくと、信行は何事もなかったかのように歩み寄り、彼女の頬を優しく撫でた。そして髪にキスを落とすと、低い声で囁いた。「……少し、出かけてくる。すぐ戻るから、先に休んでいて」その中身のない温もり。真琴は自分の頬にある彼の手を無表情のまま、静かに退けた。こんな時間に彼が呼び出される理由など、由美のこと以外に考えられない。行き先を問うこともせず、真琴はただ冷めた瞳で彼を見据えた。「……どうしても、行くのね?」信行は彼女の手を握り、指先を優しく解すように力を込めた。「すぐに戻る。いいから、休んでいろ」その瞳に宿る頑なな決意。真琴は、それ以上言葉を重ねるのをやめた。信行は真琴の額に口づけを一つ残し、寝室から出て行った。遠ざかっていく彼の背中。真琴は声を立てることもなく、ただその残像をいつまでも、いつまでも見つめ続けていた。やがて、車のエンジンが掛かる音、そして重い門扉が開く音が聞こえてきた。ベッドの上、真琴は動かずにいた。やがて、彼女の唇からふっと、微かな笑みがこぼれた。結局、自分の賭け勝ちだった、ということだ。……あの日、信行が夜通し戻ることはなかった。翌日、信行はすぐさま出張に出た。出発前に真琴へメッセージを送ったが、彼女がそれに気づいたのは午後のことだった。真琴は返信しなかった。それどころか、かつて彼が彼女にしたのと同じように、彼をブロックし、連絡先から削除した。他の連絡手段も、一つ残らず同じように遮断した。怒りはなかった。ただ、心底がっかりしただけだ。あんなに離婚を迫ったというのに、結局、彼はあの夜も由美の元へ行くことを譲らなかった。夫婦の情どころか、結婚前の友人としての絆さえ、とっくに霧散していた。一週間後、出張から戻った信行は、芦原ヒルズへは帰らず、拓真を酒に誘った。バーの片隅。信行はグラスを握ったまま黙り込んでいた。真琴にブロックされたことも、連絡先を消されたことも、言い出せなかった。ソファに座る拓真は、もう宥める気も失せ、吐き捨てるように言った。「結局、お前にとっては由美や内海家の方が重いってことなんだろ」信行は答えず、サイドテ
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