All Chapters of 暴走する愛情、彼は必死に離婚を引き止める: Chapter 341 - Chapter 350

350 Chapters

第341話

拓真は信行の言葉を遮るように言い放った。「なぁ、考えたことはないか?真琴ちゃんはお前と別れた方が、ずっと幸せになれるんじゃないかって。興衆実業を出てアークライトに移ってから、真琴ちゃんはもう十分に自分の力を証明してみせただろ。特許をきっちり金にする手腕も、現場を回す力も、エンジニアとしての腕も本物だ……上の連中や専門家がこぞって真琴ちゃんを高く買うのも分かるよ。真琴ちゃんはまだ、二十四にもなってないんだからな。真琴ちゃんの伸びしろは底知れない。仕事に打ち込めば、将来成し遂げることは俺やお前なんかとは比べものにならないスケールになる。社会に尽くせる力だって、俺たちとは次元が違うんだ」「真琴は別れた方が幸せになる」――その容赦ない指摘に、信行はただ冷え切った視線を拓真に向けるしかなかった。視線を絡ませたまま、拓真は畳み掛ける。「事実だってことは、お前が一番よく分かっているはずだ。真琴ちゃんの頭脳がどれほどズバ抜けているか、お前が知らないはずないだろ」信行は感情の読めない瞳をそらし、吸いかけの煙草を灰皿に揉み消した。それでもやはり、手放したくはなかった。煙草を押し付けた右手を引いたその時、スーツの内ポケットでスマホが震えた。気だるげに取り出し画面を見ると、舞子からの着信だった。何事もないように通話ボタンを押し、「もしもし」と応じる。だが次の瞬間、受話器から漏れた舞子の悲鳴が、信行の鼓膜を突き刺した。「信行様!火事です、家が火事なんです!」信行が状況を飲み込む間もなく、慌てふためいた声が続く。「私たちが寝ている間に、突然火の手が上がって……真琴様が、真琴様がまだお一人で二階に!」その言葉を聞いた瞬間、信行の心臓が止まった。通話を叩き切るや否や、車のキーを鷲掴みにしてソファから跳ね起きた。拓真も弾かれたように立ち上がる。「どうした!?」信行は顔面を蒼白に引きつらせ、大股で出口へと向かいながら叫んだ。「江藤さんからだ。家が火事だって」走りながら119番へ発信し、住所を叫ぶ。オペレーターの返答は簡潔だった。「その場所なら、すでに通報が入っています。今、消防隊が向かっています」信行の背を追いながら、拓真も焦燥を隠せずに眉をひそめた。「この天気で、なんで急に火事なんかに……」拓真が
Read more

第342話

死に物狂いでもがき、真琴を救おうと炎に飛び込もうとするが、大人数人の力には到底抗えなかった。隣では拓真が必死に信行を押さえつけ、喉を潰さんばかりに叫んでいた。「落ち着け!きっと真琴ちゃんの親父さんたちが守ってくれる!どこかに隠れて、助けを待っているはずだ!」……一時間後、猛烈な炎はようやく消し止められた。野次馬はまだまばらに残っていたが、幸いにも邸宅の間隔が広かったため、信行の家以外に火が回ることはなかった。だが……真琴を除いて、屋敷にいた全員が逃げ出した後だった。消防の話では、火元は電気系統の不具合によるものだという。それを聞いた舞子は、その場に崩れ落ちて号泣した。数日前から電気の調子がおかしいと気づきながら、大したことはないと放っておいた。そのせいで、こんなことになったのだと。一方、紗友里は鎮火の後、隊員から室内で黒焦げになった女性の遺体が見つかったと告げられた瞬間、糸が切れたように気を失った。そのまま病院へ担ぎ込まれ、今も目を覚ましていない。法医学検査室の前の長椅子。信行は背を丸め、両手をきつく握りしめたまま、一晩中一言も発さなかった。彼が座る足元のタイルは、絶え間なくこぼれ落ちた涙で、ひどく濡れていた。壁に背を預けて立つ拓真の目も、真っ赤に腫れ上がっている。彼もまた、先ほどまで泣き続けていた。屋敷が焼け、真琴が助からなかったという報せに、本家の祖父母は一人が気を失い、一人が持病で倒れた。美雲は泣き叫びながら、救急車に縋るようにして病院へ向かった。道中、彼女はひたすらに自分たちを責めていた。最初から、あの子をこんな家に嫁がせるべきではなかった。信行の不始末を押し付け、苦労ばかりさせて。もっと早く、あの子を守ってやるべきだった。自分たちがもっと信行を追い詰め、早く離婚させてさえいれば、あの子がこんな目に遭うことはなかったのだと。今や片桐家は、根底からひっくり返ったような騒ぎだった。あの冷徹な健介でさえ、完全にうろたえていた。ただ、己の不甲斐なさを呪う。父親としてもっと厳しく息子を律し、早く離婚に同意させていれば……検査室の前で夜を明かして、丸一日。信行は石のように黙り込み、拓真たちも、かけるべき言葉を見つけられずにいた。年老いた者が死ぬのが世の理だというなら、真琴のこれは一体何な
Read more

第343話

もう、疑いようもなかった。だから、信行が自らその姿を目の当たりにするのは、あまりに打ちのめされすぎる……やめておいた方がいいだろう。だが、信行は司の手を静かに振り払い、掠れた声で、はっきりと告げた。「……会ってくる」実際、そこにはもう、かつての真琴を思い出せる場所など何一つ残ってはいなかった。やがて霊安室から出てきた彼らの目は、赤く腫れ上がっていた。信行が震える手で署名を済ませると、拓真たちはすぐさま、葬儀の準備に走り回った。祖父が亡くなってから二ヶ月も経たないうちに、孫娘までもが、後を追うように逝ってしまった。……病室。信行が紗友里の様子を見に行くと、彼女はベッドの上で膝を抱え、抜け殻のように座り込んでいた。水も食事も拒み、ただ虚空を凝視している。信行は傍らの椅子を引いて腰を下ろした。長い沈黙の後、低く沈んだ声で切り出した。「明日は、真琴の葬儀だ……少し、気持ちを整えておけ」その言葉に、目が覚めて以来ずっと黙り込んでいた紗友里が、ようやく冷たい口を開いた。「……昔真琴の命を助けたわよね。その命をあんたに返したのよ」彼女は信行を責めていた。真琴を妻にしながら愛さず、愛さぬくせに離婚もさせず、ただあの子を縛り付けたことを。そのどちらか一つでも彼が誠実に選んでいれば、真琴がこんな無惨な最期を遂げることはなかった。妹の言葉に、信行は一言も返せなかった。命で返してほしかったわけじゃない。そんなもの、一度だって望んだことはない。だが、今の彼に、反論する資格など塵ほども残されていなかった。信行が黙り込んでいると、紗友里はさらに冷酷な嘲笑を浮かべた。「真琴が死んで、これで後ろめたさ一つなく、由美と一緒にいられるわね。堂々とあの女を妻に迎えて、せいせいして大好きな成美の家族を養ってあげればいいわ。本当によかったわね。心からお祝い申し上げるわ」突き刺さるような皮肉。信行は感情の消えた声で答えた。「明日の準備がある……しっかり休め」去っていくその背中に、紗友里の怨嗟が飛ぶ。「あんたがこれからの人生、どうやって『心安らかに』生きていくのか、じっくり見せてもらうからね!」成美の病は、彼にはどうしようもない運命だった。いつかは訪れるはずの死だった。だが、真琴は違う。彼女の死は、間違
Read more

第344話

かつての親友、哲男に対し、あまりに申し訳が立たなかったからだ。紗友里は自室に閉じこもり、クッションを抱きしめたまま丸一日、誰とも口を利かなかった。真琴は、もういない。あの子と笑い合える日々は、永遠に失われた。こんなことになるなら、真琴が退院したあの日、無理にでも本家へ連れ帰って住まわせるべきだった。そうすれば、あんな災厄から守ってやれたかもしれないのに。だが、どれほど「あの日」を悔やんでも、死んだ者は帰ってこない。一方、信行もまた、本家の自室から一歩も出ずにいた。真琴が生きていた頃の記憶を、ただひたすらに手繰り寄せていた。ふと、彼女の写真を探そうとするが、自分たちには、婚礼写真の一枚さえないことに気づき、愕然とした。三年の月日が過ぎて、手元に残ったのは「夫婦」であることを示す一枚の書類だけ。彼は真琴に、何一つ与えていなかった。形ばかりの式さえ、挙げてやってはいなかった。葬儀の翌日、弁護士から電話が入った。「社長……亡くなった真琴様の遺産ですが、すべてを引き継げるのは、旦那様であるあなたお一人です。いくつか、署名をいただきたい書類がございます」信行が応じる間もなく、弁護士は事務的な言葉を重ねる。「以前あなたが分与した株や資産のほかに、真琴様ご自身が持たれていた不動産が二件。辻本の生家と、先日買われたマンションです。それに二千六百万円ほどの預金。これらすべて、あなたの名義に変更する手続きが必要です」デスクの前で、信行は痛むこめかみを押さえ、力なく答えた。「……分かった。その話は、また後にしてくれ」「承知いたしました。ですが、なるべく早めに進める必要がありますので」信行は答えを待たず、通話を切った。スマホを机に放り出すと、そのまま顔を覆う。かつて自分が手切れ金のつもりで渡した資産が、巡り巡って自分の手元に戻ってきた。それどころか、彼女自身のわずかな遺産までもが。背もたれに体を預け、虚ろに天井を見つめる。これからの人生に、一体何の意味があるのか。学生時代、共に過ごしたあの日々を思い出している。突然、遠慮のない乱暴なノックが響いた。ゆっくりと体を起こしたときには、すでに紗友里が怒りに肩を震わせて部屋に踏み込んできていた。「真琴の遺産の件よ」兄妹の視線が、火花を散らす。
Read more

第345話

真琴が生まれ育ち、二十年という歳月を過ごしたあの場所を、目に焼き付けておきたかった。だが、門に近づいた瞬間、自分が来れば必ず満面の笑みで駆け寄ってきた真琴の姿や、穏やかに迎えてくれた哲男の顔が鮮やかによみがえり、紗友里の目頭は再び熱くなった。真琴はもういない。たった一人の親友を永遠に失った。庭から家の中へ足を踏み入れる。屋敷は死に絶えたように静まり返り、鳥のさえずりと風に揺れる葉音以外、人の気配はすべて消えていた。一階をあてもなく歩き回った後、二階へ上がり、真琴の部屋へと向かった。信行と結婚する前、二人はよくこのベッドに身を寄せ合って、夜通し他愛のない夢を語り合ったものだ。だが、真琴の人生はこれから始まるはずだったのに。こんなにも呆気なく、幕を閉じてしまった。ベッド脇の書棚の前に立ち、並んだ本の背を指先でそっとなぞりながら、紗友里は掠れた声で呟いた。「……真琴、会いたいよ」あの子が逝ってから、まだ一週間。それなのに、まるで何十年も会っていないような、途方もない寂しさに胸を掻きむしられる。書棚に飾られた写真立てを見つめ、紗友里はついに嗚咽を漏らした。写真の中で微笑む真琴に触れ、もう二度とこの笑顔に会えない現実に、とめどなく涙がこぼれ落ちる。あんなに若かったのに。神様はどうして、あの子に一度のチャンスもくれなかったのか。どうして、誰もが逃げ延びたあの火事で、真琴だけが灰にならなければならなかったのか。その時、寝室のドアが再び開いた。振り返ると、そこには信行が立っていた。紗友里の顔が、瞬時に憎しみで歪む。「……何しに来たのよ」信行は答えず、ふらふらとした足取りで部屋の中へ入ってきた。紗友里が抱えていた写真立て、そして隣に並んだ数枚の写真に目を留める。自分や、拓真、司、良一……真琴は、数少ない友人との絆を、何よりも大切にしていた。信行の目に宿る悔恨の色を見て、紗友里は露骨に顔を背け、乱暴に涙を拭った。ふと、信行の視線が書棚の一冊のノートへと吸い寄せられた。真琴の日記だ。取り憑かれたように手を伸ばし、それを抜き取る。ページをめくると、そこには以前、彼が盗み見たあの内容が記されていた。だが、さらに先を読み進めたとき。以前読んだはずの箇所のすぐ後に、弾むような筆跡でこう綴ら
Read more

第346話

そうか。真琴が書き残した「婚姻はただの形に過ぎず、愛はただ静かに胸の内に」という言葉。あれは、自分に嫁いだ時のことではなく、兄との縁談を決められた時の……あの時の心の内だったというのか。真琴がずっと想っていた相手は、他でもない、自分だった。自分がそれを別の誰かを想っているのだと勝手に決めつけ、三年間も真琴を拒絶し続けてきた。そして最後には、自分の手で、真琴を死へと追いやった。「……なぜだ。なぜ、言ってくれなかった……」信行は眉を深くひそめ、うわごとのように繰り返した。その様子に、紗友里が顔を向ける。「……何が言いたいのよ?」信行はノートを握りしめ、震える声で絞り出した。「真琴が……俺を、好きだったなんて。なぜ、教えてくれなかったんだ……」その問いに、紗友里の怒りが爆発した。「真琴がどれだけ奥手で、自分を表に出せない子か分かってるの!好きでもなけりゃ、誰があんたなんかに嫁ぐもんか!ずっと、真琴を拒んでいたのは、あんたのほうでしょう!」紗友里の激しい糾弾を受け、信行はノートを抱えたまま、力なく首を振った。「知らなかったんだ……俺を好きだなんて、知らなかった……てっきり、他に好きな奴がいるんだと……」途中で言葉が詰まる。真琴には他に好きな男がいるのだと、本気でそう思い込んでいた。紗友里はこみ上げる怒りを抑えきれず、冷たく言い放った。「あんたの頭にあるのは、成美のことと内海家のことばかり。あんたに真琴の隣に立つ資格なんてない。真琴に愛される価値なんて、これっぽっちもありはしないのよ!……私は一生、あんたを許さない。真琴に代わって、死ぬまであんたを恨んでやるわ」紗友里は吐き捨てるように言い、写真立てを棚に戻した。その時、信行が触れた場所から二通の診察記録が滑り落ちた。彼女はそれを手に取り、中を検めた瞬間、顔色が豹変した。「……うつ病?」真琴が二年も前から、うつを患っていた?けれど、彼女からは一言も聞いたことがなかった。何も言ってくれなかった。この前、身体表現性障害で運び込まれた時ですら、何も……真琴の診察記録を見つめる紗友里の顔から血の気が失せていく。彼女は弾かれたように信行を振り返った。「真琴、二年前からうつ病だったのよ。おじい様が亡くなった後じゃない、二年も前から……そ
Read more

第347話

紗友里は焦ったように、食い気味に言葉を継いだ。「この子のこと、教えてほしいんです。どんな状態だったのか」断られるのを承知で、彼女は必死に事情を打ち明けた。「この子の親友です……実は先週、彼女、亡くなってしまって。だから、本当はどういう思いでいたのか、どうしても知っておきたいんです」その言葉を聞き、医師は深く眉をひそめた。「……亡くなったのですか?」「はい。先週……火事で」紗友里が声を震わせて答えると、医師は一瞬驚いたように目を見開いたが、やがて悟ったように、静かに視線を落とした。まるで、その結末をどこかで予感していたかのように。四十代半ばのその医師は、穏やかで情の深そうな面差しをしていた。彼が痛ましげに目を伏せるのを見て、紗友里はさらに畳み掛ける。「真琴の死は、あまりにも急でした……私たちは、真琴がそんな前からうつ病を抱えていたなんて、これっぽっちも気づかなかった。どんな苦しみを抱えていたのか、教えていただけませんか?」そこまで言うと、紗友里の目から再び涙が溢れ出した。激しい後悔が胸を抉る。あれほど仲が良かったのに。結婚してからの真琴が幸せそうじゃないことには気づいていたのに、まさか重度のうつ病にまで追い詰められていたなんて。もしもっと早く気づいてやれていたら。真琴の運命を変えられたかもしれないのに。彼女の悲痛な訴えに、医師は重い溜息を一つ吐き出すと、カルテを机に置いて語り始めた。「この方のうつ病は、もう二年以上にわたるものでした。去年からは心の問題が体にはっきりと出始め、主に激しい胃痛となって苦しめていました。催眠療法などで彼女の心の奥底を探っていくうちに、行き着いた答えは……やはり、彼女の『結婚生活』でした。治療を半年続けても良くならず、むしろ悪化していく一方で。私からは『一刻も早く離婚して、環境を変えるべきだ』と何度も勧めました。ですが、彼女はどうしても夫への未練を断ち切れず、一人でもがき、なんとか関係を立て直そうと必死だったのです。つい最近、ようやく吹っ切れたようで『離婚を切り出した』と報告を受けたばかりだったのですが……まさか、あんな最期になってしまうとは」医師はさらに、沈痛な面持ちで言葉を重ねた。「あんなに賢くて、才能に溢れた子が。本当にもったいないことをした……」医
Read more

第348話

信行は後悔していた。この悔恨は、彼が生涯背負い続ける十字架となるだろう。あの何冊ものノートに、びっしりと書き込まれた自分の名前を思い出すたび、呼吸は苦しくなり、胸の奥を万力で締め付けられるような痛みに襲われた。駐車場に辿り着き、抜け殻のような後ろ姿を見せる信行に、紗友里は堪らず声をぶつけた。「真琴はあんたに誤解され、あんたに追い詰められて、心を壊したのよ。あの子が死んで……あんたは、これからも平気な顔をして生きていくわけ?」本当は、これ以上言葉を重ねて信行を追い詰めるつもりはなかった。けれど、真琴が耐え続けてきた三年の苦しみを、共に受けた健診で体に増生が見つかったあの時のことを、そして、あの重いうつ病と、信行のこれまでのあまりに無体な仕打ちを思うと、黙ってはいられなかった。あいつの心をなぶり殺し、取り返しのつかない後悔の中に叩き落としてやりたかった。真琴の病、そしてその命に比べれば、信行が今味わっている苦しみなど、あまりに軽すぎる。真琴が体面を守るために飲み込んできた言葉を、自分がすべて吐き出してやる。紗友里の容赦ない言葉に、信行は車のドアを掴んだまま、背を向けたまま立ち尽くした。反論する力さえ、彼には残っていなかった。結局、信行は振り返ることも、妹に言い返すことさえしなかった。ただ黙って車に乗り込み、一言も発さぬまま、静かにその場を去っていった。遠ざかる車を見送りながら、紗友里はぐっと目頭を熱くした。真琴はもういない。そして信行の人生も、二度と元に戻ることはないだろう。車が完全に見えなくなるまで見届けた後、紗友里は顔を背け、乱暴に涙を拭った。だが、信行にありったけの怒りをぶつけたところで、胸の奥の巨大な空洞が埋まることはなかった。……両手でハンドルを握りしめ、信行は一言も発さず車を走らせた。道中、スマホが何度も震えたが、画面を見る気力もなかった。心が限界を迎えていた時でさえ、真琴は自分の前でいつも無理に笑っていた。「ちゃんと話がしたい」と、何度も、何度も縋っていた。だが自分は、その手を一度だって掴もうとしなかった。どれだけ走っただろうか。気づけば、辻本の古い屋敷の前にいた。だが、もういくら待っても、満面の笑みで真琴が出てくることはない。赤くなった瞳で、あの日自分が家を出
Read more

第349話

まるで、真琴がまだ生きているように。盆や正月には必ず墓地へ足を運び、真琴と哲男の墓前に、瑞々しい花を手向けた。紗友里は彼女なりのやり方で真琴の傍にあり続け、その面影を胸に刻んでいた。……二年後。空は低く垂れ込め、細い雨がしとしとと降り続いていた。真琴の墓碑の前に、信行は長いこと立ち尽くしていた。この二年間、彼はわずかな暇さえあれば、導かれるようにここへ来ていた。傍らで傘を差す運転手は、主の沈黙を乱さぬよう、静まり返っている。そこへ、電話を終えた祐斗が、雨を突いて小走りに駆け寄ってきた。「社長、発表会が始まります。これ以上は、定刻に間に合いません」彼が言うのは、東都市と浜野市によるハイテク分野の提携発表会のことだ。浜野市側からは、自治体の研究所に加えて、「東央システムズ」もこの提携に名を連ねていた。その会社は、浜野市政府と地元最大の実業家一族である西脇家が、共同出資して設立した技術開発企業だ。政府が投資とリソースの供給を行い、経営の実務は主に西脇家が担っている。研究開発については、西脇家の次女が全責任を負っているという話だった。西脇家の兄妹は二人。兄の西脇光雅(にしわき みつまさ)は三十歳。妹の西脇茉琴(にしわき まこと)は二十五歳。妹の方は自動制御の博士号を持ち、ロボット工学の分野では向かうところ敵なしの天才技師だという。経営を司る兄と、技術を支える妹。若き二人の才能が、浜野市の勢力を一手に引き受けていた。祐斗の促しに、信行は墓碑の上の写真へ、静かに目を向けた。「……真琴。仕事に行ってくるよ。また数日中に、顔を出すから」写真の中の真琴は、眩しいほどの笑みを浮かべていた。まるで、この世にいた頃、何不自由なく幸せであったかのように。都心へ戻る車中で、信行は手元の資料に目を通した。祐斗は助手席から振り返り、発表会の段取りを淀みなく説明していた。この二年間、興衆実業のハイテク分野における進歩は飛躍的だった。家庭用ロボットやワイヤレス給電プロジェクトに加え、アークライトとは新たに2つの共同プロジェクトを立ち上げている。自前の研究所も立ち上げ、海外から多くの専門家を呼び寄せた。まもなく、車は東都市の会議センターに到着した。祐斗を伴って信行が会場入りすると、発表会はまさに始まろ
Read more

第350話

会場には、嵐のようなフラッシュの音が絶え間なく鳴り響いていた。その端麗な容姿と圧倒的な気品は、会場の視線を一瞬で奪った。光雅の名は、東都市の財界にも広く轟いていた。その仕事ぶりは迅速果断にして冷徹。浜野市では誰もが彼に道を譲り、その機嫌を損ねまいと腐心しているという。若くして傑出した才を放ち、決断力も実行力も桁外れ。西脇家の先代が早々に全権を委ね、隠居を決めたほどの器だ。それでいて、これほどの男がいまだ独身を貫いている。浮いた噂一つなく、唯一聞こえてくるのは、妹との仲睦まじい様子ばかり。大股でステージへ向かう彼に、割れんばかりの拍手が送られる。その熱狂ぶりは、市の有力者を迎えた時ですら及ばない。客席の後方では、若い女性たちが目を輝かせ、「浜野市にあんな超ハイスペックな独身がいたなんて」と興奮気味に囁き合っていた。壇上の中央に立った光雅は、熱烈な視線を浴びながらも口元に余裕の笑みを浮かべた。片手を背後に回し、もう一方の手でマイクを引き寄せると、落ち着いた声で口を開く。「ご来賓の皆様、ならびに業界の各界を代表する皆様。本日はお集まりいただき、心より感謝申し上げます。この東都市を訪れ、市政府と協力して次世代エネルギーや半導体、無人運転といった最先端技術の開発に携われることを、大変光栄に思います。向こう五年にわたる計画の中で、東央システムズは浜野市の代表として――」光雅の淀みないスピーチに、会場の誰もが固唾を呑んで聞き入っていた。その若さと圧倒的なオーラに、拓真と司が顔を見合わせ、声を潜める。「浜野市からとんでもないキレ者が来やがったな。こいつには妹がいて、そっちも開発の現場じゃ相当なやり手らしいぜ」「西脇茉琴だろ。東央の技術部門を牛耳ってるって話だ。兄妹揃って表には出ないがな」「兄があのルックスだ。妹も相当なもんだろうよ」「まあ、そのうち拝めるだろ」……午前十一時、発表会は幕を閉じた。歓談の時間へと移ると、光雅は市の幹部たちと挨拶を交わした後、不意に会場の端へと手招きをした。呼び寄せられたのは、洗練された空気を纏った一人の女性だ。純白のシルクブラウスに、黒のワイドパンツ。黒髪を低い位置で束ねたその佇まいは、凛としていて美しい。自信と気品に満ちた、非のうちどころのない表情。「菊池市長、紹介さ
Read more
PREV
1
...
303132333435
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status