暴走する愛情、彼は必死に離婚を引き止める のすべてのチャプター: チャプター 311 - チャプター 320

352 チャプター

第311話

真琴は薄く微笑んだ。「ええ……まあ、それなりに」言葉が途切れ、オフィスに重苦しい沈黙が降りた。窓の外には、相変わらずの青空と白い雲が広がっている。信行はカップを手に、彼女の前に立って静かに見つめていた。向かい合ったまま、視線が絡み合う。この息の詰まるような沈黙に、真琴は耐えがたい居心地の悪さを覚えた。沈黙を破るように、乾いた作り笑いを浮かべて尋ねる。「あなたは?最近、変わりない?」最後に会ってからそれほど日も経っていないというのに、このよそよそしさはまるで、何年もの間、疎遠になっていたかのようだ。必死に間を持たせようとする彼女に、信行はふっと笑った。「俺も、まあまあだ」ただ……狂おしいほどに、真琴に会いたかった。忙しい時も、そうでない時も。意識していようが無意識だろうが、常に彼女の姿が脳裏をよぎっていた。成美がこの世を去った時でさえ、これほどまでに心を掻き乱されることはなかったというのに。紗友里を通じて近況を知ることができたからこそ、なんとかこの渇きを紛らわすことができていた。瞬きもせずに見つめてくるその熱を帯びた視線に、真琴はたまらず顔を背け、自分のデスクの方へと視線を逃がした。「データの再計算の途中なの。この後の会議で使うから」それを聞き、信行はすぐさま身を屈め、カップを応接テーブルに置いた。「そうか。それなら邪魔をしたな。俺は先に会議室へ行っている」真琴は頷いた。「ええ。じゃあ、また後で」踵を返して歩き出した彼の背中を、真琴は二歩だけ進んで見送った。ドアを閉める間際、信行が再び振り返って彼女を見た。真琴はただ、淡く微笑み返した。ドアが完全に閉まり切るのを見届けてから、真琴はようやくほっと長く息を吐き出し、強張っていた肩の力を抜いた。……フロアをもう一度見渡し、信行が両手をポケットに突っ込んだまま、何事もなかったかのように上の階へと去っていくのを見届けてから、真琴はようやくデスクに戻り、先ほどの作業を再開した。しばらくして、総務部の若い女性社員が会議の開始を知らせにきた。真琴はプリントアウトした資料を抱え、上の階へと向かった。会議は主に智昭のプレゼンテーションと、投資家たちとの質疑応答で進行した。真琴は後方のドアに近い末席に陣取り、静かに耳を傾けながら、黙
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第312話

智昭はアークライトのトップだ。会社運営に加え、プロジェクト全体の統括も担う彼にとって、貴博一人のために専門技術のレクチャーをする時間を捻り出せるはずもなかった。ゆえに、智昭は貴博からの依頼を、そのまま真琴に一任した。だが……それこそが、貴博の真の狙いだった。智昭の指示を受け、真琴は頷いた。「承知いたしました、社長。後ほど五十嵐さんにご連絡いたします」オフィスに戻るや否や、バッグの中のスマホが震えた。貴博からの着信だった。事務的なトーンを保ち、通話に応じる。「五十嵐さん」受話器の向こうから、笑みを帯びた声が返ってきた。「辻本さん、今日の仕事終わりは時間があるかな?」真琴はバッグをキャビネットにしまいながら答えた。「ええ、空いております。社長からも伺いました。レポートの整理が終わり次第、こちらからご報告に伺ってよろしいでしょうか?」「仕事が最優先だ。終わったら、私がそちらへ迎えに行くよ」真琴は思わず言葉を詰まらせ、恐縮した。「お迎えなど、とんでもありません。どうぞお気遣いなく」「気遣いじゃないさ。ちょうど今、アークライトの近くにいるんだ」すぐ近くにいると言われてしまえば、これ以上の固辞は角が立つ。真琴は大人しく、その申し出を受けることにした。午後五時半。退社した彼女がエントランスで待っていると、ふいに真っ黒なランドローバーが滑り込むようにして目の前で停まった。運転席の窓が静かに下り、貴博の端正な横顔が姿を現す。「辻本さん、乗って」今日の彼は白いポロシャツ姿だった。髪型も少し整えられ、洗練されたカジュアルな雰囲気を漂わせている。特有のオーラは健在で、一目で「上の人間」だと分かる威厳はあるものの、普段の堅苦しい官僚じみた雰囲気はすっかり影を潜めていた。その姿を目の当たりにして、真琴は一瞬、目を丸くした。まるで別人のようだ。だが、こうした彼も悪くない。余計な緊張感を感じずに済む。助手席に乗り込み、真琴は軽く尋ねた。「今日は運転手の方はご一緒ではないのですか?」言いながらシートベルトを引き出そうとしたが、それより早く貴博が手を伸ばした。彼女の手からベルトを受け取り、至近距離で「カチャリ」と金具を留めてくれた。「業務時間外だからね。部下に残業を強いるわけにはいかない
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第313話

マネージャーが案内されたのは、右奥の個室だった。重厚な自動ドアが音もなく開くと、そこには簡潔ながらも洗練を極めた空間がしつらえてあった。プライバシーへの配慮は格別で、事情を知らぬ者がこの光景を見れば、何か重大な密謀でも企てているのかと勘違いしそうなほどだった。ここは完全会員制の超高級店であり、相応の身分がなければ入会すら許されない。当然、一見さんお断りの、選ばれた者だけの店である。円卓を挟んで腰を下ろすと、マネージャー自らが茶を注いだ。供されたのは、低温でじっくりと淹れられた最高級の玉露だった。淹れる水からして専用のものだという。席に着き、ふと窓の外に広がる都心の夜景に目をやり、真琴は密かに息を呑んだ。こんなオフィスビルの中に、これほど格式高いレストランが隠されていたとは。マネージャーが貴博にメニューの確認を促すと、彼はそれを真琴の前に差し出し、静かに尋ねた。「辻本さん、こちらのコースでどうだろう?何か追加したいものはあるかな?」「五十嵐さんのお取り計らいにお任せします。私は初めてですので」彼女にとって、ここへ来た目的はあくまで仕事だ。食事の内容など、彼女にとっては二の次であった。真琴が「お任せします」と伝えると、貴博はマネージャーにコースを始めるよう促した。ほどなくして、マネージャーが給仕を伴い、料理を運び込んできた。蒸し鮑、すっぽん小鍋、翡翠なす……貴博が選んだのは正統な和食の品々だったが、この店の趣向は一般的なそれとは一線を画していた。一皿一皿がまるで芸術品のように繊細で、目を奪われるほど美しい。貴博が取り分けてくれたすっぽんの小鍋を一口運ぶと、真琴は思わず目を見張った。これまで味わったことのない美味しかった。隣の貴博へ視線を向け、真琴は素直な感嘆を口にした。「五十嵐さん……このお店の料理、本当に素晴らしいですね」「口に合って何よりだよ。遠慮なく食べてくれ」貴博は嬉しそうに目を細め、さらに料理を取り分けてやる。二、三口ほど料理を口にしたところで、真琴はさっそくバッグから一束の資料を取り出し、貴博に差し出した。「こちらが整理した資料です。専門書五、六冊分の要点を抜粋しておきました。これに目を通していただければ、一から本を読み込む時間を大幅に短縮できますし、実務に必要な知識もこれで十分
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第314話

「そうですね」真琴は穏やかに相槌を打った。貴博の食事を邪魔しては悪いと思い、先ほどのような勢いで語り続けるのは控え、様子を窺いながら言葉を交わす。彼が何に興味を持ち、何を求めているのかを優しく問いかけながら、対話のひとときを慈しんだ。そんなやり取りを重ねながら食事を楽しんでいるうちに、気づけば夜の九時を回っていた。真琴は、かつてないほどの心地よい満腹感に包まれていた。彼女を送り届ける道中、貴博は終始上機嫌だった。本当ならこのまま散歩にでも誘いたいところだったが、明日は平日であり、彼女の多忙な日々を思えばこれ以上引き留めるのは無粋だと自分を律した。何より、今はまだ彼女の心を驚かせたくなかった。辻本本宅の前に車が停まると、貴博も降りて彼女を見送った。真琴は丁寧に向き直り、頭を下げた。「本日は素晴らしい夕食をご馳走になり、本当にありがとうございました」「こちらこそ。辻本さんの解説のおかげで、実に有意義な時間になったよ。資料も大切に読ませてもらう」「お役に立てたのなら光栄です……それでは、私はこれで。おやすみなさいませ」「ああ、また近いうちに」スラックスのポケットに手を入れ、門をくぐる彼女の背中を静かに見送りながら、貴博の胸のうちは深い充足感で満たされていた。屋敷に戻った真琴は、紀子に挨拶をして少し言葉を交わすと、早々に二階へ上がって身を浄めた。眠りにつく前、紗友里に電話で今日一日の出来事を手短に伝えると、吸い込まれるように眠りに落ちた。……それからの二日間、真琴は研究室にこもりきりになり、そこの宿舎で夜を明かした。水曜日の夜になって、ようやく自らハンドルを握り、帰路についた。市街へと戻る道のりはどこまでも長く、ただひたすらに、独りだった。両手でハンドルを握りしめ、真っ直ぐに続く夜道を見据える。その視線の先には、まるで自分の行く末が横たわっているかのようだった。果てしなく長く、どこまでも孤独な道。速くもなく、遅くもなく。淡々と車を走らせる中で、ふと記憶が蘇る。八歳で母を亡くし、六年前には父にも先立たれた。不意に、目頭が熱くなるのを禁じ得なかった。日々の忙しさに身を置くことで、どうにか自分を繋ぎ止めている。けれど、ふとした瞬間に手が止まると、心の中がどうしようもなくうつろになり、どこへ
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第315話

信行の馴れ馴れしい振る舞いに、真琴は咄嗟に彼の手首を掴むと、落ち着いた声で返した。「大丈夫よ。帰りの道すがら、ふとお爺ちゃんのことを思い出しただけ」さらに、話題を変えるように問いかける。「随分と待たせてしまったわね。用事があるなら電話で済んだのに、わざわざ来て待つ必要なんてなかったのよ」言葉を交わしながら、真琴は頬に触れる彼の手をどけようとした。だが、信行はそれを許さない。余所余所しく振る舞う真琴を、信行は伏し目がちに見つめた。親指で彼女の肌をそっとなで、穏やかな声で囁く。「……ただ、お前に会いたかったんだ」その言葉に、真琴は弾かれたように彼を見上げた。視線が重なり、何かを言いかけようとした瞬間、信行が先に口を開いた。彼はゆっくりと手を離すと、事も無げに告げた。「週末、拓真たちが食事に誘いたいと言っているんだ」一拍置いて、さらに続ける。「みんな、お前のことを心配している」そこまで言うと、先ほどの真琴の問いに答えるように、表情ひとつ変えずに言い放った。「週末が明けたら、月曜日に迎えに来る……届けを出しに行こう」彼女がそこまで頑なに離婚を望むのなら、もう無理強いはしたくなかった。これ以上、彼女を追い詰めることだけは避けたかった。彼の提案に、真琴は小さく頷いた。「ええ。あなたたちの手配に従うわ」食事会の誘いも、月曜日の届け出も、すべて承諾した。それは、以前から約束していた「期限」なのだ。真琴が頷きを返すと、部屋は再び深い沈黙に包まれた。静まり返った室内。庭の木の葉が夜風に揺れて擦れ合う音だけが、やけに鮮明に聞こえてくる。張り詰めた空気がしばらく続いた後、真琴が口を開こうとしたその時。紗友里が賑やかに駆け込んできた。「真琴、帰ってたのね!」ここ数日、真琴が研究室に泊まり込んでいると知っていたため、彼女も控えていた。「ええ、今帰ったところよ」紗友里は勢いよくリビングへ入ってきたが、そこに信行がいるのを見て、ピタリと足を止めた。口元に皮肉な笑みを浮かべながら言った。「あら、お兄ちゃんもいたのね」紗友里の登場に、信行の顔から先ほどの穏やかさは消えた。だが、何も言い返しはしない。二人の様子を窺い、喧嘩でもしたのかと紗友里が問いかけようとした瞬間、信
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第316話

真琴は深く頷いた。「うん」紗友里を抱きしめながら、幼い頃からこうしてよく同じベッドで眠っていた記憶を辿る。昔からお転婆だった紗友里が、親にひどく叱られて叩かれている時、真琴は彼女以上に鼻水も涙もぐちゃぐちゃにして泣きじゃくり、膝をついて必死に許しを請うたものだ。そんな二人の姿を見て、美雲はいつも呆れ返り、「もういいから、二人とも泣き喚くのはやめなさい。これじゃまるで、うちで『人殺し』でもしているみたいじゃない」と匙を投げるのが常だった。懐かしい記憶が不意に胸に込み上げ、真琴は紗友里の肩に顎を乗せたまま、柔らかな声で囁いた。「紗友里、本当にありがとう」紗友里は彼女の背を優しく叩いて慰める。だが、その胸のうちは激しい憤りで燃えていた。――由美が片桐家の嫁の座にのし上がるつもり?冗談じゃないわ。徹底的に痛い目を見せてやるんだから。……しばらく抱き合っていたが、真琴は手洗いに立つため身を起こした。だが、そこから戻り、ベッドに座る紗友里に声をかけようとした瞬間、真琴は突然、胸をかき抱くようにしてその場にうずくまってしまった。指先一つ、動かせない。直後、自分でも抑えきれないほどの涙が、溢れ出すように次から次へと零れ落ちた。息を吸うことすら、ままならない。スマホを手にしていた紗友里は、突然目の前で動かなくなった親友の姿に、血の気が引くのを感じた。スマホを放り出し、裸足のまま駆け寄って真琴の前にしゃがみ込む。震える手でその腕を支え、必死に呼びかけた。「真琴!どうしたの、ねえ?」真琴は顔を上げ、胸が苦しい、息ができない、救急車を呼んでほしいと伝えようとした。けれど、声が出ない。ただ紗友里を見つめ、その腕に縋りつくことしかできなかった。その様子に、紗友里は膝の力が抜けそうになった。生唾を飲み込み、自分を落ち着かせるように言い聞かせる。「真琴、大丈夫よ、怖がらないで。今すぐ救急車を呼んで、お医者さんに来てもらうから!」そっと真琴の腕を放すと、紗友里は転がるようにしてベッドの枕元へ戻り、スマホをひったくるように掴んで救急車を呼んだ。祖父が亡くなったばかりなのに。真琴まで失うなんて、そんなこと、絶対にあってはならない。電話が繋がるなり、紗友里はまくし立てるように真琴の状態を伝え、屋敷の
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第317話

信行の腕の中にすっぽりと収まり、ピクリとも動かない真琴。涙はいくらか治まってきたものの、依然として声は出ず、身動き一つできないままでいた。裸足のまま兄の後を追う紗友里も、溢れる涙を拭い続けていた。あれほど、辛いなら泣きなさい、溜め込まないで吐き出しなさいと言い聞かせてきたのに。真琴はいつも「大丈夫」、「生老病死は人の世の常」って強がってばかりで……その結果がこれだ。とうとう自分を壊れるまで追い詰めてしまった。紗友里が涙を拭っていると、振り返った信行が言い含めた。「俺が救急車に付き添う。お前は真琴の身の回りのものをまとめてから、後で病院へ来い」「分かった。準備して、後で自分の車で行くから」だが信行はそれを許さなかった。「その状態で運転なんかするな。拓真に迎えに行かせる。それまで待っていろ」「分かった」紗友里は信行の言葉に頷き、二人を救急車へと送り出す際、真琴の手をぎゅっと握りしめて言った。「真琴、怖がらないで。さっき言ったことを忘れないでね。真琴は独りじゃないよ、私がずっとついてるから!」今は声の出ない真琴だったが、逆に親友を安心させようとするかのように、ぎこちなく二度頷いてみせた。そんな真琴の自分よりも人を思いやる健気さに、紗友里の目からは涙が堰を切ったように溢れ出した。信行も真琴の髪へ口づけを落とす。その胸には、やりきれない苦い思いが込み上げていた。走り去る救急車を見送ると、紗友里はすぐさま屋敷へ戻って身の回りのものをまとめ始めた。紀子も手伝いながら、付き添いが必要になった時のために自分の着替えも用意した。……救急車の中で、信行は真琴を抱きかかえていた。隊員が酸素マスクを当てる。少しずつ、彼女の浅い呼吸が落ち着きを取り戻していく。信行は、彼女の顔にかかった乱れ髪を優しく払い、頬に唇を寄せて囁いた。「大丈夫だ、絶対に何事もないようにする。俺が守るから」その言葉に、真琴はゆっくりと目を上げた。見れば、信行は髪も整えず、寝巻きのままというなりふり構わぬ姿で自分を抱いている。真琴はそんな彼をじっと見つめ返した。その瞳は穏やかだった。真琴からの応えるような眼差しを受け、信行は彼女をさらに強く抱き寄せると、愛おしそうにその髪へ唇を寄せた。やがて、救急車は病院へと滑り込んだ。
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第318話

見つめ合う中で、じっと自分を凝視し続ける真琴に、信行は静かに語りかけた。「まずは眠れ。一晩眠れば、明日にはきっと良くなっている」真琴はゆっくりと一度頷き、ようやく重い瞼を閉じた。それを見届けると、信行は天井の明かりを消し、手元の小さなランプだけを残した。彼は席を立つことなく、ただひたすらに真琴の手を握りしめ、夜通し彼女の傍らで寄り添い続けた。夜も更けた二時過ぎ。拓真が紗友里と紀子を伴ってやってきた。信行は真琴の身の回りのものを受け取ると、拓真に二人を家まで送り届けるよう指示した。今の真琴には、騒がしさは毒だ。何よりも静かな休息が必要なのだ。紗友里と紀子は帰りたがらなかったが、残っていても手出しできることは限られているし、むしろ真琴が二人をなだめたり、無理に相手をしたりして、かえって気力を削ることになりかねないと諭され、ようやく言葉に従って引き上げた。皆が去り、病室には再び深い静寂が降りた。信行はただ一人、彼女の傍らに残り続けた。薄暗い明かりの中、寝巻き姿のままの彼は、瞬きすら惜しむように真琴の寝顔を見つめていた。少しの油断もできない。彼女を失うかもしれないという恐怖が、まだ信行を支配していた。……翌朝。紀子が夜明けとともに卵雑炊を作って届けてくれた。医師の回診によれば、昨夜よりは格段に良くなっているという。まだ自力で動くことは難しいが、身体のこわばりは確実に和らいでいた。顔を拭いてやり、髪を梳かして赤いリボンのついたヘアバンドでまとめてやると、信行はふっと笑みをこぼした。「まるで、十代の頃に戻ったみたいだな」真っ白な肌に、整った目鼻立ち。病身であっても、その美しさは際立っていた。甲斐甲斐しく世話を焼く彼を、真琴は一言も発さず、ただじっと見つめ続けていた。真っ直ぐな眼差しに気づき、信行はその頬を軽く撫でた。そして、届けてもらった卵雑炊を掬い、ふーふーと息を吹きかけて冷ますと、彼女の口元へ差し出した。「今日はとりあえず、これを食べておけ。明日になれば他に何が食べられるか、また医者に聞いてやるから」口元に差し出されたスプーンを見つめたまま、真琴は口を開こうとしなかった。信行は穏やかな声でなだめる。「医者も言っていたぞ。押し込めていた気持ちが体に現れただけだ。ゆっくり休めば、あと
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第319話

信行の問いかけに、真琴はこくりと頷いた。それを見た彼は、真琴の頬を包み込むように撫で、なだめるように繰り返した。「大丈夫だ。もう、絶対に大丈夫だからな」真琴は再び、小さく頷いた。すると信行は少し身を乗り出し、自分の額を彼女の額にそっと預けた。そのまま静かに目を閉じ、疲れ切った声で呟いた。「真琴……頼むから、無事でいてくれ」間近で感じる彼の熱い吐息に、真琴は二度瞬きをした。けれど、それ以上言葉を返すことはなかった。それからの数日間、信行は一度も会社には行かず、ずっと病院に付き添い続けた。真琴の食事から着替え、身の回りの世話のすべてを、彼は何から何まで自分の手で行った。紀子や美雲は、その横で彼を支えるのが精一杯だった。紗友里と拓真も毎日見舞いに訪れたが、顔を合わせる機会が増えるにつれ、二人の間も心なしか親密さが増しているようだった。仕事に関しては、信行がアークライトに「体調不良による病欠」を伝えていた。具体的な病名は伏せられていたが、智昭と淳史が見舞いに訪れた際、「過労だから、少し休めば戻れる」と社内に伝えてくれたおかげで、誰もそれ以上は踏み込んでこなかった。入院から四、五日も経つと、真琴の容態は運ばれてきた時とは見違えるほど良くなっていた。言葉も出るようになり、ゆっくりとなら自力で動くこともできる。とはいえ、まだ体には力が入らず、リハビリを続けなければならない状態だった。……病室にて。真琴は先ほど、自力で朝食を済ませた。動作はおぼつかなく、一口運ぶのさえ一苦労だったが、それでも彼女は一人でやり遂げることにこだわった。もしこのまま誰かに頼りきりになってしまったら、自分の力で生きていく術を忘れてしまう。二度と元の自分に戻れなくなるんじゃないかと、怖かったのだ。食事が終わると、すぐに歩行練習を始めた。信行がぴったりと寄り添う。ベッドの脇で、真琴はまだこわばった体のまま、おっかなびっくり一歩を踏み出す。バランスを取ろうとする両腕は、不自然に宙を彷徨っている。深い灰色の部屋着を着た信行は、真琴と向かい合って立ち、いつでも支えられるように彼女の手のすぐ下に自分の手を構えている。ここ数日の彼は、すっかりなりふり構わなくなっていた。真琴は病着、彼は寝巻き。仕事も生活もすべてをこの病室に持ち込み、まるで
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第320話

瞬きもせずに信行を見つめる。窓の外には二人分の服が並んで干され、テーブルには彼のノートパソコンと仕事の書類が置かれている。この数日間、彼が一刻も病室を離れなかったことが、その光景から痛いほど伝わってきた。「……この数日、お疲れ様。本当に、大変だったわね」真琴の声は、ひどくゆっくりで、か細かった。信行は顔を上げると、手を伸ばして彼女の頬を優しく撫で、ふっと笑った。「何を言ってるんだ。水臭いな」ちょうどそこへ、医師が回診に訪れた。信行はゆっくりと立ち上がり、真琴の状態を逐一報告し、これからのことを熱心に尋ねた。一通りの診察を終え、医師は頷いた。「順調ですね。ご家族の方は引き続きそばにいて、リハビリを手伝ってあげてください」「分かりました」医師に返事をして、信行はドアまで見送ると、再び扉を閉めて真琴のそばに戻った。医師と信行の献身的なサポートのおかげで、真琴の容態は日に日に良くなっていった。今では、廊下の手すりにつかまれば少しの間歩けるようになっている。土曜日になり、拓真が見舞いにやってきた。ついでに信行と仕事のプロジェクトについても話を詰めるためだ。廊下の突き当たりにある小さなベランダで、二人は煙草を吸いながら言葉を交わす。真琴には、紀子が付き添ってリハビリをさせていた。丸みを帯びたベランダのガラス戸は、少しだけ開いたままだ。背中に当たる日差しが心地よく、信行はわずかに息を抜いた。この数日、真琴が病室から出ないのに合わせ、彼もまた一歩も外に出なかった。仕事の話が終わると、拓真が煙草を差し出した。信行はそれを受け取る。もう何日も、吸っていなかった。火をつけ、深く煙を吸い込むと、手すりに両腕を乗せて前傾姿勢になる。重苦しく煙を吐き出す信行の表情は、まだ沈んでいた。拓真も自分の煙草に火をつけ、隣に並んで手すりに寄りかかった。静かに煙を吐き出しながら、横目で信行を窺う。「でお前、これからどうするつもりだ?例の日までに、真琴ちゃんは退院できそうなのか?」拓真の言う「例の日」とは、二人が約束した離婚届を再提出する期限のことだ。その問いに、信行の眉間のしわはさらに深くなり、吐き出す煙も濃くなった。ここ数日、真琴は「もうすぐ退院できそう」と何度か口にしていた。信行は何も言わな
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