All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 151 - Chapter 160

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第151話

志帆は静かにひとつ頷くと、太一と共に個室へと向かった。「京介兄貴、まさか本気で江崎のこと好きになったんじゃないっスよね……?」個室に入るなり、太一が恨めしそうに呟く。志帆の反応は驚くほど落ち着いており、答えにも確信がこもっていた。「ありえないわ」「なんで……?」太一は、彼女ほど冷静ではいられない。もし詩織が本当に京介と付き合うことになったら、自分は……あの女を「義姉さん」と呼ばなくてはならなくなるのか?考えただけで、胸糞が悪い。「理由なんてないわ。とにかく、京介があの子を好きになることなんてないの」その理由なら、彼女は誰よりもよく知っている。京介の心の中には、ずっと誰かがいる。しかも、とても、とても深く隠されている。六年も付き合った自分ですら、その相手が誰なのか、名前さえも、結局わからなかったのだ。彼がどれほど固く心を閉ざしているか、よくわかる。それに、江崎詩織なんて……志帆は、ふん、と鼻で笑った。どうせ京介の他の女たちと同じ。ただの火遊びで、それ以上の意味はないはずだ。むしろ、そうなってくれた方が都合がいい。詩織と柊也の間にあったかもしれない可能性を、完全に断ち切れる。その上、詩織は京介にいいように弄ばれて、捨てられるのだ。京介が飽きてポイ捨てすれば、江ノ本市で、詩織は笑いものになる。もう二度と、この街の名家が彼女を相手にすることはないだろう。そこまで考えると、この数日間、心を覆っていた鬱々とした気分が、すっと晴れていくのがわかった。志帆は食事にかこつけて、衆和銀行の例のプロジェクトについて太一に探りを入れた。「そのプロジェクト、親父から聞いたことはあるんスけど……京介兄貴が戻ってきてから、衆和の体制を全部見直しちまって。ほとんどの案件を京介兄貴自身が握ってるから、もう親父も口出しできないんスよ」志帆はそれ以上、深くは突っ込まなかった。ビジネス上の機密に関わることだ。あまりしつこく聞けば、太一に勘繰られるかもしれない。だから、あくまでさりげなく言った。「ただ、ちょっと聞いてみただけ。前に会食の席で話題になってたから。すごくいい案件で、絶対に損しないって聞いたの」絶対に損しない、という言葉に、太一の目がきらりと光った。「俺、なんとかして探ってみますよ。
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第152話

江ノ本市は、美しい川と山の景色で有名な街だ。そして、このオフィスの大きな窓の向こうには、その街で最も美しいとされるリバービューが広がっている。こんなに短期間で、これほど希望に合い、なおかつ掘り出し物のオフィスが見つかるなんて、夢のようだ。ただ一つ、玉に瑕なのは……川を挟んだ向こう岸に、エイジア・キャピタルのビルが見えることだった。けれど、そのことで詩織の気分が沈むことはない。むしろ、もっと先へ進むための起爆剤になる。詩織はすぐに智也にこの朗報を伝えた。智也も、それはお祝いしなくちゃ、と喜んでくれた。そこで詩織は、今夜スタジオの皆を食事に誘うことにした。ちょうど休みだった紬も呼んで、と智也に頼むことも忘れない。詩織は、智也と食事の店を相談しながら、エレベーターを待っていた。「私はどこでもいいよ。みんなが何を食べたいかじゃないかな。私のことで予算を抑えたりしなくていいから」やがて到着したエレベーターのドアが開く。詩織は通話に夢中で、中にいる人には気づかなかった。乗り込んでから、先客の話し声が耳に入る。「柏木ディレクター、本日はわざわざ弊社までご視察にお越しくださるとは、光栄の至りでございます。私、三上陽介(みかみ ようすけ)と申します。よろしければ、ご連絡先など……何かご入用の際は、この三上にお申し付けいただければ、必要な資料など、私がエイジアまでお届けに上がりますので。ディレクターにお手間は取らせません」その声を聞いて、詩織ははっとした。エレベーターの鏡面になった壁に映る人物に目をやる。柏木志帆だった。今回は柊也の姿はなく、彼女と、今媚びへつらっている三上だけだ。三上には詩織も見覚えがあった。アーク・インタラクティブの責任者の一人。かつて自分がエイジアにいた頃、担当していたプロジェクトの相手だった。もっとも、詩織が三上と直接やり取りすることは少なく、調査段階では、ほとんどアーク社のもう一人の責任者と連絡を取っていたのだが。ただ、詩織が腑に落ちなかったのは……このゲームプロジェクトは、志帆自身が却下したはずではなかったか。『ココロ』と一緒に、切り捨てられた案件だったはずだ。志帆は三上と話していたが、詩織が乗ってきたことに気づくと、すっと顔から表情が消えた。詩織もすぐに
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第153話

三上という男は、どうにも魂胆が見え透いている。仕事そのものに集中するのではなく、姑息な手ばかり使うのだ。アーク・インタラクティブの屋台骨を支えているのは、実質、もう一人の責任者である高遠誠(たかとお まこと)だった。志帆が三上の質問に答えるより先に、一台の車がエントランスに滑り込んできた。柊也だ。彼が自らハンドルを握っている。柊也には鈴木さんという専属の運転手がいて、自ら運転することは滅多にない。以前は、鈴木さんか、あるいは詩織が運転席に座っていた。それが志帆と付き合い始めてからは、面倒がる素振りも見せず、彼女の運転手役を進んで引き受けているらしい。しかも、車は以前よく乗っていたシルバーのマイバッハではなかった。新車だ。あの色……女性向けのデザインだわ。きっと……柏木志帆への贈り物として、わざわざ買ったのだろう。詩織はその場から身を隠すでもなく、ただ静かに視線を外し、スマートフォンを取り出して配車アプリを開いた。このまま雨がやまなかったら、いつまでもここで待っているわけにはいかない。そこへ、柊也が傘を差し、志帆を迎えに現れた。車を降りるその手には、上着がもう一枚握られている。彼は志帆のそばまで歩み寄ると、その上着を彼女の肩にふわりとかけてやった。その光景に、近くで雨宿りをしていた人たちから、ため息まじりの羨望の眼差しが注がれる。無理もない。優しくて、気が利いて、ハンサムで、お金持ち。そんな理想の男性、どこを探したって見つかるものじゃない。「賀来社長!いまちょうど、柏木ディレクターと社長の噂をしていたところなんですよ!」三上はすかさず柊也にすり寄っていく。柊也は笑みを浮かべて返した。「ほう。どんな噂だい?」「お二人の仲が本当に素晴らしくて、羨ましい限りだ、と!」柊也はただ微笑むだけで、その言葉には乗らなかった。一方で、志帆が心配そうに柊也に問いかける。「……お父様の具合は、もういいの?」「ああ、だいぶな。あと二日もすれば退院できる」と、柊也は答えた。「本当は、私もお見舞いに伺うべきだったのだけれど……」そう言う志帆の瞳には、かすかな期待の色が宿っている。柊也は諭すように言った。「親父は気難しいからな。君に嫌な思いはさせたくない」「平気よ。だって、あな
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第154話

ほら、やっぱり。江崎詩織がどれだけ頑張って自分を証明したところで、柊也くんはもう彼女に見向きもしない。志帆は心の底から安堵し、サミットで詩織にしてやられた鬱憤が、綺麗さっぱりと消え去っていくのを感じた。あの日、彼女が詩織に負けたのは、ただ運が悪かっただけ。だから志帆は帰ってきてからも、決して落ち込んではいなかった。むしろ、さらにハングリーになって、自分の実力を証明してやろうと燃えている。柊也が私を選んだのは、最も正しい判断だったのだと、すべての人に知らしめてみせる。以前の油断のせいで、詩織には『ココロ』という最高のプロジェクトを拾われてしまった。だから志帆は、一度は自分が却下したプロジェクトをすべて洗い直し、その中から有望なものをいくつか選び出した。アーク・インタラクティブのゲームプロジェクトも、その一つだ。それが今日、彼女がアーク社にいた理由だった。ただ意外だったのは、なぜ詩織もあの場所にいたのか、ということだ。もしかして、彼女もアーク社のプロジェクトを狙っている?……面白いじゃない。この私と張り合って、アーク社を奪おうだなんて。自分の身の程を、わかっていないようね。今度こそ、完膚なきまでに江崎詩織を叩きのめしてやるわ。志帆は急に気が変わった。食事の場所を、詩織が予約した『汐見』に変更することにした。柊也は特に疑う様子もなく、ただ一言尋ねただけだった。「どうして急に、そんな店に行きたくなったんだ?」「……なんとなく、食べたくなったの。だめ?付き合ってくれない?」「まさか。俺が君に『いやだ』なんて言ったことがあるかい?」柊也は運転に集中しながらも、彼女の言葉一つ一つに、きちんと応えてくれる。そのことに、志帆はすっかり気を良くした。彼女は長利の高坂社長に電話をかけ、食事の場所を変更した旨を伝える。深水市から戻って以来、志帆は自身が主導するAIプロジェクト、『飛鳥(アスカ)』の提携話を急ピッチで進めていた。サミットでは『ココロ』に敗れたとはいえ、エイジアという強力な後ろ盾があるのだ。今後の展開に、不安はない。リソースさえきちんと投入すれば、『ココロ』を超えることだって不可能じゃない。毎年、星の数ほど開発されるプロジェクトの中で、最後まで生き残り、成功を収められるものが
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第155話

「詩織さん!会いたかったあ!」少女の好意は、どこまでも素直で温かい。詩織は彼女の頭をそっと撫で、気遣わしげに尋ねた。「勉強、大変じゃない?」「うん、大丈夫」「もし何か困ったこととか、嫌なことがあったら、いつでも話してね」紬は以前、心の調子を崩したことがあった。だから詩織は、彼女のことが人一倍気がかりなのだ。「わかってるって、私の秘密の相談役さんだもん!」詩織が皆を促し、さあ店に入ろうとした、その時。一台の車が、彼女たちの目の前にすっと停まった。中にいた人物が、焦ったように窓を開けて叫ぶ。「江崎社長、お待ちください!」詩織が振り返ると、そこにいたのは長利の高坂社長だった。高坂は慌てて車を降り、小走りで詩織に追いついてくる。「いやあ、江崎社長!奇遇ですなあ、社長もこちらのお店へ?せっかくお会いできたんです、ご一緒しませんか」「申し訳ありません、高坂社長。今日は、会社の食事会でして……」詩織は、やんわりと断りの言葉を口にした。だが高坂はまったく意に介さない。「いえいえ、お構いなく!皆さまで楽しまれてください。私はお邪魔などいたしません。ただ、もしよろしければ、ほんの少しだけで結構ですので、お時間をいただけないかと」この様子では、明らかにプロジェクトの提携話が目当てだ。詩織も驚きはしない。この数日、彼女の電話は鳴りっぱなしだったのだから。まさか、レストランまで追いかけてくるとは思わなかったけれど。わざわざ足を運んでくれた相手を無下にはできない。これからこの業界でやっていく以上、無闇に敵を作るべきではないだろう。詩織は、仕方なく頷いた。高坂はぱあっと顔を輝かせた。「では、私も個室を取りますので!後ほどメッセージをお送りします。お手すきの時で結構ですから、ぜひ! お待ちしておりますよ!」二、三歩進んでから、彼はわざわざ振り返って念を押した。「お待ちしてますからね、江崎社長!必ずですよ!」その姿に、詩織は思わず苦笑する。「しゃちょー、私も美味しいお魚たべたーい!」紬が、わざと高坂社長の口ぶりを真似ておどけてみせた。詩織は、ぷんと怒ったふりをする。紬はきゃっと言って、兄である智也の背中に隠れた。「あ、社長がおこった!」笑い声が弾け、一行は賑やかに店の中へと入っていった。志帆と柊也の個室は
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第156話

京介の声を聞いた瞬間、志帆の瞳から完全に光が消えた。湯呑みを握る指先に力がこもり、爪が白くなる。高坂社長と京介が自分を断ったのは、江崎詩織に会うためだったなんて。高坂社長のことは、まだ理解できる。ビジネスなのだから。でも、京介は?私たちの間にあった、あの時間は、彼にとって何の意味もなかったというの?その様子に気づいた柊也が、彼女の手からそっと湯呑みを取り上げた。「……挨拶に行こうか」志帆は、はっと顔を上げた。「俺が、一緒に行ってやる」男のその短い一言が、はっきりと彼女に伝えていた。――俺が、お前の後ろ盾になってやる、と。……思いがけない京介の登場だった。彼の話では、ちょうど近くで商談を終えたところ、SNSで皆がここに集まっているのを知って、顔を出してみた、とのことだった。もちろん、それは建前。詩織に会うための口実なのだろう。「まあ、すごい偶然」詩織は特に疑うこともなく、店員に新しい食器を頼んだ。密が京介に席を譲ろうと、隣から腰を浮かせかける。その動きを目ざとく察した紬が、さっと立ち上がった。「宇田川さんはこっちに座って。私、もうお腹いっぱいだし、皆のビジネスの話、難しくてわかんないから。ちょっと写真でも撮ってくるね」紬は兄である智也の隣で、詩織とは一つ席を隔てて座っていた。一方、密は詩織の真隣に座っている。兄の恋敵に、チャンスを与えるつもりなど毛頭ないのだ。京介が席に着いて間もなく、再び個室のドアがノックされた。詩織はまた高坂社長だろうかと、内心げんなりする。しかし障子戸の向こうに現れたのは、柊也だった。その傍らには、やはり志帆がいる。詩織の顔から、すっと笑みが消える。空気が一瞬で張り詰め、よそよそしいものに変わった。招かれざる客の登場を、彼女が歓迎していないのは明らかだった。だが柊也は、そんな詩織の態度などまるで意に介さず、京介に声をかける。「京介。少し話がある」京介が、こんな時間に何の話だと問い返す。「企業家サミットのことだ」それは確かに、無視できない話だった。「すまない、詩織。席を外すよ。埋め合わせはまた今度必ず」「ううん、気にしないで。お仕事がんばって」長年、柊也の首席秘書を務めてきた詩織だ。企業家サミットの重要性は痛いほど
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第157話

二人の間には、もはや越えてはならない一線など存在しないということなのだろう。かつて柊也が他人に課していたあの厳しいルールは、志帆にだけは適用されないのだ。彼は志帆を縛らず、制限することも決してない。不意に誘われた智也は、わずかに眉をひそめた。人付き合いに少し疎い彼でさえ、志帆が意図的に詩織を無視しているのがはっきりと分かったからだ。なんなの、あの女……!人のパートナーを、よくもまあ堂々と!密はテーブルの下で、悔しさにぎゅっと拳を握りしめる。詩織はそんな密をそっと手で制すと、表情ひとつ変えず、目の前の寿司を一つ、ゆっくりと箸でつまんだ。そして、まるで他人事のように静かに口へ運ぶ。その余裕ぶった態度が、志帆には強がりにしか見えなかった。私の後ろにはエイジアが、柊也くんが、賀来グループそのものがついているのよ。喉から手が出るほど誰もが欲しがるこの誘いを、自分から差し出してやっているのだ。これで智也が心を動かさないはずがない。柊也が与えてくれた、絶対的な自信。思い知らせてあげる。あんたなんかが、私と張り合おうだなんておこがましいってことを!仕事も、柊也も、何一つ渡す気はない。だが、現実は非情だった。志帆が問いかけた、その直後。智也は即答した。「お気持ちだけ頂戴します、柏木さん。僕は技術のことしか分かりませんので。ビジネスのことは全て、僕の『永久パートナー』である江崎社長が担当しています。僕は内部、彼女が外部。提携に関するお話でしたら、江崎社長にお願いします」志帆は一瞬、言葉を失った。永久パートナー……?つまり、智也はもう詩織と深く結びついていると?たったこれだけの時間で?……なるほど、江崎詩織もなかなか腕がいいみたいね。一体どんな汚い手を使って、智也の信頼をここまで勝ち取ったのか。志帆は、そこで初めて詩織をまっすぐに見た。けれど、詩織は彼女を見ようともしない。視線の端にすら入れない。ただ目の前の料理に集中し、まるでそれがこの世で一番美味しいものだとでも言うように、味わっている。その無言の侮辱に、志帆の顔がさっと曇った。「では江崎社長は?」今度は、柊也が口を開いた。正直、詩織は少し意外に思った。もしも、柊也との間に過去のしがらみがなければ。七年間
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第158話

「お二人の祝杯は、いつ頃になりそうですかね?」柊也が何と答えたのか、こちらまではっきりとは聞こえなかった。智也が、また心配そうに詩織の顔を窺う。「私の顔に、何か書いてある?」詩織に問われ、智也はぶんぶんと首を振った。「じゃあ、なんでそんなにじろじろ見るの」「……いや、なんでもない」「なら、ちゃんと食べて」智也は、ひそかに安堵のため息をついた。詩織は、本当に柊也のことを吹っ切れたのかもしれない。心から、彼女のために嬉しく思った。仕事の話をしない純粋な食事会は、和やかな雰囲気のままお開きになった。ただ、会計をしようとした詩織は、店員からすでに支払いが済んでいることを告げられる。伝票を確認すると、支払いを済ませたのは京介だと分かった。詩織は「今度ご馳走させて」と、京介にメッセージを送った。隣の部屋で柊也たちと話していた京介は、そのメッセージを受け取るとすぐに快諾したのだろう。彼の顔には、隠しきれない喜びの色が浮かんだ。志帆は、その反応を見逃さなかった。彼のスマートフォンの画面を無意識に目で追う。誰からのメッセージなのか確かめたい。だが、京介がすぐに画面を伏せたため、見ることは叶わなかった。それでも、志帆の直感が告げていた。そのメッセージの送り主は、江崎詩織に違いない、と。……新しいオフィスも決まり、詩織はやることが山積みだった。それでも彼女は忙しい合間を縫って、賀来海雲のいる病院へ見舞いに向かった。それも、柊也が最も忙しい水曜日をわざわざ選んで。彼の秘書をしていた経験も、無駄ではなかった。少なくとも、彼の仕事の癖は知り尽くしている。「詩織さん!」松本さんは、詩織の顔を見るなり大喜びした。海雲の顔にさえ、滅多に見せない穏やかな色が浮かんでいる。「『ココロ』というのは、君が手がけているあのプロジェクトか」海雲の方から、仕事の話を切り出してきた。詩織がはっきりと頷くと、彼は評価するような言葉を続ける。「見る目があるな。業界の関係者に評価させてみたが、将来性は非常に高いそうだ」その言葉は、詩織にとって何よりの励みになった。成功への自信が、さらに深まるのを感じる。「まあ、お二人とも」松本さんが詩織のためにりんごを剥きながら、呆れたように言った。「病室でまで、仕
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第159話

柊也本人でないと分かると、さよならの一言も告げずに、一方的に電話を切ってしまった。海雲の顔が、先ほどよりもさらに険しくなる。一瞬の間を置き、彼は詩織に尋ねた。「今週末は、空いているか」「はい、空いてます」「週末は、東方庭園に来なさい」以前、海雲が約束してくれた件だ。彼の友人に、詩織を紹介してくれるという。詩織は背筋を伸ばし、真摯な眼差しで頷いた。「はい。時間通りに必ず」病院を出る時、松本さんはどうしても詩織を送ると言って聞かなかった。結局、病院の玄関までずっと付き添ってくれる。もちろん、ただ送るのが目的ではない。詩織と柊也の関係について、探りを入れるのが本当の狙いだ。そんな松本さんの気持ちを察して、詩織ははっきりと告げた。もう、賀来さんとは終わったんです、と。完全に、もう二度と元に戻る可能性はないのだ、と。「どうして、そんなことになっちゃったのかしらねえ……」松本さんは、悲しそうに眉を寄せた。彼女には、到底理解できないことだった。その日の午後、詩織は智也と、提携の打ち合わせをする予定だった。そのため、智也が車で病院まで詩織を迎えに来てくれたのだ。詩織が玄関から出てくると、待ち構えていた智也がすぐに駆け寄ってきた。「終わった?」彼はそう言いながら、持っていた保温ボトルを詩織に差し出す。「これ、紬が。詩織さんが辛そうだっだて聞いて、ハニージンジャーを作ってくれたんだ。ちゃんと飲むのを見届けろって言われてる」流産してからというもの、生理が来るたびに、詩織はひどい痛みに苦しむようになっていた。昨夜、紬と話している時に、少し体調が悪いと零したのを、あの子は覚えていてくれたのだ。本当に、優しい子だ。「紬ちゃんに、ありがとうって伝えておいて」詩織はその温かい心遣いを受け取った。「また冷えてきたから。マフラーも持ってきたよ。後でちゃんと巻いて」「うん」二人のやりとりを、松本さんは黙って見ていた。人生の先輩として、彼女には二人の間の空気が手に取るように分かる。智也という青年が、詩織に想いを寄せているのは明らかだった。詩織の気持ちまでは、まだ分からないけれど。一瞬、驚きに目を見開いたが、すぐに納得した。詩織ほど素敵な子なら、引く手あまたなのは当然だ。事実は事実
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第160話

志帆がそう言う声は、聞いているこちらがうんざりするほど甘ったるい。「私が頼めば、柊也くんは絶対に助けてくれるから」「柊也さんってお姉ちゃんには本当に何でもしてくれるわよね!車も家もポンとプレゼントしちゃうなんて、気前が良すぎるわ!そのうち会社ごとお姉ちゃんのものになっても、私驚かないかも」美穂は心底羨ましそうに言った。「ふふっ、柊也くんは昔から、私には甘いのよ」「ネットでも言うじゃない?男の人が本気で女の人を愛してたら、絶対にお金をかけるって。それだけ柊也さんがお姉ちゃんのことを大切にしてるってことよね」……後で須藤社長に教えてあげなくちゃ。詩織は、心のなかでひとりごちた。この会社のエレベーター、そろそろ点検した方がいい。あまりにも、動くのが遅すぎるわ。エレベーターが1階に着くと、美穂が志帆にねだった。「ねえ、お姉ちゃん、その車貸してよ!私、あんな高い車、運転したことないんだもん!ね、いいでしょ? その方が、柊也さんに迎えに来てもらう口実にもなるし」志帆は、車と柊也を天秤にかけ、迷わず後者を選んだ。美穂にスマートキーを手渡しながら、大事な贈り物なのだからと、傷つけないようくれぐれも丁寧に扱うようにと念を押す。「はいはい、分かってるってば! お二人の愛の証、ちゃーんと大事にするから!」美穂は鍵を受け取ると、大喜びでウインクした。志帆がその場で柊也に電話をかけ、迎えに来てほしいと甘える声が聞こえる。柊也がどう返事をしたのか、詩織の耳には届かなかった。彼女は智也と共に、とっくに人混みの中へと紛れていたからだ。時刻は、ちょうど帰宅ラッシュのピーク。智也に送ってもらえば、この渋滞ではかなりの時間をロスさせてしまう。詩織は迷惑をかけたくなくて、地下鉄で帰ると言って譲らなかった。「……じゃあ、気をつけて。家に着いたら連絡して」智也は説得を諦め、心配そうに彼女を見送った。智也と別れた詩織は、向かい側にある地下鉄の駅へ向かうため、横断歩道で信号を待っていた。その時、見覚えのあるストロベリーピンクのカリナンが、目の前を颯爽と走り抜けていく。昨日、柊也が運転していた車だ。やはり、志帆への贈り物だったらしい。ラッシュ時の地下鉄は、息が詰まるほど混雑していた。今借りている部屋は会社から少し距離があ
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