Tous les chapitres de : Chapitre 221 - Chapitre 230

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第221話

「いいえ、とんでもない」詩織は慌てて否定し、すぐに本題を切り出した。「ところで、例の港湾プロジェクトですが、入札はいつ頃になりますか」「おや、興味がおありで」「ええ。利益を生む匂いのする案件には、いつだって興味がありますから」その正直で貪欲な姿勢に、賢の瞳には明らかな好意の色が滲んだ。彼は手元のレモンウォーターを一口含むと、グラスをゆっくりと置いて居住まいを正した。「不躾を承知で伺いますが……現在、お付き合いされている方はいらっしゃいますか」あまりに唐突な話題転換に、詩織は不意を突かれた。「……いえ、独り身ですけど」「では、どういった男性がタイプでしょう。たとえば、僕のような男は候補に入りませんか」彼と会うのは、これがまだ二回目だ。家から結婚を急かされているのかもしれない。詩織は冷静にそう分析し、角が立たないよう丁重に断りを入れた。「光栄なお話ですけれど、今は恋愛にうつつを抜かすつもりはないんです。頭の中はビジネスと稼ぐことでいっぱいですから」賢は振られたにもかかわらず、表情一つ変えずに頷く。「素晴らしいですね。自立し、己の力で道を切り拓こうとするその生き方、僕は尊敬しますよ」そう肯定しておきながら、彼は穏やかな笑みを崩さずに続けた。「ですが、もしよろしければ……立候補の届け出だけでも、受理していただけませんか」「ふふ、篠宮さんって意外と冗談がお好きなのね」詩織が思わず吹き出すと、賢は真剣な眼差しで彼女を見つめ返した。「本気ですよ」……食事を終えて店を出ると、外は雨だった。ここ最近はぐずついた空模様が続いていて、どうも気分まで湿りがちになる。傘は車の中に置いたままだ。賢も手ぶらで来ていたらしい。雨足を見るや、詩織に短く一言断ってから、傘を借りるために店の中へと戻っていった。そのわずかな隙をつくように、店から志帆と美穂が出てきた。商談はうまくいったのだろう、志帆は上機嫌で顔をほころばせている。だが、その笑みは詩織の姿を認めた途端、さっと引いていった。美穂もすぐに詩織に気づき、露骨に顔をしかめる。「なによ、なんであいつがいんの?」つい先日、約束を反故にして詩織との会食を優先した譲の一件もあり、美穂はもともと詩織に対して良い感情を持っていない。おまけに最近、従姉の志帆が詩織
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第222話

詩織は数秒間、目の前に突き出されたその傘をじっと見つめた。雨音だけが、静寂を埋めるように響いている。美穂は目をむき、今にも火を噴きそうな形相で睨みつけているが、対照的に志帆は落ち着き払っていた。二人の絆に対する絶対的な自信が、彼女に余裕を与えているのだろう。詩織はゆっくりと視線を上げ、柊也の顔を見た。唇の端を微かに歪め、嘲るように笑う。その眼差しは、まるで道端の野良犬でも見るかのように冷たい。いつかの光景が脳裏をよぎる。『スカイウィング』の工場視察の時だ。あの時、柊也は志帆にだけ傘を差し、自分を雨の中に置き去りにした。「まあ、そうよね。一本の傘で、二人同時に庇うなんて無理な話だもの」――あの時はそんな感傷に浸りもしたが。今となっては、笑い話だ。ちょうどその時、店の中から賢が戻ってきた。「江崎さん、傘をお借りできました。ただ申し訳ない、一本しかなくて。もしよろしければ相合い傘で……いかがでしょう」詩織は柊也の傘には見向きもせず、賢の方を向いて柔らかく微笑んだ。「ええ、構いませんわ」そして再び柊也に視線を戻すと、声の温度を一気に下げる。「悪いわね。もうあなたの傘なんて要らないの」そう。一本の傘で二人を守れないのと同じように、一人の人間が同時に二本の傘をさすこともできないのだから。言うが早いか、詩織は柊也の返事も待たずに賢と並び、雨の中へと歩き出した。車道には水飛沫を上げて車が行き交っている。賢はさりげなく車道側に立ち、詩織を泥跳ねから守るように歩調を合わせた。彼の手にある傘は大きく詩織の側に傾き、彼女を完全に雨から守っている。その代償として、彼自身の片腕はずぶ濡れになっていたが、本人は気にも留めていない様子だ。どこまでも紳士で、思慮深い。二人の距離は近い。まるで雨の中を仲睦まじく散歩する恋人同士のようだ。柊也はその背中をしばらく黙って見送っていたが、やがて短く息を吐くと、持っていた傘を畳んで志帆の方へ向き直った。「行くぞ」美穂が何か言おうと口を開きかけたが、志帆が目で制し、黙らせた。……ホットライン・プラットフォーム構築の件が佳境に入り、詩織は頻繁に賢の職場へ足を運ぶようになった。当然、志帆と顔を合わせる機会も増える。基本的には互いを空気のように扱い、それぞれの仕事に
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第223話

賢は智也の名を以前から耳にしていたらしく、熱心に握手を交わしている。その光景を横目に、志帆たちの乗ったエレベーターの扉が閉まり、下降を始めた。密室になった途端、美穂が毒づく。「なんなの、あの篠宮って男!気取っちゃってさ。お姉ちゃんを口説いてる時はあんなに必死だったくせに、振られた途端に手のひら返しで冷たくするとか、マジでありえないんだけど!」「やめなさい」志帆は鋭い声で制した。「その話はもうしないで。柊也くんの前でも、もちろん彼本人の前でも、二度と言わないでね」美穂はペロッと舌を出した。「分かってるよ。柊也さんが妬いたら面倒だもんね。ここだけの愚痴だってば」「嫉妬とか、そういう問題じゃないの」志帆は声を潜め、真剣な眼差しで美穂を諭した。「彼も今や室長よ。これからビジネスで顔を合わせる機会も増えるわ。良好な関係を築いておくことは、今後のためにも重要なの。だから不用意な発言は絶対に慎んで。いいわね?」「はーい、分かったってば」殊勝に頷く美穂を見て、志帆はようやく胸を撫で下ろした。ここまで口酸っぱく忠告するのには理由がある。もし万が一、美穂が余計なことを口走り、真実が露見しては困るからだ。実のところ、賢とは見合いの席で顔を合わせた程度で、彼から熱烈に求愛された事実などない。それどころか、彼の態度は終始そっけないものだった。「熱心に口説かれたけど振ってやった」というのは、自分のプライドを守るために志帆がでっち上げた嘘だ。当時、志帆は賢に何の魅力も感じなかった。ルックスは申し分ないが、後ろ盾となる有力な家柄もなく、役職も平々凡々。将来性を見込めない男だと判断し、見切りをつけたのだ。だが、彼は予想を裏切り、異例のスピード出世を果たした。若くして重要ポストに就いた彼には、計り知れない未来がある。だからこそ、今のうちに彼とのパイプを作っておきたい――それが志帆の本音だった。「でもさあ、私やっぱりあいつ……江崎詩織がムカつくのよ」美穂はまだ腹の虫が治まらないらしく、志帆のために憤ってみせた。「お姉ちゃんにあんな大損害出したくせに、のうのうとしちゃってさ。ホント、柊也さんが味方してくれてなかったらどうなってたことか」その言葉に、志帆の表情が曇る。表面上は平然を装っているが、内心では誰よりも深く傷つき、屈辱に
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第224話

一撃でやり返され、美穂は言葉を詰まらせた。だが、事態はそれだけでは終わらない。志帆の隣に座っていた経済局長が、不穏な単語を耳ざとく拾い、振り返ったのだ。「……おや、賠償金とは?」志帆の顔色が変わる。だが、すぐに愛想笑いを張りつけ、取り繕うように答えた。「ああ、いえ……以前のビジネス上の些細なトラブルでして。支払いの準備は済んでいるんですが、手続きの関係で少し遅れているだけなんです。お恥ずかしい話をお聞かせしてしまって、申し訳ありません」「ははは、いや失敬。職業柄、どうも『未払い』なんて言葉を聞くと敏感になってしまいましてね。深い意味はありませんよ」局長は鷹揚に笑って前を向いたが、志帆の背中には冷や汗が伝った。彼女は鋭い視線で美穂を睨みつけ、席に戻るよう合図する。あの太一ですら手玉に取られた相手だ。美穂如きが敵うはずもない。これ以上、あの女を刺激して薮蛇になるのは御免だった。誰から聞いたのか、詩織が会場に来ていることを知った賢が、喧騒を縫って彼女を探しにきた。隅の方で席にあぶれて立っている詩織を見つけるや、彼はスタッフに掛け合って、二列目の席を確保してくれた。それが偶然か、それとも賢の手配か。案内されたのは、あろうことか志帆と局長の真後ろの席だった。距離があまりに近いせいで、前の二人の会話が嫌でも耳に入ってくる。局長は志帆を大層気に入っているらしく、熱心に彼女の経歴について質問していた。「君、WTビジネススクールの出身だそうだね。しかも金融学の博士号をお持ちだとか。いやあ、大したもんだ。世界最高峰のビジネススクールじゃないか」志帆は口元を上品に綻ばせ、隠しきれない優越感を滲ませながら答える。「お褒めに預かり光栄ですわ。ただ、学歴なんて私にとっては通過点に過ぎません。これから学ぶべきことのほうが、ずっと山積みですから」「いやいや、謙遜されなくていい。しかし驚いたな、お若いのにそれほどのキャリアをお持ちとは。見かけによらないねえ」「修士と博士を一貫して履修しましたので、通常より二年早く修了できたんです」「ほう、それは優秀だ!ちなみに高校はどちらで?」「江ノ本第一高校です。2018年度の卒業生になります」「なんと!地元随一の名門校じゃないか」前の席で盛り上がる会話を背に、詩織はふと記憶の糸を手繰り寄
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第225話

つまり、『華栄』と『ココロ』に対する志帆の賠償金は、すべて柊也がポケットマネーで肩代わりしたということになる。昼間、志帆の前で少し脅しをかけただけで、その日のうちに即金で支払われるとは。そのあまりの対応の早さに、詩織は乾いた笑いを漏らすしかなかった。まさしく、真実の愛、というやつだ。「……詩織さん?」応答がないのを不審に思ったのか、智也の声が受話器から聞こえてくる。詩織は我に返り、スマホを裏返して机に伏せた。「ごめんなさい、ちょっと通知を見てただけ。続けて」……詩織が入札に参加しようとしている事実は、まだほとんど知られていない。『華栄』のような新興企業が巨大な官公庁案件に挑むなど、誰も想像すらしないだろう。対照的に、志帆のほうは派手に動いていた。『エイジア』という巨大な後ろ盾がある彼女は、すでに勝利を確信しているかのように情報を撒き散らし、周囲にアピールしている。それに腹を立てたのが、親友のミキだ。電話口の向こうで、彼女の怒りは爆発寸前だった。「ほんっと、あのアマ運がいいわよね!何をやっても賀来柊也が全力でサポートしてくれるんだから。あんなデカい案件までプレゼントされちゃってさ。あの男、いつからあんな恋愛脳になったわけ?」「なによ、私より怒ってるじゃない」詩織が笑いかけると、ミキの声のトーンがすっと落ちた。「……だってさ、あんたがどれだけ尽くしてきたか知ってるもん。悔しいじゃない」画面越しでも伝わってくるほど、ミキの瞳には痛々しいまでの親愛と憤りが滲んでいる。詩織がどれほど耐え、どれほど傷ついてきたか、彼女は一番近くで見てきたのだから。「賀来柊也の野郎、あんたが大人しいのをいいことに好き勝手やりすぎよ!今の『エイジア』があるのは、少なくとも五分の一はあんたの功績でしょ?あんたが稼がせた金で、新しい女のご機嫌取りしてるってわけ?ふざけんじゃないわよ!」「ミキ、落ち着いて」「落ち着けるわけないでしょ!あいつら二人とも、地獄へ落ちればいいのよ!」「あらあら、美女の品格が台無しよ?」「品格?そんなもん家出したわよ!」かつての詩織なら、この言葉に胸を締め付けられたかもしれない。だが今は、不思議なほど心が波立たない。柊也への愛を手放した瞬間、彼女はとてつもない自由を手に入れたのだから。「そうそう
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第226話

詩織の眉間に、反射的に深い皺が刻まれる。生理的な嫌悪感が隠しきれずに表情に出る。「……何しに来たの」詩織は心底うんざりしていた。本気で引っ越しを検討すべきかもしれない。別れてからというもの、柊也がここに現れる頻度は、交際していた七年間を遥かに凌いでいる。かつては柊也のことを誰よりも理解しているつもりだった。だが近頃、その自信が揺らぎ始めている。今の彼の行動は、詩織の知る合理的で冷徹な賀来柊也とはあまりにかけ離れているのだ。薄暗闇の中でも、柊也の横顔は冷ややかさを失わない。その声には抑揚がなく、どこまでも淡々としていた。「松本さんからだ。タラバガニを届けるよう頼まれた」言われて初めて、彼が手に箱を提げていることに気づく。「松本さんからメッセージが入ってるはずだぞ」詩織はスマホを取り出した。確かに、松本さんから午後の早い時間に連絡が入っていた。仕事に追われていて見落としていたらしい。空輸で届いたばかりの新鮮なタラバガニが手に入ったから、好物の詩織のために二杯取り分けておいたとのことだ。だが文面には、「私が届けに行きますから」とある。どういう風の吹き回しか、配達係が柊也にすり替わったらしい。松本さんの好意を無下にするわけにはいかない。詩織は黙って箱を受け取ると、礼も言わずに踵を返した。「おい。俺は使いっ走りか」背中に投げかけられた乾いた笑い声に、詩織は冷たく応戦する。「おあいにくさま。使いっ走りのほうがもっと愛想がいいわよ」エレベーターのボタンを押し、数字が変わるのを待つ。彼を一瞥することもしない。ただ一刻も早く、自分の世界へ帰りたいだけだ。沈黙が降りてくる。何を話せばいい?いや、話すことなど何もない。だが、柊也はなぜか立ち去ろうとしなかった。到着のチャイムが鳴る直前、彼は唐突に口を開いた。「京介を選ぶつもりか」詩織の指先が止まる。眉をひそめ、訝しげに横目で彼を見た。逆光の中に立つ柊也は目を細め、その奥に粘りつくような鬱屈とした光を宿している。「また粗悪な酒でも飲んだの?」詩織の口調は、先ほどの彼よりもずっと鋭く、嘲りに満ちていた。だが柊也は言葉の意味を理解していないのか、それとも無視しているのか、構わず続ける。「宇田川家がお前のような女を嫁として受
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第227話

「マックスで落としてもらえますか」詩織は無表情で遮った。看護師がきょとんとして手を止める。「えっと……お友達じゃないんですか?」「元カレです」「……なるほど」看護師は何やら深く納得した様子で、本当に点滴の滴下速度を上げて去っていった。たちまち血管を駆け巡る激痛に、柊也は寝たふりを続けることもできず、顔をしかめて上半身を起こそうとした。ベッド脇の椅子に腰掛けていた詩織が、それを見て冷淡に言い放つ。「動かないで。針が抜けたらナースコールの手間が増えるでしょ。看護師さんの仕事を増やさないでちょうだい」喉が焼けつくように渇いている。柊也は掠れた声をどうにか絞り出した。「……なんで、帰らなかった」彼が知る詩織なら、ここに留まるはずがない。病院まで送り届けただけでも十分すぎるほどの慈悲だ。だからこそ、目を開けた瞬間に彼女がまだそこにいたことへの驚きと、隠しようのない動揺が胸をかすめる。もしかしたら、という淡い期待。だが、そんな甘い幻想は、詩織の言葉によって瞬時に打ち砕かれた。「帰りたかったに決まってるでしょ。でも、引き継ぎ相手が見つかるまで看護師さんが帰してくれなかったのよ」あの時、詩織にできたのは救急車を呼ぶことだけだった。到着した救急隊員は、意識のない柊也を搬送するにあたり、同乗者を求めた。既往歴やアレルギーの有無など、患者の情報を正確に把握している人間が必要だと。皮肉なことに、そのすべてを誰よりも熟知していたのが詩織だっただけだ。柊也はしばし沈黙し、黙って点滴のクランプを操作して速度を緩めた。詩織は腕時計に目を落とす。「意識も戻ったことだし、あとは自分で見て。私、帰るから」立ち上がりかけ、思い出したように付け加える。「そうそう、柏木さんには連絡しておいたわ。今向かってるはずだから、大人しく待ってなさい」「……」柊也が何か言う隙も与えず、詩織は病室を後にした。マンションに戻った詩織は、警備室に預けておいたタラバガニの箱を回収した。だが、自宅のキッチンで蓋を開けた瞬間、異変に気づく。甲羅の色がどうもおかしい。慌てて写真を撮り、松本さんに送信した。【松本さん、このカニ、ちょっと変色してません?傷んでるような……】返信は即座に来た。【あらやだ、これダメになってるじゃない!冷蔵庫に入
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第228話

まさか、柊也がこれほど暇人だったとは。確かにアポは取られていた。だが、その用件はすでにリードテックの須藤を通じて解決済みのはずだ。今さら何のためにここへ来る必要がある?まるで見当がつかない。厄介なのは、『正規の手順を踏んだ面会予約は断らない』という社内ルールを定めたのが、ほかならぬ詩織自身だということだ。ここで門前払いをすれば、自分の顔に泥を塗ることになる。「……わかったわ、通して」詩織は渋々折れた。ドアがノックされ、柊也が社長室に入ってきても、詩織はPC画面から視線を外そうともしなかった。画面上の数字を追ったまま、事務的に問いかける。「賀来社長、何か御用で?」「まだ仕事か」柊也の言葉は、答えになっていなかった。まるで自分の家に帰ってきたかのような、遠慮のない物言いだ。「用がないならお引き取りを。見ての通り忙しいので」詩織は冷たく退去を促す。しかし柊也は、そんな拒絶など聞こえていないかのように続けた。「いくら忙しくても、飯くらいちゃんと食え」会話がまるで噛み合っていない。ただの独り言の応酬だ。第三者が聞けば、働き詰めの相手を労わる優しい言葉に聞こえたかもしれない。かつての詩織なら、それこそ喉から手が出るほど欲しかった言葉だろう。けれど、今の彼女には不要物でしかない。手遅れになってから届く気遣いなど、枯れた雑草ほどの価値もなかった。彼の腹の内を探るのは時間の無駄だ。そう判断した詩織は、思考をシャットアウトして目の前の仕事に没頭することにした。柊也の性格からして、どうせ無視されればすぐに痺れを切らして帰るだろうと高を括っていたのだ。気づけば、一時間が経過していた。凝り固まった首筋をほぐそうと顔を上げた瞬間、ソファに鎮座する男の姿が目に入り、詩織は心臓が跳ねるほど驚いた。まだ、いたのか。「……何してるのよ」思わず眉をひそめると、薄暗がりに沈んだ顔をわずかに動かし、柊也が言った。「お前を待ってた」「何のために」「飯だ」「あなたと食事に行くなんて約束、した覚えはないけど」「松本さんに頼まれたんだ。君を連れて帰ってきてくれってな」さらに柊也は、言い訳のように付け加える。「今日一日かけて、またタラバガニを用意してくれたらしい。『今度こそ二人揃って食べに来てほしい』と厳命されたよ。ほ
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第229話

柊也はいつものように、酒には一切口をつけなかった。「ねえ、柊也様。ただ座っていらっしゃるなら、カニを剥いて差し上げてはいかが?あの硬い殻で、詩織さんが指でも切ったら大変ですもの」松本さんの、柔らかいけれど拒絶を許さない提案が飛ぶ。断る隙すら与えぬ速さで柊也は手袋をはめ、黙々とカニの解体を始めた。本当に、この家政婦さんには絶対服従らしい。グラスを傾けながら、海雲が詩織に最近の仕事の調子を尋ねてきた。彼女が現状を報告すると、海雲は興味深そうに頷く。『華栄』の経営状態やAI『ココロ』の進捗についてもよく知っており、常に気にかけてくれているのが分かる。和やかに会話が弾む中、隣で黙々とカニ肉をほじくっていた男が、不意に口を挟んだ。「父さん、俺の仕事にはそんなに興味示さないくせに。本当の子供は俺のほうだろ」拗ねた子供のような物言いだった。海雲は眉をひそめ、冷ややかな視線を息子に投げる。「お前が出資した『飛鳥』とかいうAI、200億円もの損失を出したそうじゃないか」一撃必殺だった。柊也の手が止まる。よりによって一番痛いところを突かれたようだ。「……ビジネスにリスクはつきものだろ。たかが200億、次の案件でいくらでも取り返せる。『港湾再開発プロジェクト』さえ成功すれば、そんなのは、はした金だ」「獲らぬ狸の皮算用はよせ」「心配ご無用。この江ノ本市で、ウチの『エイジア』に対抗できる企業なんてあるわけがない。あれはもう俺のポケットに入ったようなもんだ」相変わらずの自信家ぶりだ。もっとも、今の『エイジア』の勢いと彼の辣腕ぶりを見れば、それが単なる大言壮語ではないことは誰もが認めるところだろう。「あまり慢心するなよ」詩織は察した。どうやら海雲は、あえて厳しい言葉を投げかけることで柊也の闘志を煽っているらしい。いわゆる「否定教育」というやつだ。柊也のほうも負けじと食い下がり、二人の舌戦はヒートアップしていく。議論はいつしか、今回の入札における核心部分――最低入札価格にまで及ぼうとしていた。この親子は、本当に詩織を部外者扱いしない。以前からそうだったが、仕事の機密事項に関して、彼女の前ではまったく警戒心がないのだ。かつての詩織なら、火花を散らす二人の仲裁に入っていただろう。けれど今の立場では、これ以上ここに長居するの
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第230話

詩織が目を覚ました時には、夜は随分と更けていた。運転席はもぬけの殻だ。一瞬、彼が自分を置き去りにして帰ったのかと思い、怒りがこみ上げる。いや、車ごと置かれているのだから違うか。喉元まで出かかった罵倒を飲み込み、彼女は車を降りた。挨拶などする気もない。そのままエントランスへ向かって歩き出す。「……また俺を運転手扱いか。礼くらい言えないのかよ」数歩進んだところで、皮肉っぽい声が降ってきた。足を止めて振り返る。街路樹の陰に隠れていて気づかなかったが、彼はそこでタバコを吹かしていたらしい。近くの吸い殻入れには、山盛りの吸い殻が捨てられている。それを見て、詩織は思わず眉をひそめた。昔なら、「体に悪いから」と吸い殻を取り上げ、禁煙を勧めていただろう。だが今の彼女は、ただ煙たそうに半歩下がっただけだ。服に臭いがつくのは御免だ。「……お礼が欲しいなら、あなたが私に借りてる分を先に返してちょうだい」この七年間、彼を送り迎えしたのは自分のほうだ。その回数は数え切れない。柊也は紫煙を深く吸い込み、吐き出した煙のスクリーン越しに彼女を見た。その瞳に浮かぶ感情は読み取れない。ただ、吐き出された声だけが、微かにかすれていた。「……ああ。ありがとうよ」「気持ちがこもってないわね」彼が言ったからといって、受け取る義理はない。今さら言われたところで、すべてが手遅れなのだ。賞味期限の切れた感謝になど、何の意味もありはしない。柊也は笑い、問いかけた。「どうすりゃ誠意があるって認めてくれる?」「1000億円ほど振り込んでくれたら、考えてあげてもいいわ」今、喉から手が出るほど欲しい金額だ。「何だその大金。何に使う気だ」「ホストを800人くらい雇うのよ。退屈しのぎにね」「……ハッ。だったら一銭もやるかよ。お断りだ」呆れたように笑い飛ばす彼に、詩織は肩をすくめる。用は済んだ。彼女は踵を返し、颯爽とエントランスへと消えていった。今回は、引き止められることもなかった。柊也は指先で燃え尽きようとしているタバコを深く吸い込み、煙を肺の奥底に長く留めた。やがて限界が訪れ、白い煙が口から溢れ出す。夜気に溶け、跡形もなく消えていくそれを、彼はただ無力に見送った。ずっと握りしめていたはずの何かが、指の
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