All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 211 - Chapter 220

373 Chapters

第211話

初恵が、娘の手をそっと包み込んだ。「まだ、辛い?」「もう過ぎたことよ」詩織は静かに答えた。辛くなかったと言えば嘘になる。だが、今の彼女は過去の亡霊に囚われていたくはなかった。そんなことをしても、出口のない迷宮で一人きり、悲劇のヒロインを演じることになるだけだ。彼女は、前だけを見ていたかった。初恵は人生の先輩として、優しく諭した。「また一からやり直す勇気を持ってね。自分の心に壁を作って閉じこもっちゃダメよ」「うん、分かってる」「よし、食べましょうか」初恵は愛娘の頭を撫でて、箸を取った。「そうだ、お母さん。別れたの知ってて、どうして彼を家に上げたの?」「あれはたった一度きりのことよ。よりによってあなたと鉢合わせしちゃってね」初恵は困ったように笑った。「じゃあ、再検査の予約の件は?」「あの頃、あなたすごく忙しそうだったじゃない。だから一人で行ったんだけど、手続きが複雑でちんぷんかんぷんでね。二日間も無駄足踏んじゃったのよ。そうしたら、どこで聞きつけたのか彼がやってきて、全部手配してくれたの」初恵は少し悪戯っぽく微笑んだ。「あなたが今まで彼に尽くしてきた年月を考えたら、これくらいしてもらったってバチは当たらないと思ってね。ありがたく利用させてもらったわ」そして、きっぱりと付け加えた。「でも、ちゃんと言っておいたわよ。もう二度とここには来ないでって」詩織は思わず吹き出した。「たしかに、お母さんの言う通りだわ。元を取ったと思えばいいのよね」一番懸念していた難題が、拍子抜けするほどあっさりと解決してしまった。取り越し苦労だったみたい。結果オーライだ。本来なら連休は五日まで続くはずだったが、詩織は三日目にして早々に切り上げ、『華栄』へ出社することにした。帰り際、初恵は「持っていきなさい」と言って、二つのダンボール箱いっぱいに食料を詰めてくれた。手作りの筑前煮や豚の味噌漬けなど、温めるだけで食べられる保存食ばかりだ。忙しさにかまけて食事を疎かにする娘への、母なりの愛情表現だった。マンションのエントランスを出たところで、一階に住む鈴木おばあちゃんと顔を合わせた。「あら、詩織ちゃん。今日は彼氏さん、お迎えに来ないの?」「私たち、別れたんです」鈴木おばあちゃんは目を丸くして絶句した。詩織が車を出
Read more

第212話

ただ、詩織は言われるまで今日がバレンタインだということに気付きもしなかった。かつての七年間、あれほど大切にしていた記念日が、今では何の意味も持たないただの一日になっていたのだ。午後の会議は思いのほか早く終わった。「今日はバレンタインですからね。皆さん、デートの時間を確保しないと私が恨まれますから」と、司会者が粋な計らいを見せたおかげだ。会議室を出ながら、智也は詩織に声をかけようとした。今夜もし予定がなければ、予約しておいたレストランで食事でも、と誘うつもりだったのだ。だが、その口が開かれるより先に、詩織のスマホが鳴った。賀来海雲からだ。食事への呼び出しだった。海雲からの誘いとなれば、断るわけにはいかない。事情を悟った智也は、何も言わずにその言葉を飲み込んだ。詩織が向かった先は、海雲が主催する会食の席だった。個室には商工連合会で見知った顔ぶれが並んでいたが、その中に一人だけ、見慣れない男がいた。年齢は三十代前半だろうか。容姿端麗だが、その纏う空気は周囲の経営者たちとは明らかに異質だった。海雲からの紹介を受けて、詩織はその違和感の正体を理解した。彼はビジネスマンではない。生粋の官僚――それも、ただの公務員ではなく、この若さで海雲の席に同席できるほどのエリートだ。男は洗練された所作で立ち上がり、詩織にスッと手を差し出した。「初めまして、江崎さん。篠宮賢(しのみや けん)と申します。お会いできて光栄です」「こちらこそ、初めまして」詩織は礼儀正しくその手を握り返した。単なる名刺交換程度の挨拶で終わると思っていたが、意外にも賢は言葉を継いだ。「実は以前から、あなたのことを存じていたんです。ずっとお話ししたいと思っていました」詩織は少し目を丸くした。「『ココロ』の記者会見も拝見しましたし、深水市でのAIサミットにも参加していましたから。あなたのプレゼンは非常に印象深かった。今日こうしてご本人にお会いできて、本当に嬉しいです」賢の誠実そうな言葉に、同席していた年配の男性が茶々を入れた。「おや、篠宮くんが女性にそこまで興味を示すとは珍しい」「そういえば江崎社長も独身だったね?これも何かの縁じゃないか」酒の席特有のノリだ。経営者たちの視線が集まり、詩織は居心地の悪さを感じずにはいられなか
Read more

第213話

「詩織」と、まるで本当の娘のように名を呼び、自身の人脈を紹介し、大きなプロジェクトに関わらせようとしている。嫉妬するなというほうが無理な話だ。志帆は柊也を見上げて尋ねた。「ご挨拶に行かなくていいの?」柊也は静かに首を横に振る。「よそう。最近、親父は俺のことを良く思ってない。行っても嫌な顔をされるだけだ」「……そう」志帆は気まずそうに頷くしかなかった。先輩たちを見送った詩織は、ようやく自分の帰宅手段を確保しようとスマートフォンを取り出し、アシスタントの密に連絡を入れようとした。だが、電話をかける前に、一台の黒塗りのセンチュリーがしめやかに目の前に停まった。後部座席のドアが開き、賢が降りてくる。「江崎さん、お住まいはどちらですか?お送りしますよ」「いえ、お構いなく。秘書を呼びますので」詩織は丁重に断ったが、賢は引かなかった。「ご迷惑でなければ、ぜひ。『ココロ』についてお聞きしたいことが山ほどあるんです。少しお時間をいただけませんか」真摯な眼差しだった。仕事の話となれば、無下にはできない。それが詩織の性分だ。彼女は小さく頷き、賢のエスコートで車に乗り込んだ。車内での会話は、言葉通りビジネス一色だった。賢は『ココロ』の技術を活用した行政サービスのホットライン構築について熱心に語った。詩織もその構想に興味を惹かれた。行政との提携案件は利益率こそ低いが、信頼性と知名度の向上という点では計り知れないメリットがある。いわゆる「実績と評判」を買う仕事だ。「では、後日改めて詳細を詰めさせてください」「はい、喜んで」詩織は充実感を滲ませて答えた。翌日の午前、詩織は『エイジア・ハイテック』へ向かった。演算チップの供給について協議するためだ。『エイジア・ハイテック』は『エイジア・キャピタル』の子会社でありながら、グループ全体の心臓部とも言える最重要プロジェクトを抱えている。柊也の側近として七年間仕えた詩織でさえ、この会社の内情については氷山の一角しか知らない。ハイテック社に関わる案件だけは、柊也が徹底して自分の手で管理し、決して他人に触らせなかったからだ。訪問に先立ち、詩織は責任者の真田源治(さなだ げんじ)に連絡を入れていた。真田は正面玄関で待っていた。週に一度、真田が本社へ報告に訪れる際、取り
Read more

第214話

昨日はバレンタインデー。その夜に「寝かせてもらえなかった」と言えば、誰だって情事を想像するだろう。真田は目のやり場に困り、引きつった笑みを浮かべるしかなかった。「……江崎社長がお待ちですよ」志帆はそこで初めて詩織に目を向けた。だが、謝罪の言葉一つない。「じゃあ、始めましょうか」当然のようにノートPCを開く彼女に、真田が慌てて場を取りなそうとする。「あの、まずは私から進行の説明を……」「必要ないわ。彼女とは顔見知りだし」志帆は冷たく言葉を遮った。「それに江崎さんは元々ウチの社員だったんだもの。事情は飲み込めてるでしょ」取り付く島もない態度に、真田は口をつぐむしかない。すると志帆は、獲物を狙うかのように話題を変えた。「昨日の夜、契約内容をざっと見せてもらったんだけど。華栄キャピタルみたいな吹けば飛ぶような会社、ウチの取引基準を満たしてないじゃない。過去にこんな特例、一度もなかったはずよ。ねえ江崎さん、どんな手を使って柊也くんに契約書へサインさせたの?」真田が息を呑んだ。まるで正妻が愛人を尋問しているかのような剣幕だ。こんな修羅場に巻き込まれると知っていれば、仮病を使ってでも休んだものを。詩織はギリギリまでビジネスライクに徹するつもりだった。公私混同は彼女の美学に反するからだ。だが、相手がルールを無視して土足で踏み込んでくるなら、こちらも容赦はしない。パタン、と乾いた音を立ててノートPCを閉じる。詩織は顔色を失っている真田に向き直り、静かに、しかし明確な口調で告げた。「真田さん、社長にお伝えください。もともとこの提携はそちらから持ちかけられた話で、契約書も社長ご自身の署名入りです。今になって異議があるなら結構。ただし契約書通り、違約金はきっちりお支払いいただきます」これほどの強気な対応は、志帆にとって完全に想定外だった。彼女の認識では、この取引は華栄キャピタルが『ハイテック』にすがっている図式だと思っていたからだ。圧倒的強者である自分からの嫌味や皮肉など、詩織は甘んじて受け入れるしかないはずだった。だが、志帆も引くわけにはいかない。「強気ね。でも後悔することになるわよ。『ココロ』の成長にウチのチップが不可欠なのは事実でしょ?一時の感情でビジネスチャンスを棒に振るなんて、経営者としてどうかと思うけど」
Read more

第215話

「ちょっと太一くん、電話してみてよ」志帆に急かされ、太一がスマートフォンを取り出す。短い通話の後、彼は困ったように肩をすくめた。「急な仕事が入ったって。俺たちだけで始めてくれってさ」「えー、また来れないの?」楽しみにしていた美穂はあからさまに落胆し、不満そうに声を上げた。志帆がまあまあと宥める。「仕方ないわよ。また今度誘えばいいじゃない」美穂は口を尖らせる。もう何度も誘っているのに、やっと約束を取り付けたと思えばドタキャンだ。次なんて、いつになることやら。食事が終わり、店を出ようとした時だった。窓際の席に、見覚えのある二人の姿が飛び込んできた。詩織と譲だ。二人は親しげに談笑しており、傍から見ればまるでデート中のカップルのようだった。志帆の足が止まる。これが、彼の言う「急な仕事」?私との約束を反故にして、詩織と会っていたというの?志帆の表情がさっと曇る。美穂の怒りはもっと直接的だった。彼女は譲に目をつけていたのだ。これは、明らかな横恋慕だと受け取った。「お姉ちゃん、あれ……!」「騒ぐんじゃないわよ。行くわよ」飛び出していこうとする美穂を、志帆は冷静に制した。詩織のことは心底見下しているが、譲や太一の前でヒステリックな姿を晒すわけにはいかない。自分の品位に関わる。志帆は不承不承な美穂を促し、その場を後にした。実際には、譲は仕事の話をしに来ただけだった。『ココロ』の新機能に必要なデータを、わざわざ届けに来てくれたのだ。ちょうど昼時だったこともあり、食事をしながら打ち合わせをすることになったというわけだ。店を選んだのは譲だった。友人の太一を応援するつもりで、あえて『月蝕』を予約したに過ぎない。打ち合わせを終え、二人が解散しようとしたところで、太一が譲に声をかけに来た。「しかし、江崎の態度、お前と俺とで違いすぎないか?」太一はいまだに詩織との提携話が進まず、頭を抱えていた。「頼むよ、お前から口添えしてくれよ!」このままでは本当に、親父に海外へ飛ばされてしまう。だが、譲は即座に拒否した。「御免だね。下手に口出しして、俺までブラックリスト入りしたらどうするんだ。大体、お前が彼女に嫌われてるのが悪いんだろ」これまで散々、調子に乗って嫌味を言わなければよかった。過去の自
Read more

第216話

太一の胸に、かつてない罪悪感が込み上げてきた。「江崎……いや、ほんと悪かった。今まで嫌なこと言ってごめん。俺がガキだったよ。これからは心入れ替えるから、どうか水に流してくれ」これほど真剣に、心の底から謝罪したのは初めてかもしれない。それほどまでに、彼女の用意周到な対応に心を打たれたのだ。しかし、詩織はようやく顔を上げると、奇妙なものを見るような目で太一を見つめた。「……あの、まずは中身を確認してから喋ってもらえます?」言われて、太一は恐る恐る書類に目を落とす。表紙に印字された、太いゴシック体の三文字が目に飛び込んできた。『通知書』弁護士名義の、いわゆる内容証明郵便だ。頭の中が真っ白になる。え、訴状……?なんで!?パニックに陥る太一をよそに、詩織は淡々と言い放った。「わざわざ郵送する手間が省けて助かりました。あなたにも都合がいいでしょう?」太一は絶句した。鬼だ、この女は鬼だ。こっちは提携を結びに来たのであって、被告席に座りに来たわけじゃないんだぞ……!「会議があるので、これで」詩織はノートPCを小脇に抱え、あっさりと部屋を出て行ってしまった。取り残された太一は、屈辱と混乱で腸が煮え繰り返りそうだった。なぜだ。なぜこれほどまでに冷酷になれるのか。怒りと情けなさを抱えたまま、彼は『エイジア・キャピタル』へと駆け込んだ。こうなったら柊也に直訴するしかない。「柊也、聞いてくれよ!江崎の奴、血も涙もねえよ!昔馴染みだろ?お前とは七年も付き合ってた仲じゃねえか。それなのに俺を訴えるだと!?」太一はオフィスに入るなり捲し立てた。「あんなの許していいのかよ!お前からガツンと言ってやってくれ!」だが、柊也は深く、重いため息をついた。そして、デスクの上に積まれた書類の束を、無言で太一の方へ押しやった。「安心しろ。あいつは公平だ。俺のところにも届いてる」「……は?」太一が言葉を失っていると、ドアが開いて志帆が入ってきた。「柊也くん、呼んだ?」「ああ。これを」柊也は先ほどの書類の山から一通を抜き出し、志帆に手渡した。彼女は怪訝な顔で封筒の中身を確認し――眉間に深い皺を刻んだ。「……これ、訴状じゃない」太一が目をむく。「お前もかよ!まさか、それも江崎からか?あいつ、どんだけばら撒いてんだ
Read more

第217話

彼はわずかに眉を寄せ、続ける。「だが『飛鳥』の方は厄介だ。まずは示談に持ち込めるか探ってみるしかない。もし裁判になれば、逮捕者が出かねないからな」……週明けの月曜日。詩織は智也のオフィスビルを訪れ、エントランスで思いがけず志帆と遭遇した。志帆も詩織の存在に気付いたが、気まずそうに目を逸らし、逃げるように背を向けた。「何しに来たんですかね?」密が耳打ちする。「たぶん、智也さんに会いに来たんじゃない?」その予想は的中していた。智也の話では、志帆はあらゆる伝手を使って接触を図り、『飛鳥』の侵害問題について話し合おうとしてきたらしい。だが智也はすべて拒絶し、「話があるなら詩織さんを通してくれ」と突っぱねたという。プライドの高い志帆のことだ。詩織に頭を下げるなど耐え難いのだろう。だからこそ、未だに直接の連絡が来ないのだ。「どうする? 裁判までやるか?」智也が今後の対応を尋ねてきた。「裁判は最後の手段にしておきたいわ。時間も労力もかかるし、できれば示談で済ませたい。でも……今の彼女と話しても時間の無駄ね」「じゃあ、賀来柊也に出てこさせるか?受けてくれると思うか?」詩織は淡々と答えた。「さあね。あの人にとって、彼女がどれだけ大切かによるでしょうね」あれほど志帆を溺愛しているのだ。彼女を守るためなら、自分のプライドなど喜んで捨て去るのではないか。皮肉な話だが、詩織は志帆に感謝すらしていた。柊也が志帆の実績作りのために無理を通さなければ、『華栄キャピタル』のような新興企業が『ハイテック』と提携することなど不可能だったからだ。しかも、契約書自体が華栄有利の条件で結ばれている。だからこそ、詩織は強気に出られるのだ。「私は交渉事は苦手だからな。君に全権を委ねるよ」智也はいつものように、全幅の信頼を寄せてくれた。智也との打ち合わせを一時間ほどで切り上げ、ビルを出ると、驚いたことにまだ志帆がいた。なかなかの根気だ。密が車を取りに行っている間、志帆を迎えにきた一台の車が停まった。運転席から降りてきたのは柊也だ。彼は慣れた手つきで助手席のドアを開け、志帆をエスコートする。その所作は優しく、慈しみに溢れていた。その光景を眺めながら、詩織は確信した。そう遠くないうちに、彼の方から接触してくるだろう、
Read more

第218話

柊也が去った後、密は興奮気味に詩織に話しかけた。「あの賀来社長が門前払いされるなんて!あー、スッキリしました!」彼女もかつては柊也の理不尽な要求に振り回され、苦労させられた口だ。かつての上司が手も足も出ずに追い返される様は、見ていて痛快極まりなかったのだろう。「でも詩織さん、あの方、素直に一週間待つでしょうか?」「待たないわよ」詩織はデスクの書類に目を落としたまま、即答した。「なんで分かるんですか?」「七年も一緒にいたのよ。あの人の性格くらい、嫌でも分かる」「確かに」密は深く頷いた。詩織の読み通りだった。その日の午後、柊也は再び現れた。詩織は『リードテック』の須藤宏明と面談の約束をしていたのだが、直前になって場所の変更を告げられた。その時点で、何か裏があると察した。指定された会員制クラブの個室に入ると、そこには案の定、柊也が座っていた。「いやあ、賀来社長とも少し話がありましてね。お二人も旧知の仲ですし、ご一緒でも構いませんよね?」須藤はニコニコと愛想よく言った。ここまでお膳立てされて「No」と言える空気ではない。柊也も人選を心得ている。須藤を仲介役に選んだのは正解だ。彼は弁が立つ。詩織たちが争うことのデメリットを、巧みな話術で理路整然と説いた。実際、詩織も本気で『エイジア』と全面戦争をするつもりはなかった。『ハイテック』の技術力は魅力的だ。もし提携が白紙になれば、新たなチップ供給元を探さねばならない。それは時間と労力の浪費でしかない。「ビジネスの世界では、時に身を屈めて力を蓄えることも必要だ」かつて柊也が彼女に授けた教えだ。詩織はその金言を、今でも忠実に守っている。だから彼女は、須藤の仲裁を受け入れた。ただし、条件付きで。「『飛鳥』の関係者による公式な謝罪」「『ココロ』の開発コストに対する損害賠償」「そして、『飛鳥』の市場撤退」詩織が条件を挙げるたび、須藤は「おおぅ」と息を呑んだ。だが当事者である柊也は、驚くほど冷静だった。詩織が全ての要求を並べ終えるのを辛抱強く待ち、静かに尋ねた。「……他には?」「今のところは以上よ。他の条件については、追加する権利を保留させてもらうわ」その言葉に、柊也は吹き出した。呆れたのか、怒ったのか。彼は短く笑った
Read more

第219話

「ええ。あまり待たせたくないもので」柊也は認めた。その瞬間、詩織の胸中を空虚な風が吹き抜けた。店を出て、三人で別れの挨拶を交わす。詩織は会話に加わろうともせず、俯いてスマートフォンを操作していた。密に「終わったから車を回して」とメッセージを送るためだ。外は、風が荒れ狂っていた。「春の寒の戻り」と言うべきか、この時期の雨は真冬よりも冷たく、骨の髄まで凍みる。志帆は車の外に立ち、柊也を待っていた。暖房の効いた車内で待てばいいものを、わざわざ一番目立つ場所に立っている。それは明らかに詩織への当てつけであり、勝利宣言だった。「見てなさいよ」と、その背中が語っている。たとえ私が何をしでかそうと、柊也は私を見捨てない。どんな無理難題でも、私のために絶対的な後ろ盾になってくれるのだと。志帆は勝ち誇ったような冷たい視線を詩織に一瞥投げると、すぐに甘く蕩けるような笑みを柊也に向けた。「柊也くん」「どうして外に?車にいればよかったのに」「だって、一秒でも早く会いたかったんだもの」人目を憚ることなく、声色を甘く弾ませる。その様子を見た須藤は、「はいはい、お邪魔虫は退散しますよ」と言わんばかりに肩をすくめた。「お二人のお時間を邪魔しちゃ悪い。私の車も来たようだ。賀来社長、江崎社長、柏木さんも、それじゃ」須藤が去ると、柊也も志帆の車に乗り込んだ。ドアを閉める直前、彼は詩織に視線を向けた。「それじゃあ、江崎社長」詩織はわずかに顎を引いて頷いた。それが精一杯の反応だった。できることなら、そんな最低限の挨拶さえ返したくないほどだった。二台の車が走り去り、エントランスは静寂を取り戻した。詩織だけが一人、そこに残された。夜風が吹き抜け、冷気が体を突き刺す。カシミヤのコートをきつく合わせても、寒さは容赦なく忍び込んでくる。――あまり待たせたくないもので。もし自分の目と耳で確かめていなければ、あの柊也がそんな言葉を口にするなど信じられなかっただろう。彼の秘書として過ごした七年間、彼女の仕事の大半は「待つこと」だった。長時間の会議中、ドアの外で立ち尽くして待った。接待の席が終わるまで、廊下の隅で待ち続けた。こんな夜など数え切れないほどあった。どれだけ長く、どれだけ多く、どれだけ孤独に待ったことか。
Read more

第220話

木曜日。詩織は篠宮賢の招きに応じ、ホットライン・プラットフォーム構築の件で官庁の合同庁舎を訪れていた。篠宮賢という男は、その穏やかな物腰からは想像もつかないほど、実務においては切れ者だ。わずか数日の間にプラットフォームの詳細設計から要件定義まで完璧にまとめ上げ、提示してきたのだ。詩織の仕事は、この資料を持ち帰り、自社のAI『ココロ』と接続させるだけでいい。現在の『ココロ』のアルゴリズムと学習速度をもってすれば、半月もしないうちに実装まで漕ぎ着けられるだろう。「では、江崎社長からの朗報をお待ちしていますよ」打ち合わせを終え、賢が優雅に立ち上がり手を差し出してくる。「今後もし何か必要なリソースがあれば、遠慮なく僕に直接ご連絡ください。こちらとしても全力でバックアップさせていただきますので」「ええ、心強いですわ」詩織はその手をしっかりと握り返した。賢は腕時計に目を落とすと、詩織に向かって微笑んだ。「そろそろお昼時ですね。もしよろしければ、ランチをご一緒しませんか」賢は優秀なビジネスパートナーであり、その振る舞いも常に紳士的だ。詩織が断る理由はなにもない。案内されたレストランは彼の職場のすぐ近くだった。落ち着いた雰囲気の店内を見渡すと、客層の多くが彼と同じ庁舎の関係者であることが見て取れる。店員も賢とは顔馴染みのようだ。親しげに声をかけてくる。「あら、篠宮室長。今日は彼女さんとランチですか」日頃から周囲に壁を作らない賢の人柄がうかがえる。「彼女ではありませんよ。こちらは当室の大切なパートナー企業の社長です」賢はあえて居住まいを正し、きっぱりと否定した。恐縮するかと思いきや、店員は悪びれずに舌を出す。「これは失礼しました。あまりにお似合いだったので、てっきりカップルかと」詩織は苦笑して聞き流したが、誤解が解けたと分かると、店員は堰を切ったように声を潜めた。「そういえば室長、元カノさんもいらしてますよ」「元カノではありません。お見合いをして、二度ほど食事をしただけです。交際という事実はありませんよ」賢はまたしても几帳面に訂正を入れる。「でも、さっき室長のこと聞いてこられましたよ」店員の言葉が終わるか終わらないかのうちに、背後からヒールの音が近づいてきた。詩織は入り口に背を向けて座っていたため、誰が来
Read more
PREV
1
...
2021222324
...
38
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status