初恵が、娘の手をそっと包み込んだ。「まだ、辛い?」「もう過ぎたことよ」詩織は静かに答えた。辛くなかったと言えば嘘になる。だが、今の彼女は過去の亡霊に囚われていたくはなかった。そんなことをしても、出口のない迷宮で一人きり、悲劇のヒロインを演じることになるだけだ。彼女は、前だけを見ていたかった。初恵は人生の先輩として、優しく諭した。「また一からやり直す勇気を持ってね。自分の心に壁を作って閉じこもっちゃダメよ」「うん、分かってる」「よし、食べましょうか」初恵は愛娘の頭を撫でて、箸を取った。「そうだ、お母さん。別れたの知ってて、どうして彼を家に上げたの?」「あれはたった一度きりのことよ。よりによってあなたと鉢合わせしちゃってね」初恵は困ったように笑った。「じゃあ、再検査の予約の件は?」「あの頃、あなたすごく忙しそうだったじゃない。だから一人で行ったんだけど、手続きが複雑でちんぷんかんぷんでね。二日間も無駄足踏んじゃったのよ。そうしたら、どこで聞きつけたのか彼がやってきて、全部手配してくれたの」初恵は少し悪戯っぽく微笑んだ。「あなたが今まで彼に尽くしてきた年月を考えたら、これくらいしてもらったってバチは当たらないと思ってね。ありがたく利用させてもらったわ」そして、きっぱりと付け加えた。「でも、ちゃんと言っておいたわよ。もう二度とここには来ないでって」詩織は思わず吹き出した。「たしかに、お母さんの言う通りだわ。元を取ったと思えばいいのよね」一番懸念していた難題が、拍子抜けするほどあっさりと解決してしまった。取り越し苦労だったみたい。結果オーライだ。本来なら連休は五日まで続くはずだったが、詩織は三日目にして早々に切り上げ、『華栄』へ出社することにした。帰り際、初恵は「持っていきなさい」と言って、二つのダンボール箱いっぱいに食料を詰めてくれた。手作りの筑前煮や豚の味噌漬けなど、温めるだけで食べられる保存食ばかりだ。忙しさにかまけて食事を疎かにする娘への、母なりの愛情表現だった。マンションのエントランスを出たところで、一階に住む鈴木おばあちゃんと顔を合わせた。「あら、詩織ちゃん。今日は彼氏さん、お迎えに来ないの?」「私たち、別れたんです」鈴木おばあちゃんは目を丸くして絶句した。詩織が車を出
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