All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 501 - Chapter 510

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第501話

ここ最近、先生はずっとAIの話題ばかりだったしな……「これからはAIの時代だ。お前も暇な時はこの対局ソフトと打ってみろ」と、やけに熱心に勧めてきたことを思い出す。「どうして急にAIなんです?」と尋ねると、脇でお茶を淹れていた家政婦が笑って口を挟んだ。「それはもう、先生の可愛い愛弟子さんがお勧めになっているからですわ」「なっ、馬鹿を言うな!私はまだあやつを弟子と認めたわけではないぞ!うちの大学院に受かってから言え!」高村教授は顔を真っ赤にして否定したが、家政婦は楽しそうにクスクスと笑っていた。「本当に素直じゃないんですから。あの子のニュースが出るたびにチェックして、お友達の社長さんたちに『よろしく頼む』なんてこっそり電話してるくせに」高村教授が「もうすぐ着く」と電話で告げたため、悠人はそのまま外で待つことにした。するとB館から、詩織と智也が出てくるのが見えた。彼らが迎えたのは、智也の恩師である饒村玉良だ。現在は人工知能協会の副理事長も務める権威。『ココロ』の上場プロジェクトは、国内のAI開発全体にとっても極めて重要な試金石となる。だからこそ饒村は、自身の研究チームを引き連れ、支持と視察を兼ねて直々に足を運んだのだ。智也は居住まいを正し、師に対して緊張した面持ちで状況報告を始めた。詩織は気を利かせ、師弟が気兼ねなく話せるよう一歩引いて後に続く。悠人は会場前の目立つ場所に立っていた。当然、詩織の目にも入ったはずだ。だが彼女は、悠人の存在になど気づいていないかのように、視線ひとつ向けずに通り過ぎようとする。「……ふん」悠人は鼻で笑い、聞こえよがしに毒づいた。「誰かが舗装した道を歩くのは楽だよな。それが成功への最短ルートってわけだ」主語はない。だが周りに悠人の知人などいない以上、それが自分に向けられた皮肉であることは明白だった。詩織は足を止めた。悠人が自分に対し偏見を持っていることは知っている。普段なら相手にもしないが、際限なく侮辱を許容するつもりは毛頭ない。詩織はゆっくりと視線を上げ、冷ややかな瞳で悠人を射抜いた。悠人は口元を歪め、さらに挑発を重ねる。「楽ばかり覚えてると、そのうち行き止まりにぶち当たるぞ?怖いとは思わないのかね」「神宮寺社長。そんなにお説教がお好きなら、教員免許でもお取
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第502話

志帆と悠人は、競うように声を揃えて答える。「ええ、そうです!」「A館ですよ、先生」その答えを聞いた高村教授の眉間のしわが、さらに深くなった。彼は何かを考え込むように一呼吸置くと、二人に問いかける。「……ここ以外に、ロードショーをやっている会場はあるか?」志帆の瞳が一瞬、強張った。一方で悠人は、きょとんとした顔をしている。ロードショー?先生はここに来たんじゃないのか?二人が答えあぐねて沈黙していると、高村教授は痺れを切らしたように舌打ちした。「ええい、もういい。電話して聞く」彼はおもむろにスマートフォンを取り出し、画面をタップする。呼び出した相手は詩織ではなく、京介だった。詩織は今頃多忙だろうと気を遣ったのだ。ほどなくして、京介が息を切らせて駆けつけてきた。二つの会場は目と鼻の先だ。志帆が表情を正す暇もないほどの早さだった。京介は志帆と悠人に軽く会釈をして義理を果たすと、すぐに高村教授に向き直る。「先生!すみません、会場が急遽B館に変更になったのを伝え忘れていました」「まったく。案内板くらい出しておかんか!私以外にも間違える客がおるかもしれんだろ」高村教授が不機嫌そうに鼻を鳴らす。「出してあるはずなんですが……招待客には全員連絡済みですし」「私は外で見かけんかったぞ」「変ですね……後で確認させます」出口へと向かいかけていた高村教授が、ふと立ち止まり悠人を振り返った。「お前は来んのか?」悠人は一瞬言葉に詰まったが、静かに答えた。「……いえ、僕は友人の応援に来ましたので」「そうか」高村教授はそれ以上何も聞かず、京介と共に去っていった。A館に集まった全員の視線が、去りゆく高村教授の背中に釘付けになっている。その中を、二人は平然と、志帆と悠人を置き去りにして出ていったのだ。志帆の顔から血の気が引いていく。悠人もまた、苦渋に満ちた表情で二人の背中を睨みつけていた。京介の奴……ここまでしてあの女に肩入れするのか。悠人の瞳に冷たい怒りが宿る。先生を呼んでまで、江崎詩織という張りぼてに箔をつけようとするとは。京介は分かっていない。実力のない人間に下駄を履かせたところで、高く持ち上げれば持ち上げるほど、落ちた時の傷が深くなるだけだというのに。まるで何かに取り憑かれたようだ。
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第503話

他の奥様方もそれに続き、口々に佳乃を羨んだ。「ねえ、どう育てたらあんなに優秀なお嬢さんになるの?秘訣を教えていただきたいわ」佳乃が「いえいえ、あの子は昔から手のかからない子でしたから」と謙遜していると、誰かが素っ頓狂な声を上げた。「あら、あれは……賀来海雲さんじゃありませんか!?」会場にどよめきが走り、佳乃が視線を向けると、そこには紛れもなく海雲の姿があった。財界の重鎮の登場に、会場は水を打ったように静まり返る。賓客の相手をしていた柊也も、慌てて駆け寄った。「父さん、どうしてここに?」海雲は鋭い眼光で会場を一瞥すると、最後に息子の顔を捉えた。その瞳は冷徹で、親子の情など微塵も感じさせない。まるで赤の他人を見るような目だった。志帆も興奮を必死に抑えながら、しとやかに挨拶をする。「海雲おじ様、ようこそいらっしゃいました……」佳乃を取り巻く奥様連中が、色めき立って囁き交わす。「海雲様がいらしたってことは、志帆さんを認めたってことよね?」「決まってるじゃない!わざわざ足を運ばれたのよ?」「やっぱりねえ。可愛い一人息子には勝てないものよ。親なんて最後は折れるもんですわ」佳乃も内心、彼女たちの言葉に同意し、勝利を確信していた。しかし、海雲が放った第一声は、その場にいる全員の期待を粉々に粉砕した。「……会場を間違えた」それだけを淡々と告げると、彼は杖を突き、踵を返して去って行った。志帆の表情が凍りつく。再び訪れた静寂は、先ほどまでの敬意に満ちたものとは異なり、凍てつくような気まずさを孕んでいた。百戦錬磨の佳乃でさえ、引きつった笑みを浮かべたまま、言葉を失うしかなかった。「てっきり、志帆さんとの仲をお認めになったのかと思ったのに……」誰かの囁きが、静寂を破る。これまで噂でしかなかった海雲の「志帆拒絶説」が、衆人環視の中で証明されてしまったのだ。会場には微妙な空気が流れ、人々の思惑が交錯する。悠人でさえ、この展開には言葉を失っていた。まさかの二度目だ。高村教授に続き、海雲まで「間違えた」と言って去っていくとは。……まさか、賀来海雲までもが江崎詩織の応援に来たというのか?疑念を抱く悠人の耳に、柊也の慰める声が入ってきた。「気にするな。あの人はああいう性格なんだ」志帆は屈辱
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第504話

隣のA館で何が起きているのか、詩織は知る由もなかった。異変に気づいたのは、京介から「高村先生が案内板を見つけられずに困っていた」と聞かされた時だ。確認のために外へ出た詩織は、思わず眉をひそめた。『ココロ』の案内板の真正面に、それを覆い隠すようにして『パース・テック』の巨大な看板が置かれていたのだ。向こうの看板のほうが一回り大きく、明らかに視界を遮るように設置されている。実にえげつない嫌がらせだ。詩織はため息を一つつくと、後から来るゲストが迷わないよう、自社の案内板を五十メートルほど手前へと移動させた。文句を言いに行く気にもならない。これ以上、彼らの悪意に関わりたくなかったからだ。作業を終えて戻ろうとしたその時、制服姿の警察官に呼び止められた。「すみません、パース・テックの新株予約権ロードショーの会場はどちらかご存知ですか?」詩織は一瞬、怪訝な顔をしたが、すぐにA館の方角を指差して教えた。「あちらです」B館への道を戻りながら、詩織の胸に小さな疑問が渦巻く。パース・テックが、警察関係者を招待したの……?まさか、柊也の影響力は警察組織にまで及んでいるというのだろうか。だが、その答えを知る術はない。会場の扉をくぐると、詩織はその疑念を頭の隅へと追いやった。今は余計なことを考えている暇はない。このロードショーは、『ココロ』の上場の成否を握る最重要局面だ。些細なミスも許されない。ステージ上では、パートナーの智也がプレゼンテーションを行っていた。詩織は舞台袖から、祈るような眼差しで彼を見守った。事前のリハーサルを徹底した甲斐があったようだ。当初の硬さは消え、智也は原稿に目を落とすことなく、堂々とした態度で聴衆に語りかけている。複雑な数値データも完全に頭に入っているらしく、その口調は淀みない。よし、いける……!詩織は安堵の息を漏らすと、傍らに控えていたアシスタントの密に声をかけた。「ライブ配信のほうはどう?数字は伸びてる?」しかし、密の反応は芳しくなかった。言葉を濁し、気まずそうに視線を泳がせている。「どうしたの?」詩織の胸がドクリと鳴った。密は言いにくそうに口を開いた。「……うちの視聴者数も悪くはないんです。でも……パース・テックの数字には及びません」これには詩織も首をかしげざるを得なかった。
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第505話

佳乃に背中を強く小突かれ、和代は弾かれたように列から飛び出した。「……は、はい。こ、ここです」震える声で答える和代に、二人の女性警察官が詰め寄る。警察手帳を提示するその表情は、氷のように冷徹だった。「二件の交通事故への関与がお前にあると見て捜査している。署への任意同行を求める。おとなしく従いなさい」和代は瞬時にパニックに陥った。「け、刑事さん、何かの間違いよ!あたしが事故に関わってるだなんて、そんなことあるわけないじゃない!絶対、人違いですって……」「森田和代!公務執行妨害になるぞ!」女性警官が鋭く声を張り上げる。怯える和代を見て、佳乃が割って入った。「和代、ここは素直に従いなさい」佳乃は和代の軽率な性格を熟知している。恐怖のあまり余計なことを口走られてはたまらないと、諭すような口調の裏に強い警告を滲ませた。「ここの片付けが終わったら、すぐに私も向かうから」佳乃は和代の目をじっと見つめ、『余計なことは喋るな』と無言の圧力をかける。その威圧感に気圧されたのか、和代は顔面蒼白のまま、大人しく警察に連行されていった。動画はそこでプツリと切れた。なるほど、確かにこれはテック系ニュースというより『事件速報』だ。詩織はタブレットを置き、首を傾げた。「でも変ね。どうして配信を中断しなかったのかしら?」警察沙汰なんて大スキャンダルだ。企業イメージへのダメージは計り知れない。普通なら即座にカメラを止め、情報の拡散を防ぐはずだ。パース・テックにとって致命的な失態であるにもかかわらず、あの冷静沈着な柊也が、それを垂れ流しにするなんてあり得ない。詩織はもう一度、動画の後半を見直してみた。そこでようやく、違和感の正体に気づく。画面の端に映る柊也は、騒動の間じゅう、ずっと志帆だけを見つめていたのだ。動揺する彼女を落ち着かせることに全神経を注いでいて、配信のことなど頭になかったらしい。うわぁ……詩織は呆れ返った。恋は盲目って言うけど、ここまでくると救いようがないわね。やっぱり色恋沙汰なんて、ろくなもんじゃないわ。隣で密も複雑そうな顔をしている。「事故映像のおかげで、あっちの視聴者数は高止まりしたままですよ。まさかとは思いますが……これも一種の炎上商法なんですかね?」「……」詩織は言葉を失った。身内を生け贄
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第506話

「あれ……あの人たち」悦子が目を丸くする。入ってきたのは、見知った顔の「奥様会」のメンバーや、A館にいたはずの投資家たちだった。応対に向かった密が、早足で戻ってきて詩織に報告する。「パース・テックの来場者たちです。向こうのロードショーが予定より早く終わったとかで、ついでにこっちも覗いてみたいと……席の用意はいらないから勝手に見せてくれと言ってますが」「そういうわけにもいかないわね」詩織は即座に密へ指示を出し、誘導を試みた。だが、いかんせんB館は狭すぎる。雪崩れ込んできた人波であっという間に会場は飽和状態となり、入り口の外にも入りきれない人々が溢れかえってしまった。まさにすし詰め状態。この熱狂ぶりには、さすがの詩織も舌を巻いた。「ど、どうしましょう、詩織さん!こんなの見たことありません……!」密がパニック寸前で助けを求めてくる。だが、詩織の決断は早かった。「ここで押し合いへし合いしても、まともなプレゼンなんて見せられないわ。――場所を変えましょう」詩織はその場でスマートフォンの連絡先をタップし、大学の学長である曲山和宏へコールした。狙いは、大学のグラウンドだ。昨晩、『ココロ』のメイン会場を急遽キャンセルした件で、曲山には詩織への大きな借りがある。その負い目もあってか、今回の曲山は二つ返事で快諾してくれたばかりか、大学スタッフを動員しての全面協力を約束してくれた。一方、パース・テックの面々がA館から出てきた時、目の前に広がっていたのは異様な光景だった。黒山の人だかりが、まるで奔流のように大学のグラウンドへ向かって移動しているのだ。その中には、さっきまで自分たちの会場に座っていた招待客の姿も数多く混じっている。「ちょっと、通してよ!邪魔!」通路を塞いでいたパース・テック一行に対し、苛立った声が飛ぶ。誰かが慌てて通り過ぎようとし、佳乃の肩に激しくぶつかった。「きゃっ!?」よろめく佳乃を、志帆が慌てて抱き止める。「お母さん、大丈夫!?」「ごっ、ごめんなさい!急いでいたもので……」ぶつかった女性が平謝りする。その顔を見て、佳乃は目を剥いた。「……辰巳さん?」それは間違いなく、佳乃がパース・テックのロードショーに招待した来賓の一人、辰巳夫人だった。つい先ほど、彼女は「家で飼っているワンちゃんが行方不明にな
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第507話

変わらぬ柊也の献身的な態度を見て、佳乃のささくれ立った心は幾分か慰められた。柊也くんがいる限り、まだ終わったわけじゃないわ。だが同時に、不気味な疑問も膨らんでいく。なぜ警察は、和代に辿り着いたのだろうか?今はただ、和代が取り調べで余計なことを口走らず、持ちこたえてくれるのを祈るしかなかった。一方、志帆の熱烈な信奉者である悠人は、彼女の窮地を救うべく即座に行動を起こしていた。彼はすぐさま賢の携帯を鳴らし、警察上層部へのコネを使って状況を探れないかと頼み込んだのだ。その頃、賢は地方の視察公務の真っ最中だった。悠人からの電話を受けた彼は、眉間に深い皺を刻み、厳しい口調で友人を諭した。「悠人、忠告しておくが、この件には深入りするな。もし潔白なら警察もすぐに釈放するだろう。だが、もし本当に罪を犯しているのなら――法に従って裁きを受けるのが筋だ」賢の性格は、潔癖なまでに真っ直ぐだ。彼が「ノー」と言えば、これ以上何を言っても無駄だろう。悠人は諦めて通話を切った。……仕方ない、親父に頼むか。悠人は迷った末に、実家の父親・悠玄へ連絡を入れた。神宮寺の家は、かつて政府の中枢に近い「お屋敷街」の出身だ。人脈の広さで言えば、息子の自分よりも遥かに頼りになる。当初、悠玄は警察への干渉を渋っていた。だが、悠人が「捕まった女性は、かつて我が家を救ってくれた恩人の関係者らしい」と吹き込むと、態度は一変した。「――何、あの時の恩人か。分かった、すぐに手を回して状況を確認させよう」父の確約を得て、悠人はようやく胸を撫で下ろした。あとは吉報を待つだけだ。やるべきことを終え、会場を後にしようとした悠人の足が、ふと止まった。グラウンドの方角から、熱を帯びた歓声が聞こえてくる。『ココロ』の即席ロードショーだ。無視して帰ればいいものを、悠人は引き寄せられるようにその場に立ち尽くし、遠巻きに様子を窺った。仮設ステージの上では、智也のスピーチが終わったところだった。だが、聴衆の興奮は冷めるどころか増すばかりで、「『ココロ』の開発秘話をもっと聞きたい」という声が相次いでいる。それに応えるように、智也はスクリーンに古ぼけたスライドを映し出した。それは、彼が一番最初に作ったという企画書のPPTだった。「皆さん、これをご覧になって、どう思われますか
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第508話

『ココロ』のロードショーは、空前の大成功を収めた。智也の実直な創業ストーリーは、多くの投資家の心を揺さぶったようだ。資本市場とは面白いもので、誰もが「物語」を求めている。だがそれ以上に彼らが信じるのは、その物語を語る人間の「熱量」なのだ。詩織はようやく肩の荷を下ろした。まだ完全に閉会したわけではないのに、彼女のスマートフォンは鳴り止まない。画面に表示されるのは、名だたる投資ファンドやベンチャーキャピタルの名前ばかり。中には、すでに『パース・テック』への出資を決めていたはずの面々まで混じっている。まったく、みんな現金なんだから。一人一人への対応を終えた頃には、会場の撤収作業が始まっていた。密が手際よくスタッフに指示を出しているのを横目に、詩織は智也の元へ向かおうとした。ふと、視線の先に見覚えのある背中を見つける。あれは……神宮寺?彼が迷いのない足取りで智也に近づいていく。一体何をするつもりなのだろうか。詩織は怪訝に眉を寄せたが、ちょうどそこへ京介が駆け寄ってきたため、意識をそちらへ向けざるをえなかった。一方、智也は悠人の接近に気づき、礼儀正しく頭を下げた。「神宮寺さん、何かご用でしょうか?」悠人は口ごもった。喉元まで出かかった言葉を飲み込み、また逡巡する。だが、胸中に渦巻く疑念はどうしても晴れない。彼は意を決して口を開いた。「……さっき君がステージで話していたことだが」悠人は探るような目を向ける。「『ココロ』を江崎が発掘したというのは、投資家向けの美談、つまり作り話だろう?」上場前のロードショーだ。株主の関心を引くために、感動的なエピソードをでっち上げる企業は珍しくない。悠人はそう踏んでいた。智也はきょとんとした顔をした。「どうして私が嘘をついていると思われるのですか?」「事実と異なるからだ。このプロジェクトはもともと『エイジア』が扱っていた案件であり、あそこの投資部長は柏木志帆さんだ。本来なら彼女の実績になるはずなのに、江崎が横から掠め取った――そうだろう?」悠人の言葉を聞いた瞬間、智也の温和な顔からすっと表情が消えた。「……神宮寺さんがどこでそのようなデマを吹き込まれたのかは存じませんが」智也の声は低く、明確な不快感を帯びていた。「はっきり申し上げておきます。『ココロ』を見出したのは詩
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第509話

「まだ本人には接見できていません。具体的な容疑内容までは……」「そう、分かったわ……」通話を終えると、佳乃は唇を噛み締めた。悩みに悩んだ末、彼女は決心した。警察署へ行くしかないわ。とにかく和代に会って、メンタルを安定させなければ。少なくとも――余計な秘密を喋らないように釘を刺しておかなければならない。取調室に放り込まれた和代は、極度のパニックに陥っていた。生まれて初めて味わう「警察のお世話」という現実に、思考が追いつかないのだ。夫である長昭が手を回したおかげで、佳乃はどうにか面会を取り付けることができた。ガラス越しに佳乃の姿を認めるなり、和代は救世主にすがるような目で身を乗り出した。「佳乃さん!お願い、ここから出して!あたし、何もしてないわよ!」「落ち着いて、和代さん」佳乃は声を潜め、周囲を警戒しながら諭す。「今は状況が悪いの。少しの間、ここで我慢してもらうしかないわ。ほとぼりが冷めたら、必ず出してあげるから」和代の顔から血の気が引いた。「……刑務所に入れられるの?あたし、前科持ちになるの?」「ならないわよ。私を信じて」佳乃は和代の目をじっと見つめ、強い眼力で言い聞かせた。「ただし、条件があるわ。――絶対に罪を認めては駄目よ。もし自白したら、私にもどうすることもできなくなる」恐怖で思考停止状態の和代にとって、佳乃の言葉は唯一の蜘蛛の糸だ。佳乃ならどうにかしてくれる、そう信じて頷くしかなかった。「わかった……約束するわ」警察署を出るなり、佳乃は即座に裏の実行犯へ連絡を入れた。「一体どういうことなの!?足がつかないようにやるんじゃなかったの?こっちの身内まで連行されたんだけど!」受話器の向こうの男も、苛立ちを隠せない様子だった。「俺らだって寝耳に水ですよ。実行犯のガキが急にゲロしやがったんです。そいつとのパイプ役が和代さんだったから、警察が芋づる式に……」「言い訳はいいわ!これからどうするつもり?」「……こうなったら打つ手は二つです。力技で揉み消すか、それが無理なら――被害者に泣きつくしかない」つまり、示談だ。被害者側の許しを得て、あくまで「不幸な事故」として処理してもらう以外に、追及を逃れる道はない。相手がただの一般人なら、金で頬を叩いて解決できただろう。だが、今回の被害者は――江
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第510話

「えっ、もう帰っちゃうの?」志帆の声には明らかな驚きが混じっていた。「ああ、実家で急用ができてね」それが建前だと気づいたかどうか。志帆は落胆しつつも、努めて明るく振る舞った。「そっか……残念。じゃあ、今度北里でロードショーをする時に埋め合わせさせて」その提案に対し、悠人は肯定も否定もしなかった。ただ無言で通話を切った。志帆はその沈黙の意味を深く考えなかった。悠人が自分にどれほど心酔しているか、誰よりも知っていたからだ。気を取り直し、彼女は他の招待客への連絡を続けた。だが、現実は冷酷だった。以前なら、柊也の顔を立てて媚びへつらってきた連中が、潮が引くように態度を変えている。「急用が入った」「体調が優れない」と白々しい嘘で断る者、電話すら出ない者。それだけならまだしも、この機に乗じて出資の引き上げを切り出してくる輩までいる始末だ。「……っ、もういいわ!」数件かけただけで、志帆はスマホをデスクに叩きつけた。どいつもこいつも、風見鶏みたいに態度を変えて……!当初は向こうから「提携させてくれ」と擦り寄ってきたくせに。柊也が迎えに来た時、志帆の顔色は最悪だった。見かねた佳乃が、そっと娘の耳元で囁く。「表情に気をつけなさい。感情的になる女は男に嫌われるわ」特に、財閥という特別な世界においては致命的だ。求められるのは、どんな逆境でも眉ひとつ動かさない、鉄の精神を持った当主の妻なのだから。志帆はどうにか感情を押し殺し、貼り付けたような笑顔を作って柊也の車へと乗り込んだ。会場となるホテルへ向かう車中、志帆は自分に言い聞かせていた。多少のキャンセルはあるかもしれないけど、大丈夫。最低限の面目は保てるはず……だが、現実は残酷だった。煌びやかな宴会場の扉を開けた瞬間、そこに広がっていたのは――身も凍るような閑散とした空間だった。見渡す限り、いるのは社員や身内の人間ばかり。肝心の提携企業や投資家たちの姿は、驚くべきことに一人として見当たらない。これにはさすがの志帆も、仮面が剥がれ落ちそうになった。まさか、絶対的な権力を持つはずの柊也の威光すら通用しないなんて。高らかに「全十卓・満員御礼」と宣伝していたにもかかわらず、埋まっているのはたったの三卓。それも身内だけで埋めたお寒い状況だ。給
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