All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 481 - Chapter 490

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第481話

彼女の足が、思わず凍り付く。数歩先を歩いていた柊也が、志帆がついて来ないことに気づき、不思議そうに振り返った。「どうした?」「……ううん、何でもないわ」志帆は慌てて視線を逸らし、平静を装ったが、その表情は明らかに曇っていた。見間違えるはずがない。あれは京介と詩織だった。あの二人の姿を見るたびに、先日、江ノ本大学で京介に言われた言葉が呪いのように蘇る。京介が七年間も想い続けてきた相手は、他ならぬ江崎詩織だったという事実――それが、志帆のプライドを酷く傷つけ、胸の奥で燻り続けているのだ。個室に入ると、譲は既に到着しており、太一の悪友たちも数名集まって騒いでいた。志帆は室内をぐるりと見渡した後、太一に尋ねた。「京介は?まだ来てないの?」「ああ、ちょっと野暮用があるらしくて、遅れるってよ」と、太一が答える。志帆は心の底で冷たく笑った。何が野暮用よ。要するに、あの女と一緒にいるってことじゃない。京介の「遅れる」という言葉通り、パーティーが始まって一時間が経過しても、彼は姿を現さなかった。居ても立ってもいられなくなった志帆は、適当な理由をつけて部屋を出ると、VIPエリアの廊下をうろつくふりをして様子を窺った。予感は的中した。ある個室の隙間から、京介の姿が見えたのだ。その隣には、当然のように詩織が座っていた。二人は満面の笑みを浮かべ、向かいに座る人物と談笑している。会話の最中も、京介はずっと詩織の方に体を向け、甲斐甲斐しく料理を取り分けたり、海老の殻を剥いてあげたりしている。その仕草は、どこまでも優しく、慈愛に満ちていた。その光景が、志帆の網膜を焼き尽くすほど眩しく、同時に鋭い棘となって心臓に突き刺さる。胸の奥から湧き上がる不快感が、胃をじりじりと焼いた。その時、ウェイターが料理を運び込むためにドアを大きく開け、志帆は二人の対面に座る人物の顔をはっきりと目撃した。――高村静行だ!数日前の会食では、終始仏頂面で口もきかなかったあの厳格な教授が、今は別人のように相好を崩し、楽しげに笑っているではないか。志帆の眉間に深い皺が刻まれる。京介ったら……まさか江崎詩織に、高村教授のような超VIPな人脈を紹介しているの!?江崎ごときの学歴とスペックで、高村静行のような雲の上の存在
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第482話

「詩織」振り返った彼女を、京介は真剣な眼差しで見つめた。「『ココロ』が無事に上場したら……二人でゆっくり食事でもしないか。ちゃんとした店で」それは、彼なりの決意を秘めた誘いだった。その時こそが良いタイミングだろう、と。詩織は少し思案してから、小さく頷いた。「ええ、いいわよ」その答えを聞いた瞬間、京介の表情が花が咲いたように明るくなった。「よし、決まりだ!約束だぞ、絶対にだ!」京介を見送った後、詩織はシャワーを浴びて一息ついた。ここ二日間の奔走がようやく実を結び、張り詰めていた糸が少しだけ緩んだようだ。密から「今夜は激しい雷雨になる予報ですので、戸締りを厳重にしてください」というメッセージが届いた。詩織はパソコンを閉じ、窓の方へと歩み寄った。外はすでに風が強まり始めている。詩織の住まいは、七階建てマンションの最上階にあるメゾネットだ。窓から下を見下ろすと、街路樹の梢が強風に煽られ、狂ったように揺れているのが見えた。その中の一本の木の下に、黒いセダンが停まっているのが目に入った。こんな嵐の夜に、木の下へ車を停めるなんて随分と命知らずな人もいたものだ。詩織は特に気にも留めず、カーテンを引くと、そのまま寝室へと向かった。……永安監査法人がパース・テックとの契約を発表した当日、まるでタイミングを合わせたかのように、詩織と『瑞成監査法人』との業務提携が公表された。この業界に、「秘密」という言葉は存在しない。情報は瞬く間に駆け巡り、すぐに志帆の耳にも届いた。その時、志帆は母の佳乃と共にエステサロンにいた。スマートフォンの通知を見た瞬間、志帆は美容ベッドから勢いよく上半身を起こし、画面を食い入るように見つめた。その顔には、信じられないという驚愕の色が浮かんでいた。「嘘……どうして?」彼女がこれほどまでに取り乱すのも無理はない。詩織が手を組んだ『瑞成』は、業界内でも別格の存在感を放つトップクラスの監査法人だ。志帆が奪い取った『永安』など足元にも及ばない、まさに雲の上の存在。さすがの志帆でさえ、コネを作ることを諦めていた相手を、あろうことか詩織が味方につけたのだ。志帆がその衝撃的な事実を告げると、隣にいた佳乃もまた、驚きを隠せない様子だった。「あの子にそんな伝手があったなんて……一体
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第483話

詩織は「いいですよ」と約束しつつも、苦笑交じりに忠告した。「お教えするのは構いませんが、覚悟しておいてくださいね。あれは膨大なデータを学習した化け物です。推論能力も先読みの力も人間を遥かに凌駕していて、勝つのはほぼ不可能ですよ」二人の話題は、いつしか囲碁の盤面から人工知能の未来へと広がっていった。詩織の見解を聞き終えた高村教授は、満足げに頷いた。「なるほどな。お前があの時、『ココロ』というプロジェクトにいち早く目を付けたのも頷ける。ビジネスにおける先見の明というやつだ」詩織は内心で苦笑した。それは単に、AIの学習プロセスと同じだ。莫大なデータを読み込ませれば精度が上がるように、彼女もまた、『エイジア』時代に数えきれないほどのプロジェクトに関わり、経験値を積み上げてきたに過ぎない。あの激務の日々も、決して無駄ではなかったということか。高村教授の屋敷を出た直後、詩織のスマートフォンが振動した。柊也からの着信だった。詩織は画面を一瞥し、無視することに決めた。だが、柊也はそれを見透かしていたかのように、呼び出し音が切れる前に通話を切り、すぐさまメッセージを送りつけてきた。【エイジア・ハイテックのリソースと販路、欲しくないのか?】詩織は即座にかけ直した。ワンコールもしないうちに繋がった電話の向こうから、どこか楽しげな、それでいて不気味なほど甘い声が聞こえてきた。「……やっと構ってくれる気になったか?」「どこにいるの?」詩織は前置きを一切省き、用件のみを問いただした。「『東方庭園』だ」場所を聞き出すや否や、詩織は無駄口を一つも叩かず、一方的に通話を切った。三十分後、詩織は高級料亭『東方庭園』に到着した。今回の会食を取り仕切っているのは柊也だ。席に集まっているのは、彼の子会社である『エイジア・ハイテック』の提携先である重鎮たちばかりだった。個室に足を踏み入れると、すでに酒宴は盛り上がりを見せている。柊也は入り口に背を向けて座っており、詩織が来たことにすぐには気づかなかった。代わりに、柊也の正面に座っていた男が詩織の姿を認め、パッと目を輝かせた。男はすぐにニヤリと笑い、柊也を茶化すように声を上げる。「おや、賀来社長。噂の『彼女』のお出ましですかな?」隣にいた別の男も、値踏みするように詩織を見やりながら同
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第484話

振り返る必要さえなかった。その香りと体温だけで、詩織には相手が誰だか痛いほど分かってしまったからだ。けれどそれは、忘れてしまいたいほど遠い記憶の中の感覚でもあった。竹の衝立の向こうでは、まだ二人が話し込んでおり、その内容は聞けば聞くほど際どいものになっていった。「どうだ、俺と組んで正解だっただろう」森田壮翼(もりた そうすけ)が得意げに嘯いた。「ええ、さすが森田さんだ。今後ともよしなに頼みますよ」「ああ。だが、取り分の比率だがな……もう少し色をつけてどうだ?」相手の男は、それを聞くや否や焦りの色を滲ませた。「勘弁してくださいよ。今お渡ししているバックマージンだってギリギリなんです。これ以上は私の儲けがなくなってしまう」しかし、壮翼は鼻で笑って取り合わない。「分かるだろ?俺にはいくらでも選択肢があるが、お前には俺しかいないんだ」しばしの沈黙の後、男は悔しそうに折れた。「……分かりました、五分五分でどうです!これが私に出せる限界だ」「よし、商談成立だな」壮翼は満足げに頷いた。二人の足音が遠ざかり、完全に気配が消えたのを確認するや否や、詩織は柊也の手を乱暴に振り払った。そのまま数歩後ずさり、明確な拒絶の距離を取る。あまりに素早い引き際だったせいか、柊也は一瞬、虚を突かれたような顔をした。彫りの深い眉骨が作る陰影が、その瞳の奥にある感情を隠している。対照的に、薄暗がりの中に立つ詩織の瞳には、隠しきれない冷淡な色が浮かんでいた。「……あんな寄生虫のような真似を、野放しにするつもり?」詩織は感情を押し殺した声で問い詰めた。外部の人間である真田源治ですら気づくような問題を、当事者の柊也が見落とすはずがない。いや、知っていてあえて放置しているのだ。詩織にはそれが理解できなかった。かつての彼は、もっと潔癖で完璧主義だったはずだ。瑕疵など決して許さなかった男が、今はこれほどの腐敗を容認している。柏木志帆のためなら、自分の原則すら曲げるというのか。しかし、柊也は気にした様子もなく、悠然と肩をすくめた。「なんといっても身内だからな。多少の顔は立ててやらないと」呆れた。さっきの森田が言っていた通りだ。『俺の従妹は賀来社長の婚約者だ。奴はあの娘にぞっこんだから、文句なんて言えやしない』あの言葉は
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第485話

それに、今の「送ろうか」という言葉も、本心からの申し出ではないだろう。単なる社交辞令、習慣として口をついて出ただけの気遣いだ。真に受けてはいけない。案の定、柊也はそれ以上食い下がることなく、ポケットからスマホを取り出して画面に目を落とした。詩織が背を向けたその時、背後からスマホのスピーカー通話の音声が響いた。志帆からのボイスメッセージだろう。彼はそれを躊躇なく再生したらしい。【柊也くん、まだ終わらないの?】甘ったるい声が夜気に溶ける。柊也はそれに対し、先ほどまでの冷淡さが嘘のような、柔らかい声音で吹き込み返した。「ああ、終わったよ。すぐそっちへ向かう」相変わらず、見せつけられるほど仲睦まじいことだ。詩織と柊也が相次いで去った直後、料亭の奥から森田壮翼が姿を現した。彼は即座にスマートフォンを取り出し、志帆へメッセージを送る。【志帆ちゃん、さっき賀来社長と江崎詩織が一緒にいるのを見たぞ。あの二人、もしかしてヨリ戻したりしてないよな?】壮翼は以前『エイジア・ハイテック』社内で詩織を見かけたことがあり、母・和代からも「あの女と社長は昔付き合っていた」と聞かされていた。だからこそ、二人が一緒にいるのを目撃して咄嗟に警戒したのだ。焼け木杭に火がついたのではないかと。すぐに志帆から返信が届いた。【考えすぎよ。ただの仕事の付き合いだって、柊也くんからも聞いてるわ】【それならいいんだ。一応報告しておこうと思ってな】壮翼は胸をなでおろした。すると、志帆から続けてメッセージが来る。【それより、うちの『パース・テック』も上場準備で忙しいの。エイジアのほう、ちゃんと見ておいてよね】【任せとけって!お前の頼みとあっちゃあ断れないさ】壮翼は威勢よく請け負った。柊也が『パース・テック』のオフィスに到着した時、志帆はまだ残業中だった。「ちょっと待ってて、あと少しで書類整理が終わるから」パソコン画面から目を離さずに、入ってきた柊也へ声をかける。「ああ、ゆっくりでいい」柊也は手近な机の上に置かれていた参考書を手に取り、パラパラとめくった。「本気で大学院を受けるつもりか?」彼が尋ねると、志帆は自信満々に頷いた。「もちろん。高村教授は金融界の重鎮よ。あの人のゼミに入れば、将来間違いなくプラスになるわ」彼女が狙っているのは、単なる
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第486話

詩織は手元の茶器から顔を上げ、二人を直視した。確か……賀来家は高村先生にひとつ、大きな『恩』を売っていたはず。柊也はその恩を利用して、この女のためにレッドカーペットを敷こうというのか。どこまでも献身的なことだ。教授の方も、柊也の意図を察したらしい。だが、彼は忖度などしなかった。「つまり、賀来社長。私に『裏口入学』を認めろと仰るのですかな?」そのあまりに直球な物言いに、志帆の顔色が変わる。まさかこれほどハッキリ言われるとは思わなかったのだろう。彼女は慌てて取り繕った。「ち、違います先生、誤解なさらないでください!柊也くんが言いたかったのは、私は海外で既にWTビジネススクールの博士号を取得しておりますので……その、煩雑な手続きを少し省略できないか、という意味でして……」志帆の言葉に、高村教授はさらに首を傾げた。「柏木さんはすでに博士号をお持ちでしょう。なぜ今さら、私のゼミのような箔もつかない場所へ?」「ご謙遜を。私はずっと海外の金融モデルを学んでまいりましたが、国内の経済システムには疎く、帰国してから苦労の連続でして……一から学び直したいのです。学問に終わりはありませんから、ぜひチャンスを頂けませんか」志帆の態度は殊勝そのもので、本当に向学心に燃えているように見えた。その熱意に、高村教授の態度も少し和らいだようだ。「学ぶ意欲があるのは結構。だが、入るからには実力がすべてだぞ」ここまで言われては、志帆も引くわけにはいかない。「もちろんです。実力で証明してみせます」詩織は片眉を少し上げただけで、無言のままそのやり取りを聞いていた。すると、その手元に、京介が綺麗に皮を剥いた栗を差し出してきた。受け取ろうとした瞬間、視界の隅で柊也がこちらを見ているのに気づいた。だが、彼はすぐに興味なさげに視線を外し、再び志帆へと向き直った。志帆もまた、甘く濡れたような瞳で柊也を見つめ返す。その視線の絡み合いは、見ている方が気恥ずかしくなるほどの熱を帯びていた。「柊也くんは私が無理をするんじゃないかと心配して、あんなことを言っただけなんです。愛ゆえの過保護ということで──先生、どうか大目に見てやってください」その時、詩織が栗を一口かじり、ぽつりと漏らした。「……甘いわね」その一言に、柊也と志帆を含めた全員の視線が集ま
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第487話

詩織は反論しなかった。最近、煎じ薬を飲み続けているせいか、老教授は少々気が立っているらしく、言葉の端々に棘がある。……カルシウム不足かしら。隣で志帆が吹き出しそうになるのが見えた。恥をかかされたというのに、詩織は涼しい顔をしている。その神経の図太さには、志帆も軽蔑を通り越して感心するほどだ。詩織はバッグを持ち直すと、最後に言い添えた。「お手元の薬、もうなくなりそうでしょう?明日またお届けしますね」「さっさと行け!」高村教授の顔が一瞬で歪んだ。さっきまでの高尚な議論が台無しだ。せっかく機嫌良く話していたのに、なんであの泥臭い薬の話をするんだ!まったく、興を削ぐのが得意な娘だ。詩織に対する高村教授の邪険な態度を見て、志帆は口元を歪めた。瞳の奥には嘲笑の色が濃く浮かんでいる。やっぱり、またそうやって安っぽい機嫌取りをしているのね。だが残念ながら、高村教授のような高潔な人物に、そんな小細工は通用しない。見え透いた媚びなど逆効果だということに、いつ気づくのやら。詩織は志帆の侮蔑的な視線など意に介さず、二人を一瞥することもなしに部屋を出て行った。京介も彼女を見送りに出て行き、しばらく戻ってこなかった。すると、柊也がやおら立ち上がり、高村教授に別れを告げた。「先生、本日はこれで失礼いたします」志帆は目を丸くした。せっかく掴んだチャンスなのだから、もう少し教授と話をして自分を売り込みたかったのに。だが、柊也が帰ると言った以上、自分だけ残るわけにはいかない。彼女も渋々立ち上がり、頭を下げた。屋敷を出ると、庭先で京介が電話をしているのが見えた。二人が出てくるのに気づくと、京介は通話を続けたまま、軽く会釈をして見送った。高村邸の門を出たところで、志帆は柊也の横顔を覗き込んだ。「ねえ、京介と江崎さんって……付き合ってるのかな?」柊也の足が一瞬止まったが、すぐに何事もなかったかのように歩き出し、淡々と答えた。「さあな。知らん」そのそっけない態度は、詩織のことなど眼中にないという証拠に思えた。彼女が誰と付き合おうが興味もないし、知ろうともしない。志帆はその無関心さに、心の底から安堵した。ただ……一つだけ胸に引っかかるのは、京介の想い人がよりにもよって詩織だということだ。彼は名門の御曹司だ。選ぼうと思えばどん
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第488話

あの時、密は彼を大絶賛していた。「ボクシング経験者で腕っぷしは強いし、元プロレーサーだから運転技術も超一流。おまけに酒量もテスト済みです!いざという時は宴会の代役も任せられますよ!」とにかく万能な人材だと太鼓判を押していた。その言葉は大げさではなかったようだ。密の先見の明と、湊の卓越したスキルが、今日、本当に詩織の命を救ったのだ。病院での検査結果は異状なしだった。付き添いの密もそれを聞いてほっと胸を撫で下ろした。しばらくすると、事情聴取を終えた湊がタクシーで駆けつけた。「どうだった?」詩織が尋ねると、湊は険しい表情で報告した。「警察署で事故当時の防犯カメラ映像を何度も確認しました。……間違いありません。あのトラックは、明らかに故意にこちらの車を狙っていました」「えっ……」詩織の心臓が早鐘を打つ。「誰かが、私を殺そうとしたってこと?」湊は無言で、だが力強く頷いた。詩織は息を飲み、背筋に冷たいものが走るのを感じた。しばらく言葉が出てこない。「警察の見解は?」「現在捜査中です。遠からず結果が出るはずです」「……分かったわ。これからはもっと警戒しましょう」詩織は自分に言い聞かせるように頷いた。正面からの攻撃なら対処しようもあるが、闇討ちは防ぎようがない。見えざる敵の存在に、言い知れぬ不安が募った。一方その頃、和代が慌ただしい様子で志帆の実家を訪れていた。リビングには長昭もいたため、和代はあくまで世間話をしに来たふりをして言葉を濁した。だが、その顔色は明らかに動揺している。何かあったと察した佳乃は、「ちょっと、来週のパーティーのドレス選びを手伝って」と口実を作って、和代を自室へと連れ出した。部屋に入るなり、佳乃は素早く鍵をかけ、声を潜めて問いただした。「どうだったの?やったの?」和代は青ざめた顔で首を横に振った。「ダメだったわ」「なんですって?」佳乃は目を見開いた。「あの女、悪運が強いのよ!あろうことか、私たちが雇った運転手のほうが死んでしまったわ」予期せぬ失敗に、和代はパニック状態でここへ駆け込んできたのだ。詩織が無事だったと聞き、佳乃は悔しさに唇を噛んだ。だが、失敗は失敗だ。今さら地団駄を踏んだところで結果は変わらない。「ねえ、警察の捜査で私たちまで辿り着かれた
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第489話

悠人の眼差しが冷徹に凍りつく。彼は露骨に体を反対側へ逸らし、詩織との間に明確な距離を作った。生理的な嫌悪感を隠そうともしない態度だが、講義に集中の詩織は気にも留めない。まもなく講義が始まった。詩織は真剣な眼差しで登壇者を見つめ、熱心にノートを取り始めた。悠人は鼻白んだ。……どうせ理解できていないくせに。 ここは大講堂だから罵倒こそしないが、内心では毒づかずにはいられなかった。こんな高度な講義の内容が、お前に分かるはずがない。ノートに何を書いているのやら。どうせ、自分は勉強熱心だとアピールしたいだけだ。「高村教授の講義を受けたことがある」と吹聴して、自分に箔をつけるための猿芝居に過ぎない。ビジネス女が使いそうな手口だ。詩織はそんな悠人の心中など知る由もなく、一心不乱にペンを走らせていた。講義が終わりに近づき、助手がまとめの解説を始める頃、京介が会場に現れた。すでに退席した学生もおり、ちょうど詩織の隣の席──悠人が座っていた場所──が空いていた。詩織は集中しきっていたため、隣人が入れ替わったことにも気づかない。最後の一行を書き終え、ペンを置いたところで、ようやく京介が声をかけた。「どうやら、収穫はあったようだな」「えっ……先輩?どうしてここに?」詩織は驚いて顔を上げた。「お前なら来ていると思ったんだ。仕事が終わったから顔を出してみた」京介は優しく微笑んだ。「どうだ?内容は難しくなかったか?先生のゼミに入るのは、並大抵の勉強じゃ受からないぞ」「分かってる。でも約束した以上、何としてでも合格してみせるわ」「ああ、お前ならできると信じてるよ」京介は力強く励ましてくれた。悠人と京介は、同じ高村門下の兄弟弟子という関係にあるが、そこにはだいぶ時期のズレがあった。悠人が入門した頃、京介はすでに海外留学に出ていたため、二人の接点は極めて少ない。加えて、京介が志帆の元恋人であるという事実が、悠人にとって彼を苦手に思う要因になっていた。普段なら軽く会釈くらいはするのだが、今日は京介が詩織と親しげに話しているのを見て、悠人は挨拶すら省くことにした。彼は踵を返し、最前列にいる志帆のもとへ向かった。志帆のノートもまた、数ページにわたりびっしりと文字で埋め尽くされている。「あれ、悠人くん?どうしてここに?
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第490話

その疑問の答えは、彼と志帆が階段教室を出た瞬間に得られた。午後の日差しはまだ強く照りつけている。京介は自然と車道側に立ち、自分の体で日差しを遮るようにして詩織を庇っていた。歩いている間も、彼の視線はずっと詩織に注がれている。その眼差しはあまりに真っ直ぐで、隠そうともしない好意に満ちていた。この光景を前に、志帆の表情から温度が消え失せた。彼女はじっと二人を見つめ、深く息を吸って感情を整える。数秒後には、瞳の底にあった冷たい光は跡形もなく消え去っていた。悠人もまた、同じものを見ていた。彼も男だ。惚れた女を見る男の目がどんなものかくらいは分かる。……マジかよ。驚きと共に、眉間に皺が寄るのを止められなかった。まさかあの宇田川京介が、ここまで恋愛ボケしていたとは。だからあんな媚びを売るような女に騙され、コネを作ってやろうと躍起になっているのか。だが、いくらお膳立てしたところで、肝心の江崎詩織に実力がなければ何の意味もないというのに。詩織と京介が校門を出ると、そこには柊也の姿があった。おそらく志帆を迎えに来たのだろう。並んで歩いてくる二人を見て、柊也の瞳が一瞬だけ止まった。しかし詩織は彼に目もくれず、存在すら無視して隣の京介に話しかけた。「先輩、今日は車?それとも誰かの送迎?」京介は一瞬の間を置いて答えた。「送ってもらって来た」詩織は疑いもせず頷いた。「じゃあ、送るわ。乗っていって」「ああ、助かるよ」京介はこの言葉を待っていたのだ。本当は自分で運転して来ていたのだが、少しでも詩織と一緒にいたくて嘘をついた。もっとも、車に乗り込んでみると運転席には湊がいた。二人きりというわけにはいかなかったが、それでも京介にとっては十分な収穫だった。車に乗り込んだ京介は、ふと顔を上げてプライバシーガラス越しに外を見た。そこにいる柊也はすでに二人への興味を失った様子で、迎えに来た志帆の方へ歩み寄っていた。京介は視線を戻し、隣に座る詩織を見た。彼女はスマホを取り出し、溜まっていた仕事の通知を処理することに集中している。窓の外にいた元カレのことなど、まるで気にかけていない様子だ。その横顔を見て、京介の心の奥にあった重りがふっと軽くなった。誰も知らないだろう。彼がどれほど長く、この時を待ち
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