七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した のすべてのチャプター: チャプター 511 - チャプター 520

719 チャプター

第511話

『パース・テック』の祝賀会は、昼間のロードショー同様、なんとも締まりのない幕切れとなった。志帆は終始、張り付いた笑顔の下で屈辱に耐え続けた。ようやくお開きになり、一息ついたところで、太一がまだ顔を見せていないことに気づく。彼女はすがるような思いで電話をかけた。数コールの後、ようやく繋がった太一の声は歯切れが悪かった。「あー……ワリィ、志帆ちゃん。急用ができちまってさ、そっち行けそうにないや」その言葉に、志帆の胸に冷たい風が吹き抜けた。私が今、どれほど心細い思いをしているか分かっているはずなのに。誰か一人でもいい、味方が欲しかったのに、誰も来てくれないなんて。志帆は二秒ほど沈黙し、渇いた喉で答えた。「……そう、分かったわ。お仕事頑張ってね」「あ、いや、その……」太一が何か言いかけたが、志帆は聞く気になれず、一方的に通話を切った。深く深呼吸をして、崩れそうな表情筋を無理やり正す。スマホをしまおうとしたその時、投資家たちのグループチャットに新着通知が届いた。誰かがアップロードした画像と動画――それは『ココロ』の祝賀会の様子だった。画面の中で、詩織は輝いていた。多くの人々に囲まれ、誰もが彼女を称賛し、言葉を交わしたがっている。詩織は財界の重鎮たちと優雅にグラスを掲げ、自信に満ちた笑顔を咲かせていた。その光景の中に、志帆の見知った顔がいくつもあった。私がどれだけ努力しても認めてくれなかった柊也の父、賀来海雲。彼は詩織を娘のように目を細めて見守っている。私がコネを作ろうと必死だった権威、高村静行。彼は詩織の肩をポンと叩き、親指を立ててその健闘を讃えていた。そして――私が六年かけても手に入らなかった男、京介。彼は詩織のかたわらに寄り添い、彼女に勧められた酒をさりげなく引き受けている。その眼差しは、慈愛と温もりに満ちていた。他にも、名だたる大企業の社長たちが、隠そうともしない好意と敬意を詩織に向けている。……噓でしょ?動画の端に、譲とその母親の姿が映り込んだ。譲の視線は詩織を追い続けており、そこには明確な好意が滲んでいる。そして極めつけは――ついさっき「急用で行けない」と言ったはずの太一までもが、その会場にいるではないか!何もかも……何もかもが、そこにある。詩織は間違いなく、今宵の主役に
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第512話

「前の花火事件だって相当だと思ったけど、上には上がいるわね。絶対、呪われてるわよあの子!」「ここまでくると、逆に同情しちゃうレベルだわ」詩織も、さすがに志帆のツキのなさには呆れるしかなかった。「ペーパーカンパニーを使って上場するって聞いた時は、柏木志帆がここから一気に挽回して、私たちを追い抜いていくかもって……一瞬だけ思ったんだけどね」ミキが「ハッ」と鼻で笑う。「追い抜くどころか、あの子がやってるのはただの犯罪でしょうが!」「ふふ、もう、せっかくの佳き日に彼女の話なんてやめましょ。それより、まだお祝いの言葉をもらってないわよ」詩織はもう、志帆のことなどどうでもよかった。結局のところ、自分の行いは自分に返ってくる。ただそれだけのことだ。情けをかければ情けが返り、悪意を撒けば悪意が返る。因果応報は、確かに存在するのだと信じている。ミキも即座に「そうね!名前出しただけで運気が下がりそうだわ」と同調し、受話器の向こうで「シッシッ」と厄介なハエでも追い払うような素振りを見せた。ゲス帆の不運が、伝染らないように追い払ったのだ。「あの子がアンタを妬んでるなら、アンタはもっと幸せを見せつければいいのよ!」「でお祝いの言葉だけど……今のアンタ、お金はあるし自由だし、正直何も不足ないじゃない?だから私からは、この言葉を贈るわ。『これからは男に泣かされるんじゃなくて、男を泣かせる側になりなさい』ってね」詩織はその言葉に思わず笑みをこぼした。声には、満ち足りた響きが宿る。「ふふ、ありがとう。それじゃあ、お互いに『男を翻弄するいい女』を目指しましょ」……翌朝、詩織が出社して間もなく、警察から署への同行を求められた。そこで明かされたのは、先日の交通事故に関する新たな事実だった。重要参考人として捜査線上に浮上したのは、なんと森田和代――志帆の親族だったのだ。「被疑者は黙秘を続けておりまして、証拠固めにはまだ少し時間がかかりそうです。まずは被害者である江崎さんのご意向をお伺いしたいのですが……」つまり、示談にするか、徹底的に争うか、という問いだ。詩織の答えは決まっていた。「徹底的に、追及してください」迷いのない声だった。和代個人に深い恨みがあるわけではない。彼女は単に、誰かの身代わりとして差し出された『トカゲの尻尾
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第513話

母を安心させるためにそう言ったものの、志帆自身の心の内は不安で埋め尽くされていた。ここ数日、柊也は新たな出資者を探すために江ノ本市を離れている。相当多忙なのだろう、電話をかけても繋がらないことがほとんどだ。メッセージの返信はあるにはあるが、決まって志帆が眠っている深夜や早朝の時間帯。起きてすぐに返事をしても、それっきり音沙汰がなくなる。江ノ本市に取り残された彼女は、撤退をちらつかせる投資家たちの対応に一人で追われ、神経をすり減らしていた。その夜、ベッドに入る前、志帆は祈るような気持ちで再び柊也の番号をコールした。呼び出し音だけが、虚しく響き続ける。また留守電か――そう諦めかけたその時、ふっと通話がつながった。「もしもし、柊也くん?お仕事終わったの?」志帆の声が弾む。受話器から聞こえてきた柊也の声には、隠しきれない疲労の色が滲んでした。それでも、その低い響きには相変わらず人を惹きつける磁力がある。「ああ、大体な。明日にはそっちに戻る。……留守の間、大変だったな」「それって……新しい出資者が見つかったってこと?」志帆は思わず携帯を握りしめた。「ああ。見つかったよ。北里市でのロードショーの時に紹介する」その言葉を聞いた瞬間、志帆の胸に安堵が広がった。まるで大地に足がついたかのような感覚。ここ数日の焦燥と混乱が嘘のように消え去り、自信が戻ってくるのを感じた。「よかった……!明日は迎えに行くわね」志帆は声を弾ませて言った。「ああ、頼む」そう短く答える彼に、もう少し甘えたかった。ねぎらいの言葉をかけたり、愛おしさを囁いたりして、心を通わせたい。男というのは、疲れている時にこそ優しく癒やし、あるいは甘いご褒美をちらつかせるべきだ。そうしてこそ、女のために戦おうという気概を持つのだから。だが、志帆が次の言葉を紡ぐより早く、通話はぷつりと切れた。ツー、ツー、と無機質な音が響く中、志帆は呆然と画面を見つめた。胸の奥に、得体の知れない喪失感が広がる。彼の方から先に電話を切るなんて、これが初めてだったからだ。けれどすぐに、志帆は首を振ってその不安を打ち消した。私ったら、何を気にしているのかしら。彼は私のために、パース・テックのために、身を粉にして働いてくれているのだ。それなのに、こんな些
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第514話

声をかけてきたのは、向井文武だった。しかし、詩織の反応は拍子抜けするほど淡々としていた。これには、さすがの向井も驚きを隠せない。「驚かれないんですか?」相手はあの、北里市の『千和キャピタル』だというのに。「驚くようなことでしょうか?」詩織は涼しい顔で微笑んだ。「彼が自分の婚約者を、見捨てるはずがありませんから」その言葉には、ぐうの音も出ない説得力があった。向井は苦笑するしかない。「……確かに、高温超伝導自体は有望なプロジェクトです。ビジネスモデルに難があっただけですから、千和が入ればパース・テックも息を吹き返すでしょう」「『森空』社の町田部長も出資引き上げを検討していましたが、その噂を聞きつけて態度を保留にしたとか」「ふふ、さすがは『風見鶏の町田』と呼ばれるだけのことはありますね」詩織は可笑しそうに笑った。二、三言の社交辞令を交わして向井と別れると、詩織はようやくミキの方を向いた。「お待たせ。ご飯に行きましょう」ミキは俯いてスマホを操作していたが、詩織の声に生返事をすると、素早い指さきでメッセージを送信した。【パース・テックとの提携は禁止!絶対だからね!】送信先は、さきほど話題に上がっていた『千和キャピタル』の代表、由木。ミキの婚約者であり、彼女のスマホには『駄犬(ポチ)』という名で登録されている人物だ。彼からは即座に、意味が分からないといった様子で『?』マークだけが返ってきた。詩織は、運転席の湊に行き先を告げた。「湊くん、悪いけど少し遠回りして。病院で高村先生を拾ってから、『蓮月』へ向かってちょうだい」病院の前で合流した高村教授は、車に乗り込むなり「大学院受験の役に立つはずだ」と、詩織に分厚い資料を手渡してくれた。そうして一行が店に到着すると、マネージャーが申し訳なさそうに出迎えた。なんと、詩織が予約していた席が手違いで埋まってしまったらしい。お詫として、東側の離れの個室への変更と、会計を二割引にすることで了承してほしいとのことだ。詩織は気に留める様子もなく快諾した。食事をしに来たのであって、景色を愛でに来たわけではない。食べる場所が南だろうが北だろうが、大した問題ではなかったからだ。一方、西の個室では、柊也と志帆が主催する会食が始まろうとしていた。今日一番乗りで現れたのは、太
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第515話

本当に、彼女が呼んだのね……!一体どんな手を使ったのか、あの高村先生の態度を軟化させるなんて。ふと見ると、詩織の席の脇には分厚い資料の束が積まれているのが目に入った。何あれ。先生の前で勉強熱心なフリでもしてるわけ?よくやるわ。どうせ中身なんて理解できてないくせに。きっと、そういう小賢しい猿芝居で先生に取り入ったに違いない。「先生、いかがですか?」志帆は詩織から意識を切り離すように視線を戻し、改めて誠実さを装って高村教授を誘った。「いや、私は遠慮しておこう。身内だけで楽しんできたまえ」高村教授はやんわりと誘いを断ると、席に着いた詩織の皿へ、餡のかかった湯葉巻きをひょいと取り分けてやった。その仕草は、まるで娘を気にかける父親のように親愛に満ちていた。目の前で繰り広げられた光景に、志帆は理解が追いつかなかった。何なの、今の……?単に「印象が変わった」というレベルではない。明らかに「気に入られている」としか思えない距離感だ。彼女のどこがいいわけ?たかが学部卒の分際で。自分たちの個室へ戻る廊下で、志帆の機嫌は目に見えて悪化していた。二人が手ぶらで戻ってきたのを見て、太一が能天気に尋ねてくる。「あれ?先生は?来ないの?」志帆は答える気にもなれず、黙り込んだままだ。「ああ。先客がいてな、無理だったよ」代わりに柊也が答えた。太一は「ふーん」と納得しただけで、それ以上深くは聞いてこなかった。その頃には、他の参加者たちも続々と集まり始めていた。しばらく顔を見せていなかった譲の姿もある。金融業界の耳は早い。柊也が北里市で新たなスポンサーを見つけたという噂は、すでに広まっているようだ。おかげで、出資引き上げを騒ぎ立てていた連中も、すっかり鳴りを潜めている。宴もたけなわという頃、ようやく京介が現れた。重要な会議が長引いて遅れたらしい。太一がすかさず軽口を叩く。「明日は槍でも降るんじゃないか?京介兄貴まで顔出すなんて珍しいじゃん」志帆は、京介に対して以前のような熱意を持てなくなっていた。彼が想いを寄せている相手が詩織だと知ってしまったからだ。彼が到着しても、自分から積極的に話しかけようとはしない。そのよそよそしい空気は、見えない壁があるかのようだった。事情を知らない譲は、不思議そうに眉をひそ
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第516話

太一とて、詩織の能力を認めていないわけではない。『エイジア』を辞めてからの彼女の快進撃には、正直なところ度肝を抜かれることの連続だった。だが、ビジネスの手腕と学歴は、似て非なるものだ。ましてや相手は、超難関で知られる高村研究室である。いくらなんでも、調子に乗りすぎではないか。太一は何とも言えない表情を浮かべ、恐る恐る柊也の顔色を窺った。元カノの無謀な挑戦に、彼はどう反応するのか。しかし……柊也は眉一つ動かさなかった。興味がない、というよりは、詩織が何をしようが自分には関係ない、とでも言いたげな無関心さだ。その瞳にはどんな感情も浮かんでいない。まあ、そりゃそうか……太一は内心で納得した。隣には本命の婚約者である志帆がいるのだ。彼女の手前、元カノのことなど気にかけてはいられないだろう。それに、もともと柊也は詩織に対して冷淡だった。志帆という最愛のパートナーを得た今、詩織の存在など彼の人生のページからはとっくに削除されているに違いない。太一は口をへの字に曲げた。江崎のやつ、後で恥かくことにならなきゃいいけどな……今度、親父に会ったらこの件を話しておこう。親父は最近やたらと江崎を持ち上げるが、彼女の無謀さを知れば少しは目が覚めるはずだ。志帆は、そんな太一の反応をすべて見透かしていた。茶碗を口元に運び、その陰で誰にも気づかれないように小さく笑う。別に、私が彼女を見下しているわけじゃない。周りの誰もが、彼女を「身の程知らず」だと思っているだけ。学問の世界、研究の世界というものは、勢いや小手先のテクニックだけで通用するほど甘くはないのだから。ショーの演目がすべて終わる頃、東西それぞれの個室でも食事会がお開きとなろうとしていた。久しぶりの夜遊びで物足りなさを感じていた太一が、名残惜しそうに提案する。「なあ、この後どうする?河岸変えてもう一軒行かない?」志帆は、自分と柊也なら構わないと答えようとした。だがその機先を制するように、京介が立ち上がる。「すまん、俺はまだ用事があるから抜ける。お前らで楽しんでくれ」その言葉に、志帆の表情がすっと翳った。食事中、直接言葉を交わすことはなかったが、彼女はずっと京介の様子を観察していた。彼は終始上の空で、心ここに在らずといった風情だった。志帆と目が合うこ
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第517話

詩織は智也のロードショーに三回ほど付き添ったが、彼のプレゼン運びが目に見えて上達しているのを確認すると、残りの日程はすべて彼に一任することにした。いずれは彼自身が独り立ちし、すべてを背負っていかねばならないことだ。それに、詩織自身も残された時間を大学院入試の勉強に注ぎ込む必要があった。試験まであと一ヶ月余り。猶予はほとんどない。もっとも、受験生になったからといって、業界の動向から目を離すようなことはしなかった。それは長年染みついた職業病のようなものだ。ここ最近、『パース・テック』に関する噂がいくつか耳に入っていた。結局、『千和キャピタル』からの出資は見送られたらしい。詳しい理由は不明だが、それでもパース・テック側に大きなダメージはないようだった。柊也があらたに海外から投資を引っ張ってきたからだ。彼が必死になって志帆を守ろうとしているのは、誰の目にも明らかだった。業界内の噂では、柊也のあの献身ぶりは、志帆に実績を作らせて父亲である海雲に認めさせ、彼女との結婚を早めるためだと言われていた。詩織も、その説は信憑性が高いと感じていた。つまりは結局のところ、柊也はそれほどまでに志帆と結婚したいということなのだ。だからこそ、彼女が帰国してからというもの、彼は何度となく、それこそ全力を尽くして彼女を支え続けてきたのだろう。これまでの違和感や疑問が、すべて腑に落ちた気がした。詩織は一つ小さくため息をつくと、雑念を振り払うように再び参考書へと視線を落とした。夜になり、密が差し入れを持って事務所にやってきた。そこでようやく、詩織は窓の外がすっかり暗くなっていることに気づいた。密はまるで最初からお見通しだったかのように、保温容器からスープをよそいながら小言を口にする。「どうせお食事のことなど忘れていらっしゃると思いましたから。おかず、三品ほど多めに作っておきました」詩織はまず温かいスープを一口すすり、胃を落ち着かせた。「……ねえ、最近ちょっと腕落ちたんじゃない?」密の手が止まる。「お口に合いませんでしたか?」「不味くはないんだけど、なんていうか……前みたいな素材の旨味がない気がする」「煮込み時間が足りなかったかしら」密はぶつぶつと呟いた。「ううん、十分美味しいわよ」詩織は文句を言いたかったわけではない
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第518話

【時間は取らせない】【電話でも、会ってでもいい。君の都合に合わせる】返信がなかったからか、それ以上のメッセージは来ていなかった。詩織は迷うことなく、履歴を削除する。身支度を整えている最中に、再び着信があった。画面にはやはり柊也の名が表示されている。時計を見ると、まだ六時半だった。よほど焦っているらしい。彼とは長い付き合いだが、誰かのためにここまで取り乱す姿を見たのは初めてかもしれない。だからといって、それに応じる義務など自分にはない。今回の森田和代の件に関していえば、自分は完全な被害者なのだ。誰であれ、情に訴えて自分を言いくるめることなんてできない。そう心に決め、詩織は彼の電話をことごとく無視した。その後も二度、三度と着信が続いたが、スマートフォンを裏返すだけだった。だが、柊也の執念は彼女の予想を超えていた。なんと、会社のオフィス前で待ち伏せしていたのだ。それに気づいた瞬間、詩織は即座に湊に指示を飛ばした。「湊くん、引き返して。そのまま江ノ本大学へ向かって」同時に密へメッセージを送り、午前の会議を急遽リモートに変更させた。結局、詩織が会議に参加したのは、大学構内の運動場脇にあるベンチの上からだった。予定より少し早めに終わったため、彼女はそのまま講義室へと向かった。今日も高村教授の講義がある。早めに着いたおかげで、今回は良い席を確保できた。席に着くや否や、彼女はすぐに参考書を広げ、自分の世界に没頭し始めた。しばらくすると学生たちがぱらぱらと入ってきて、やがて隣の席にも誰かが腰を下ろす気配がした。講義を聞きに来た学生だろうと思い、詩織は気にも留めなかった。講義開始の時間が迫り、ようやく顔を上げて凝り固まった首を回す。ふと横を見ると、そこに見知った顔があった。「篠宮さん?いつからいたの?」詩織が目を丸くしたのは、隣にいたのが篠宮賢だったからだ。官僚である彼と、経済学の権威である高村教授の講義。その二つの接点が、彼女にはすぐには結びつかなかった。賢の瞳に笑みが浮かび、目尻に愉しげな皺が刻まれる。「しばらく前からいたよ。君があまりに集中してるもんだから、邪魔しちゃ悪いと思って声をかけなかったんだ」「仕事?それとも……」「今日は非番だ。なんとなく散歩がてら覗きに来
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第519話

詩織という女には、つくづく呆れ果ててしまう。京介の気持ちを弄びながら、一方で譲とも怪しい噂があり、今度は賢にまで色目を使っているのか。その節操のなさに、志帆は心底軽蔑した。彼女はスマートフォンを取り出すと、意地悪な笑みを浮かべてグループチャットにメッセージを投げ込んだ。【ねえ、江ノ本大学で誰を見かけたと思う?】この手の話題に食いつくのは、決まって『穀潰し』の太一ぐらいなものだ。要するに、暇なのだ。『衆厳メディカル』に詩織が資本参加して以来、彼の実質的な発言権はほぼ失われ、ただ配当を受け取るだけのその他大勢の株主と変わらなくなっていた。毎日やることといえば、無駄に時間を浪費することくらいしかない。だからこそ、志帆のメッセージに即座に反応できたわけだ。【だれ?】【江崎詩織と篠宮賢さん。あれ、どうやら本気で付き合ってるみたいよ】以前、譲が二人の食事風景を写真に撮って送って来たことがあったが、あの時の志帆は「まさか」と取り合わなかった。あの篠宮賢ともあろう男が、あんな女を相手にするはずがないと高をくくっていたからだ。だが先ほど、詩織を見つめるあの眼差しを目の当たりにして、ようやく認識を改めた。自分は、あの女の男を籠絡する手腕を見くびっていたのだと。もちろん、わざわざグループチャットに投稿したのには理由がある。皆に詩織の本性を暴露してやるためだ。表向きは清純ぶって高潔を装っているが、その実態は誰よりも奔放で尻が軽い。京介はたしか、長年彼女に片想いしていると言っていたはずだ。ならば思い知らせてやればいい。彼が惚れている女が、一体どれほどの「代物」なのかを。志帆は講義中ずっと上の空で、スマートフォンを気にしていた。しかし、肝心の京介からの反応はない。事実を認めたくないというわけか。志帆は唇の端を歪め、冷ややかな笑みを浮かべた。講義が終わると、詩織の元に高村教授から電話が入った。自宅で食事をしていかないかという誘いだった。賢はあわよくば彼女を食事に誘おうと考えていたが、先約があるのでは仕方がない。内心では落胆しつつも、表面上は大人の余裕を見せて「また今度」と告げた。もっとも、今日は「偶然」会えただけでも十分な収穫だったのだが。教授の自宅に到着した詩織は、そこで初めて先客がいる
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第520話

しかも、かなりの「恋愛脳」だったらしい。男のために輝かしい前途を棒に振ったというのだ。だからこそ高村教授は、その愛弟子に対して愛憎入り混じった複雑な感情を抱いている。実は、悠玄はその女性にどうしても会いたいと思っていた。神宮寺家として、彼女に大きな借りと恩義があるからだ。悠人が言うには、その正体は柏木志帆かもしれないとのことだった。今回、悠玄が江ノ本市まで足を運んだのは、その恩人が本当に志帆なのかを確かめるためでもあった。詩織が来る前、高村教授とは少し話をしたが、まだ核心には迫れていない。そんな中、目の前の娘が高村の研究室を目指していると聞き、悠玄は素直に感心した。「高村教授の院生になるのは至難の業だ。相当な努力が必要だろうね」「ええ、覚悟しています」高村教授は自慢の手料理を持ってキッチンから戻ると、とっておきのワインを開け、二人をテーブルへと促した。食事中、高村教授が詩織の仕事について水を向けた。「仕事の方はどうだ」「今のところ、すべて順調に進んでいます」「どうやら権田の話は嘘じゃなかったようだな。『中博』の経営再建、かなり上手くやっているそうじゃないか。また新たな技術的ブレイクスルーがあったと聞いたぞ」「ええ。現在はテスト段階ですが、動作が安定次第、正式にリリースする予定です」二人の会話を聞いていた悠玄が、身を乗り出すようにして割って入った。「じゃあ、あなたが『中博』の再建を主導した責任者なのか?」「はい、そうです」悠玄の目が大きく見開かれた。彼女を見る目が明らかに変わった。「まさかこんなに若い女性だったとはな……!いやはや、若い世代の台頭というのは恐ろしいものだ。実を言うと、我々天宮グループもあの再建案件には手を挙げていたんだよ。残念ながら、高坂の奥方に却下されてしまったがね」その件については、詩織も承知していた。もちろん、今さらコメントするつもりはない。「江崎さん、実は折り入って頼みがあるんだ」悠玄の口調が、急に改まったものになった。 「私には息子がいてな。WTビジネススクールから戻ったばかりなんだが、本人は何か事業を立ち上げたいと意気込んでいるものの、肝心の機会に恵まれていない。そこでだ、もしよければ君の下で彼を鍛えてやってくれないだろうか」まさかそのような申し出を受け
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