いい加減、うんざりだった。何度もしつこく待ち伏せされれば、誰だって嫌気が差す。そもそも引っ越したばかりなのに、なぜ彼は新居の住所を知っているのか。いや、彼が本気で調べようと思えば、それくらい造作もないことだろう。ただ、志帆のためならここまでやるのかと、その執念深さに呆れるばかりだ。詩織は意を決して車を降りた。夜風が火照った頬を撫で、酔いがいくらか覚めるのを感じた。柊也がゆっくりと歩み寄ってきて、一メートルほどの距離で立ち止まる。彼は眉を寄せ、咎めるように言った。「酒を飲んだのか?接待か?」事情を知らない第三者が聞けば、恋人を心配する優しい男に見えるだろう。だが詩織には、彼と茶番劇を演じるつもりなど毛頭なかった。彼女は単刀直入に切り出した。「この間の事故の際、あなたに助けてもらったことは感謝しています。借りは借りで返すべきだとも思う。でも、今回の森田和代の件とは別問題よ。私は一歩も譲るつもりはないし、法的な責任は徹底的に追及させてもらうわ」タイミングを計ったかのように、一陣の風が吹き抜けた。肩にかかっていた彼女の長い髪が、ふわりと舞い上がる。その瞬間、柊也の視線が揺らぎ、風に遊ばれる漆黒の髪に吸い寄せられた。彼は言葉を失い、ただそれを見つめていた。詩織は苛立ちを隠さず、風に乱された髪を手荒くかき上げた。「ねえ、聞いてるの?」語気を強めて問いただすと、柊也はようやく視線を戻した。彼は伏し目がちに、どこか投げやりな口調で尋ねる。「……交渉の余地はなしか?」「ええ、一切ないわ」彼女の断固たる態度を見て取ったのか、柊也はそれ以上食い下がることはしなかった。「わかった」短く、淡々とそれだけを口にする。用件は済んだ。詩織は一秒たりとも無駄にする気はなく、躊躇なく踵を返した。別れの言葉さえ惜しいと言わんばかりに。柊也はその場に立ち尽くし、彼女の背中が夜の闇に溶けて消えるまで見送った。ようやく視線を戻した彼の瞳は、底知れぬ湖のように深く、暗く沈んでいた。車に戻っても、すぐにはエンジンをかけなかった。彼はシートに身を沈め、一本の煙草を取り出す。指先に灯る小さな赤い光が、暗闇の中で明滅を繰り返していた。……『パース・テック』の北里市でのロードショー当日。志帆は自ら悠人に電話をかけ、招待の言
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