七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した のすべてのチャプター: チャプター 521 - チャプター 530

719 チャプター

第521話

いい加減、うんざりだった。何度もしつこく待ち伏せされれば、誰だって嫌気が差す。そもそも引っ越したばかりなのに、なぜ彼は新居の住所を知っているのか。いや、彼が本気で調べようと思えば、それくらい造作もないことだろう。ただ、志帆のためならここまでやるのかと、その執念深さに呆れるばかりだ。詩織は意を決して車を降りた。夜風が火照った頬を撫で、酔いがいくらか覚めるのを感じた。柊也がゆっくりと歩み寄ってきて、一メートルほどの距離で立ち止まる。彼は眉を寄せ、咎めるように言った。「酒を飲んだのか?接待か?」事情を知らない第三者が聞けば、恋人を心配する優しい男に見えるだろう。だが詩織には、彼と茶番劇を演じるつもりなど毛頭なかった。彼女は単刀直入に切り出した。「この間の事故の際、あなたに助けてもらったことは感謝しています。借りは借りで返すべきだとも思う。でも、今回の森田和代の件とは別問題よ。私は一歩も譲るつもりはないし、法的な責任は徹底的に追及させてもらうわ」タイミングを計ったかのように、一陣の風が吹き抜けた。肩にかかっていた彼女の長い髪が、ふわりと舞い上がる。その瞬間、柊也の視線が揺らぎ、風に遊ばれる漆黒の髪に吸い寄せられた。彼は言葉を失い、ただそれを見つめていた。詩織は苛立ちを隠さず、風に乱された髪を手荒くかき上げた。「ねえ、聞いてるの?」語気を強めて問いただすと、柊也はようやく視線を戻した。彼は伏し目がちに、どこか投げやりな口調で尋ねる。「……交渉の余地はなしか?」「ええ、一切ないわ」彼女の断固たる態度を見て取ったのか、柊也はそれ以上食い下がることはしなかった。「わかった」短く、淡々とそれだけを口にする。用件は済んだ。詩織は一秒たりとも無駄にする気はなく、躊躇なく踵を返した。別れの言葉さえ惜しいと言わんばかりに。柊也はその場に立ち尽くし、彼女の背中が夜の闇に溶けて消えるまで見送った。ようやく視線を戻した彼の瞳は、底知れぬ湖のように深く、暗く沈んでいた。車に戻っても、すぐにはエンジンをかけなかった。彼はシートに身を沈め、一本の煙草を取り出す。指先に灯る小さな赤い光が、暗闇の中で明滅を繰り返していた。……『パース・テック』の北里市でのロードショー当日。志帆は自ら悠人に電話をかけ、招待の言
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第522話

「高村静行という男は、元々へそ曲がりだからな。天才なんてものは往々にしてそんなもんさ。彼がまだ言いたくないと言うなら、それなりの理由があるんだろう。誰にも強制なんてできんよ」悠玄は高村教授との付き合いが長い分、あの偏屈ぶりをよく理解していた。確かに変わり者だ。才能を鼻にかけ、我が道を行く。世間がイメージする「天才」そのものといっていい。智也は最後のロードショーを終えると、電話会議で詩織に成果を報告した。あとは証券取引等監視委員会の最終審査を待つばかりだ。この情勢なら、何の問題もなく通過するだろう。「お疲れ様。密に手配させたけど、みんなに一週間の休暇を出したわ。社員旅行よ。費用は全額会社持ちだから楽しんで」智也が尋ねる。「君はどうするの?一緒に行って、少しは息抜きしたら?」「私は試験勉強があるから無理よ。どこにも行けないわ」「なら、私も残って……」「駄目よ、行ってあげて」詩織は彼の言葉を遮った。「二人とも不在じゃ締まらないでしょ?どちらかは引率しなきゃ」そう言われては、智也も従うしかなかった。詩織が通話を終えるやいなや、今度はミキから着信が入った。彼女は論文をタイプする手を休めることなく、器用に応答した。マルチタスクはお手の物だ。「ねえ詩織、今日誰に会ったと思う?」ミキの出し惜しみは、いつも中途半端だ。こちらが興味を示さなくても、自分から我慢できずに水漏れしたバケツのように喋りだす。「あのクズ也とゲス帆よ!」「あいつら、本当に面の皮が厚いったらありゃしない!江ノ本だけじゃ飽き足らず、わざわざ北里まで出てきて仲良しごっこよ!」「もーう、あのパーティー会場であいつらがどれだけ胸糞悪かったか、アンタにも見せたかったわ!」「信じられないのがさ、二人の馴れ初め聞きたがる人がいるわけ。私なんか『え、浮気の詳細を聞きたいの?』って感じだったんだけど!」「それにあのゲス帆、『うちの柊也くんがね~』って連発しちゃって、知らない人が聞いたらもう結婚してると思うわよ。実際、誰かが聞いたの。『そんなに仲が良いなら、どうしてまだ結婚しないんですか?』って」「そしたらクズ也、なんて言ったと思う?」詩織はキーボードを叩き続けながら、適当に相槌を打った。「なんて言ったの?」「『彼女は今、仕事を最優先に
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第523話

詩織は少し考え込んだ後、弁護士に告げた。「当初の方針通り、徹底的に追及してください。どんな些細な証拠も見逃さないで」森田和代が本当に無実だというなら、証明してみればいい。土曜日、詩織は飛行機でG市へ飛んだ。高坂百合子の四十九日の法要に参列するためだ。響太朗とは一ヶ月ぶりの再会だったが、彼は以前より随分と痩せて見えた。顔には深い憔悴の色が刻まれ、髪にも白いものが混じっている。愛妻の死が、彼をどれほど打ちのめしたかが痛いほど伝わってきた。法要は静粛に執り行われていたが、焼香を終えた詩織の背後で、突然騒ぎが起きた。「小春ちゃん、だめよ!」制止する声を振り切り、小さな白い影が祭壇へと駆け寄る。そして、百合子の遺影を胸に抱きしめた。養女の小春だった。軽度の自閉症を患っている少女だ。小春は遺影を固く抱きしめたまま離そうとせず、うわごとのように繰り返していた。「ママ、こわくないよ。ママ、こわくないよ。こはるがまもってあげるから」付き添いの家政婦が遺影を取り返そうとすると、小春は激しく抵抗した。見かねた響太朗が静かに言った。「構わない。そのまま持たせてやってくれ」誰も手出しをしなくなると、小春は部屋の隅へ移動してうずくまり、遺影を宝物のように抱え続けた。薄着の彼女を見て、詩織は自分のジャケットを脱ぐとそっと肩にかけてやった。最初はビクッと身を強張らせ、拒絶反応を示した小春だったが、相手が詩織だと分かると、怯えた瞳から警戒心が消えていく。彼女は唇をへの字に曲げ、涙声で訴えた。「きれいなおねえちゃん……ママのところに、つれてって」詩織は胸が締め付けられる思いだった。葬儀の最後は、故人の遺品を焚き上げる儀式だった。響太朗は焼却炉の前に立ち、結婚指輪を握りしめたまま動けずにいた。僧侶に時間を促され、ようやく彼は断腸の思いで指輪を炎の中へと投じた。それが、妻である百合子の最期の形見だったからだ。だが、これこそが彼女の遺言だった。「四十九日の法要ですべて焼き捨ててほしい」と。残された者がいつまでも思い出に縛られ、悲しみから抜け出せなくなることを案じての配慮だった。だからこそ、二人の愛の証である指輪さえも手放すよう求めたのだ。詩織は夜の便で江ノ本へ戻る予定だったが、小春がどうしても彼女から離れよう
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第524話

詩織は即座に断った。彼女にとって、譲はあくまでビジネスパートナーに過ぎない。その関係性は商談の場に限られるべきで、プライベートな付き合いまで持ち込むつもりはなかった。断られることは予想していたとはいえ、実際に拒絶されると譲も少なからず落ち込んだ。通話を終え、期待に満ちた母・悦子の方を向いて肩をすくめた。「駄目でした。振られましたよ」悦子は呆れたように白目を剥いた。「この役立たず!情熱の貴公子の名が泣くわよ!」「むしろ、そのあだ名のせいで警戒されてるんじゃないですかね」譲が苦笑すると、悦子は容赦なく追い打ちをかけた。「自業自得よ!男だって身持ちが固くないとね。誰が好き好んで手垢にまみれた中古品なんて拾うもんですか」譲は言葉を失った。「……」母上の罵倒には年季が入っている。慣れっこだとはいえ、相変わらず辛辣すぎる。結局、悦子が自ら動くことになった。彼女は詩織に電話をかけ、「ビジネスの件で相談したいことがあるから」と口実を作って呼び出したのだ。この間、『ココロ』の大学でのロードショーの際、悦子はわざわざ会場まで足を運び、友人たちを紹介してくれた恩人でもある。その意図が見え透いていたとしても、詩織としては断りようがなかった。彼女はデパートに立ち寄って万年筆を買い求め、それを誕生日プレゼントとして持参することにした。だが、指定された店に到着した瞬間、詩織は思わず眉をひそめた。よりによって、ここなの?とはいえ、ここまで来て帰るわけにもいかない。詩織は覚悟を決めて店内へ入り、指定された個室の扉を開けた。中にはすでに先客がいたが、彼女はそちらには目もくれず、真っ直ぐ譲に尋ねた。「お母様は?」「母さんなら、急用が入って帰っちゃったよ」譲は母親から吹き込まれた台本通りに答えた。「せっかく来てくれたんだし、一杯どう?座りなよ」「車ですので、お酒は結構です。これ、プレゼント。お誕生日おめでとうございます」贈り物を手渡すと、詩織はすぐに踵を返そうとした。譲は慌てて引き留めた。「ジュースもあるから!」「いいえ、皆さんで楽しんで」詩織はそれだけ言い残し、譲に反論の隙も与えずに部屋を出ていった。正直なところ、譲は打ちのめされていた。これまで多くの女性と浮名を流し、口説きのテクニックには自信が
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第525話

和代も壮翼も、当然そうだろうと思っていた。二人はすでに婚約しており、仲も極めて良好だ。結婚というゴールインは時間の問題だろう。「ええ」志帆は自信たっぷりに頷いた。「そのつもりよ」美穂の羨望の眼差しが一層強くなる。「柊也さんってば、どんだけお姉ちゃんのこと愛してるのよ!他の男に取られないように先に婚約して、お姉ちゃんが賀来家に認められるようにって、全財産投げ打つ勢いで事業のバックアップまでして……私だったら、今すぐにでもお嫁に行きたいくらい!」それまで黙って聞いていた佳乃が、静かに口を挟んだ。「それが志帆とあなたの違いよ。女だって自分のキャリアを持たなきゃ駄目。男に寄りかかってるだけじゃ長続きしないわ。柊也くんが志帆を愛しているのは、彼女が自立した女性だからなのよ」その後、彼らが何を語り合ったのか、詩織は知る由もなかった。すでに彼女は建物の外へと歩き出していたからだ。やはり予想通りだ。和代を釈放させた黒幕は、間違いなく柊也だったのだ。外に出て湊に電話しようとした時、譲が息を切らして追いついてきた。「詩織さん!」振り返る詩織の眼差しは冷ややかだった。「……誕生日プレゼント、ありがとう」彼の手には、先ほど詩織が渡した包みが握りしめられている。「いいえ、お気になさらないで」詩織の態度は相変わらずそっけなく、彼との間には明確な一線が引かれていた。譲はその壁を壊そうと必死だった。「もしかして、こういう場所は苦手だったかな?もしそうなら、店を変えて食事でもどう?」彼女に誤解されないよう、慌てて付け加える。「二人きりで、静かな場所で」彼のために集まった友人たちは、完全に二の次になっていた。その言葉に、詩織は足を止めた。彼の意図を瞬時に察したのだ。「坂崎社長、無理にお気遣いいただく必要はありません。それに誕生日は、ご友人の皆様と祝うのが一番ですよ」彼が賢い男なら、この言葉に含まれた拒絶の意味を理解できるはずだ。私たちは、友人ですらないのだと。「坂崎社長」と呼ばれた瞬間、譲の熱意は氷水を浴びせられたかのように冷え込んだ。彼女は本当に、一ミリのチャンスさえ与えてくれないというのか。他の相手なら、譲も食い下がっていただろう。だが、江崎詩織という女性に関しては、無理に踏み込めば関係が破綻するこ
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第526話

「どうしたのよ、辛気臭いわね」志帆が声をかけたが、譲は黙々とグラスを空けるだけだ。見かねた友人の一人が横から口を挟んだ。「どうも失恋したらしいんだよ。それもこっぴどくね。だからやけ酒さ」志帆は押し黙った。美穂はここぞとばかりに慰めようとしたが、譲は取り付く島もない。完全な拒絶オーラを出している。友人が呆れて忠告した。「おいおい、どうしたんだ譲。いつものお前らしくないぞ。女の子が乾杯しようって言ってるのにお前……」譲は冷ややかな一瞥をくれた。友人は閉口し、代わりに美穂のグラスに自分のグラスを合わせた。「ごめんねお嬢ちゃん、こいつ虫の居所が悪いみたいでさ。俺が代わりに」「いえ、大丈夫です」美穂は殊勝な態度を見せた。だが、グラスを合わせた瞬間、男が首を傾げた。「あれ?なんか君、見たことあるな。どこかで会わなかったっけ?」美穂は、男が自分をナンパしているのだと勘違いした。本命は譲だが、彼の友人たちも金や権力を持っている上流階級ばかりだ。コネを作っておいて損はない。「どこかで会った?」なんて、随分と古臭い手だなと笑って流そうとした、その時だった。男がポンと額を叩いた。「ああ、思い出した!ネットに流出してたあの動画の子か……!」しまった、とばかりに男は慌てて口を押さえたが、もう遅かった。美穂の顔からさっと血の気が引き、青ざめたかと思えば赤くなり、見るも無残な表情へと変わっていく。その場の空気は一瞬にして凍りついた。いたたまれなくなった志帆は、すぐさま美穂を連れて退出するしかなかった。「お姉ちゃん……私、もう誰とも顔を合わせられない」車に乗り込むなり、美穂は泣き崩れた。あれから随分経つし、世間のほとぼりも冷めたと思っていたのに。まさか面と向かって指摘されるなんて。それも、憧れの譲の目の前で!もう二度と、彼に顔向けできない。志帆の表情も険しかった。「これからは目立つ行動は控えなさい。それから、譲のことは諦めて。もう無理よ」美穂の泣き声がさらに大きくなった。リベンジポルノのような動画が、本当に人間一人の人生を破壊してしまうのだと、身をもって知った瞬間だった。かつて自分は、この手を使って詩織を破滅させようとした。だが皮肉にも、その報いを最初に受けることになったのは自分自身だったのだ。……
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第527話

詩織は、海雲に対してはどこまでも誠実でありたいと思っている。だからこそ、明確に告げた。「いいえ。あの時のことは、私の中ではもう完全に終わった話ですから」その瞳に迷いがないことを、海雲は見逃さなかった。彼は頷くと、手元の引き出しから写真の束を取り出し、詩織の前に並べた。「知り合いに頼んで選りすぐらせた、有望な青年たちだ。人柄も学識も、家柄も申し分ない。気に入ったのがいれば選んでみなさい」まさか海雲までこんな仲人のような真似をするとは思いもよらず、詩織は面食らった。やはりどこの親世代も、目下の者には早く身を固めてほしいと願うものらしい。「おじ様、今は本当に、恋愛に割くエネルギーがないんです」詩織は困ったように笑った。「だからこそ、まずは選ぶだけ選んでみてはどうだと言っている。気が合いそうなら試してみればいい。今はその気がなくとも、後になって気持ちが変わらんとも限らんからな」「……もう少し落ち着いてからでも、遅くはないかと」海雲も、彼女が高村教授の大学院を目指して猛勉強中であることは知っている。確かに並大抵の努力では受からない狭き門だ。気が散ってはいけないということだろう。「わかった。じゃあ、私のほうでもう少し厳選しておくとするか」海雲が引き下がってくれたため、詩織はようやく安堵して了承した。夜も更けてきたため、海雲もそれ以上は引き止めず、気をつけて帰るようにと詩織を送り出した。詩織が去った直後、入れ替わるようにして柊也が屋敷に帰ってきた。考えるまでもなく、松本がこっそり連絡を入れたのだろう。案の定、柊也がリビングに入るとすぐに、松本さんが台所から熱いスープを運んできた。「柊也様、スープをどうぞ」柊也はそれを受け取ると、海雲の向かいのソファに腰を下ろし、半眼でテーブルの上の写真を眺めた。海雲は息子には目もくれず、黙々と写真をテーブルに広げていく。柊也は足を組み、優雅にスープを啜りながら、写真の男たちを値踏みし始めた。海雲がすべて並べ終えるのを待って、柊也はようやく口を開く。「こいつは顔がナヨつきすぎだ。下のほうも役に立たないんじゃないか?」「こっちは、あいつの好みじゃない」「こいつはDV気質が顔に出てるな」「それからこれ。ゲイっぽいぞ。わざわざあいつを地獄に突き落としてやることもな
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第528話

柊也や志帆ちゃんはまだ分かる。二人だけの時間を作るために仕事を詰めているのだろう。だが、京介兄貴や譲まで付き合いが悪くなったのはどういうわけだ?彼らまでもが一向に捕まらない。「忙しいのは結構なこった、はいはい」太一は一人寂しく外食に出かけ、そこそこ高級なレストランに入った。ところが席に着いた瞬間、詩織の姿が目に入った。太一は条件反射的にテーブルの下へ滑り込み、身を隠した。彼女が店を出て行くのを確認してから、ようやく安心して体を起こし、ガラス越しに外の様子を窺う。詩織が高村教授を車に乗せるのを手伝っているところだった。その仕草は、どこからどう見ても献身的だった。詩織の人心掌握術が長けていることは太一も知っていたが、まさかあの高村教授まで手懐けているとは思わなかった。高村教授といえば、気難しく偏屈な性格で有名だ。金や権力のあるお歴々がどれほど彼に取り入ろうとしても、門前払いされるのがオチだったはずだ。江崎詩織……やるな。太一がそう感心したのも束の間、詩織の目の前に一台のよく見知った車が静かに止まった。京介の車だ。太一の眉がぴくりと動く。車から降りてきた京介は、そのまま高村教授の乗る車へと歩み寄り、腰を屈めて車内の教授と言葉を交わした。やがて教授の車が走り去ると、詩織と京介は並んでそれを見送った。太一は先ほどの感心をすぐさま撤回した。詩織が偏屈な教授を取り込めたのは、彼女の実力ではなく、京介のコネがあったからだ。太一は京介の従兄弟であるため、京介が高村教授の愛弟子であることを知っている。京介は詩織に惚れている。彼女のために喜んで橋渡し役を買って出たに違いない。けどさ……それって志帆ちゃんに対して不公平すぎないか?志帆ちゃんはあんなにも努力しているのに、江崎のようにコネを使って近道をする人間に負けたりしたら――途端に太一の表情が曇った。彼はすぐさまスマホを取り出し、志帆へメッセージを打ち込んだ。【志帆ちゃん、たったいま江崎が高村教授に食事を奢ってるのを見たよ。たぶん京介兄貴の仲介だと思う。江崎のやつ、ああいう根回しが得意だし、小賢しいから、教授から何か試験の内幕でも聞き出してなきゃいいけど】【いっそのこと、柊也にも頼んでみたらどうかな?教授と話をつけてもらうなり、志帆ちゃんを売り
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第529話

ドアの向こうから聞こえたのは、果物を差し入れに来た佳乃の声だった。幸い、鍵は掛けてある。志帆は慌てて通話をミュートにし、扉越しに声を張った。「お母さん、もう寝るところだから」「あら、そう。じゃあ、おやすみなさい」母の足音が遠ざかるのを確認し、志帆は再びマイクをオンにした。スマホの画面に映し出された醜悪な光景に、一瞬だけ嫌悪感が走る。だが、喉から絞り出した声は、とろけるように蠱惑的だった。「もう、そんなに焦らないでくださいよ」ウィリアムの顔はフレームアウトしていて見えないが、あちら側でどれほど歪んだ表情を浮かべているかは想像に難くない。「早く、早く……!君が必要なんだ、気が狂いそうだよ」「ここにいますよ。ほら、あなたの下に……私を見て……」しばらくして。志帆の部屋はようやく静寂を取り戻した。通話は繋がったままで、互いの荒い呼吸音だけが重なり合う。欲望を満たし、賢者タイムに入った今のウィリアムになら、どんな要求も通るだろう。志帆は今夜の目的を忘れてはいなかった。そうでなければ、これほどの屈辱に耐えた意味がない。「ねえ教授。もうすぐ大学院の入試があるんですけど、なにかいいアドバイスをもらえませんか……?」……翌朝、詩織が出社して間もなく、太一がオフィスへ乗り込んできた。彼は前置きも一切なく、単刀直入に告げた。「今期分の配当を前借りさせろ」詩織は資料をめくる手を止め、顔を上げた。「配当の前借り?」「そうだ!俺にはその権利があるはずだろ?」詩織はようやく冷ややかな視線を彼に向けた。「株主総会の決議を経て、全株主の同意が得られれば、理論上は可能よ」彼女は手元のファイルをパタンと閉じ、その表紙を指先でトン、トンと叩いた。「でも忘れたの?『衆厳メディカル』はここ二年間、赤字続きだったじゃない。私が引き受けてから債務再編を行ったばかりで、帳簿上、配当に回せるような内部留保なんてほとんど残ってないわ。どこからその資金を捻出するつもり?」「そんな御託はどうでもいいんだよ!結論だけ言え。俺は配当をもらえるのか、もらえないのか!」詩織は静かに、しかしはっきりと告げた。「無理ね」太一は悪態をつき、ドアを乱暴に叩きつけて出て行った。入れ違いで書類を持ってきた密が、眉をひそめて振り返
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第530話

ところが太一は、そんな基本すら理解していなかったらしい。あろうことか、手持ちの株式すべてを一度に放出したのだ!つまり、これをもって『衆厳メディカル』と宇田川家との関係は完全に切れたことになる。こうなってしまっては、もう彼の幸運を祈るしかあるまい。詩織には、太一の行く末を案じている余裕などなかった。いよいよ、大学院入試の本番だ。試験当日の朝、詩織はいつもより早起きをして、江ノ本大学へと車を走らせた。まさか四年ぶりにキャンパスへ戻ることになるとは。感慨深いものがある。彼女は正門の前で記念に一枚写真を撮り、山奥でドラマのロケ中だという親友のミキへ送信した。【試験頑張ってくるね】【奇遇だね!私の今回の役、ちょうど「学問の神様」にお仕えする巫女の役なのよ。ご利益たっぷりだから、絶対合格させてあげる!】【それは心強いわ。神様のご利益にあやかろうかな】【詩織!もっと自分を信じなさいよ!あんた、昔『エイジア』で馬車馬みたいに働きながら、涼しい顔で学年トップと全額免除奨学金をかっさらっていった天才じゃない!】【ビリも取ったことあるけどね】ミキから白目を剥いたスタンプが連打されてきた。【あれはあんたが試験サボったからでしょ!】今思えば笑い話だ。詩織が毎回トップを取るのは、学生たちの間では当たり前のことすぎて話題にもならなかった。だがある時、突然の最下位を取ったことで、大学の掲示板が祭りになったことがある。結果として人々の記憶に残ったのは、完璧な優等生としての姿よりも、その「伝説の最下位」というレッテルだった。詩織自身もよく、自分は最下位の学生だったとネタにしている。だからこそ、ミキは真顔で(文面越しだが)たしなめてきたのだ。【詩織、謙遜も大概にしときなさいよ!】二、三通ほど他愛もないメッセージを交わした後、詩織はスマホをしまい、キャンパスへ足を踏み入れようとした。「詩織」だしぬけに背後から名を呼ばれた。振り返った詩織は、そこに立っていた京介の姿に目を丸くした。「あれ?出張中じゃなかったの?もう仕事は終わった?」つい先日、『衆和銀行』で会議をした際、彼が海外の銀行と共同で行うシンジケートローンの案件のため、ここ一週間はずっと国外にいると聞いていたのだ。「まだ終わってないよ。合間を縫って戻ってきたんだ」
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