All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 551 - Chapter 560

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第551話

ソロソロ時間だな――柊也のその一言が、出発の合図だった。だが美穂は、まだ名残惜しそうに外の景色を何度も振り返っている。「譲さん、来るって言ってたのに。まだかな?」「俺が電話してみるよ」すかさず太一がスマホを取り出した。けれど、コール音を聞くまでもなかった。向こうから譲が姿を現したのだ。「譲さん!遅いよぉ、ずっと待ってたんだから!」美穂は花が咲いたような笑顔で駆け寄っていく。しかし譲の瞳は、美穂の姿など最初からそこになかったかのように素通りし、校門の方角へと彷徨った。美穂は内心、きっとお姉ちゃんを探してるんだわと思った。ところが、譲の唇から零れ落ちた名は、予想だにしないものだった。「詩織さんは?まだ来てないのか?」昨夜、わざわざ確認したはずだ。彼女は今日、確かに来ると言っていたのに。一瞬にして、美穂の思考は凍りついた。頭から冷水を浴びせられたような衝撃に、心は暗い谷底へと突き落とされていく。近くでその言葉を聞いていた志帆の顔にも、一瞬、冷たい影が差した。だがすぐに気を取り直し、美穂に声をかける。「さあ美穂、行くわよ。遅れちゃう」その時だった。意外な人物が足を止めた。「あ、悪い。僕、ちょっと人を待つから」悠人だった。志帆は誰を?と意外に思ったが、淑女としての嗜みで詮索は控えた。「分かったわ。じゃあ、中で落ち合いましょう」「ああ、後で」志帆たちの背中が見えなくなると、悠人はすぐにスマホを取り出し、父親である悠玄にコールした。「もしもし父さん、今どこ?」「すまん、渋滞にハマってな。少し遅れそうだ」「どれくらい?」「四十分ほどかかりそうだ」息子のせっついた様子に、悠玄は少し怪訝そうな声を出す。「どうした、そんなに急いで。何か大事な用事でもあるのか?」悠人は口元を緩めた。「いや、大丈夫。時間を計算したら、ちょうどいい頃合いだって思っただけ」「ちょうどいい?何がだ?」「サプライズだよ」そう言い捨てると、悠人は父の返事を待たずに通話を切った。これ以上話していたら、うっかりネタばらしをしてしまいそうだ。それでは『サプライズ』にならないからな。志帆たちが中へ入ると、総合棟の前でポツンと一人佇む詩織の姿があった。志帆は余裕たっぷりに微笑むと、眉をひそませることもなく、ただ流し目で詩織を一瞥した
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第552話

「柏木さん」総合棟から出てきた深見教授が、志帆の姿を見つけて声をかけてきた。「深見教授」志帆は余裕のある笑みを浮かべて会釈する。「もう成績は確認したかね?」「いいえ、まだです」彼女の態度はどこまでも落ち着いていた。自己採点は済ませてある。共通試験の科目は及第点だ。専門科目に関しては、深見も「問題ない」と太鼓判を押してくれている。だから焦る必要などどこにもない。彼女の心を占めていたのは、絶対的な自信だけだった。「おっと、もう九時過ぎてるじゃん!」太一が時計を見るなり、急かすように言った。「志帆ちゃん、早く見ようぜ!俺にも天才の成績ってやつを拝ませてくれよ!」深見もまた、期待を込めた眼差しで促す。「そうだね、確認してみたまえ」志帆は優雅な手つきでスマホを取り出し、サイトへアクセスした。画面に表示された数字を見て、彼女は静かに告げる。「二百五十五点です」「二百五十五……」深見が感嘆の息を漏らした。「私の予想を上回る数字だ。ここ五年での最高得点だよ」高村教授が募集しているのは、国際金融学院のMBAプログラムだ。専門科目を含めて満点は三百点。その中での二百五十五点という数字は、まさしく快挙と言っていい。学業とは無縁の太一に至っては、もはや後光が見えているかのような反応だ。「マジかよ、志帆ちゃん!天才どころの話じゃねーな、もう俺の神様だぜ!え、勉強始めたの最近だろ?俺にその十分の一でも才能がありゃ、親父が『宇田川家始まって以来の奇跡だ』って十日間くらい宴会開くレベルだぞ!」「大袈裟よ」志帆が笑ってかわすが、深見は真顔で首を横に振った。「いや、決して大袈裟ではない。高村教授の課題は並外れて難解だ。君はビジネスの最前線に立ちながら、限られた時間で準備を進めてきた。その状況でこのスコアを叩き出すとは、まさに天才の所業だよ」美穂が我慢しきれずに身を乗り出す。「ってことは、お姉ちゃん合格なの?」「99.9パーセント、合格と見て間違いないだろう」深見が断言すると、美穂は不思議そうに小首を傾げた。「なんで百パーセントじゃないんですか?」「世の中には、0.1パーセントの不可抗力というものが存在するからだよ」美穂はまだ何か言いたそうだったが、志帆が片手でそれを制した。「しつこいわよ。先生は学者として、
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第553話

「自分の点数も見れないなんて、お察しじゃない?」美穂が嘲るように笑う。詩織はいつの間にかスマホをしまい、鞄から取り出した書類に目を落としていた。仕事をしているのか、それとも平静を装って現実逃避でもしているのか。どちらにせよ、滑稽なことには変わりない。「他人のことは放っておきなさい」美穂をたしなめつつ、志帆は腕時計に目を落とした。高村教授との約束の時間が迫っている。美穂もそれに気づき、弾んだ声で尋ねた。「ねえお姉ちゃん、今日呼ばれたのって、やっぱり直接弟子入りを認めてもらうためかな?」「まさか、そんなドラマみたいなこと」志帆は慎重に返す。驕りは禁物だ。だが太一が勢いよく割り込んだ。「いやいや、あり得るっしょ!志帆ちゃんほどの逸材、誰だって欲しがるって。高村教授も他の奴らに取られる前に、唾つけとこうって魂胆じゃね?」「買い被りすぎよ」そう笑いながらも、志帆の胸は心地よい期待で膨らんでいく。その時、それまで静観していた悠人が声を上げた。「父さん、こっち」見れば、一人の紳士がこちらへ歩いてくる。悠玄だ。志帆は面識こそなかったが、その顔は知っていた。『天宮グループ』を率いる現役の総帥。彼女は反射的に背筋を伸ばし、最上の笑みを浮かべる準備をした。悠人は父を伴い、志帆の前へと進み出る。まさに紹介の言葉を口にしようとした、その瞬間だった。悠玄の視線が、ふと志帆の背後へと逸れた。途端、厳格そうなその顔が破顔する。「お前もやっと目が覚めたか!ようやく江崎さんの下で学ぶ気になったんだな?」悠人の表情が、ピクリと凍りついた。彼が何か言うより早く、悠玄は声を張り上げてそちらへと歩き出してしまった。「やあ江崎さん、ご無沙汰しておりますな!」書類から顔を上げた詩織は、わずかに目を丸くしたものの、すぐにいつもの落ち着きを取り戻して会釈した。「お久しぶりです、神宮寺会長」悠玄はそのまま詩織の元へ行き、親しげに談笑を始めてしまった。取り残された悠人は、いたたまれなさそうに志帆を見た。「……本当は、君を父に紹介するつもりだったんだ」志帆の笑顔は微かに引きつっていた。ハンドバッグを持つ指先に、白くなるほど力がこもる。「いいのよ、気にしないで」精一杯の虚勢だった。「後で、また機会を作るよ」悠人はそうフォローするしかな
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第554話

そして――彼らの足が止まったのは、あろうことか詩織の前だった。先ほどの冷淡さが嘘のように、彼らは満面の笑みで詩織に話しかけている。高村教授が満足そうに頷きながら、詩織の肩をポンポンと叩く。まるで自慢の愛弟子を労うかのように。続いて海雲までもが、彼女のもう片方の肩に手を置いた。あの氷のように厳格な海雲の表情が、詩織の前では春の日差しのように和らいでいる。志帆は遠巻きにその光景を見つめるしかなかった。気づけば爪が掌に食い込み、痛みを感じるほど強く拳を握りしめていた。どうして……?それは、志帆がどれだけ渇望しても得られなかった、温かな眼差しと承認。太一が忌々しげに吐き捨てる。「おいおい、なんの冗談だよ。なんであの女ばっかりジジイ共にモテるんだ?『亀の甲より年の功』って嘘かよ、見る目なさすぎだろ!」志帆の思考は混乱し、ぐちゃぐちゃになりかけていた。それを救ったのは、柊也の冷静な一声だった。「行くぞ。高村教授の部屋へ」ハッとして我に返る。そうだ。今日、高村教授が自分を呼んだのは、弟子入りを認めるためなのだ。海雲が来ているのなら、むしろ好都合じゃないか。その決定的な瞬間を目撃させれば、私への偏見も、詩織への過大評価も、一気にひっくり返せる。ちょうどその時、詩織が高村教授に何か書類を手渡した。それを受け取ると、高村教授は満足げにうなずき、執務室の方へと歩きだした。詩織は海雲に寄り添い、その腕を支えながら後に続く。志帆たちは、その後ろをついていく形になった。普段なら、詩織ごときの後塵を拝するなどプライドが許さない。強引にでも追い抜いただろう。だが今回は、海雲がいる。彼の機嫌を損ねるわけにはいかない。あれほど騒がしかった太一でさえ、今は借りてきた猫のように押し黙り、大人しく最後尾をついてきていた。数歩進んだところで、悠玄が足を止め振り返った。息子がついてきていない。「悠人。何をのろのろしているんだ、こっちへ来なさい」「……はい」悠人は、父親に呼ばれてもどこか煮え切らない様子で、重い足を引きずるように前に出た。高村教授に案内された教授室は、想像以上に広々としていた。これだけの人数が一度に押しかけても、まだまだ余裕がある。「適当に座っていてくれ。少し確認したい書類があるんでね」高村
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第555話

太一がさらに何か軽口を叩こうとした瞬間、ふと視線がぶつかった。柊也と目が合ったのだ。凍りつくような、冷徹な瞳。その暗い深淵に射すくめられた瞬間、太一の背筋に冷たいものが走る。喉元まで出かけた嘲笑は、一瞬にしてどこかへ消え失せてしまった。……やっべ。さすがに、まずかったか。海雲おじ様や高村教授までいるこの場で、俺みたいのがヘラヘラしているのは品がない。それに俺は今日、あくまで志帆ちゃんの「応援団」だ。俺の態度が悪ければ、志帆ちゃんの評価まで下がりかねない。柊也のあの氷のような視線は、「余計な真似をして志帆の足を引っ張るな」という警告に違いない。太一は殊勝に口を噤んだ。だが、内心までは制御できない。ま、どうせすぐ恥かくことになるんだ。黙って見物させてもらうとしますか。そう思っているのは、太一だけではないようだ。「たかが点数見るのに、どんだけ時間かけてんのよ。満点でもあるまいし」美穂が聞こえるか聞こえないかの小さな声で毒づく。「……そもそも、この試験で満点が出た前例はない」隣にいた悠人が、生真面目な顔で訂正を入れた。「ちょっと、皮肉で言ってるの分かんないの?」「……ふっ」悠人は唇を引き結んだが、その瞳の奥には隠しきれない嘲笑が浮かんでいる。彼もまた、美穂の意見に同意しているのだ。その時だった。向かい側で詩織のスマホを覗き込んでいた悠玄が、驚きの声を上げた。「――255点?おいおい、大したもんじゃないか!」シン、と静まり返ったオフィスに、その数字がこだまする。255点……?その場にいた全員の思考が、一瞬停止した。それは、志帆が叩き出したのと全く同じスコアではないか。そんな偶然が、あり得るのか?悠人の目に浮かんでいた薄ら笑いが、驚愕へと塗り替わる。さっきまで嫌味を垂れ流していた美穂も、まるで平手打ちを食らったかのように沈黙した。そして、誰よりも動揺したのは志帆だった。完璧だったはずの鉄仮面が崩れ、目を見開く。嘘よ……今年の試験問題がどれほど難解だったか、受験した自分が一番よく知っている。あの江崎詩織に、そんな高得点が取れるはずがない!これは、間違いなく何かある。不正の匂いを嗅ぎ取ったのは、隣にいた太一も同じだったらしい。「あー、なるほどね。こないだあの女が、やたらと京介兄貴
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第556話

記者たちの色めき立つ気配が伝わる。鋭い嗅覚を持つ彼らは、即座にカメラのレンズを詩織へと向けた。特ダネの匂いを嗅ぎつけたのだ。だが、詩織は動じなかった。悠人の言葉が終わるや否や、静かに顔を上げ、彼の挑発的な視線を真正面から受け止める。彼女は手元のスマートフォンを置くと、落ち着き払った、しかし凛とした声色で切り返した。「神宮寺社長。私の成績に疑義があるとおっしゃるのでしたら、正式なルートで異議申し立てをなさってはいかがですか?確かな証拠がおありなら、ですが。この場で根拠のない中傷を撒き散らすのは感心しませんわ」その声は決して荒げていない。けれど、その堂々たる佇まいは、数多の修羅場を潜り抜けてきた経営者特有の、揺るぎない自信と迫力に満ちていた。隣に座っていた悠玄もまた、苦虫を噛み潰したような顔で息子を一喝する。「おい悠人!言葉を慎まんか!」父の叱責を受け、悠人は一瞬ひるんだものの、すぐに弁明を口にした。「……確かに、僕には直接的な証拠はありません。ですが父さん、志帆先輩は僕と同じWTビジネススクールを出た金融学の博士です。僕は留学中、彼女の論文を何度も拝読し、その実力を肌で知っています」彼はそこで言葉を切り、今度は冷ややかな瞳で詩織を見据えた。その声のトーンが、一段低くなる。「一方で、江崎社長はどうですか?最終学歴は学部卒止まり。論文の実績も皆無。在学中には成績最下位を取ったこともあると聞いています。卒業後はビジネスの現場にいただけで、アカデミックな研鑽を積んできたわけでもない。そんな人間が、たかだか二ヶ月程度の『泥縄』の受験勉強で、歴代最高スコアを叩き出す……これを怪しむなと言う方が、無理な話じゃありませんか?」隣でなりゆきを見守っていた志帆は、悠人の冷徹な横顔を盗み見て、小さく微笑んだ。もう、私が口を挟むまでもない。彼がこれほど厳しく追求してくれているのだから。胸のつかえが下りていくのを感じながら、彼女は優雅に沈黙を守ることにした。その空気を読んだのか、記者がここぞとばかりに切り込む。「つまり、江崎社長の得点は不正なものだと?」無数のレンズとマイクが一斉に詩織に突きつけられる。一瞬の動揺も見逃すまいというハイエナのような貪欲さだ。だが、詩織は眉一つ動かさなかった。悠人からの容赦ない糾弾も、目前に迫るカメラの砲
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第557話

固唾を呑んで、全員が高村教授の言葉を待つ。高村教授は悠然と口を開いた。「誰が、同じ点数だと言ったんだね?」「は?」記者は面食らって、志帆と詩織を交互に見やった。「い、いえ……お二人とも255点、ですよね……?」高村教授はふっと鼻で笑った。「とんでもない」その言葉に、美穂が金切り声で噛みついた。「何言ってるんですか!さっきお姉ちゃんのスマホで確認したばっかですよ!間違いなく255点でした!」高村教授は軽く手を振り、まるで聞き分けのない子供を諭すように言った。「だったら、もう一度見てみればいい」その余裕たっぷりの態度に、志帆の心臓が早鐘を打ち始める。嫌な予感がする。慌ててバッグからスマホを取り出すが、指先が震えてパスワードがうまく打てない。周りの取り巻きたちも、祈るように画面を覗き込む。重苦しい沈黙の中、ページが切り替わり――最新の結果が表示された。その瞬間、志帆の頭の中が真っ白に弾け飛んだ。「――っ、0点!?」美穂の悲鳴が上がる。太一も目を疑った。「はあ!?0点!?なんだよそれ!」悠人の表情が凍りつく。ゼロ?「嘘……そんなはずないわ!さっき見たときは、確かに255点だったのに!」志帆の声が裏返る。パニックで思考がまとまらない。唯一冷静だったのは柊也だけだ。「もう一度だ。更新してみろ」「そ、そうよお姉ちゃん!きっとバグよ、システムの不具合に決まってる!」美穂に急かされ、志帆は縋るような思いでログインし直した。お願い、間違いであって。だが。残酷な数字は変わらなかった。システムは正常。そこに表示されているのは、紛れもない「0」という数字だけだった。「ありえない!」美穂が金切り声を上げ、椅子を蹴るようにして立ち上がった。「これ絶対バグでしょ!ちょっと深見先生、早くなんとかしてよ!システム担当に連絡して直させて!」あまりの剣幕に深見が口を開くより先に、高村教授が冷然と言い放った。「バグではない。それが彼女の『正式な成績』だ」絶対的な宣告。美穂は喉を詰まらせ、部屋全体が水を打ったように静まり返った。重苦しい沈黙を破ったのは、悠人の震える声だった。「……なぜ、ゼロなんですか」高村教授は彼を見据え、端的に答えた。「失格。よって点数は無効だ」失格?なぜ?「なん
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第558話

静寂は、ほんの一瞬で破られた。今まで詩織を追っていたハイエナたちは、血の匂いを嗅ぎつけた途端、一斉に獲物を変えたのだ。「柏木さん!盗用というのは事実ですか!?」「なぜあんなことを?」「パース・テックの上場に影響は?」「コメントを!」フラッシュの嵐。志帆の仮面は完全に剥がれ落ちた。震える声で否定するのが精一杯だ。「ち、違います……私は、やってません……ッ」見かねた悠人が、割って入った。「やめろ!撮影はやめろと言っているだろう!事実確認が先だ!」彼は志帆を庇うように腕を広げるが、記者たちが止まるはずもない。無慈悲なシャッター音が鳴り響く。その混乱の中、ただ一人、異様なほど冷静な声が響いた。柊也だ。「……盗用だと断じる根拠は?」彼が高村教授に向かって問いかける。その言葉に、すっかり萎縮していた美穂が息を吹き返した。「そ、そうよ!証拠を見せなさいよ!名誉毀損で訴えますよ!」柊也が味方についてくれた。それだけで彼女たちの強気は復活する。悠人も必死に食い下がった。「先生、何かの間違いです。彼女の実績は僕が一番よく知っています。こんな初歩的な不正をするような人じゃありません」「ほう。なら、彼女自身に身の潔白を証明してもらおうか」高村教授は眉一つ動かさず、淡々と言い放つ。悠人はすがるように志帆を振り返った。「志帆先輩、下書きやデータは残っていますよね?」「……ええ。ただ、指導教官のウィリアム教授と連絡を取らせてください。このテーマは彼との共同研究なんです。彼なら、私の無実を証明してくれるわ」志帆の胸に、希望の灯がともる。そうだ、ウィリアムだ。ネタ元である彼さえ捕まれば、なんとでも言い訳ができる。彼に口裏を合わせてもらえば、この絶体絶命のピンチも切り抜けられるはずだ。悠人はすぐに高村教授に向き直った。「先生、彼女にチャンスをやってください。すぐに証明できるそうです」「……よかろう」高村教授もまた、知りたいのだ。あの論文が、どのような経路で外部に漏れたのかを。許可が出た瞬間、志帆はへなへなと座り込みそうになるのを堪え、立ち上がった。「失礼して……電話してきます」「お姉ちゃん、私も行く!」美穂が慌ててついていく。それはまるで、地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸にすがるような姿だった。志帆が部屋
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第559話

この場において、誰よりも息を潜めていたのは太一だった。詩織も255点を取ったと聞いた瞬間、真っ先に疑ったのは不正だ。だって、あの「学年ビリ」の女だぞ?落ちこぼれからの大逆転なんて、ラノベの中だけの話だ。現実にそうそうあるわけがない。だが深見教授の話を聞くうちに、その「ビリ」自体がただの手違いだったと知らされる。詩織は最初から、優秀どころの騒ぎではなかったのだ。実際の評価は260点。志帆が叩き出した点数すら、さらに5点も上回っている。さっきこっそり、助教をやっている友人に「260点ってどんなレベル?」とLINEを送ってみた。返信は即答だった。【天才】【いや、天才の中の天才だ】【高村教授の試験は難易度が狂ってる。俺が受けても180点か190点が関の山だぞ。260なんて神の領域だ】【このレベルになると、1点の差が絶望的なほどデカいんだよ】スマホの画面を見つめ、太一はさらに沈黙した。おまけに深見教授は、論文を読みながらまだ「点が辛すぎる」と嘆いている。つまり詩織の実力は、この点数にすら収まらないということだ。長い沈黙の末、太一は隣に立つ柊也に顔を向けた。「江崎……アイツ、マジでそんなにすげぇの?」柊也はこちらを見ようともしない。その視線は詩織だけに注がれている。瞳の奥には暗い熱が渦巻いているが、表情だけは凪のように静かだった。「今さら何言ってんだ」あくまで淡々としたその口調に、太一は息を呑む。「お前……知ってたのかよ」二人の視線が強すぎたのか、ふと詩織がこちらに顔を向けた。柊也は何食わぬ顔でふい、と視線を逸らし、瞳の感情を巧みに隠す。逃げ遅れた太一だけが、まともに詩織と目が合ってしまった。ヒッ、と喉の奥で悲鳴が上がる。ゾワリと背筋が凍りつくような悪寒に、太一はただ立ち尽くすしかなかった。焦りが頂点に達していた悠人だったが、ようやく志帆がオフィスに戻ってきた。彼女は高村教授に向かって、凛とした声で宣言する。「この論文が私の正真正銘のオリジナルである証拠、お見せします」「どうぞ」高村教授は手のひらをひらりと向け、プロジェクターの使用を許可した。志帆は余裕あふれる手つきで機器を接続し始める。その姿に少しも怯えは見えない。それを見て、悠人は胸をなでおろした。よかっ
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第560話

沈黙。その重い空気を、志帆は都合よく解釈した。証拠が完璧すぎるあまり、あの気難しい教授でさえケチをつける隙が見つからないのだ、と。勝利の確信が胸に満ちていく。そのとき——水を差すような声が響いた。「すみません、三枚目のスクショ、もう一回出せます?」声の主は詩織だった。志帆は眉をひそめ、冷ややかな視線を送る。これだけの衆人環視の中だ、断れるはずがないと踏んで、わざと難癖をつけてきているに違いない。内心で舌打ちしつつ、志帆は渋々三枚目の画像を表示させた。「拡大して」まるで部下にでも言うような短い命令。志帆の眉間の皺がさらに深くなる。たまりかねたように、美穂が噛みついた。「何様のつもりよ! あんたに指図される覚えなんてないわ!」だが、感情だけで動く相手など、詩織にとっては赤子の手をひねるようなものだ。彼女はふっと笑い、軽やかに、けれど鋭い一言を放つ。「まさか、怖いの?」その一言で、美穂は金魚のように口をパクつかせるだけで黙り込んだ。これ以上詩織にペースを握らせたくない。志帆はさっさと終わらせるべく、言われた通りに画像を拡大していった。「ストップ」詩織の声が響く。彼女は画面をじっと見つめ、静かに、だが確信を持って告げた。「これ、送信ボックスじゃなくて、受信ボックスね」志帆もなかなかに悪知恵が働く。わざと画面の端を切り取り、情報を曖昧にしているのだ。一昔前の海外製メールソフトなど、受信画面も送信画面も似たようなデザインで、大抵の人間は見分けがつかない。だが、相手が悪かった。かつてエイジアが海外進出を始めた頃、膨大なメール処理を一手に引き受けていたのは詩織だ。その画面構成は、網膜に焼き付いているどころか、身体が覚えているレベルなのだから。詩織の指摘は、的確に急所を突いていた。心臓がドクリと跳ねる。志帆の仮面のような冷静さが、一瞬だが確実に崩れかけた。「江崎社長も細かいことを気にされるんですね」嫌味をたっぷりと含んだ口調で返す。まるで自分の地位を守るために、必死で粗探しをしていると言わんばかりの態度だ。だが、指摘された以上は言い逃れを用意しなければならない。「ええ、おっしゃる通り、これは受信トレイの画面です。私が八年前に指導教官のウィリアム教授へ送ったメールを、教授側でスクショして
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