All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 561 - Chapter 570

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第561話

ついに我慢できなくなった悠人が、勢いよく席を立った。「どういう意味だ!?あんたがログインできるって、まさか……」志帆の唇から血の気が引いていく。スマホを握りしめる指先が白くなるほど力が入り、鼓動の音が耳元でうるさいほどに鳴り響いていた。……おかしい。こんな偶然、あるはずがない……!ウィリアムは言っていた。原作者と鉢合わせる確率は三千万分の一だと。だからこそ、彼が横流ししてくれた十数本のストックの中から、一番出来の良いこの論文を選んだのだ。詩織に勝ち、高村教授とのコネクションを手に入れ、その背後にある莫大なリソースを我が物にするために。今までずっと、このやり方でうまくやってきた。一度だって失敗したことはなかったのに。どうして、今回に限って?混乱の極みにある志帆をよそに、部屋中の視線は詩織の指先に釘付けになっていた。彼女は高村教授からノートPCを借りると、慣れた手つきで古いメールボックスを開く。そして、例の送信済みメールを表示させた。スクリーンに映し出されたのは、志帆が提示した画像のオリジナル版。だが、志帆の出した曖昧なスクリーンショットとは違い、そこには送信日時からヘッダー情報に至るまで、すべてが詳細に記されていた。それだけではない。詩織は受信トレイに戻ると、未読のまま放置されていた『WTビジネススクール』からの膨大なメールを次々と開いて見せた。『なぜ入学手続きに来ないのですか?』『連絡がつかないのですが、どうか返信を』『ブラックボックス投資理論について、さらに詳細な資料を求む』メールの日付が進むにつれ、内容はより必死さを帯びていく。入学すれば専用の栄誉プログラムを用意する。全額奨学金も保証する。そして最後のメールには、こう記されていた。『当校は、貴女のために学籍を永久に保留します。気が向いたらいつでも連絡をください』その画面を見た瞬間、室内の空気が完全に変わった。これらのメールは、詩織自身にとっても初見だった。あの日——留学を諦めると決めたあの日から、このアカウントには一度も触れていなかったからだ。親友のミキからは「あんたは一度決めたらテコでも動かない」と呆れられたものだが、まさか数年越しにこの扉を開ける日が来るとは。すべての操作はプロジェクターに投影され、衆
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第562話

「柏木さんはWTビジネススクールの博士号をお持ちだそうですが、そのタイトルも『正規のルート』で手に入れたものですか?」「あなたの行為は個人の問題にとどまりません。国際的な信用を損ない、真面目に研究へ打ち込む人々の顔に泥を塗ったという自覚はあるんですか?」記者の質問攻勢は容赦なく、鋭い刃となって志帆に突き刺さる。生まれた時からエリート街道を歩んできた彼女にとって、これほどの屈辱を味わうのは初めてのことだった。これまで彼女を信じ、支え続けてきた悠人は、その場に立ち尽くしていた。往復ビンタを何千回も食らったような衝撃と恥辱。長年抱いてきた憧れも、淡い恋心も、音を立てて崩れ落ちていく。その瓦礫の下で、彼は息もできないほど押し潰されていた。だが、詩織の手は緩まない。彼女はまっすぐに志帆を見据えると、凍りつくほど静かな声で告げた。「これでもまだ証拠不十分って言うなら、もっと決定的なものを出してもいいのよ」それに呼応するように、高村教授が重々しく宣言する。「私も既にすべての証拠を確認し、公証手続きに入った。だからこそ、彼女の成績を無効としたのだ」「それから——我々は法的措置も検討している」その言葉に、室内の空気が一瞬にして張り詰めた。法的責任の追及。それはつまり、博士号の剥奪、社会的信用の失墜、そして業界からの追放を意味する。ブラックリスト入りとなれば、今後のキャリアは完全に絶たれたも同然だ。志帆を四方八方から絶望的な寒気が襲う。恐怖の波に飲み込まれ、足元がおぼつかなくなる。あとずさりをした拍子に、彼女の身体がぐらりと傾いた。これは悪夢だ。何もかもが壊れていく。こんな結末、受け入れられるわけがない。視界が暗転し、糸が切れた人形のように崩れ落ちる。すぐそばにいたのは悠人だった。いつもの彼なら、迷わずその身体を支えていただろう。けれど今の彼には、指一本動かす気力も残っていなかった。ただ呆然と、憧れだった女性が床に倒れ伏す様を、虚ろな目で見下ろすことしかできなかった。「お姉ちゃん!」美穂の悲鳴が、しんと静まり返ったオフィスを引き裂いた。「お姉ちゃん、しっかりして! 誰か救急車呼んでよ! 柊也さん、早く!」美穂に急かされる形で、柊也が気絶した志帆を抱きかかえて出ていく。美穂も大慌てでその後
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第563話

個人的な内容かもしれない。詩織はプロジェクターの接続を切り、手元の画面だけでそのメールを開いた。本文はごく短く、たった一言だけ。それを読んだ瞬間、詩織の美しい眉がぴくりと動いたが、すぐに波のない湖面のような表情に戻ると、静かにパソコンを閉じた。他人のメールを覗き見るわけにもいかず、譲はそれ以上突っ込まなかった。それに周囲の関心は、もっぱら志帆の大胆すぎる不正行為の話題で持ちきりだったからだ。「徹底的に追及する。すでにWTビジネススクールへも連絡済みだ。近いうちに正式な回答が来るだろう」高村教授の声には怒りが滲んでいた。それを聞いて、深見教授がばつの悪そうに頭をかいた。「いやあ、私もお恥ずかしい限りだ。あの『ブラックボックス投資理論』を読んだ時は衝撃を受けてね。柏木君を絶賛した挙句、彼女の食事会にまで顔を出してしまった。もっと慎重になるべきだったよ。本当にすまない」深見は詩織に向かって深々と頭を下げた。詩織は軽く首を振って応える。知らなかったのだから仕方がない。海雲が、確認するように口を開いた。「つまりこういうことか? 柏木志帆があれだけの高得点を出せたのは、詩織の論文を盗んだからであって、彼女自身の実力ではないと?」「残念ながら、その通りです」深見は額の汗を拭いながら答える。「我々の試験は特殊で、共通科目はM国語のみ。難関なのは専門科目です。彼女は海外生活が長いですからM国語は問題ないとして……肝心の専門論文が盗作となれば、まあ、そういうことになりますな」言葉を濁したが、その意味するところは明白だった。『実力勝負なら、柏木志帆は箸にも棒にもかからないレベルだ』と。その事実は、悠人の胸に重くのしかかった。表情が複雑に歪んでいく。その張りつめた空気を、京介の軽快な声が破った。「どうです先生、一度は逃げられた愛弟子が戻ってきて。嬉しいでしょう?」「当たり前だ! あの小娘、心配させおって……だが今回の論文は見事だったぞ」「あら、それだけ?」詩織が楽しげに眉を上げると、高村教授は相好を崩した。今までの厳格さが嘘のようだ。「わかったわかった、最高だよ。文句ないか?」「それなら、今日の午後は風間先生のところへ診察に行ってくださいね。もう半月もサボってるって先生が怒ってましたよ」「うっ……」途端に高村教
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第564話

もし父が——自分がこれまで詩織に対して取ってきた数々の非礼を知ったら?下手をすれば、明日には勘当されるかもしれない。「とにかく、きちんとお礼をせねばならんな。八年越しの願いだ」「……はい。そうですね」悠人はただ、力の入らない声で同意することしかできなかった。一方、詩織を追いかけて外へ飛び出したのは譲だった。今日は出遅れてしまったが、せめて少しでも接点を持ちたい。「詩織さん!よかったら送るよ?車出してあるんだ」「お気遣いどうも。でも私の運転手が待機してますから」詩織は歩調を緩めず、さらりと断りを入れる。今は一分一秒でも惜しい。こんなところでのお喋りに付き合っている暇はないのだ。結局、譲は彼女が迎えの車に乗り込むのを指をくわえて見送るしかなかった。その直後、母の悦子から電話が入った。「どうだったの?うまくいった?」譲が今日の顛末を正直に話すと、受話口の向こうから罵声が飛んできた。「あんたって子は!どうしてそうトロいのよ!千載一遇のチャンスだったのに! 本当に誰に似たんだか、あんたじゃのろまな亀も捕まえられないわよ!」「母さん……言い方」「何よ、間違ったこと言った?」……否定できないのが辛いところだ。母の強烈すぎる愛情表現に、譲は天を仰いだ。一方そのころ、太一は従兄の京介の車で大学を後にしていた。いつもなら口から生まれたように喋り倒す太一が、借りてきた猫のように静かだ。その様子に、むしろ京介の方が調子を狂わされていた。「どうした、ショックだったか?」京介には、太一の頭の中で何が渦巻いているかなんてお見通しだ。太一は窓の外を見つめたまま、重々しく呟く。「俺……マジで自分が度し難いバカだなって思って」「自分を罵倒する時だけは語彙が豊富だな」「京介兄貴は、前から知ってたんだろ?」太一は探るように従兄の横顔を見た。「何のことだ?」「江崎が、あんなバケモノ級にすげぇってことだよ」「ああ、知ってたよ。あいつはずっと優秀だった。今日に始まったことじゃない」さらりと認める京介の言葉に、太一はさらに落ち込んだ。自分だけが何も知らず、ピエロのように騒いでいたのだ。「だったら、なんでエイジアにいた時はパッとしなかったんだよ?能ある鷹は爪を隠すってやつか?」「爪を隠してたわけじゃない」京介はハ
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第565話

八年前、WTビジネススクールの新学期。京介はキャンパスで詩織を待っていた。けれど、彼女は現れなかった。代わりに届いたのは、彼女が愛を選び、留学のチャンスを捨てたという知らせだけ。「あいつがそれを望むなら……あいつの幸せを祝ってやるのが筋だろう」そう自分に言い聞かせ、京介は身を引いた。それからの七年間、一度も連絡を取らなかったのは、あいつの幸せを邪魔したくなかったからだ。だが太一から「G市で柊也と志帆が再会したらしい」と聞いた時、京介の中で何かが切れた。慌てて帰国したものの、すぐに詩織に詰め寄ることはしなかった。「ていうか、帰ってきたならさっさと攻め込めばよかったじゃん」「お前は詩織を分かってない。あいつは追い詰めると逃げるんだよ。じっくり外堀を埋めていくしかない」それに——と京介は思う。この距離感も悪くない。俺はあいつが好きだが、あいつは誰のものでもない、自由な存在なのだから。……その頃、志帆の母・佳乃は、人生の絶頂にいた。普段ならお茶会の隅っこで愛想笑いを浮かべるだけの自分が、今日は主役だ。これまで冷ややかだった上流階級の奥様方が、手のひらを返したように擦り寄ってくる。その筆頭が、森下さんだった。電話を終えて戻ってきた彼女は、興奮を抑えきれない様子で佳乃に報告した。「佳乃さん!今主人から連絡があって、一週間後に金砂ホテルで高村教授の『入門式』が行われるそうですわよ!」「入門式!?」「ええ、本当ですのよ! 主人はあのホテルと取引がありますから、情報は確かですわ」周囲から驚嘆の声が上がる中、佳乃だけがいまいちピンときていない。「その……何か特別なことなの?」「ご存じありませんの? ただの学生ならそんなことはしません。入門式を行うのは、教授が正式な『後継者』として認めた証なんです!」「つまり志帆さんは、あの高村教授の愛弟子になられたってことですよ!」奥様方が、競うように佳乃を持ち上げる。「佳乃さん、これからは私たちとも仲良くしてくださいね」「本当、志帆さんは天才ですわ。海外帰りの博士様で、婚約者はあのエイジアの若社長……そのうえ高村門下だなんて!」「やっぱりお母様の教育が違うのね。今度ぜひ、子育ての秘訣を教えていただきたわ!」次々と浴びせられるお世辞のシャワーに、佳乃はす
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第566話

「今回の学術的な捏造について、母親としてどうお考えですか?」「柏木さんの名義で発表されている過去の論文についても、同様の盗作疑惑が浮上していますが?」矢継ぎ早に飛んでくる爆弾のような質問に、佳乃は脳震盪でも起こしたかのようにクラリとめまいを覚えた。さっきまで張り付いていた営業用の笑顔が、音を立てて剥がれ落ちる。「……何をおっしゃってるのか、さっぱり分かりませんわ!」佳乃はマイクを乱暴に手で払いのけ、逃げるように病室へと飛び込んだ。取り巻きの奥様方はというと、廊下で立ちすくんだまま、お互い顔を見合わせている。誰もが、今のやり取りに度肝を抜かれていた。つまり……あの完璧令嬢だと思っていた柏木志帆が、経歴詐称のペテン師だったってこと?なんてこった!真っ先に反応したのは森下さんだった。「あ、そういえば下の息子のお迎えに行かなくちゃ!失礼するわ!」蜘蛛の子を散らすように、他の者たちも次々と言い訳を並べて去っていく。ものの五分もしないうちに、志帆の不正疑惑はマダムたちのネットワークを駆け巡り、拡散されていた。病室内では、佳乃が怒りに震えていた。「一体どういうことなの!?」ベッド上の志帆は顔面蒼白で、まだ指先が小刻みに震えている。彼女の失神は演技ではなく、本物だったのだ。母の剣幕に押されながらも、彼女は口を閉ざしたまま何も答えられない。まさか、あの詩織ごときに足元をすくわれるなんて。これから周囲は自分をどう見るだろう?何より——柊也は?軽蔑される?それとも、婚約破棄……?頭の中がぐちゃぐちゃで、言葉が出てこない。しばらくして、ようやく呼吸を整えた佳乃が問い詰めた。「じゃあ、高村教授の入門式ってのは何なのよ?」さっき聞いた時は、てっきり娘のための晴れ舞台だと信じて疑わなかったのに。「……教授が弟子にするのは、江崎詩織よ」蚊の鳴くような声だったが、その言葉には隠しきれない屈辱が滲んでいた。「そんな、馬鹿な……」佳乃は魂が抜けたようにその場にへたり込んだ。長く、重苦しい沈黙が病室を支配する。やがて、佳乃がおそるおそる切り出した。「それで……柊也くんは?彼はどこにいるの?」……志帆の不正を暴くニュースは、その日の午後には駆け巡った。それも、デカデカとしたトップ記事扱
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第567話

「Uターンしますか?」ハンドルを握る湊が、バックミラー越しにこちらの様子を窺ってくる。「いいえ。このまま進んで」詩織は眉根を寄せ、冷ややかな視線を前方へ据えた。以前、避ければ避けるほど執着され、待ち伏せされた記憶がある。また妙な勘繰りをされるのも御免だ。下手に逃げ回るより、ここで堂々と対峙して片を付けた方がいい。湊は心得た様子で車を路肩に寄せ、エンジンを切った。「ここで待機しています」という合図だ。車を降りると、柊也の視線がまっすぐにこちらを射抜いた。頭上から降り注ぐ鈍い光が、彼の輪郭をぼんやりと縁取っている。その姿はどこか実体がなく、まるで夜の闇に溶けてしまいそうに現実離れして見えた。詩織は手首の時計に目を落とす。夜の九時半。こんな時間に、なぜここに?病院で、失意のどん底にいる志帆を慰めているはずではなかったのか。まさか、あの女の命乞いでもしに来たわけ?もしそうなら、彼は私という人間を買いかぶりすぎだ。それとも、志帆の立場を守るために、私が断れないような破格の条件でも提示しに来たのか。……まあ、それならそれで悪くない。今の私は、しがない商売人だもの。かつてのように「真心」だけを求めて、全てを失うような馬鹿な真似はもうしない。欲しいのは金、コネ、リソース。自分を利するものだけ。そこに愛だの情だのは、これっぽっちも必要ないのだから。詩織は彼との距離を詰めると、挨拶もなしに単刀直入に切り出した。「柏木志帆を助けてほしいの?」柊也は詩織の瞳をじっと見つめ、その瞳の奥に薄い笑みを滲ませた。「どうしてそう思う?」詩織は片眉を跳ね上げた。ハズレ?まさか。この期に及んで、まさか思い出話に花を咲かせに来たわけでもあるまい。「じゃあ、何の用?」自然と声色が鋭くなる。彼との不毛な謎かけに付き合う気はない。柊也は詩織の刺すような視線を真っ向から受け止め、いつもより深く、重い声で問いかけた。「あの試験の日……お前、何の病気だったんだ」は?詩織は思わず眉をひそめた。この男、頭の回路がショートしているんじゃないの?婚約者が人生の崖っぷちに立たされているというのに、それを放ったらかして、わざわざ私の家の前まで来て聞くことが、六年前の病名?本当に、どうかしている。「へえ、
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第568話

自分だって、のっぴきならない事情がなければ来なかっただろう。長昭のすがるような言葉に、太一は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。志帆の様子は、長昭の話よりさらに深刻だった。太一が顔を出しても、彼女はうつろな瞳でちらりとこちらを一瞥しただけで、すぐにまた瞼を閉ざしてしまったのだ。気まずい沈黙が流れる。椅子に腰掛けてはみたものの、肝心の「出資引き上げ」の話なんて、とても切り出せる雰囲気ではない。「……柊也は、今日来るのかな?」散々迷った挙句、ひねり出せたのはそんな言葉だった。志帆に直接言いにくいなら、いっそ代表代行を務めている柊也に話をつけようと思ったのだ。すると、付き添っていた佳乃が口を開いた。「志帆がこんな状態でしょう?今は『パース・テック』の経営を全部彼が見てくれているのよ。向こうで手一杯だから、こっちへ往復させるのも悪いと思って、来なくていいと言ってあるの」「あ、ああ……そうなんだ」またしても、重苦しい沈黙が降りてくる。太一はいたたまれなくなり、適当な理由をつけて早々に病室を後にした。廊下に出るとすぐ、柊也の番号をプッシュする。「もしもし、柊也?今、『パース・テック』にいるのか、それとも『エイジア』か? ちょっと話があるんだけど、今からそっち行ってもいいか?」「俺だ。……今は海外にいる」え?太一の足が止まる。佳乃おばさんは、彼が会社の後始末に追われていると言っていたはずだ。なんで海外になんか?疑問をぶつけようとしたその時、受話器の向こうから「カーン!」という乾いた音が響いてきた。オークション会場でよく聞く、あのハンマーの音だ。そして、司会者の高らかな声が漏れ聞こえてくる。「――おめでとうございます!賀来柊也様、八千万ドルにて落札です!」プツン。次の瞬間、通話は一方的に切られた。太一はスマホを握りしめたまま、ぽかんと立ち尽くした。八千万ドル……?またオークションかよ。こんな大変な時期に、あいつは一体、何を買い漁ってるんだ?病室のドアが閉まるのを待って、志帆はゆっくりとベッドから身を起こした。「柊也くんから、メッセージは?」佳乃が心配そうに覗き込んでくる。「……来てない」「電話も?」「ないわ」「なんなの、あの子」佳乃は苛立ちと不安がないまぜになった声で眉をひそめた
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第569話

以前なら、言われなくとも柊也に泣きついていただろう。彼ならその程度の金額、痛くも痒くもないはずだ。だが今は、状況が最悪すぎる。ただでさえ首の皮一枚でつながっている関係なのに、こんな醜聞を持ち込んだら、それこそトドメになりかねない。「じゃあ、どうするのよぉ!まさか壮翼を見殺しにする気?」和代がまた泣き崩れる。佳乃はギリっと奥歯を噛みしめ、決心したように顔を上げた。「なんとしても金を作るのよ。最悪、街金でも何でも借りるしかないわ」「お母さん、正気?60億円よ?誰がそんな額を貸してくれるのよ」志帆はこめかみを押さえた。「それに、闇金の利息なんて法外よ。返せるわけない」「大丈夫よ!」佳乃は娘の両肩を掴み、狂気じみた必死さで言い聞かせた。「いい、志帆。あんたはまだ柊也くんの婚約者なの。彼から正式に破談を言い渡されない限り、あんたは『エイジア・ハイテック』と『パース・テック』のトップ夫人よ。その肩書きさえあれば、再起のチャンスはいくらでもあるわ!」……詩織もまた、ここ数日は頭の痛い日々を送っていた。密がコーヒーを運んできた際、困ったように告げる。「あの、また神宮寺さんがいらしてます」「会わないわ」詩織の瞳に、隠しきれない苛立ちが走る。「そうお伝えしたんですが、どうしても待つと仰って……」「好きにさせて」結局その日も、悠人は門前払いだった。肩を落として帰宅した息子を見て、悠玄はすべてを察したらしい。「江崎さん、まだ会ってくれないのか?」「……ああ」悠人は深く項垂れた。「自業自得だ!この見る目のない大馬鹿者が!」悠玄の怒声が飛ぶ。悠人は何も言い返せなかった。返す言葉などあるはずがない。今日のこの屈辱は、すべて自分が蒔いた種なのだから。詩織に無視されるのは、当然の報いだった。「顔を見るだけで腹が立つ」とばかりに、悠玄はドアを乱暴に閉めて自室へ引っ込んでしまった。悠人はやり場のない気持ちを抱え、ふらりと外へ出て煙草を取り出した。路肩に立ち尽くし、指先でチリチリと燃える小さな火を見つめる。赤い光が明滅するたび、闇に沈んだ彼の顔が微かに照らされる。その表情は、後悔とも苦悩ともつかない深い闇を宿していた。何本吸っただろうか。再び箱を振ってみたが、空っぽだった。胸の内のモヤモヤは、煙と一緒に消えては
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第570話

「どうした?」受話器の向こうから聞こえてきたのは、微かに笑みを含んだ、妙に機嫌の良さそうな声だった。詩織は回りくどい挨拶を省き、単刀直入に尋ねた。「サザビーズのオークションで、絵画を落札したでしょう?」柊也は一瞬言葉を切り、「どの絵だ?」と聞き返してきた。その口ぶりからすると、どうやら一点や二点ではない、かなりの数を買い漁ったらしい。「『秋山幽谷図(しゅうざんゆうこくず)』よ」「……少し待ってくれ」三十秒ほどの沈黙が流れた後、再び彼の声が戻ってきた。「ああ、確かに買っているな。どうした、お前もあれを狙っていたのか?」「ええ。もしよければ譲ってくれないかしら。落札価格で買い取るわ」柊也はすぐにはイエスと言わなかった。「……高村教授への入門祝いか?」「そうよ」「分かった。どうにかして持ち帰ろう」「いくらなの?すぐに送金……」言いかけた時には、すでに通話は切れていた。仕方なくメッセージアプリを開き、【金額を教えて】と送信する。しかし、既読がつくだけで返信はない。一時間おきにスマホを確認しても、画面には自分の送信履歴が残るだけだった。結局、連絡があったのは翌日の夕方だった。会議を終えて部屋を出たタイミングで、スマホが震えた。「オフィスにいるか?」「ええ、いるわよ」「下に降りてこい」それだけ言うと、通話は唐突に終わった。詩織は慌ててエレベーターに飛び乗り、エントランスへ向かった。路肩には、ハザードランプを点滅させた柊也の車が停まっている。駆け寄ると、後部座席のウィンドウが下がり、柊也が無造作に掛け軸を差し出してきた。「ほら、欲しがってた絵だ」「ありがとう。で、代金はいくら……」言い終わらないうちに、後ろにつけたタクシーからけたたましいクラクションが鳴らされた。「出せ」柊也は短く運転手に指示を出し、車は夜の街へと滑り出していった。取り残された詩織は、ため息交じりにもう一度メッセージを送った。【いくら?振り込むから口座を教えて】しかし、夜になっても返信はない。ベッドに入る前、しびれを切らして電話をかけてみたが、コール音が虚しく響くだけで、ついに応答することはなかった。電話にも出ない、メッセージも無視。明らかに意図的に避けている。……まさか、こ
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