All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 571 - Chapter 580

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第571話

受話器の向こうから、呆れたような、それでいて微かに諦めが滲む声が聞こえた。「……何だ?」「お金よ」詩織は間髪入れずに切り込む。「振り込んだら戻ってきたわ。どういうこと?」柊也が小さく息を吐く気配がした。「あの絵はやるよ。俺からの贈り物だと思って受け取れ」「タダより高いものはないわ。そんなの受け取れるわけ……」言い返そうとした言葉を、彼は静かに遮った。「見返りは求めない。ただの……償いだ」柊也の声が、一段低く沈む。「今の俺には、金で解決すること以外、お前にしてやれることが何もないからな」一瞬の沈黙。「もう遅い。さっさと寝ろ。これ以上、この件で頭を悩ませるな。……おやすみ」ツーツーという電子音が、一方的に会話の終わりを告げた。「なによそれ、意味わかんないんだけど」事の顛末を聞いたミキは、心底理解不能といった顔でフリーズした。「『金以外、何もしてやれない』って何?詩織がいつ、その他の何かをねだったって言うわけ?そもそもあんたが一番辛かった時、あいつ何かしてくれたっけ?無視決め込んでたくせに!」ミキは鼻息荒く断言する。「ほんと、頭おかしいんじゃないの?」「同感ね」詩織も肩をすくめた。「何か悪いもんでも食べたのかしら」ミキは訝しげに目を細め、ストローをかじりながら推理を巡らせる。「まさかとは思うけど……アイツ、ゲス帆との婚約を破棄して、あんたにヨリを戻そうとしてるんじゃないでしょうね? もしそうなら軽蔑なんてもんじゃないわよ。最低最悪のクズ男確定だわ」「考えすぎよ」詩織は鼻で笑い飛ばした。「それはないわ。私とあいつ、似てる所がひとつだけあるもの。――一度吐き出したものを、また皿に戻すような真似はしない質だってこと」「ならいいけど」ミキは安心したように胸を撫で下ろした。詩織のことだ。タダで絵を受け取るなんて性分じゃないだろうし、何としてでも18億円を返そうとするに違いない。そこでミキは、ポンと手を打って名案を披露した。「ねえ、いっそ彼が金を受け取らないならさ、二人の結婚式のご祝儀にしちゃえば?」ミキは悪戯っぽくニヤリと笑う。「18億円のご祝儀なんて前代未聞よ。スッキリするし、ゲス帆への最高の嫌がらせにもなる。一石二鳥じゃない?」「ふっ……ミキ、あんた天才ね」「でしょ? 完璧すぎる作戦だわ!」ミキは自
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第572話

柊也くん、何を考えているの……志帆自身、今の柊也の心境を読み切れずにいた。だが、『パース・テック』の上場準備は最終段階に入っている。彼のような合理的な人間が、このタイミングで婚約破棄などというリスクを冒すはずがない。ビジネスにおいて、二人は一蓮托生なのだから。今は、耐える時よ。この学歴詐称騒ぎさえ鎮火すればいい。人の噂も七十五日。世間の記憶なんて曖昧なものだ。上場を果たし、正式に資本家(キャピタリスト)の仲間入りさえすれば、周囲の掌なんてすぐに返る。勝てば官軍。誰もが、成功した私の輝かしい姿だけを称え、媚びへつらうようになるだろう。そう、あと少し待てば、また笑える日が来る。自滅さえしなければ、活路は必ず開けるはずだ。だが、現実は非情だった。翌日、志帆は街金を回ったが、個人の信用だけで億単位の融資を引き出せるはずもなく、二、三軒回ってすべて門前払いを食らった。返済リミットは刻一刻と迫ってくる。追い詰められた志帆は、なりふり構わず知人たちに連絡を取り始めた。最初に選んだのは、太一だ。今回のスキャンダルが出た直後、真っ先に病院へ見舞いに来てくれた彼なら、まだ情が残っているかもしれない。コール音が数回鳴り、通話が繋がる。だが、スピーカー越しに聞こえてきた声は、以前よりも明らかに余所余所しく、温度のないものだった。「……志帆ちゃん、退院したんだ」「ええ、おかげさまで。太一くん、最近どう?忙しい?」なるべく明るく、親しげに振る舞う志帆。しかし、太一の言葉はその空気を鋭く切り裂いた。「いや、特には……それより志帆ちゃん、ちょうどよかった」「え?」「俺、パース・テックへの出資、引き揚げたいんだけど」志帆は口を開きかけたものの、言葉が出てこなかった。金の無心をするどころか、出資金を引き揚げたいと言われるなんて──完全に予想外の先制パンチだ。「……いや、実はさ、親父がずっと反対してたんだよ、パース・テックへの出資。そのせいで俺とずっと揉めててさ。親父、とうとう体調崩しちゃって……だから、まあ、親父への気休めってわけじゃないけど、ここらで手を引いとこうかなって」「それは……ちょっと困るわ。それに今抜けるなんて、損するだけよ?」志帆は必死に声を和らげ、なだめにかかった。「もうすぐ上場するの。そうすれば絶
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第573話

解放された壮翼が戻ってきた時、その姿は哀れなほどボロボロだった。体中あざだらけで、恐怖に震え上がっている。「なんてひどいことを……!」和代が悲鳴を上げ、慌てて救急箱を取りに走った。「大丈夫?痛いところはない?」家族全員が壮翼を取り囲み、大騒ぎで介抱している。だが、その輪の外側で、志帆だけが一人、沈んだ空気を纏っていた。誰も彼女の様子になど気付かない。一週間。あの日から、丸々一週間が経った。その間、柊也からは電話一本、メッセージひとつ来なかったのだ。「……疲れたから、先に休むわ」志帆はそれだけ言い残すと、早々に自室へと引きこもった。シャワーを浴び、重い気分のままベッドに潜り込もうとした、その時──スマホが鳴った。画面に表示された名前に、志帆の心臓が早鐘を打った。『賀来柊也』翌朝。志帆は久しぶりに念入りなメイクを施し、華やかなワンピースに身を包んでリビングに降りてきた。「おはよう!」その声は弾み、昨夜の鬱屈した様子が嘘のようだ。美穂は目を丸くした。こんなに機嫌のいい志帆を見るのは久しぶりだ。ピンときて、にやりと笑う。「……さては、柊也さん帰ってきた?」「当たり。どうしてわかったの?」「顔に書いてあるもん」美穂に冷やかされ、志帆は少女のような甘い笑みを浮かべた。「朝食はいらないわ。彼が迎えに来てくれるから、一緒に食べるの」「行ってらっしゃい」佳乃が満足げに送り出すと、志帆は足取りも軽く玄関へと向かった。志帆を見送った後、和代が安堵の息を吐いた。「よかった……二人の仲、大丈夫みたいね。柊也くん、ちゃんと志帆のこと愛してるんだわ」「ええ」佳乃も胸を撫で下ろす。「この間の借金の時、どうしてもダメなら、佳乃さんから柊也くんに泣きついてもらおうかって、実はハラハラしてたのよ」気が緩んだのか、和代はうっかり口がすべった。言ってしまってから、ハッとなる。まずいことを言ったという顔で、恐る恐る佳乃の表情を窺うと……案の定、佳乃の目は氷のように冷ややかだった。「ご、ごめんなさい!今のなし、忘れて!」和代は慌てて謝った。幸い、美穂はキッチンにいて聞いていなかったようだ。柊也にエスコートされ、二人は馴染みのレストランへと入った。席に着くなり、柊也が小さな箱を差し出した。「これ」そのサイズ感は、間
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第574話

向井が去った後、志帆は恐る恐る柊也の顔色を窺った。彼の様子は以前と少しも変わらない。平然として、静かなままだ。食事が進まない志帆に気づいたのか、彼がふと顔を上げる。「口に合わなかったか?」「ううん、そんなことないわ」その何気ない気遣いに、志帆の胸の痞えが少しだけ下りた気がした。食後、柊也はそのまま『エイジア』での会議へ向かうという。「ついでだから」と志帆を実家まで送り届けてくれた。帰宅するなり、美穂が目を丸くして出迎える。「早かったのね。てっきり一日中デートかと」「帰国したばかりだもの、会社が大忙しみたい。朝食の時間を作るだけでも大変だったんじゃないかしら」志帆はそう言って、彼からのプレゼントを手にソファへと腰を下ろした。美穂が獲物を見つけた猫のように飛びついてくる。「それ、柊也さんからの?」「ええ」「ジュエリーね!」「多分」「キャーッ!もしかして、あのルビーの!?」美穂は本人以上に興奮していた。その騒ぎを聞きつけたのか、佳乃と和代も二階から降りてきて、興味津々といった様子で取り囲む。実は、志帆も渡された瞬間は期待した。だが、すぐに思い直したのだ。以前美穂が言っていた通り、あのルビーには特別な意味があるはずだ。プロポーズ用なら、何でもない日の朝食で渡すわけがない。そう口にすると、美穂は少しだけ残念そうな顔をしたが、すぐに目を輝かせた。「じゃあ別のすごいヤツよ!海外のオークションでいろいろ競り落としたって聞いたし。どれも最低10億円はするって噂よ?」佳乃も待ちきれない様子で促す。「勿体ぶらないで、早く開けてみなさいよ」四人の視線が、志帆の手元一点に集中する。期待に満ちた空気を切り裂くように、彼女はゆっくりと蓋を開けた。「……」中身を見た瞬間、四人の顔が一斉に固まった。沈黙が流れる。その後、場を支配したのは何とも言えない微妙な空気だった。「……嘘でしょ?これだけ?」美穂が素っ頓狂な声を上げた。「どこにでもありそうな、安っぽいネックレスじゃない。本当に柊也さんのプレゼント?」「ちょっと、美穂!」志帆の表情が凍りついているのを見て取った和代が、慌てて娘の腕を引く。志帆自身、顔から火が出る思いだった。まさか、こんなものを渡されるとは夢にも思わなかった。以前彼が贈ってくれた煌
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第575話

その瞬間、志帆は屈辱で顔が焼けつくようだった。全員の視線が突き刺さる中、柊也の冷ややかな眼差しが彼女を捉える。先ほど石田を怒鳴りつけた時よりは幾分マシだが、その声には絶対零度の冷徹さが宿っていた。「では、柏木さんに説明してもらいましょうか。……ここ二四半期で生産されたAIチップの不良率が、なぜ60パーセントにも達しているのかを」「えっ……」提示された数字に、志帆は言葉を失った。六割だと?『パース・テック』の上場準備や大学院入試にかまけて、ここしばらく『エイジア・ハイテック』の現場には顔を出していなかった。特に受験勉強の追い込み時期は、実務のほとんどを従兄弟の壮翼に丸投げしていたのだ。まさか、そこまで事態が悪化しているとは夢にも思わなかった。「……申し訳ありません、資料を確認させてください」志帆は唇を真一文字に結び、震える手で書類をめくった。周囲が見下すような目で自分を見ているのが、肌で感じ取れる。会議室の空気は重く淀み、まるで真空の中にいるかのように息苦しい。胸の上に巨大な岩を乗せられたような圧迫感。ページをめくるたび、絶望的な数字が目に飛び込んでくる。不良率60%。製造業において、これは即ち「死」を意味する数字だ。長年取引のあった大口顧客たちが次々とクレームを寄せ、中には契約解除を通告してきている社もある。読み進めるほどに、血の気が引いていく。あの60億円の賠償金さえ補填すれば、全て隠し通せると思っていた。だが、そんなものは氷山の一角に過ぎなかったのだ。これから『エイジア・ハイテック』に降りかかる賠償請求の額は、あの60億の百倍どころでは済まない──志帆の顔からは完全に血の気が失せていた。これは、詰んだかもしれない。重苦しい沈黙を破るように、一人の株主が呻くように言った。「賀来社長……株式市場のほうは、もう手の施しようがありません」『エイジア・ハイテック』の株価は、以前の『花火騒動』ですでに大打撃を受けていた。それでも何とか持ち直し、これから回復に向かうはずだった矢先だ。そこへ来て、志帆の学歴詐称スキャンダルがトドメを刺した。投資家たちの信頼は地に堕ち、パニック売りが止まらない。株価は上場来最安値を更新し続け、もはや強制上場廃止が現実味を帯びてきている。柊也は背
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第576話

角田も海千山千の古狸だ。志帆が入ってくるなり、ぴたりと迷信話を止め、何食わぬ顔でビジネスの話へと切り替えた。「……まあ、そのまま破産申請するとなると、ダメージがでかすぎます。株主たちの突き上げも相当なものでしょう。そこでですが、一つだけ提案があります。うまくいけば、損失を最小限に抑えられるかもしれない」柊也が口を開くより先に、志帆がおっ被せるように反応した。「どんな方法!?」その必死さは、柊也を凌ぐほどだ。ここで会社を潰すわけにはいかない。もし倒産させてしまえば、「疫病神」のレッテルを貼られるだけでなく、柊也との関係にも亀裂が入る。何より、『パース・テック』の上場にまで飛び火しかねない。もし上場がポシャれば、あの高利貸しへの返済はどうなる?60億円だ。考えるだけで、背筋を冷たいものが這い上がってくる。角田は一呼吸置いてから、重い口を開いた。「……『エイジア・ハイテック』の技術と資産をパッケージ化して、中博に身売りするんです。まあ、向こうが買う意志があるかは別ですが」そこで言葉を切り、意味ありげな視線を柊也に投げる。「そこはほら、江崎社長との『よしみ』ってやつで。賀来社長から持ちかければ、交渉のテーブルには着いてくれるんじゃないですか?」志帆の表情が凍りついた。冗談じゃない。よりによって、このタイミングで柊也とあの女を接触させるわけにはいかない。だが、柊也の返答は冷淡だった。「却下だ。彼女は公私混同を一番嫌う」彼はけだるげに瞼を持ち上げ、角田を見据える。「それに……俺は彼女に嫌われている」角田はバツが悪そうに苦笑するしかなかった。「……そうですか。なら、破産申請しか道はないですね」志帆は膝の上で、拳をきつく握りしめることしかできなかった。……一方、撮影現場の待ち時間。ミキは暇を持て余し、いつものように詩織へメッセージを送っていた。【クズ也、今日こそ破産した?】相変わらずのパワーワードだ。殺人的なスケジュールの合間を縫って、詩織が返信する。【まだだと思うよ】途端に、大げさにガッカリしているスタンプが送られてきた。その直後、別の通知が画面にポップアップする。源治からの報告だ。内容を一読した詩織の瞳が、驚きで見開かれる。これは──彼女はすぐさまミキのトーク画面を開き、指を走ら
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第577話

バッグのストラップに爪が食い込むほど力を込め、志帆はどうにか怒りを押し殺した。「……では、いつならお時間が?ビジネスの話があるの」「生憎ですが、当分スケジュールは埋まっております」密は平然と、そしてあからさまに軽蔑の色を浮かべて答えた。完敗だった。志帆は屈辱に顔を歪ませながら、逃げるようにその場を去るしかなかった。車に戻ると、助手席の美穂が身を乗り出してきた。「どうだった?」志帆は、先ほどよりも一層険しい表情で答える。「……会ってもらえなかったわ」「はあ!?なにそれ、調子乗ってんじゃないわよ!」美穂が金切り声を上げて罵る。「ちょっと成功したからって、いい気になって!」罵倒したところで、現実は変わらない。八方塞がりだ。「どうするの?もう諦める?」美穂が心配そうに覗き込む。「諦められないわよ!」志帆はギリッと奥歯を鳴らした。ここで引くわけにはいかない。それは破滅を意味する。たとえどんなに屈辱的でも、あの女に頭を下げるしか道はないのだ。「でも、門前払いじゃ話もできないじゃない」「……場所を変えるしかないわね」志帆の脳裏に、週末の予定が浮かんだ。「彼女が現れる場所、一つだけ知ってるわ」高村教授の入門式だ。招待状はないが、何としても潜り込むしかない。撮影を終えたミキは、詩織からのメッセージを見て吹き出した。【ゲス帆が泣きついてきたけど、無視した】最高の展開だ。ミキはすかさず60秒のボイスメッセージを送信。詩織は学習していた。再生ボタンを押さず、文字起こし機能を使う。画面に表示されたのは、『ハハハハハ……』という文字の羅列。予想通りだ。続いて届いたのは、たった一秒の音声。これなら大丈夫だろうと再生すると、『ザマァ!』と、短くも心の底からの叫びが響いた。ミキ【で、何の用だったの?】詩織【恐らく、エイジア・ハイテックの件ね。破産されたら困るから、うちに買収してほしいんでしょ】ミキ【なるほどねー、そりゃ焦るわけだ】確かに志帆にとっては死活問題だろう。だが、詩織に彼女を助ける義理などこれっぽっちもない。そもそも『中博』はすでに独自の技術革新に成功し、必要なリソースも確保済みだ。今さら落ち目の会社を買収するメリットなど皆無なのだ。ミキ【クズ也のほうからは連絡ないの?】詩織【
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第578話

「ただ聞いただけだろ。俺をなんだと思ってるんだよ」澪士が抗議するも、雲斗はバッサリと切り捨てた。「ろくなもんじゃない、ってとこかな」澪士「……」俺の人望、なさすぎないか?雲斗は面白そうに続ける。「ま、噂じゃ今度入るコはかなりの美人で、今はフリーらしいけど……つい最近、男で手痛い失敗をしたばかりとか。体の怪我より、心の傷のほうが治りが遅いって言うしね。今は付け入る隙なんてないと思うよ」その言葉に、律がちらりと隣の千尋を見た。自分の過去でも重ねたのか、感づいた千尋がすかさず睨む。「律、なに変に共感してんのよ」「別に」「顔なら、悠人に聞けばいいだろ。会ったことあるんだし」澪士は、さっきから貝のように黙りこくっている末っ子に矛先を向けた。興味津々な様子で身を乗り出す。「で? 実際のところどうなんだ、その新しい子ってのは」悠人の視線は、遠くを彷徨っていた。焦点の定まらないその瞳は、こぼしたばかりの墨汁のように暗く、どこまでも深い。「……綺麗です」一拍置いて、彼は噛み締めるように繰り返した。「とても、綺麗な人です」そこまで言われて、澪士が食いつかないわけがない。「おいおい、もったいぶるなよ。なんだってまだ来な――」言いかけた時、会場の入り口がざわめいた。ふと視線を向けた澪士は、数秒間呆気にとられ、ぽつりと漏らす。「……おい。本物の天女が降りてきたぞ」隣で誰かが「あれが江崎詩織だ」と囁く。腐るほど美女を見てきた澪士でさえ、息を呑むほどの衝撃だった。会場には着飾った令嬢たちが溢れ、百花繚乱の様相を呈している。だが、詩織は違った。極めて薄い化粧。だというのに、いや、だからこそ、作為のない研ぎ澄まされた美しさが圧倒的な存在感を放っている。その姿を目で追いながら、澪士は本気で理解できないという風に首をかしげた。「……一体どこのどいつだよ。あんな奇跡みたいな女を傷つけるような馬鹿は」今回の宴は、いつもの社交場とは明らかに毛色が違っていた。学会の重鎮たちに加え、江ノ本市どころか全国から財界の大物が集結している。これが所謂、「特級の人脈」というやつか。向井社長がなりふり構わず頭を下げてまで招待状を欲しがったのも無理はない。ここには無限のチャンスが転がっているのだから。会場では、高村教授が片時
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第579話

詩織と千尋は出会った瞬間から意気投合し、まるで旧知の仲のように談笑していた。その様子を眺めながら、澪士が律の脇腹を小突く。「やっと千尋さんの相手をしてくれる人が現れたな。これでお前らの熱々ぶりを見せつけられなくて済む。正直、胸焼けしてたところだ」律はただ、愛しげな眼差しを千尋に向けたまま、何も言わず微笑むだけだった。少し遅れて、京介が会場に現れた。まさに絶好のタイミングだ。新たな門下生を迎えるため、先輩たちはそれぞれとっておきの祝いの品を用意していた。律と雲斗が差し出したのは、『オデッセイ・ファンド』の名が入った白紙の契約書。資金が必要ならいつでも用立てる、という無言だが絶大な後ろ盾の証だ。澪士からは、『オデッセイ・グループ』の株券。あまりに直球な贈り物に、彼らしさが滲む。そして京介が手渡したのは、透き通るような翡翠のペンダントだった。一目で最高級品とわかる輝きを放っている。「いつまでも平穏無事であれ」そんな彼の願いが込められているようだった。最後に悠人の番が回ってきたが、彼は少し言い淀んだ。「……僕のは、まだ準備中なんです」「お前は後輩なんだし、別にいいだろ」澪士が軽く流すが、悠人は頑として首を振った。「いえ、贈らせてください」どうしても渡したいものがある。ただ、あと数日待たなければならないらしかった。もちろん、詩織からも高村教授への贈り物があった。広げられたのは、名匠の手による『秋山幽谷図』の模写だ。模写とはいえ、その筆致は国宝級といっていい。「あっ、これ!」澪士が思わず声を上げた。「俺もこの絵知ってるぞ。先週オークションに出てたやつだ。落札価格は確か18億円。俺も狙ってたんだけど、競り負けちゃって……まさか競り落としたのが詩織ちゃんだったとはな」高村教授は、絵を食い入るように見つめている。目尻の下がり具合を見れば、その贈り物が彼の琴線にどれほど触れたか、聞くまでもなかった。……金砂ホテルのエントランス前。志帆がそこに立ち尽くして、もう二時間が過ぎていた。冬の夜風が容赦なく肌を刺し、体の芯まで冷え切っている。本来ならロビーで待つはずだった。けれど、今夜は全館貸切。招待状を持たない人間は、足を踏み入れることさえ許されないと言われ、追い出されたのだ。だから、ここで震えなが
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第580話

どんなに悔しくても、今日ここに来た目的を忘れるわけにはいかない。志帆は煮えたぎる嫉妬を必死に押し殺し、詩織のほうへ歩き出した。あと少しで声が届く、その時だった。突然、横から人波が押し寄せてきた。カメラやマイクを抱えた集団が、詩織めがけて殺到したのだ。不意を突かれた志帆は、誰かの体に弾き飛ばされ、無様に地面へ転がる。混乱する間もなく、顔面に鈍い衝撃が走った。硬い何かに頬を強打され、あまりの痛みに視界が涙で滲む。「あっ、すみません!大丈夫ですか!?」慌てて謝ってきたのは、大きな三脚を担いだカメラマンだった。あの金属の塊が顔を直撃したのだ。彼は申し訳なさそうに手を差し伸べてきたが、ふと訝しげに首を傾げた。「あれ……?なんだか見覚えがあるような……」志帆は反射的に顔を背けた。「……結構です」早口で拒絶し、自力で立ち上がる。大事ないと見たのか、カメラマンはすぐに興味を失い、「失礼しました!」と詩織の取材合戦へ戻っていった。去っていく背中を見ながら、志帆は安堵のため息をつく。――バレなかった。彼が首から下げていたIDパスには、大手経済ニュース番組のロゴがあった。もし正体がバレていたらと思うとぞっとする。論文盗作スキャンダルのほとぼりはまだ冷めていない。世間から隠れるように息を殺して生きてきたのに、ここでマスコミに見つかるわけにはいかないのだ。ぶつけられた頬がズキズキと熱を帯びている。だが、傷を気にする余裕などない。志帆の視線は、再び詩織へと吸い寄せられた。彼女は今、何重もの記者に取り囲まれ、矢継ぎ早に飛んでくる質問を涼しい顔で捌いている。そこへ、遅れて出てきた高村教授たちも加わった。滅多にメディアの前に姿を見せないあの伝説的な教授が、わざわざ愛弟子のために顔を出したのだ。それだけで、彼女がどれほど特別扱いされているかがわかる。集まっているのは、いずれも一流メディアばかり。軽く数えても十社はいるだろうか。北里市のテレビ局まで来ている。かつて母・佳乃が自分のためにメディアを呼んだときは、あちこちに頭を下げて、やっと一社来てくれただけだった。なのに、詩織はどうだ。何もしなくても向こうから押し寄せ、彼女の言葉を拾おうと必死になっている。業界の重鎮たちに守られ、フラッシ
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