七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した のすべてのチャプター: チャプター 701 - チャプター 710

715 チャプター

第701話

結果として、詩織がとっくに帰国してバリバリ働いている間も、悠人は独りキャンパスに残り、地道に単位を稼ぐ日々を送っている。父親の悠玄からも、先日電話でこう言われたばかりだ。「悠人、江崎さんはもう帰国したぞ。一体いつまで遊んでるつもりだ?」「……遊びたくて遊んでるわけじゃないよ、父さん」悠人は力なく、そう答えるしかなかった。このビジネススクールの単位取得がどれほど過酷か、知らないくせに。悠玄は苛立ちを隠さずに続けた。「情けないヤツだ。わざわざ海外まで彼女を追いかけておきながら、みすみす指をくわえて見ていたのか?『近くにいれば想いが通じる』なんて甘い考えじゃなかったろうな。せっかく同じ釜の飯を食うチャンスを与えてやったのに、お前ときたら……手ぶらか!」だが、その点に関して悠人は妙に達観していた。「父さん。はっきり分かったんだ。詩織先輩は、僕のことなんて男として見てないって」「なんだと?」「僕が彼女に抱いている感情も、恋愛というより……崇拝に近いんだと思う」息子のあっけらかんとした言葉に、悠玄はがっくりと肩を落とす気配がした。「……それでお前、一生そのまま彼女の金魚のフンでいるつもりか?」「うん。それが僕の生きる道かなって」「……」悠玄はあまりのことに返す言葉を失った。我が息子ながら、ここまで来るといっそ清々しいというか、開いた口が塞がらないというか。かける言葉が見つからないとは、まさにこのことだった。アシスタントの密が、小ぶりのみかんを籠に入れて入ってきた。「これ、秘書課の早川さんからの差し入れです。彼氏さんのご実家から送られてきたものらしくて、すごく甘いんですよ」詩織は一つ手に取り、皮をむいて口に運んだ。確かに、濃厚な甘みと適度な酸味が広がる。美味しい。「……で、そのみかんを食べたからには、責任取ってもらいますよ?この後の婚約祝いパーティー、詩織さんも強制参加ですからね」密が悪戯っぽく笑う。詩織は手の中の半分になったみかんを見つめ、苦笑しながら「はいはい」と頷くしかなかった。夜のパーティー会場。主役の早川とその婚約者は、なんと高校時代からの付き合いだという。まさに「制服からウェディングドレスへ」という王道の純愛ストーリーに、周囲は羨望のまなざしを向けていた。「いいなぁ。私なんて高校の頃といえば、『推
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第702話

廊下は静まり返っており、他には誰もいない。詩織の姿は既に角を曲がって見えなくなっていたため、廊下に出てきた柊也と鉢合わせることはなかった。柊也は大股で歩き去っていく。あとから転がるように太一が追いかけてきた。小走りでないと追いつけない速さだ。「柊也、待ってってば!もしかして酒飲んで具合悪くなった?病院行くか?」「要らない」不意に柊也が足を止めたため、太一は危うくその背中に衝突しかけた。柊也が振り返り、冷ややかな視線を向ける。「ついて来るな」「でも……」太一の顔には、隠しきれない不安が張り付いている。また、どこかで死のうとしているのではないか――そんな恐怖だ。「お前の心配事は分かってる。だが、当面その予定はない」柊也は淡々と告げた。太一が「なんで?」と聞くより先に、彼は独り言のように続けた。「……詩織が江ノ本大学で客員講義をする。七回シリーズだそうだ。俺は、その全講義を聴きに行くつもりだ」そして、釘を刺すように付け加えた。「だから邪魔するな」「……」太一はぽかんと口を開けたが、すぐに合点がいった。なるほど、そういうことか!「了解!」太一は大きく頷いた。「分かった、邪魔はしない。でも酒飲んでるだろ?運転はマズいって。ウチの運転手に送らせるから……」あわよくば、これでこいつの隠れ家を突き止めてやる。太一は内心ほくそ笑んだが、その魂胆はあっさりと見透かされていた。「タクシーで帰る」柊也は有無を言わせぬ口調で拒絶すると、今度こそ振り返らずに去っていった。残された太一は、遠ざかっていくその冷たい背中を見送った。だが不思議と、先ほどまでの焦燥感は消えていた。今の彼において、「死にたい欲望」よりも「詩織を見たい執着」が勝っていることは明白だ。少なくとも、彼女の講義が続いている間は、彼は絶対に死んだりしないだろう。太一は胸をなでおろし、久しぶりに安堵の息をついた。これでしばらくは枕を高くして眠れそうだ。……詩織の講義は、毎週月曜日と水曜日の午後――いわゆるゴールデンタイムに設定された。学生たちが最も受講しやすい時間帯であることに加え、講師である詩織自身の華々しい経歴と知名度も手伝って、受講予約は瞬く間に埋まった。だが、柊也は誰よりも早く教室に現れた。彼が到着した時、広い講堂にはまだ人の
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第703話

隣に座っていた男子学生が、不審そうな顔で話しかけてきた。「だってさっきから君、一文字もノート取ってないじゃん。ずっと前のほう睨みつけてるし、なんか変だよ」柊也の喉仏が上下に動く。しばらく沈黙した後、彼は絞り出すような声で苦しい言い訳をした。「……カバンごと盗まれたんだ」完全に油断していた。詩織を見ることに夢中で、学生になりすます演技がおろそかになっていたのだ。幸い、最果ての席だったおかげで詩織本人には気づかれずに済んだが、周囲からは完全に浮いている。人間とは、どうしてこうも貪欲なのだろう。最初は、ただ遠くから一目その姿を見られれば十分だと思っていた。それが叶うと、次は声を聞きたいと願った。そして声を聞けば……今度はこの距離がもどかしくてたまらなくなった。もっと近くへ。あと少しだけでも、彼女のそばへ。――そんな渇望に抗えず、二回目の講義で、柊也は座る位置を五列前に進めた。もちろん、詩織の視界に入りにくい端の席であることは変わらない。今回は準備も万端だった。帽子とマスクの変装に加え、新品のノートとペンも持参した。これで怪しまれることはない。だが講義が終わってみれば、彼のノートには「詩織」「Shiori」という文字がびっしりと書き連ねられているだけだった。金融の講義内容など、一行たりとも記されていない。隣の席の学生が他人のノートを覗き込むようなお節介でなくて、本当によかったと思う。そして、欲望はさらに加速する。二回ともバレなかったという安堵感が、彼を大胆にしたのだろうか。三回目の講義で、柊也はさらに五列前へと進出した。この大階段教室は全部で二十列ある。つまり、彼は今ちょうど真ん中の列に座っていることになる。席自体は端の方だが、室内での帽子にマスク、サングラスという重装備は、どうしたって目立つ。講義中、詩織の視線が何度かこちらの方向をかすめたような気がした。そのたびに、柊也の心臓は早鐘を打った。かつて巨大企業のトップとして幾多の修羅場をくぐり抜けてきた男が、まさか授業中に先生に指されるのを恐れる小学生のように縮こまるとは。人生でこれほど緊張した瞬間はなかったかもしれない。冷や汗をかきながら、なんとか今日も無事にやり過ごせる――そう思った矢先だった。講義の締めくくりとして、詩織が学生をラン
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第704話

もう、あの教室に行くことはできない。唯一の生きがいを失った柊也に、太一はここぞとばかりに提案を持ちかけた。「だったらさ、その時間を治療に充てようぜ。掛川先生のカウンセリング、受けてみないか?」最初は頑として首を縦に振らなかった柊也だが、太一の次の一言で心が揺らいだ。「もし万が一、この先あいつと正式な場で顔を合わせることになったらどうするんだよ?今のそのボロボロにやつれ果てた姿を、江崎に見せるつもりか?」それは嫌だ。詩織の記憶の中にある自分は、いつだって完璧で傲慢な賀来柊也であってほしい。こんな廃人のような姿など、死んでも見られたくない。「……分かった」柊也はついに折れた。その承諾の言葉を聞いた瞬間、太一は心の底から安堵の吐息を漏らした。やっぱり、この男を動かすには「詩織」という切り札が最強らしい。……土曜日。詩織は小春を連れて、響太朗が手配してくれた心療内科の名医、掛川一樹のクリニックへと向かっていた。移動中の車内でも、詩織は休むことなく仕事の報告を受けていた。小春はその隣で、邪魔にならないように膝の上で手を重ね、静かに座っている。「――以上が今週の進捗です」アシスタントの密が定例の報告を一通り終えると、少し声を潜めて『ココロ』の件を切り出した。「それから、開発部の田辺部長から報告が上がってきています。ここ二回ほど『ココロ』側との打ち合わせに行ったそうなんですが、あちらの協力が得られず難航していると……何かと理由をつけてはスケジュールを先延ばしにされるそうで、久坂さんが出張で不在なのをいいことに、かなり対応が雑になっているようです」「わかったわ」詩織は短く答え、すぐに智也の携帯を鳴らした。しかしコール音は鳴らず、電波の届かない場所にいるか電源が入っていないというアナウンスが流れるだけだ。仕方なく、詩織は『メッセージを見たら折り返して』とだけ送信し、スマホを置いた。ちょうどそのタイミングで、車は掛川のクリニックに到着した。詩織は膝上のノートパソコンを閉じ、小春を連れて車を降りる。クリニックに入ると、掛川のアシスタントが丁寧に出迎えてくれた。予約の時間よりも三十分ほど早く着いてしまったため、掛川はまだ前の患者の診察中だという。「申し訳ございませんが、少々お待ちいただけますか?」そう案内された
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第705話

「ほんとだもん!さっきのおじちゃん、ほんとにかっこよかったの!おでこに傷があったけど、それでもすっごく素敵だったんだから」小春は自信満々に力説する。額の傷、という言葉に詩織の足が止まりかけた。一瞬、脳裏にある男の顔がよぎった。だが、その残像はすぐに雑多な思考の波にかき消された。結局、詩織は微笑んで小春の頭を優しく撫でるだけに留めた。「さあ、先生とお話しする時は、ちゃんと言うこと聞くのよ。わかった?」小春がカウンセリングを受けている間、詩織は待合室で静かに時を過ごした。しばらくして診察室から出てきた小春の手には、折り紙で作られたカエルが握られていた。「見て、先生がくれたの。お尻を押すとぴょんって跳ぶんだよ。かわいいでしょ」小春は自慢げにそのカラフルなカエルを見せてくれた。「先生からのプレゼントなら、大事にしなきゃね」「うん。掛川先生ね、患者さんが来るたびに、こうやって色とりどりのカエルを折って渡してくれるんだって」小春は愛おしそうにカエルをポケットにしまった。さすがは心の専門家だ。こうした小さな遊び心が、患者の緊張を和らげるのだろう。たった一度のカウンセリングだが、小春の表情は来る時よりも明らかに明るくなっていた。ビルの下には、すでに運転手の湊が車を回して待機していた。詩織と小春が乗り込むと、車は滑らかに走り去っていく。そのテールランプが見えなくなったタイミングで、植え込みの陰から一台の車が姿を現した。ハンドルを握っているのは太一だ。「ほら、柊也。やっぱり来て正解だっただろ! まさかこんなところで江崎拝めるとはなぁ」助手席の柊也は何も答えなかった。ただ静かにウィンドーを下ろし、一本のタバコを取り出して火をつける。だが、それを口に運ぶことはない。紫煙が風に流されるのをただぼんやりと見つめ、タバコが根元まで燃え尽き、指先に熱を感じる限界まで待ってから、ようやく灰皿に押し付けた。その間、太一は息を殺していた。隣に座る男が纏う空気が、あまりにも重く、沈痛だったからだ。太一は柊也の住まいすら聞けないまま、ただ指示された場所へと車を走らせた。指定された場所近くに車を停め、柊也を下ろす。太一はあたりの景色を見回し、ふと首を傾げた。どこかで見たことがあるような街並みだ。だが、それがどの記憶と結びついて
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第706話

無事に母の診察を終え、腎臓内科を後にする頃になって、詩織はふと疑問を抱いた。なぜ柊也は腎臓内科にいたのだろう?一般的な健康診断なら、わざわざ専門の腎臓内科を受診する必要はないはずだ。何か精密検査でも受けていたのだろうか。まあ、入念に身体のメンテナンスをしているだけかもしれない。詩織はそれ以上深く考えるのをやめた。頭の奥底で、誰かが警告しているような気がしたのだ。『詩織、振り返るな』と。それでも、帰りの車中でも胸のざわめきは消えなかった。そのせいか、車を降りる際、後部座席から前のシートにある検査結果を取ろうとして、ルームミラーにぶら下げてあったお守りの紐を引っ掛けて切ってしまった。それは初めて車を買った時、密がわざわざ寺で受けてきてくれた交通安全のお守りだった。車を乗り換えるたびに、密がマメに付け替えてくれていたものだ。詩織自身は「あ、切れちゃった」程度にしか思わなかったが、横にいた初恵は顔色を変えた。「あらやだ、縁起が悪いわね……」母が気にするのも無理はない。年配の人は、こういう予兆めいたものを信じがちだ。「貸してご覧なさい。明日にでも葉山の仏田寺に行って、お焚き上げしてもらってくるわ。新しいお守りも受けてこないとね」「いいわよ、今度自分で行くから」詩織はやんわりと断った。母の体調を考えれば、そんな遠出はさせられない。「じゃあ、絶対にちゃんと納めに行くのよ。約束ね」車を降りる際もしつこいくらいに念を押され、詩織が「わかった」と頷いてようやく初恵は安心したような顔を見せた。母を実家に送り届けると、詩織はそのまま会社へ戻って残業に取り掛かった。コーヒーを運んできた密が、デスクの上に無造作に置かれた紐の切れたお守りに気づいて声をかけてきた。「詩織さん、それ……」「ああ、さっき不注意で切っちゃって」仕事に集中していた詩織は、モニターから目を離さずに短く答える。密もそれ以上は何も言わず、静かに社長室を退室していった。ここ数日、詩織は多忙を極めていた。手掛けている二つのプロジェクトがIPOの準備段階に入っていたからだ。再びお守りのことを思い出したのは、それから一週間ほど経ってからのことだった。ちょうど時間が空いたその日、空模様は生憎だった。秋の訪れを告げる冷たい雨が、しとしとと降
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第707話

僧侶に呼びかけられ、詩織はようやく我に返った。心臓が早鐘を打っている。「あ……すみません」「こちらです、どうぞ」僧侶は何事もなかったかのように、再び歩き出した。お焚き上げと祈祷は、寺の住職が直々に執り行うことになっていた。読経の際、祈願者の名前を読み上げる必要があるためだ。「このお守りをお受けになったのは、どなたでしょうか?」住職の問いに、詩織は正直に答えた。「小林密という者です」住職は手元の端末で記録を検索したが、不思議そうに首を横に振った。「おやおや……そのようなお名前は見当たりませんな」「そんなはずは。彼女から直接受け取ったものですから」詩織も戸惑いを隠せない。「では、いつ頃お受けになったか覚えておいでですか?」詩織が記憶にある時期を伝えると、住職は再び検索をかけた。だが、やはり該当する期間に小林密という名前は一件もヒットしなかった。それでも、目の前にあるお守りがこの寺のものであることは間違いない。困惑した詩織は、その場で密に電話をかけた。最初は言葉を濁して誤魔化そうとしていた密だったが、寺にはきちんとした記録が残っており、自分の名前がないことが露呈していると知ると、観念したように口籠った。「詩織さん……ごめんなさい。本当のことを言うと、そのお守り、私が受けたものじゃないんです」「どういうこと?じゃあ誰なの?」密は沈黙した。詩織が語気を強めて問い詰めると、彼女は恐る恐る、その名前を吐き出した。「……賀来社長です」「賀来、柊也……?」「あの方が、私に託したんです。自分の名前を出したら、絶対に受け取ってもらえないからって、名前は伏せておいてほしいと……本当にごめんなさい、私……」電話の向こうで密が謝り続けていたが、詩織の耳には遠くの音のようにしか聞こえなかった。頭の中で、鋭い耳鳴りが響いている。理解できなかった。なぜ?なぜ、柊也がそんなことを?彼が愛しているのは、柏木志帆ではなかったのか。だったら、なぜ影でこんな無意味な真似をする必要がある?いま初めて、彼女は気づいた気がした。自分は賀来柊也という男のことを、何ひとつ理解していなかったのではないか、と。呆然としたまま納経所を後にし、詩織は再びあの竹林を通った。そして、またしても見てしまった。
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第708話

その自暴自棄な言葉に、太一は戦慄した。自殺念慮かと身構える。柊也はそんな友人の反応を見透かしたように、ふいと顔を背けた。「眠い。邪魔するな」そう言って目を閉じてしまう。「……」太一は口を開きかけたが、何も言えずに鼻をこすった。結局、大人しく部屋の隅で気配を消すことにした。今の柊也は、触れれば壊れてしまいそうな硝子細工のように脆い。下手に刺激するのは危険だ。金曜日、詩織は江ノ本市へ戻った。空港まで迎えに来たのは密だった。やはり後ろめたいのだろう。その態度はいつもに増して慎重で、どこか怯えているようにも見えた。そんな姿を見ていると、詩織の方もかえって心苦しくなってくる。「例の件、もういいわ。水に流す。でも、次はないからね」車中で、詩織ははっきりと告げた。その言葉に、密の目が潤んだ。「詩織さん……本当に申し訳ありませんでした!もう二度としません。約束します!……実は一昨日も、賀来社長が新しいお守りを持ってこられたんですが、ちゃんとお断りしましたから!」詩織は言葉を失った。一昨日……?ということは、あの土砂降りの雨の中、彼が命を削るようにして祈り、手に入れたあのお守りは……私のためのものだったの?詩織は言いようのない苛立ちを覚え、こめかみを指で強く揉んだ。運転席の密は唇を噛み、しばらく黙り込んでいたが、やがて何かを決心したように口を開いた。「詩織さん……あと二つ、正直に話さなきゃいけないことがあります」密は必死だった。長年、詩織のそばで働き、多くのものを学び、成長させてもらった。だからこそ、詩織という人間の本質も、その逆鱗に触れるラインも理解しているつもりだ。それでも彼女は、すべての賭けに出ることにした。許されるかどうかはわからない。だが、どんな結果になろうとも受け入れる覚悟だった。「一つ目は……私が以前、『エイジア』を辞めて詩織さんの会社に入ったときのことです。あの時、私は柏木志帆やその取り巻きからのいじめに耐えられなくて辞めたと言いましたが、あれは嘘でした」当時の『エイジア』といえば業界のトップランナーであり、誰もが憧れるエリート企業だった。激しい競争を勝ち抜いてようやく手にしたその席を捨て、設立したばかりの海のものとも山のものともつかぬベンチャー企業へ移るなど、常識では考えられない
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第709話

無駄な努力だ。かつて私が彼に捧げた七年間と同じ。何の意味もない、虚しい徒労に過ぎない。……自宅に帰り着く前に、ミキから電話が入った。受話器の向こうは騒がしく、重低音のビートが響いている。どこかのクラブで羽目を外しているらしい。「もしもーし!詩織?もう江ノ本に戻ってるんでしょ?だったらこっち来てよ!今『ラウンジ・ノクターン』にいるからさ!」「……」詩織はその店名に軽いアレルギー反応を起こしそうになった。何か言い返そうとした瞬間、電話の向こうからミキに声をかける男の声が聞こえてきた。「よう、美人さん。おひとり? 一緒に飲まない?」ミキのケラケラと笑う声が響く。「ひとりじゃないわよ。お腹にもうひとりいるの」「へえ、そいつはそそるねえ。もっと面白そうだ」男のフェロモンにやられたのか、それとも単に酔っ払っているのか。詩織が止める間もなく、ミキは一方的に通話を切ってしまった。放っておくわけにもいかず、詩織は湊に行き先を『ラウンジ・ノクターン』へ変更するよう告げた。店に入った途端、背後から声をかけられた。「詩織」振り返ると、意外な人物が立っていた。「沙羅さん!いつこちらへいらしたんですか?」沙羅は微笑んでグラスを傾けた。「今朝着いたのよ。あなたが出張中なのは知ってたから連絡しなかったんだけど、もう戻ってたのね」「ええ、さっき空港から直行してきて。友人を迎えに寄ったんです」「あら、奇遇ね。せっかくだから一杯付き合ってくれない?」沙羅は『華栄』の大事なビジネスパートナーであり、詩織が起業した当初から多大な支援をしてくれた恩人でもある。彼女の誘いを断る理由などどこにもない。むしろ、こちらから接待を申し出るべき相手だ。「もちろんです、喜んで」詩織はすぐにスタッフを呼び、沙羅をVIPルームへ案内させるよう手配すると、自分は急いでミキの捜索に向かった。ミキはダンスフロアにいた。それも、ステージの上で誰よりも激しく腰をくねらせている。舞台の下では男たちが群がり、口笛を吹いて大盛り上がりだ。「ちょっと!勘弁してよ、この道楽者!」詩織は人波をかき分け、ミキの腕を掴んでステージから強引に引きずり下ろした。「おいおい、行くなよ!」「もっと踊ってくれよ、姉ちゃんいい腰してんじゃん!」男たち
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第710話

背後の男は女が上の空なのに気づき、苛立ちを露わにした。強引に彼女を引きずり戻し、再び狭い空間へと押し込む。長い、長い時間が過ぎた。ようやく満足したのか、男はズボンを引き上げ、気だるげにタバコに火をつけた。美穂は乱れた服を整えると、冷めた声で男に金の催促をした。「お金、送ってよ」男は興を削がれたように顔を歪め、美穂の腰を乱暴に蹴り上げた。「チッ、クソが。払わねえなんて言ってねえだろ」「だったら早くしてよ」男は悪態をつきながらスマホを操作し、送金を済ませるとさっさと立ち去ろうとする。美穂は慌ててその腕を掴んだ。「ちょっと!話が違うじゃない。三万円って言ったでしょ!二万しか入ってないわよ!」「うるせえな!テメェは二万の価値しかねえんだよ!」男は容赦なく腕を振り払った。美穂はその勢いで壁に叩きつけられ、激しい衝撃に目の前が白く明滅する。それでも男の罵倒は止まらない。「いい加減にしねえと、ここの店長にバラすぞ。『店の中で勝手に売春してる女がいる』ってな。どっちがよりヤバいことになるか、頭使って考えな!」その脅し文句に、美穂の手から力が抜けた。男が勝ち誇ったように足音高く去っていくのを、ただ呆然と見送ることしかできなかった。男の姿が見えなくなると、美穂は汚い言葉で罵りながら床を蹴りつけた。その時、タイミングよくポケットのスマホが震えた。画面に表示された『工藤』という文字を見て、彼女の表情がいっそう陰る。出たくない。でも、無視すればどうなるかわからない。「……何よ」「金は?」受話器の向こうから、低い声が単刀直入に聞いてきた。「アンタ、犬並みの鼻でもしてんの? さっき客から入ったばっかなんだけど!」美穂は怒りを爆発させながらも、逆らうことはできない。結局、一万円だけ送金した。「あ?なんで一万しかねえんだよ」工藤がすぐに文句をつけてくる。「客が二万しか払わなかったのよ。文句言ったら店長にチクるって脅されたから、どうしようもなかったの!」「使えねえアマだな。マンコ売るしか能がねえのに、それすらまともにできねえのかよ」一方的に電話を切られ、美穂は行き場のない怒りをゴミ箱にぶつけた。客にも、工藤にも、自分を取り巻くすべてに搾取され、踏みつけにされている。ホールに戻ると、ちょうどチーフがVIPルー
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