Se connecter「ほんとだもん!さっきのおじちゃん、ほんとにかっこよかったの!おでこに傷があったけど、それでもすっごく素敵だったんだから」小春は自信満々に力説する。額の傷、という言葉に詩織の足が止まりかけた。一瞬、脳裏にある男の顔がよぎった。だが、その残像はすぐに雑多な思考の波にかき消された。結局、詩織は微笑んで小春の頭を優しく撫でるだけに留めた。「さあ、先生とお話しする時は、ちゃんと言うこと聞くのよ。わかった?」小春がカウンセリングを受けている間、詩織は待合室で静かに時を過ごした。しばらくして診察室から出てきた小春の手には、折り紙で作られたカエルが握られていた。「見て、先生がくれたの。お尻を押すとぴょんって跳ぶんだよ。かわいいでしょ」小春は自慢げにそのカラフルなカエルを見せてくれた。「先生からのプレゼントなら、大事にしなきゃね」「うん。掛川先生ね、患者さんが来るたびに、こうやって色とりどりのカエルを折って渡してくれるんだって」小春は愛おしそうにカエルをポケットにしまった。さすがは心の専門家だ。こうした小さな遊び心が、患者の緊張を和らげるのだろう。たった一度のカウンセリングだが、小春の表情は来る時よりも明らかに明るくなっていた。ビルの下には、すでに運転手の湊が車を回して待機していた。詩織と小春が乗り込むと、車は滑らかに走り去っていく。そのテールランプが見えなくなったタイミングで、植え込みの陰から一台の車が姿を現した。ハンドルを握っているのは太一だ。「ほら、柊也。やっぱり来て正解だっただろ! まさかこんなところで江崎拝めるとはなぁ」助手席の柊也は何も答えなかった。ただ静かにウィンドーを下ろし、一本のタバコを取り出して火をつける。だが、それを口に運ぶことはない。紫煙が風に流されるのをただぼんやりと見つめ、タバコが根元まで燃え尽き、指先に熱を感じる限界まで待ってから、ようやく灰皿に押し付けた。その間、太一は息を殺していた。隣に座る男が纏う空気が、あまりにも重く、沈痛だったからだ。太一は柊也の住まいすら聞けないまま、ただ指示された場所へと車を走らせた。指定された場所近くに車を停め、柊也を下ろす。太一はあたりの景色を見回し、ふと首を傾げた。どこかで見たことがあるような街並みだ。だが、それがどの記憶と結びついて
もう、あの教室に行くことはできない。唯一の生きがいを失った柊也に、太一はここぞとばかりに提案を持ちかけた。「だったらさ、その時間を治療に充てようぜ。掛川先生のカウンセリング、受けてみないか?」最初は頑として首を縦に振らなかった柊也だが、太一の次の一言で心が揺らいだ。「もし万が一、この先あいつと正式な場で顔を合わせることになったらどうするんだよ?今のそのボロボロにやつれ果てた姿を、江崎に見せるつもりか?」それは嫌だ。詩織の記憶の中にある自分は、いつだって完璧で傲慢な賀来柊也であってほしい。こんな廃人のような姿など、死んでも見られたくない。「……分かった」柊也はついに折れた。その承諾の言葉を聞いた瞬間、太一は心の底から安堵の吐息を漏らした。やっぱり、この男を動かすには「詩織」という切り札が最強らしい。……土曜日。詩織は小春を連れて、響太朗が手配してくれた心療内科の名医、掛川一樹のクリニックへと向かっていた。移動中の車内でも、詩織は休むことなく仕事の報告を受けていた。小春はその隣で、邪魔にならないように膝の上で手を重ね、静かに座っている。「――以上が今週の進捗です」アシスタントの密が定例の報告を一通り終えると、少し声を潜めて『ココロ』の件を切り出した。「それから、開発部の田辺部長から報告が上がってきています。ここ二回ほど『ココロ』側との打ち合わせに行ったそうなんですが、あちらの協力が得られず難航していると……何かと理由をつけてはスケジュールを先延ばしにされるそうで、久坂さんが出張で不在なのをいいことに、かなり対応が雑になっているようです」「わかったわ」詩織は短く答え、すぐに智也の携帯を鳴らした。しかしコール音は鳴らず、電波の届かない場所にいるか電源が入っていないというアナウンスが流れるだけだ。仕方なく、詩織は『メッセージを見たら折り返して』とだけ送信し、スマホを置いた。ちょうどそのタイミングで、車は掛川のクリニックに到着した。詩織は膝上のノートパソコンを閉じ、小春を連れて車を降りる。クリニックに入ると、掛川のアシスタントが丁寧に出迎えてくれた。予約の時間よりも三十分ほど早く着いてしまったため、掛川はまだ前の患者の診察中だという。「申し訳ございませんが、少々お待ちいただけますか?」そう案内された
隣に座っていた男子学生が、不審そうな顔で話しかけてきた。「だってさっきから君、一文字もノート取ってないじゃん。ずっと前のほう睨みつけてるし、なんか変だよ」柊也の喉仏が上下に動く。しばらく沈黙した後、彼は絞り出すような声で苦しい言い訳をした。「……カバンごと盗まれたんだ」完全に油断していた。詩織を見ることに夢中で、学生になりすます演技がおろそかになっていたのだ。幸い、最果ての席だったおかげで詩織本人には気づかれずに済んだが、周囲からは完全に浮いている。人間とは、どうしてこうも貪欲なのだろう。最初は、ただ遠くから一目その姿を見られれば十分だと思っていた。それが叶うと、次は声を聞きたいと願った。そして声を聞けば……今度はこの距離がもどかしくてたまらなくなった。もっと近くへ。あと少しだけでも、彼女のそばへ。――そんな渇望に抗えず、二回目の講義で、柊也は座る位置を五列前に進めた。もちろん、詩織の視界に入りにくい端の席であることは変わらない。今回は準備も万端だった。帽子とマスクの変装に加え、新品のノートとペンも持参した。これで怪しまれることはない。だが講義が終わってみれば、彼のノートには「詩織」「Shiori」という文字がびっしりと書き連ねられているだけだった。金融の講義内容など、一行たりとも記されていない。隣の席の学生が他人のノートを覗き込むようなお節介でなくて、本当によかったと思う。そして、欲望はさらに加速する。二回ともバレなかったという安堵感が、彼を大胆にしたのだろうか。三回目の講義で、柊也はさらに五列前へと進出した。この大階段教室は全部で二十列ある。つまり、彼は今ちょうど真ん中の列に座っていることになる。席自体は端の方だが、室内での帽子にマスク、サングラスという重装備は、どうしたって目立つ。講義中、詩織の視線が何度かこちらの方向をかすめたような気がした。そのたびに、柊也の心臓は早鐘を打った。かつて巨大企業のトップとして幾多の修羅場をくぐり抜けてきた男が、まさか授業中に先生に指されるのを恐れる小学生のように縮こまるとは。人生でこれほど緊張した瞬間はなかったかもしれない。冷や汗をかきながら、なんとか今日も無事にやり過ごせる――そう思った矢先だった。講義の締めくくりとして、詩織が学生をラン
廊下は静まり返っており、他には誰もいない。詩織の姿は既に角を曲がって見えなくなっていたため、廊下に出てきた柊也と鉢合わせることはなかった。柊也は大股で歩き去っていく。あとから転がるように太一が追いかけてきた。小走りでないと追いつけない速さだ。「柊也、待ってってば!もしかして酒飲んで具合悪くなった?病院行くか?」「要らない」不意に柊也が足を止めたため、太一は危うくその背中に衝突しかけた。柊也が振り返り、冷ややかな視線を向ける。「ついて来るな」「でも……」太一の顔には、隠しきれない不安が張り付いている。また、どこかで死のうとしているのではないか――そんな恐怖だ。「お前の心配事は分かってる。だが、当面その予定はない」柊也は淡々と告げた。太一が「なんで?」と聞くより先に、彼は独り言のように続けた。「……詩織が江ノ本大学で客員講義をする。七回シリーズだそうだ。俺は、その全講義を聴きに行くつもりだ」そして、釘を刺すように付け加えた。「だから邪魔するな」「……」太一はぽかんと口を開けたが、すぐに合点がいった。なるほど、そういうことか!「了解!」太一は大きく頷いた。「分かった、邪魔はしない。でも酒飲んでるだろ?運転はマズいって。ウチの運転手に送らせるから……」あわよくば、これでこいつの隠れ家を突き止めてやる。太一は内心ほくそ笑んだが、その魂胆はあっさりと見透かされていた。「タクシーで帰る」柊也は有無を言わせぬ口調で拒絶すると、今度こそ振り返らずに去っていった。残された太一は、遠ざかっていくその冷たい背中を見送った。だが不思議と、先ほどまでの焦燥感は消えていた。今の彼において、「死にたい欲望」よりも「詩織を見たい執着」が勝っていることは明白だ。少なくとも、彼女の講義が続いている間は、彼は絶対に死んだりしないだろう。太一は胸をなでおろし、久しぶりに安堵の息をついた。これでしばらくは枕を高くして眠れそうだ。……詩織の講義は、毎週月曜日と水曜日の午後――いわゆるゴールデンタイムに設定された。学生たちが最も受講しやすい時間帯であることに加え、講師である詩織自身の華々しい経歴と知名度も手伝って、受講予約は瞬く間に埋まった。だが、柊也は誰よりも早く教室に現れた。彼が到着した時、広い講堂にはまだ人の
結果として、詩織がとっくに帰国してバリバリ働いている間も、悠人は独りキャンパスに残り、地道に単位を稼ぐ日々を送っている。父親の悠玄からも、先日電話でこう言われたばかりだ。「悠人、江崎さんはもう帰国したぞ。一体いつまで遊んでるつもりだ?」「……遊びたくて遊んでるわけじゃないよ、父さん」悠人は力なく、そう答えるしかなかった。このビジネススクールの単位取得がどれほど過酷か、知らないくせに。悠玄は苛立ちを隠さずに続けた。「情けないヤツだ。わざわざ海外まで彼女を追いかけておきながら、みすみす指をくわえて見ていたのか?『近くにいれば想いが通じる』なんて甘い考えじゃなかったろうな。せっかく同じ釜の飯を食うチャンスを与えてやったのに、お前ときたら……手ぶらか!」だが、その点に関して悠人は妙に達観していた。「父さん。はっきり分かったんだ。詩織先輩は、僕のことなんて男として見てないって」「なんだと?」「僕が彼女に抱いている感情も、恋愛というより……崇拝に近いんだと思う」息子のあっけらかんとした言葉に、悠玄はがっくりと肩を落とす気配がした。「……それでお前、一生そのまま彼女の金魚のフンでいるつもりか?」「うん。それが僕の生きる道かなって」「……」悠玄はあまりのことに返す言葉を失った。我が息子ながら、ここまで来るといっそ清々しいというか、開いた口が塞がらないというか。かける言葉が見つからないとは、まさにこのことだった。アシスタントの密が、小ぶりのみかんを籠に入れて入ってきた。「これ、秘書課の早川さんからの差し入れです。彼氏さんのご実家から送られてきたものらしくて、すごく甘いんですよ」詩織は一つ手に取り、皮をむいて口に運んだ。確かに、濃厚な甘みと適度な酸味が広がる。美味しい。「……で、そのみかんを食べたからには、責任取ってもらいますよ?この後の婚約祝いパーティー、詩織さんも強制参加ですからね」密が悪戯っぽく笑う。詩織は手の中の半分になったみかんを見つめ、苦笑しながら「はいはい」と頷くしかなかった。夜のパーティー会場。主役の早川とその婚約者は、なんと高校時代からの付き合いだという。まさに「制服からウェディングドレスへ」という王道の純愛ストーリーに、周囲は羨望のまなざしを向けていた。「いいなぁ。私なんて高校の頃といえば、『推
太一は一つの法則に気づいていた。詩織の話題を振ると、柊也は必ず反応する。だがそれ以外の話だと、大抵は無視するか、気のないそぶりを見せるだけだ。例えば、太一がこんな質問をした時もそうだった。「なぁ柊也。どうして新会社の名前を『栞(シオリ)』にしたんだ?やっぱり江崎から取ったのか?」「違う」柊也は即答した。「適当につけただけだ」適当につけた、だって?太一は心の中でツッコんだ。誰がそんなこと信じるかよ。彼は鮮明に覚えていた。かつて刑務所へ面会に行き、新会社の名前をどうするか相談した時のことを。あの時、柊也の瞳の奥を一瞬よぎった強い光。そして、『栞』という言葉を口にした時の、あの揺るぎない口調。前々から決めていたとしか思えないほど、迷いのない響きだった。ただ、その時はあえて突っ込んで聞く勇気がなかっただけだ。その後も太一は幾個か話題を振ってみたが、案の定、柊也からはまともな返事は返ってこなかった。それでも、太一は帰るわけにはいかなかった。柊也を一人にするのが怖かったからだ。「そうだ、明日の接待なんだけどさ……柊也、代わりに行ってくれないか?俺、どうしてもあの人だけは苦手でさ」太一は情けなくぼやきながら、明日の相手について愚痴り始めた。相手は『栞』社の重要な海外クライアントであるニーナという女性だ。もう五十近いのだが、会うたびに太一の体をベタベタと触ってくる。おかげで太一は、ニーナという名前を聞くだけで鳥肌が立つ体質になってしまっていた。ところが柊也は、そんな太一の悲鳴をすげなく切り捨てた。「問題に直面した時、解決しようとせずに逃げてばかりいたら、いつまで経ってもその壁は越えられないぞ」「だからって、対処法を覚える時間くらいくれたっていいだろ?」太一が恨めしげに反論する。「世渡りを手取り足取り教えてもらえる時間なんて、そんなに都合よくあるもんじゃない。人間ってのはな、過酷な環境に放り込まれて初めて成長するんだよ」言うが早いか、柊也は立ち上がり、コートについた埃をパンパンと払った。「俺は帰る。お前もさっさと帰って寝ろ」あっけにとられて、太一は開いた口が塞がらなかった。いやいや、ちょっと待て。俺は一晩中、この寒い中あんたに付き合って冷たい風に吹かれてたんだぞ?それなのに、そうや