All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

「では、こちらで少々お待ちいただけますか。履歴書を板木社長のもとへお持ちしますので」満面の笑みで、人事担当者は詩織にそう告げた。詩織は静かに頷く。待っていると、ミキからLINEでメッセージが届いた。【面接どう?】【順調だよ】詩織がそう返すと、すぐにお祝いのスタンプが連打され、【決まったら奢ってよね!】という威勢のいいメッセージが続いた。【いいよ。お店は任せる】返信するや否や、【やったー!】というスタンプと共に、ミキは早速お店選びに取り掛かったようだった。それから三十分ほど経っただろうか。戻ってきた人事担当者の表情が、先ほどとは明らかに違うことに詩織は気づいた。詩織の胸が、どくん、と嫌な音を立てる。言い知れぬ不安が、心の底からせり上がってくるのを感じた。「大変申し訳ありません、江崎さん……社長のほうで、今回は見送りということになりまして……」担当者は詩織に履歴書を差し出し、重ねて詫びた。「申し訳ないです。貴重なお時間をいただいてしまったのに……」詩織は、努めて平静を装いながらそれを受け取った。胸の内に広がる失望感は大きかったが、こんなことは初めてではない。何度も繰り返すうちに、不採用という結果を受け入れることにも、悲しいかな、慣れてしまっていた。「差し支えなければ、お見送りとなった理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」詩織は静かに尋ねた。しかし、担当者は力なく首を振るだけだった。「それが……私にも分からないんです」これ以上相手を困らせるわけにもいかず、詩織は礼を言ってその場を後にするしかなかった。エレベーターホールで到着を待っている間に、ミキはレストランを決めたらしい。詩織は【OK】とだけ返信した。チーン、と音がしてエレベーターのドアが開くと同時に、背後から複数の足音と話し声が聞こえてきた。その声は、詩織の背筋を凍らせるほど、よく知っているものだった。――最悪だ。柊也と、志帆。柊也は、どこへ行くにも本当に志帆を連れ添っているらしい。「いやぁ、賀来社長、本日はありがとうございます。まさかこのような増資拡大の件で、社長自らお越しいただけるとは……光栄の至りです!」弾んだ声で話すのは、先ほどの面接先の板木社長だ。対して、柊也は落ち着いた声で応える。「これは柏木ディレクターが担当す
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第82話

「――私のこの七年間を、どう評価なさるのかと。ええ、とても知りたいんです」詩織は、ひと言ひと言に重みを込めて、そう繰り返した。志帆もまた、その答えを知りたかった。その評価は、柊也の心の中における詩織の立ち位置を、何よりも雄弁に物語るものだからだ。柊也の瞳の奥に、一瞬、嵐のような感情がよぎった。だが、それもすぐに静寂へと沈んでいく。その声は、常と変わらず何の感情も温度も感じさせない。「俺の評価か。秘書としては、まあまあだったがな。プロジェクトとなると、フッ……」感情のこもらない、乾いた一笑。それは、彼の態度を明確に示していた。紛れもない侮蔑。嘲笑。そして、軽視。――いや、軽蔑そのものだった。七年という青春の全てを捧げて得たものが、この、あまりにも軽いひと言だった。おそらく、愛しすぎたことこそが、自分の犯した最大の過ちだったのだろう。詩織の顔から血の気が引いていく。とうに何も感じなくなったはずの心臓が、彼の侮蔑に、きりきりと痛んだ。それでも、七年という歳月が彼女の心を鍛え上げていた。かろうじて平静を保たせたのは、そのおかげだろう。「……私、よっぽど出来が悪かったみたいですね。ご評価、ありがとうございます」言い終えると、彼女はきっぱりと柊也から視線を外し、板木に申し訳なさそうに視線を向けた。「板木社長が私の採用を見送られたのは、賢明なご判断だったようです。ご迷惑をおかけしました。失礼いたします」柊也は、その場に立ち尽くしたまま、詩織がエレベーターに向かい、その姿がゆっくりと視界から消えていくのを、ただ見送っていた。エレベーターのドアが完全に閉まり、志帆は張り詰めていた心の糸がようやく緩むのを感じた。なんだ、考えすぎていたみたい。柊也くんは、江崎詩織のことなんて、もう何とも思っていないんだわ。彼女があんなに追い詰められているというのに、柊也くんは少しも手加減しなかった。志帆の口元に、満足げな笑みが浮かんだ。「柊也くん、私たちも行きましょう」柊也は頷いた。「ああ」……詩織はミキとの夕食の時間を、和やかに過ごした。完璧に隠し通した。感情の欠片も、表には出さなかった。七年間、ビジネスの世界で揉まれて培った自制心が、これほど役に立つ時が来るとは。そのおかげで、親友であるミキにさえ、心の動揺を
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第83話

冷たいアスファルトを踏みしめるたび、霧がかっていた思考が晴れていくようだった。そして、凍てつくようなひとつの結論に辿り着いた。――そういうことだったのか。だからあんなにあっさりと、私の退職を認めたんだ。全て、このため……エイジアを離れ、俺から離れたら、お前は無価値だと。そう言いたいのだ。そうやって、私が彼のもとに戻り、頭を下げて許しを乞うように仕向けている。「俺から離れたら、三日もせずにお前は泣きついてくる」かつて柊也はそう言った。もし私に少しでも誇りがなければ、本当に彼の思うままに、屈服していただろう。けれど、私は言ったはずだ。もう二度と、振り返らない、と。仕事も。そして、恋も。私を殺せないものは、私を強くするだけだ!詩織は気持ちを切り替え、城戸渉に電話をかけた。明日、食事でもどうかと誘うためだ。しかし、いつもならコール音も鳴り終わらないうちに出る彼が、今回は一向に応答しなかった。まだ夜の七時を過ぎたばかりで、決して遅い時間ではない。それに、渉が早寝をするタイプでないことも知っている。電話に出ない理由は、一つしか考えられなかった。彼もまた、柊也の圧力に屈したのだ。それもそうだろう。この江ノ本市は狭い。たった一人の女のために、金融界の若き実力者である柊也を敵に回そうなどと考える人間がいるはずもなかった。詩織が落胆しかけた、その時だった。京介から着信があった。いつもの挨拶の電話だろうと思いながら応答すると、京介は開口一番、本題を切り出してきた。「仕事、探してるんだって?」京介が知っていても、詩織は驚かなかった。この業界は、それほどまでに狭いのだ。「うん」「どこかいいところ、見つかったかい」京介の声は、心から詩織を気遣っているように聞こえた。電話の向こうで、誰かが彼を呼んで酒を勧めている。どうやら飲み会の席にいるらしい。京介は「すぐ戻る」と一言断ってから、再び詩織に問いかけた。「もしよかったら、衆和銀行に来て、俺を手伝うっていうのはどうかな」これまで、詩織はその選択肢を考えたこともなかった。衆和を見くびっているわけではない。ただ、銀行と投資会社では、事業の仕組みが全く違う。自分に務まるだろうか、という不安が先に立った。だが、今の彼女は、その提案に心を揺さぶられていた。
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第84話

「随分と耳が早いな」柊也はソファに深く身を沈め、その整った顔は水のようで、何の感情も浮かんでいなかった。「お前が圧力をかけなきゃ、板木は間違いなく江崎を採ってたはずだ。知ってるだろ、あの社長が相当な女好きだってことは」柊也は答えず、テーブルのグラスを手に取り、一口呷った。譲が、目を丸くする。「おい、アルコールアレルギーじゃなかったのか?」「最近、脱感作療法を始めたんだ。少しなら飲める」「なんでまた急に?わざわざ酒なんか飲むことねえだろ」譲が訝しんでいると、太一が不意に会話に割り込んできた。「決まってんだろ、志帆ちゃんのためだよ。ああいう席で、志帆ちゃんを酒から守ってやるためさ。柊也にとっては、それくらい大事な人なんだ」譲は柊也に真偽を確かめようとしたが、そこへちょうど志帆と京介が戻ってきた。彼は仕方なく、先ほどの話題に戻る。「で、なんで江崎をそんなに追い詰めるんだよ。なんだかんだ七年も尽くしてくれた子だろ。お前、そんなに非情な男じゃなかったはずだが」「江崎が身の程知らずなだけだろ。柊也は、灸を据えてやってるだけだよ!」太一が、鼻で笑った。「本気で自分が特別な人間だとでも思ってやがんだ!柊也が引き留めてくれるとでも思ったのかねえ。まあ見てろよ、どうせすぐに泣きついて、頭を下げに戻ってくる。時間の問題だ」その時、京介がジャケットを手に取り、皆に告げた。「悪いな、俺は用事があるから先に出るわ。お前らで楽しんでくれ」「なんだよ、兄弟の集まりより大事な用事ってなんなんだよ」太一は引き留めようとしたが、京介は振り返りもせず、そのまま部屋を出て行った。志帆の表情が、わずかに曇る。太一がそれに気づいて尋ねた。「志帆ちゃん、どうしたんだ?気分でも悪いのか?」志帆は一瞬ためらってから、口を開いた。「……京介、江崎さんを雇うみたい」その言葉を聞いた瞬間、柊也はグラスに残っていた酒を一息に呷った。アルコールが回ったのか、その目尻が淡く赤らみ、瞳の深い黒さをより一層際立たせていた。……詩織はシャワーを浴びたばかりだった。パソコンを開き、求人サイトを眺めては、一縷の望みに賭けていた。もっと小さな会社でもいい。通勤に時間がかかっても構わない。とにかく、簡単には諦めない。柊也の影響力が、そうどこまでも及ぶはずが
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第85話

心の傷は、時間をかければ癒えるかもしれない。けれど、体に刻まれた傷は、永久に消えることなく、元には戻らないのだ。詩織はベッドの上で体を丸め、意識が朦朧としていた。幸いにも鎮痛剤が効き始め、腹部の痛みはゆっくりと和らいでいく。それでも、体の芯から這い上がってくるような寒気は消えなかった。その凍えるような感覚が、彼女を、あの雨の夜へと引き戻していく。固く閉ざされた、あの門。私の頭上を覆った、あの黒い傘。そして、泥濘の中から私を引き上げてくれた、あの手のひら……突然、激しいドアのノック音に、詩織は現実に引き戻された。はっと、ベッドから身を起こす。目の前に広がるがらんとした部屋が、今しがた見ていたものがただの夢だったのだと告げていた。ぼんやりとしている間に、再びドアがノックされる。先ほどよりもさらに性急に、そして、力強く。ドン、ドン、ドン、と、まるで頭蓋に直接響いてくるかのような、不快な音だった。時計に目をやると、時刻はすでに深夜の十二時を回っている。一体誰が、こんな時間に訪ねてくるというのか。詩織が訝しんでいると、今度は枕元の携帯電話がけたたましく鳴り響いた。画面に点滅しているのは、七文字の表示。――『永久指名料0円』。寝起きで頭が働かず、詩織は一瞬、それが誰だか分からなかった。あの夜、柊也に散々な目に遭わされた腹いせに、彼の連絡先をこう変更したことを、すっかり忘れていたのだ。ドアの向こうから、聞き慣れた声が響いて、ようやく全てを思い出した。「開けろ!詩織!」――どこの駄犬が、夜中に迷子になって吠えているのか。詩織は無視を決め込み、布団を頭までかぶって眠り続けようとした。しかし、柊也のノックは止まらない。その音は、一声ごとに激しさを増していった。このままでは、近所迷惑になるのは間違いない。隣人から苦情を言われるのはごめんだ。詩織は忌々しげに舌打ちし、ベッドから起き上がってドアへと向かった。ただし、用心は怠らない。ドアチェーンをかけたまま、わずかな隙間だけを開けた。これなら犬は防げるし、片目で相手を睨みつけることもできる。「こんな夜更けに、賀来社長。どちら様とお間違えで?」以前は、こんなボロアパートに見向きもしなかった男が、ここ最近、立て続けにやってくる。
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第86話

詩織は愛想笑いを浮かべながら平謝りして警官を見送ると、ようやく元凶たる男に向き直った。「……いったい、何しに来たの」その顔も、声も、凍りつくように冷たかった。柊也はそんな彼女が気に食わないとでも言うように、苛立たしげにシャツの襟元を緩めた。その首筋には赤い発疹が浮かんでおり、一目でアレルギー反応だと分かった。そこで詩織は初めて気づいた。柊也が、ひどく酔っているということに。七年も一緒にいたというのに、詩織は柊也がここまで酔った姿を一度も見たことがなかった。まさか、酒癖がこんなに悪いとは。わざわざこんな所まで来て騒ぎを起こすなんて。詩織の胸のうちは怒りで煮え繰り返り、その表情は険しい。それなのに、柊也は以前と何ら変わらない態度で、彼女に命令した。「アレルギーの薬、あるか」「ないわ!」ここを薬局だとでも思ってるの?「……なら、白湯を一杯」柊也は眉間を揉みながら、ひどく苛立っているようだった。「賀来社長ほどの偉い方は、物忘れもお得意なようですね。まだ私のことを、あなたの言いなりになる秘書の江崎だとでもお思いで?」柊也は、彼女の棘のある態度が心底気に入らない様子で、低い声で咎めた。「一体いつまで拗ねるつもりだ」詩織は、呆れてものが言えなかった。この期に及んで、まだ私がただ機嫌を損ねているだけだと、この男は思っているのか。申し訳ないが、そんなお遊びに付き合っている暇は、こちらにはない。「言うべきことは全て言いましたし、すべきこともしました。それでもまだお分かりにならないのでしたら、どこかで少し頭を冷やしてこられてはいかがです?その方が、よほど建設的かと存じますけれど」柊也の表情がみるみるうちに険しくなる。その瞳は底なしの闇のように黒く、全身から威圧的な空気が立ち上っていた。彼は、冷たく嘲るような笑みを浮かべた。「宇田川京介という新しい乗り換え先が見つかったから、もう猫を被るのはやめたと。そういうわけか?」柊也は一歩、詩織へと詰め寄った。その声は冷たく、表情には侮蔑が浮かんでいた。「詩織。昔、お前がどんな風に俺に尻尾を振っていたか、忘れたのか?」ほら、この期に及んでも、彼はまだ自分のことを犬か何かだと思っている。人として生きられるのに、どうして犬でいなければならないというの?「それも昔の話
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第87話

柊也に事実を確かめようと思っていた、その矢先。京介から電話がかかってきた。ネットの噂の件だろうと、詩織は見当をつけた。彼女の予想は的中した。京介が電話をかけてきたのは、やはりあの噂が原因だった。「この件は俺が解決するから、君は気にしなくていい」開口一番、京介はそう言った。「俺が就任して早々、不正を働いていた株主を二人ほど追い出したんだ。その連中が腹いせに、こんなデマを流しているんだろう」「……そういうことだったのね」「君まで巻き込んでしまって、本当にすまない」詩織はさして気にも留めず、「平気よ」と答えた。これまでの数年間、似たような根も葉もない噂を立てられたことは一度や二度ではなかったからだ。エイジアでプロジェクトを獲得するために、彼女は数え切れないほどの敵を作ってきた。詩織に嫉妬し、実力では敵わない連中が、陰でこそこそと悪口を叩く。——昼は有能な秘書、夜は身体で仕事を取る女。とにかく、耳を塞ぎたくなるような、ありとあらゆる悪意に満ちた言葉を投げつけられた。性的な噂など、その中ではまだマシな方だった。最初は、もちろん傷ついたし、悔しい思いもした。柊也はその全てを知っていたが、彼女のために噂を打ち消そうとは一度もしなかった。詩織が目に涙を溜めて彼に不満をぶつけたことがある。その時の柊也の言葉を、詩織は今でもはっきりと覚えていた。彼は、こう言ったのだ。「プロジェクトをやる上で、その程度の精神力もないなら、一生おとなしく秘書でもやってろ」あまりにも、冷酷な言葉だった。もし柊也がただの上司として言ったのなら、まだ納得できたかもしれない。だが、二人の間にはそれとは別の関係があった。だからこそ、詩織はたまらなく惨めだったのだ。けれど皮肉なことに、その柊也の言葉が、今になっては役に立っていた。彼女の落ち着いた様子に、京介は安堵したようだった。「本当は今日にでも衆和銀行に来てもらって、面接をと思っていたんだが……この状況では難しいだろう。騒ぎが収まったら、また改めて話をしよう」「昨日、考えてみてほしいって言ったよね。考えはまとまったわ」きっぱりとした口調で、詩織は答えた。「衆和銀行へ行くつもりはないの」……あれから三日が過ぎたが、詩織の元に面接の連絡は一件もなかった。送っ
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第88話

詩織の記憶が正しければ、柊也はここ数日出張で市を離れており、今日の便で帰ってくるはずだった。別に彼の動向を気にしていたわけではない。先日、密から電話で、出張中の柊也の好みや注意点について泣きつかれたからだ。例えば、彼が好む航空会社やホテル、食事の細かいこだわり……帰りはその日のうちに戻りたいタイプか、それとも翌日にするかなど。柊也の好き嫌いを、詩織以上に把握している人間はいなかった。電話口の密は半泣きで、自分が前世でどれほどの悪事を働いたから、今生で柊也の臨時秘書になり、こんなスケジュール調整までやらされているのだろうと、延々と嘆いていた。そういえば、と詩織は密に尋ねた。自分が辞めた後、柊也は新しい首席秘書を雇わなかったのか、と。密の答えはノーだった。人事部が何度か候補者を提案したらしいが、全て柊也が却下したという。部署の誰もが、賀来社長はあの席をわざと空けているのだと噂している、と密は付け加えた。誰のために空けているのか。それを口にする者はいなかったが、皆の心の中では分かっていた。密でさえ、「もしかして、またエイジアに戻るつもりなんですか」と、詩織にこっそり尋ねてきたくらいだ。詩織はきっぱりと否定した。「そんな日は、永遠に来ないわ」様子から察するに、柊也は江ノ本市に到着するやいなや、志帆の両親との食事会に駆けつけたのだろう。実に、まめなことだ。そう、志帆が関わることなら、柊也はいつだってこれほどまでに熱心だった。それは、かつての詩織が望むべくもなかったこと。今でも思い出す。昔、母の初恵が柊也と付き合っていることを知り、一度会わせてほしいと遠慮がちに言ってきた時のことだ。詩織は、長いことあれこれと言い訳を探し続けた。だが、もう誤魔化しきれなくなり、意を決して柊也に相談した時の彼の反応を、詩織は鮮明に覚えている。険しい表情。きつく寄せられた眉。隠そうともしない苛立ちが瞳に滲み、その声は凍るように冷たかった。「会ってどうする」恋愛の甘い幻想に浸っていた詩織は、その一言で頭から冷水を浴びせられたようだった。愛し合う二人が、互いの両親に会う。それはごく自然な成り行きではないのか。詩織は長い間傷つき、柊也に対してどこか冷めた態度を取っていた。後になって柊也は、年長者
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第89話

彼にはもっと良い選択肢があるのだと、暗に伝えるためでもあった。しかし、智也の答えは明確だった。「私は、君とだけ組みたい」「君が会社を見つけるなら、その会社と組む。君が自分で会社を興すなら、君と組む。要するに、私が選んだのは会社じゃない。江崎さん、君自身なんだ」彼はさらに続けた。「エイジアとの話が流れて、むしろ幸運だったとさえ思ってる。契約を結んだ後で君が辞めたと知ったら、それこそ悔やんでも悔やみきれなかっただろう」詩織は胸を打たれた。だが、感謝の念と同時に、目の前に横たわる数々の難題を彼に伝えなければならなかった。まず、資金の問題だ。手元にある自己資金だけでは、プロジェクトが本格的に動き出せば、あっという間に底をついてしまうだろう。もし資金繰りが悪化し、開発が途中で止まってしまえば、プロジェクトは頓挫する……そうなれば、このプロジェクトに心血を注いできた智也の努力を、全て水泡に帰すことになってしまう。だから、詩織が提案したのは、可及的速やかに新たな投資家を見つけ出し、共同でこのプロジェクトをインキュベートしていくというプランだった。そうすれば初期投資は抑えられるが、代わりにデータに関する権利の一部を譲渡する必要がある。「ビジネスのことは私には分からない。だが、江崎社長の手腕を信じてる。役割分担と行こうじゃないか。君が投資家を探し、私が技術を担う」江崎、社長……?その響きは……悪くない。この数日間、詩織の心を覆っていた暗雲が、その一言でふっと晴れていくようだった。「それじゃあ……これから、よろしくお願いするわ」詩織は、誠実な眼差しで智也に手を差し出した。「ええ、こちらこそ」智也もその手を、力強く握り返した。詩織がようやく前向きな気持ちになった、まさにその時。せっかくの良い気分に水を差す人間が現れた。その人物とは、志帆だった。彼女がどうやって詩織に気づいたのかは分からないが、わざわざこちらに歩み寄って声をかけてくる。「あら、江崎さんじゃない。さっき見かけた時、似てるなとは思ったんだけど、まさか本人だなんて」志帆は詩織に話しかけながらも、その視線はどこか探るように智也に向けられていた。二人の関係を推し量っているのは明らかだった。年も近く、男女が二人きりで食事となれば、いらぬ憶測を呼
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第90話

志帆は喜びを隠しきれない様子で柊也に寄り添い、甘えるように話しかけながら去って行った。「柊也くん、またご馳走になっちゃってごめんなさいね。家族での食事なんだから、こんな高級なレストランじゃなくてもよかったのに」その言葉は控えめで、相手を立てる、実に賢い女のものだった。柊也も彼女のその慎ましさが気に入ったのだろう。先ほど詩織に向けた声とは明らかに違う、柔らかな声音で応える。「当然だ」二人が去ってしばらく経っても、詩織は黙り込んだままだった。智也はしばし沈黙した後、ようやく口を開いた。「江崎さん、大丈夫か」「……私、そんなにひどい顔してる?」と詩織は問い返した。智也は正直な男だった。「ああ、少しな」「平気よ。死にはしないから」詩織は、氷の入った水を一気に飲み干した。悲しかった。だがそれは、柊也のためではない。愛のために全てを投げ打った、過去の愚かな自分自身が、ただただ哀れでならなかった。この恋において、詩織が唯一申し訳なく思う相手がいるとすれば、それは自分自身だけだった。志帆の出現で、食事は気まずいまま終わりを迎えた。詩織の気分が晴れない以上、智也も食欲など湧くはずもなかった。彼が勘定をしようと立ち上がったのを、詩織が制した。「ここは、私が払うわ」「いや、女性に払わせるわけにはいかない」と智也は譲らない。「さっき、『江崎社長』って呼んでくれたでしょ。それだけで、この食事は私がおごる価値があるの。遠慮しないで。これから一緒に食事する機会なんて、いくらでもあるんだから。その時に払ってくれればいいわ」詩織の言葉に、智也はとうとう折れた。「……分かった。じゃあ、これからは全部私が払うって約束だ」詩織がレジへ向かうと、身なりの良い中年男性が同じく会計に来ていた。彼は店員に尋ねる。「『竹の間』の部屋の会計は済んでるか?まだなら俺が払うが」店員は確認して答えた。「先ほど、賀来様がお支払いになりました」男性は頷き、踵を返そうとした、その時。彼の視線が、隣に立つ詩織を捉えた。彼はふと足を止め、詩織をもう一度見た。詩織の意識は店員に向いており、彼の視線には気づいていない。店員から差し出された伝票にペンを走らせると、詩織はそのまま店を後にした。中年男性は、しかし、その場に立ち尽くしていた。彼の
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