All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 91 - Chapter 100

100 Chapters

第91話

入院中の二日間、詩織は付きっきりで彼女に寄り添い、親身に相談に乗った。その時になって初めて、智也は自分の教育方針が間違っていたのだと気づかされた。その後、詩織は自ら紬を心療内科に連れて行き、勉強の面倒まで見てやった。紬は詩織の支えによって少しずつ元気を取り戻し、最終的には志望校に見事合格したのだった。紬自身も、この心優しいお姉さんである詩織がすっかり大好きになり、どんな悩みも打ち明けるようになった。当然、詩織のプライベートなことも、いくつか知っていた。詩織に恋人がいること。そして、その相手が彼女の上司であることも。兄である智也が詩織に抱く密かな想いも、もちろん、紬にはお見通しだった。だからこそ彼女は、「お兄ちゃんは一歩遅かったね。ご縁がなかったんだよ」と、兄のために何度もため息をついていたのだ。智也は実直な男だった。詩織に想い人がいると知ってからは、己の気持ちを律し、決して一線を越えることはなかった。だがつい先ほど、柊也が他の女性と親密な様子であるのを目にし、さらに詩織がエイジアを退職したと聞いた。この二つの事実から、智也は彼女と柊也が破局したのだと結論づけた。その瞬間、彼の心は歓喜に打ち震えた。そしてその吉報を、真っ先に妹の紬に知らせたのだ。その頃、紬は寮の二段ベッドの上で寝転がりながらドラマを見ていたが、兄からの知らせを聞くやいなや、勢いよく飛び起きた。ゴンッと天井に頭を強打し、思わず悲鳴を上げる。しかし彼女は頭の痛みなど気にも留めず、ひたすら兄を急かした。「ぐずぐずしてどうすんの!早く告っちゃいなさいよ!!!私、詩織さんにお義姉さんになってほしい!!!」……詩織は、智也の信頼を裏切らないため、三日三晩徹夜して、非の打ち所がない事業計画書を書き上げた。そして意気揚々と、かつて人脈を築いた投資家たちに連絡を取り始めた。もちろん、断られることは覚悟の上だった。今の自分には、リソースも、人脈も、後ろ盾もない。相手が自分の顔を立ててくれる保証など、どこにもなかった。だが現実は、詩織の想像以上に過酷だった。何十件とかけた電話は、その全てが空振りに終わった。それでも詩織は、くじけなかった。事業計画書を携え、一社一社自分の足で訪ね歩き、説いて回った。数日間駆けずり回
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第92話

かつて柊也の秘書だった頃、詩織もそういった会食に同席する機会はあった。もっとも、その時の彼女にテーブルに着く資格はなく、ほとんどは柊也の隣で酒の相手をするのが役目だった。酒席でない時は、部屋の外で待機させられることさえあった。資本を持つ者たちが集う会食で交わされるのは、一般人には決して触れられないビジネスの機密事項だからだ。それを柊也は、いともあっさりと志帆を同席させ、彼女のために人脈作りの手助けをし、チャンスを与えている……詩織は、思わずにはいられなかった。一体どれほど志帆を愛していれば、ここまで全てを投げ打って彼女の道を切り拓いてやれるのだろうか。高坂は詩織のプロジェクトに興味を示してはいたが、しょせんは利益を最優先するビジネスマンだ。彼は企画書を閉じると、もったいぶった言い方はせず、単刀直入に自身の見解を述べた。「このプロジェクト自体は、非常に有望だと思う。だが君も知っての通り、ここ数年の経済状況は芳しくない。資本市場も玉石混交で、何が起こるか分からない。だから我々も、リスクを避けるために、皆で寄り集まって暖を取るように、確実なものにしか投資しないんだ。……私の言いたいことは、分かるだろう?」「はい、分かります」だからこそ、高坂はこう尋ねたのだ。「このプロジェクト、賀来社長に見せてみる気はないかね?」「もし賀来社長が投資するなら、私も必ずそれに続くよ!」高坂は諭すような口調で言った。「江崎さん、『寄らば大樹の陰』という言葉があるだろう。リソースの面から見れば、私は柏木さんのプロジェクトの方に将来性を感じる。何しろ、彼女の後ろには賀来社長がついているからね」その言葉は、詩織にとって残酷なほどに的を射ていた。自分、江崎詩織の後ろには、誰もいない。そんな自分に、一体誰が進んで投資してくれるというのだろうか。……長利のビルを出ると、いつの間にか外は雨になっていた。大した降りではない。けれど、突き刺すような寒さだった。江ノ本市の冬は、雨が降ると決まってこうだ。湿り気を帯びた冷気が、骨の髄までじんじんと染み渡ってくる。ミキからメッセージが届いた。B市で今年初めての雪が降ったという。【こっちまで見に来ない?】という誘いだった。雪の滅多に降らない江ノ本市で育った二人にとって、それは特別な響きを
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第93話

話しているうちに感情が高ぶったのか、紬の目はみるみるうちに赤くなり、声が震え始めた。「お兄ちゃんに万が一のことがあったら、お母さんと私は……私たちは、どうすればいいのよ……」彼らの父親が亡くなった時、紬はまだ小学生で、母親はもともと病弱だった。家の重荷は、すべて智也の双肩にのしかかった。彼は一家の大黒柱であり、紬と母親にとって唯一の頼れる存在なのだ。彼女がこれほど取り乱すのも無理はなかった。詩織は紬の肩をそっと抱き寄せて慰めた。「大丈夫よ。私がちゃんと見張ってるから。心配しないで」紬をなだめ終え、詩織はようやく状況を把握する余裕を得た。「紬ちゃんが言っていた、『一人で何人分もの仕事』って、一体どういうことなの」詩織が真顔になると、なかなかの迫力があった。「そんな大袈裟な話じゃない」智也はまだ、この場を誤魔化そうと試みる。しかし、またしても紬に内情を暴露されてしまった。「決まってるじゃない!節約よ!コストを切り詰めるため!」その言葉を聞いて、詩織の胸にずしりと重いものがのしかかる。紬はそれ以上詳しく言わなかったが、詩織にはおおよその事情が察せられた。自分の手持ち資金が少なく、新たな投資も得られていない状況を考慮して、智也は経費を切り詰めようとしたのだろう。そして、彼女のためにお金を浮かそうと無理を重ね、倒れるまで働いたのだ。詩織の表情が曇っていくのを見て、智也は観念したように、おずおずと説明を始めた。「今のエンジニアは給料が高すぎるんだ。ちょっとできる奴は、年俸数百万からとか、平気で要求してくるし……プロジェクトに新しい投資が入るまでは、私ができることは自分でやった方がいいと思って」「できることだけじゃないでしょ!もうほとんど全部の技術パートを一人でやってるじゃないの」紬が食ってかかる。「余計なことを言うな」智也は詩織にプレッシャーを与えたくなかった。この間のスタジオの厳しい内情を、彼は詩織に隠し通していた。しかし、過労で倒れるという計算外の事態が、すべてを露呈させてしまった。詩織にはその気遣いが痛いほどわかった。彼女は意を決したように、智也に厳しく言い渡した。「今は自分の身体を治すことだけ考えて。必要な人員はちゃんと雇う。あなたは技術のことだけ考えてくれればいいの。資金繰りは私の仕事なんだから、
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第94話

送信した、まさにその瞬間、別のグループチャットの通知が画面にポップアップし、指がそれに触れてしまった。開いたのは、エイジア時代に参加した社内イベントのグループだった。トークリストの下に埋もれていたせいで、退会するのをすっかり忘れていたのだ。メッセージの送り主は、赤城沙耶だった。彼女はグループの全員にメンションをつけている。文面からは、ただならぬ興奮が伝わってきた。【みんな、聞いて!B市で誰に会ったと思う!?なんと賀来社長と柏木ディレクターよ!わざわざ初雪を見に来たんだって!ロマンチックすぎない!?】【マジで!?賀来社長と柏木さん、仲良いんだね!】【「初雪を一緒に見たい」って誘うのは、愛の告白だってネットで見たよ。これって、社長から柏木さんへのプロポーズじゃない?】【お幸せに!】【末永くお幸せに!】グループは、あっという間に二人への祝福メッセージで埋め尽くされた。メンションされた志帆本人もすぐに反応し、丁寧ながらも嬉しさを隠せない様子で礼を述べる。【ありがとうございます】そして、撮ったばかりだという初雪の写真をグループにシェアした。その写真の右上隅に、見慣れた男の姿があった。俯いて、スマートフォンの画面を見つめている。画面の光が、シャープな輪郭の横顔をぼんやりと照らし出していた。賀来柊也、その人だった。つまり、これは二人の交際宣言、ということなのだろうか。詩織が予想していたよりも早かった。だが、考えてみれば当然の成り行きだった。互いの両親にも会わせているのだ。公にするのも、時間の問題だったに違いない。グループ内は、先を競うように二人への祝福メッセージで溢れかえっていた。詩織は黙ってそのグループを退会し、再び柊也とのトーク画面を開くと、さっき送ったばかりのメッセージの送信を取り消した。柊也からの反応は、ない。初雪やら何やらで、忙しくて手が回らないのかもしれない。けれど詩織には分かっていた。それよりも、意図的に無視されている、というのが本当のところだろう。彼がこうして詩織からのメッセージを無視するのは、これが初めてではなかったからだ。一体、いつからだっただろうか。詩織は記憶を遡る。一年ほど前からだろうか。柊也の態度は、どこか変わってしまった。海外出張にも、一人で行く
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第95話

相変わらず、返信はない。詩織は迷いなくそれをトークリストから非表示にすると、ようやく部屋を出て、再び投資家回りを始めた。午前中に二社を回ったが、成果はなかった。昼食を買い、病院へ智也の見舞いに行くと、彼は点滴を打ったまま、なおも仕事に没頭していた。あまりに集中していたせいで、点滴のパックが空になり、チューブに血が逆流していることにさえ気づいていない。詩織は慌てて駆け寄り、手際よく処置をした。新しい点滴パックに交換し、中の空気を抜く。その一連の動作は、驚くほど手慣れていた。智也は思わず感心したように尋ねた。「どうしてそんな手際がいいんだ?」「母の身体が弱くて。ずっと看病しているうちに、自然と」「そうか……」と智也は相槌を打ったきり、その先の言葉に詰まってしまった。彼は典型的な理系タイプで、人付き合い、特に女性とのコミュニケーションは得意ではない。妹の紬はそのことをよく分かっていて、あれこれと女性へのアプローチ方法を兄に指南していたのだが、当の本人にはそれを実践する術がなかったのだ。頭の中でいくつもの言葉が巡り、ようやく口をついて出たのは、結局、仕事の話だった。「……今日は、どうだった?」「まあまあよ。午後はあと二社、回る予定」詩織は努めて明るく答えた。しかし智也の目には、彼女の踵にできた痛々しい靴擦れが見えていた。彼はそれ以上何も聞かず、ただナースコールを押した。そして、やって来た看護師に頼んで、傷の手当て用品を持ってきてもらう。詩織は彼自身がどこか怪我でもしたのかと心配したが、智也は受け取った消毒液と絆創膏を彼女に差し出し、踵を無言で指差した。詩織自身、プロジェクトのことで頭がいっぱいで、自分の足の傷には気づいてもいなかった。「どうしてもヒールじゃなきゃダメなのか。もっと楽な靴でもいいと思うけど」と、智也がぽつりと言った。「身だしなみを整えるのは、プロとしての信頼感に繋がるから」智也は深く納得したように頷いた。「なるほどな」実のところ、この間にも他の投資会社から智也個人に声がかかることはあった。しかし彼は、そのすべてを断っていた。詩織の苦労する姿を目の当たりにして、もう一度連絡を取ってみるべきか、彼の心は揺れていた。詩織が病室を出ていくとすぐ、智也は一件一件、電話をかけ直
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第96話

だとすれば、十中八九、志帆も一緒だろう。このところの二人は、いつも影のように寄り添っているのだから。詩織は太一を相手にする気になれなかった。この手の人間と言い争うのは、犬と罵り合うようなものだ。全くの時間の無駄だった。彼女は太一を無視して、そのまま中へ入ろうとした。しかし、彼はなおもしつこく食い下がり、わざと詩織の神経を逆撫でするような言葉を投げかける。「お前、本当に空気読めねえのな。柊也が志帆ちゃんを取り戻すのに、どんだけ苦労したか知ってんのかよ?一年前、志帆ちゃんと京介兄貴の仲がこじれた時、柊也、速攻で追いかけてったんだぞ。この一年、ほとんど世界中飛び回って……それでようやくとことん尽くして想いが実ったってのに、お前がしゃしゃり出てきてどうすんだよ。とっとと柊也の前から消えろよな!」詩織は振り返り、氷のような声で言い返した。「だったら、二人揃って太陽の隣にでも打ち上げてあげなさいよ!そこなら誰にも邪魔されずに済むでしょう?二人で燃え尽きて、灰になるまで永遠に一緒にいられるわ」これほどまでに鋭利な言葉を返す詩織を、太一は見たことがなかった。彼は一言も言い返せず、呆然と立ち尽くす。詩織が去った後、ようやく我に返った太一は、悪態をつきながらそばにあった花瓶を蹴り飛ばし、派手な音を立てた。個室に戻っても、彼の顔は怒りに歪んだままだった。「クソッ、マジで胸糞悪ぃ!」太一は感情を隠せない質だった。異変に気づいた志帆が尋ねる。「どうしたの?そんなに怒って、誰かに何か言われたの?」それを待っていましたとばかりに、太一は溜まっていた不満を吐き出した。「外で汚ねえモン見ちまったんだよ!」「ここ、オープンしたばかりじゃなかった?そんなに汚れてる場所なんてあったかしら」今日、彼らがここに集まったのは、この店の開店祝いのためだった。『Elysian』は、太一が何人かの仲間と共同で出資して開いたラウンジだ。規模こそ『リヴ・ウエスト』には及ばないものの、内装もサービスも決して見劣りしない。なにせ、出資者たちは皆、有り余るほどの金を持つ家の生まれなのだから。「モノじゃねえよ、人間のことだよ」太一は苛立ちを鎮めるように、ウィスキーを呷った。「さっき入口で、江崎詩織に会ったんだよ!」その名前を聞いた瞬間、志帆は無意識に
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第97話

だから詩織が姿を見せるなり、文武は手を変え品を変え、彼女を酔わせようと躍起になった。ところが、詩織はなかなかの酒豪で、たいして飲んでいないはずの文武のほうに、先に酔いが回り始めていた。ついに痺れを切らしたのか、彼は熱弁を振るう詩織の話を強引に遮った。「江崎さん、君のビジネスセンスや企画力を疑ったことは一度もない。君ならこのプロジェクトを見事にやり遂げられると信じてるよ」「では向井社長、ご出資いただけますか」詩織も単刀直入に切り返す。「ああ、いいとも。だが……条件がある」彼はそう言うと、テーブルに置かれた詩織の手に、ねっとりと自分の手を重ねた。「君は賢い人だ。俺が何を言いたいか、わかるよな?」「はい、わかります」文武は、詩織がついに折れたのだと色めき立った。欲望のままにその体に触れようとした、まさにその瞬間――個室の扉が、外からすっと開かれた。いいところを、見事に邪魔された形だ。腸が煮えくり返る思いで、文武は「どこに目をつけてやがる!」と怒鳴りつけようとした。しかし、その隣で詩織がすっと立ち上がりながら、何でもない素振りで手を引っこめる。そして、満面の笑みを来訪者に向けた。「あら、奥様。お待ちしておりましたわ。社長と二人で、首を長くしてお待ちしていたんですよ」文武の卑しい笑みが、ぴしりと顔に張り付いた。――これが、この女の用意していた『切り札』か。脇が甘かった……!あの賀来柊也の傍に長年いた女なのだ。危機的状況を乗り切る術の一つや二つ、身につけていないはずがなかった。たった一人で敵地に乗り込んでくるからには、万全の策を講じている。そう考えるべきだったのだ。文武の妻、向井梨遠(むかい りおん)は、夫には目もくれず、親しげに詩織の手を取った。「江崎さん、やっとお会いできたわ。この間は本当に助かったのよ、ずっとお礼を申し上げる機会を伺っていたの」「奥様、とんでもないですわ。大したことではございませんから、どうかお気になさらないでください」「いいえ、そんなことないわ。受けた恩は忘れないのが、人として当然のことよ。もし良心を失ってしまったら……それはもう、人とは呼べないもの」隣で、文武が気まずそうに二度、三度と乾いた咳払いをする。わかる者にはわかる。妻が自分に当てこすっているのだということを。こ
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第98話

人の心など、移ろいやすいものだ。詩織はとうに柊也への期待など捨てていたから、彼が自分のために何か言ってくれるなどとは、もちろん思ってもいない。だからすぐに視線を外し、表情を動かさなかった。ただ、汚物でも見るかのような目で太一を見据える。太一にしてみれば、先ほど詩織にやり込められて潰された面子を取り戻すために、嫌味の一つでも言ってやりたかっただけなのだ。だが、まさかこんな反応が返ってくるとは思ってもみなかった。その表情はあまりに堂々としていて、「現場」を押さえられたような狼狽など微塵もない。それどころか、その瞳にはあからさまな軽蔑の色さえ浮かんでいる!ただでさえアルコールが入っている。その侮辱的な視線にカッと頭に血が上り、口から飛び出した言葉は、もはや皮肉の域を超えていた。「何見てんだよ!俺が何か間違ったか?てめえは元からそういう偽善者だろうが!それだけじゃねえ、性根は腐ってるし、金のためなら手段を選ばねえ……!」「もういい!」それまで表情一つ変えなかった柊也が、ようやく口を開いた。太一はまだ罵り足りなかったが、柊也の制止とあっては、ぐっと言葉を飲み込むしかない。志帆が気まずそうに間に入った。「ごめんなさいね、江崎さん。彼、飲みすぎちゃったみたい」詩織は冷え冷えとした表情を崩さぬまま言った。「でしたら賀来社長、あなたの飼い犬には、きちんと首輪をつけておいてくださらないかしら。ところ構わず噛みつかれたら迷惑ですもの。あなたと違って、誰もそんな犬を可愛がったりはしませんから」「江崎、てめえ……!」「もうやめて、太一」志帆が慌てて太一の腕を掴んだ。詩織が文武と共に去っていく背中を見送りながら、志帆はちらりと柊也の横顔を窺った。元恋人が他の男と親密そうにしているこの状況で、彼がどんな反応を示すのか知りたかったのだ。しかし、柊也の表情は終始、凪いだ水面のように静かだった。まるで、見ず知らずの他人を見るかのように。詩織の姿が見えなくなると同時に、一瞥する価値もないとでも言うように、すっと視線を逸らした。翌日、詩織は約束通りワンスター・キャピタルを訪れ、文武と事業について話し合った。向井文武という男が成功したのは、単なる幸運だけではない。投資家としての確かな目利きがあったからこそだ。彼は
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第99話

ペンを受け取った瞬間、詩織の目頭がじんと熱くなった。「念のために言っておくけど、サインしたらもう後戻りはできないわよ」「いいから、早く」智也はただ、そう言って彼女を促すだけだった。「それと……最初に私に声をかけてきた時、君は私の技術を信じてくれたんじゃないのか?私が、淘汰されるような男に見えるか?」自分の専門分野において、智也には揺るぎない自信とプライドがあった。詩織は、迷いのない筆致で自分の名前を書き記した。……物事は、順調なようで、全く順調ではなかった。起業に立ちはだかる困難の数々を、詩織は一つ残らず味わうことになった。だが幸いなことに、彼女にはどんな状況でも動じない、強い精神力があった。過去の数年間で、彼女の心はとっくに研ぎ澄まされていたのだ。これしきのことで、簡単にへし折れる自分ではなかった。詩織は二正面作戦を展開した。投資家を探し続ける一方で、各銀行に融資の申請を行ったのだ。しかし融資の手続きは煩雑で、時間もかかる。当座の危機を乗り越えるための策に見えて、実際には焼け石に水だった。口座の残高が日に日に減っていくのを目の当たりにして、さすがの詩織も焦燥感を覚え始めていた。その日も、とある銀行との交渉が不調に終わり、詩織は疲れ切った体で地下鉄のシートに身を沈めていた。その時、スマートフォンの通知音が立て続けに鳴った。画面を見なくても、送り主はわかっている。小林密――彼女以外に考えられない。メッセージを送る時、彼女には独特の癖があった。短い文章を、何度も区切って連投してくるのだ。一文で済む内容を、三つも四つにも分けて送ってくる。詩織は、うんざりしながらも画面を開いた。案の定、密からの愚痴だった。【詩織さん】【人って】【比べるもんじゃないですね!】【知ってます?】【さっき賀来社長が】【柏木さんのために】【舜山邸のヴィラ、買ったんですよ!】【ぽーんと!】【…………】密のメッセージはまだ続いていたが、詩織の思考はそこでぷつりと途切れた。舜山邸のヴィラといえば、どんなに安くても10億円は下らない。柊也は、本当に気前がいい。彼が志帆に対していつも大盤振る舞いなのは、詩織も嫌というほど見てきた。だから、誰かから彼がいかに志帆を大切にしているかを
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第100話

そのメッセージに、詩織は思わずため息をついた。もう半月も前の話だ。とっくに枯れ果てた話題を、今さら掘り返してくるなんて。それは同時に、ある事実を浮き彫りにしていた。柊也は、あのメッセージを本当はずっと前に見ていたのだ。ただ、見て見ぬふりを決め込んでいただけ。これまで、彼に送っては返事もなく消えていった無数のメッセージも、きっとそうだったのだろう。ただ、あの頃は恋に目が眩んでいて、そんな単純なことに気づけなかっただけ。詩織は数秒その名前を眺めた後、トーク履歴から彼のアカウントを非表示にした。まだ自分が、以前のように彼に媚びへつらい、メッセージには即レスし、電話にはすぐに出て、二十四時間いつでも彼の都合を待っているとでも思っているのだろうか。あり得ない。終わった恋は、終わったのだ。では、なぜ連絡先を消さないのか?そんなことをするのは、感傷に浸りたいだけの子供か、未練がましい人間だけだ。翌日、詩織は智也のスタジオを訪れたが、そこである異変に気づいた。スタッフの数が、以前より減っているのだ。初めは、まだ出勤していないだけだろうと、詩織は特に気にも留めなかった。しかし、帰る段になっても、空席は空席のままだった。彼女は、智也のアシスタントにこっそりと尋ねてみた。アシスタントは最初、口をつぐんでいたが、詩織が粘り強く問い詰めると、彼は耐えきれなくなったように、重い口を開いた。このところ智也は、少しでも経費を削減し、詩織の負担を軽くしようと、多くのスタッフを解雇していたという。そして、解雇された者たちの仕事は……そのほとんどを、智也自身が引き受けていた。それだけではない。智也は時間を見つけては個人的に仕事を受け、その報酬を会社の運転資金に充てていたという。その時間を捻出するために、彼は己の睡眠時間を、極限まで削っていたのだ。アシスタントは、心底心配そうな顔で続けた。「江崎さん、久坂さんの睡眠時間は、毎日三時間もありません。こんな無理を続けていたら、いつか本当に倒れてしまいます」資金調達は、もはや一刻の猶予もなかった。スタジオを後にした詩織の表情は、重く沈んでいた。彼女たちが手がけるような先進的なプロジェクトは、大企業からは見向きもされず、かといって中小企業には投資する体力がない。まさ
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