All Chapters of 冷酷夫、離婚宣言で愛を暴走: Chapter 91 - Chapter 100

100 Chapters

第91話

気がついたら、大輔に腕を引かれ、私は端に押しやられていた。彼はその席を優子に譲ったのだ。ついさっきまでは、彼自身が私にそこへ座れと言ったはずなのに。今はまるで、優子に誤解されるのを恐れているみたいだった。「ここがお前の席だと思ってるのか?時生社長の隣に座れるのは、奥様だけだ!」そう言い放った大輔は、椅子を拭き取り、恭しく差し出した。「どうぞ、優子さん」大輔の卑屈な態度に吐き気すらした。けれど、時生の隣に座らずに済むなら、それはそれで悪くない。ただ、大輔がさっき私の前に置いた大きなグラスは、そのまま優子の席に残っていた。お酒がなみなみと注がれたまま。優子は唇の端を少し上げ、時生を見た。「時生、これ、あなたのお酒?どうしてこんなに多いの?」その声音には、どこかたしなめるような口調が混じっていた。「違います、優子さん」大輔が慌てて言った。「これはうちの昭乃の分です。さっき社長を粗末に扱った罰として、三杯飲めって命じたんです」周りの客たちも面白がって声を上げた。「そうそう!まだ一杯目が終わったばかりだ。二杯目はこれからだぞ!」優子はわざとらしく同情を浮かべ、私を見てから、時生に言った。「時生、こんなの……あまりよくないんじゃない?」時生は椅子に腰をかけたまま、無造作にグラスを指で回していた。「じゃあ、どうすればいい?」その一言で、私の運命は優子に委ねられてしまった。優子は困ったように目を泳がせた。「わ、わたしには分からないわ。お酒の席の作法なんて……」「簡単ですよ」大輔がすぐに口をはさみ、私を引き寄せて優子の前に突き出した。「昭乃にやらせればいいんです。ほら、この二杯目は社長と奥さまへ――末永くお幸せに!」私は時生を見つめた。彼は氷のように冷たい表情を浮かべ、恐ろしいほどだった。けれど、彼は何の反応も示さない。代わりに優子が、愛らしい笑みを時生に向けた。「やめておこう。昭乃さんを困らせたくないわ」「困るなんて!」大輔はなおも媚びて言った。「昭乃にとっては幸運ですよ。大スターの優子さんに会えて、時生社長と同じ卓を囲めるなんて!」時生の冷たい視線に貫かれながら、私は目を閉じ、お酒を一気に飲み干した。焼けつくような痛みが腹の奥で暴れ出す。持病のある胃が、火に焼かれるように苦しい。「
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第92話

大輔は慌てて契約書を私に突き出した。「早く確認してくれ」「悪いけど、私は会計の専門じゃないです」私は無表情で答えた。「それに、さっきお酒を飲んだから、頭がふらふらで考えれません」別に意地を張っているわけじゃなくて、本当に目が回るし、胃まで痛んでいた。気づけば立ち上がって、外へ歩き出していた。トイレでしばらく吐き、口をすすいで、ようやく胃が落ち着いた。冷たい水で顔を洗い、鏡に映る自分を見つめたとき、不意に胸が締めつけられるように痛んだ。数分かけて気持ちを整えてから、トイレを出る。だが、数歩進んだところで時生と鉢合わせた。知らないふりで避けようとしたが、彼は進路をふさいだ。背が高くて細身の男が、私を壁際に追い込み、眉を寄せて見下ろしてきた。「胃がまた悪くなったのか?」私は口元に薄い笑みを浮かべて、ぽつりと言った。「あなたのおかげよ」時生の目が細くなる。「ただ分かってほしい。黒澤家を出れば、君がどれほど生きにくくなるかを」ちょうどその時、彼の秘書の健介がやってきた。胃薬の箱と水のボトルを手にして。「時生さん、薬を買ってきました。水もあります」時生は軽くうなずき、薬を私に差し出して、水のボトルのキャップを開けた。「ほら、まず薬を飲んで」身体を壊すつもりはなかったので、薬を受け取って飲み込んだ。すると、すぐに胃の痛みがやわらいでいった。時生は指先で私の頬をなぞりながら言った。「春代の話じゃ、最近家に帰ってないそうだな」「忘れたの?あの日言ったじゃない。会社の近くに引っ越すって」「そんなに仕事が好きか?」軽蔑をにじませた声で続けた。「もし今日も、他の男に酒の席に呼ばれたら行くのか?黒澤家の妻という立場を捨てて、くだらない茶番ばかり。何がしたいんだ?」私はただ無力な気持ちでため息をつくだけだった。優子のことを問いただす気力も、争う気も残っていなかった。だから、単刀直入に切り出した。「あの日、誕生日に贈り物を渡したでしょ……見た?」時生は一瞬だけ動きを止めて答えた。「見た」「それで、どう思ったの?」私は彼の目をまっすぐ見た。せめて離婚の話だけでも、一緒に進めてほしかった。けれど、彼はただ呆けたように聞き返した。「どう思ったって、何を?」「つまり、離……」言い切る前
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第93話

私はバッグをつかんで、踵を返し部屋を出ようとした。ちょうどドアを開けた瞬間、大輔が飛びかかるように追ってきて、背中から乱暴に引き寄せられた。「この女、今夜は俺がたっぷり教えてやる!」狂ったように怒鳴りながら、彼は私をドアに押しつけ、脂ぎった顔をぐいっと近づけてきた。「離して!」恐怖に駆られた私は必死に扉を引き開け、逃げ出そうとした。廊下の先――エレベーターの前に、時生の姿が見えた。「助けて!時生、助けて!」私は背中に向かって叫んだ。彼は気づいたのか、ちらりと振り返ろうとした。そのとき、ちょうどエレベーターが開き、優子が現れた。時生はすぐに視線を戻した。優子はそのまま彼の腕に手を絡め、周りの目などまったく気にしていない。でも今の私には平気な顔をしていられる余裕なんてなかった。知っている人は彼しかいない、助けてくれるのも彼しかいない。「時生!お願い、助けて!」喉が裂けそうなほど叫ぶと、彼の足が一瞬止まった。だがそのとき、優子が胸を押さえて苦しそうに顔を歪める。時生は彼女を気遣って身をかがめ、そのまま迷いなく横抱きにして歩き出した。振り返ることは、もうなかった。その腕の中の優子だけが私を見て、紅い唇に勝ち誇った笑みを浮かべた。私は大輔に引きずられるようにして奥の部屋へ押し込まれた。「この女、まだ『時生社長』なんて呼んでやがる」大輔は私の服を乱暴に引き裂きながら、下品な笑みを浮かべた。「時生社長の婚約者は優子だ。お前なんか相手にされるわけないだろ。酒の二杯でも注げば惚れてもらえるとでも思ったか?」私は必死に抵抗し、怒鳴った。「大輔!私は時生の妻よ!私に手を出したら、あなたなんてこの業界で生きていけなくなるわ。信じられないならやってみなさい!」大輔はさらに笑い声を深くした。「頭まで酒でやられたか?お前が社長の奥さんだと?理沙から聞いたぞ。お前は独身で、結婚なんかしてないってな。そうじゃなきゃ、俺が怖くて手なんか出せねえはずだ」頭の中に雷が落ちたような衝撃が走った。――理沙?「理沙が……あなたにそう言ったの?」信じられない思いで問いかけると、大輔はにやりと答えた。「他に誰がいる。あの女が言ったんだよ。お前を酔わせて、俺が好きにしてるところを撮れってさ。そしたら、どうにかしてお
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第94話

そう言うと、晴人は私に身を乗り出してきた。「さあさあ、見せてくれよ。義姉さんって、どんな顔してるんだ?」私の顔を見た瞬間、彼は目を見開いた。「……昭乃?な、なんでお前が?」説明する間もなく、大輔が追いついてきた。「このクソ女!仲間まで引き連れてきやがって!さっさとこっち来い!さもないと、お前もその二人も無事じゃすまねぇぞ!」恐怖で足がすくんだ私の腕を、その男が支え、胸元にそっと引き寄せてくれた。私の乱れた服に気づいたのか、ためらわず上着を脱いで肩に掛けてくれた。大人の香りにかすかに煙草の匂いが混じり、温もりと一緒に私を包んだ。胸の奥に、今まで感じたことのない安心感が広がっていく。晴人は一瞬で状況を悟り、大輔の顔面に拳を叩き込んだ。「てめぇ、誰に向かって吠えてんだ!昭乃に手ぇ出すなんざ、百年早えんだよ!」吐き捨てるように言い、そのまま大輔を蹴り倒し、拳と蹴りを容赦なく浴びせる。晴人は学生の頃から喧嘩も煙草もやりたい放題で、筋金入りの不良として知られていた。大輔みたいな張り子の虎なんか相手にもならない。大輔の悲鳴がホテルの廊下に響き渡る。騒ぎが大きくなりすぎて、ホテルの警備員と支配人がすぐに駆けつけた。支配人は警備員に指示を出しかけたが、私を支えている男の姿を見た途端、ピタリと動きを止め、深々と頭を下げた。男は表情ひとつ変えず、金縁メガネの奥のまなざしは冷たく鋭い。彼が晴人を止めない限り、支配人も警備員も手を出そうとしなかった。大輔が意識を失うまで叩きのめされると、男はようやく低い声で言った。「……晴人、そのくらいにしろ」晴人はしぶしぶ拳を収め、立ち上がりざまにもう一発、大輔の脇腹を蹴りつけた。支配人が恐る恐る口を開いた。「高司様、大変申し訳ありません。うちのホテルでこんな騒ぎを……よろしければ、このお嬢さんを控室にご案内して、お召し物を整えさせましょうか?」高司(たかし)は私を見て、静かに尋ねた。「君はどうしたい?」「……帰りたいです」もうここには、一秒たりともいたくなかった。そのまま高司と晴人に連れられ、私は車に乗せられた。長いリムジンの車内、高司は正面に座り、隣に晴人が腰を下ろして矢継ぎ早に問いかけてくる。「昭乃、あいつは誰だ?なんでお前があんな目に?それにだ、真夜中に
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第95話

「高司さん、このたびは本当にありがとうございました。前の工事現場でも助けていただいて……」心からお礼を言った。「気にするな」淡々と答えた高司は、晴人に向かって言った。「君の家に行くか?」「行く!」「いいえ!」私と晴人の声が、同時にぶつかった。晴人が歯ぎしりして言った。「昭乃、お前、俺に真夜中に家まで送らせるつもりか?こんな格好で帰ったら、旦那に俺たちが一緒に寝たと思われるだろ!」「くだらないこと言わないで!」私は冷たく言い放った。「外で部屋を借りてるの。もう彼とは一緒に住んでない」そのやり取りを聞いた高司の目に、一瞬、疑いの色が走った。まさか晴人が既婚者にまで手を出すなんて、思ってもいなかったのだろう。私はどうしても晴人の家には行けなかった。火中の栗を拾うようなものだからだ。幸い、高司は私の気持ちを尊重し、住所を聞いてくれた。そして運転手に指示し、車は私のマンションへ向かった。降りるとき、晴人がどうしても部屋まで送ると主張したが、私は断った。彼は悔しそうに鼻を鳴らして言った。「どうせ俺にだけ突っかかるんだろ!さっきの老いぼれには何も言えなかったくせに!」私は相手にせず、羽織っていたコートを脱いだ。本当は高司に返すつもりだったが、今夜の酒の匂いがもう染みついている。洗って返そうと名刺か連絡先を聞きかけたとき、あの日助手が言っていた言葉を思い出した――高司に関わろうとする人は多い。余計な誤解を招きたくなくて、私は連絡先をあえて聞かないことにした。「高司さん、もしよければ、このコートは一度クリーニングに出してから晴人に返させます」そう言うと、高司は軽くうなずき、静かに答えた。「急がなくていい」別れを告げ、私は足早にマンションの中へ入った。帰宅後、本当は警察に通報して、大輔のわいせつ行為を訴えたかった。でも、ホテルで晴人があれだけ殴った場面を思い出す。私が通報したら、晴人まで巻き添えになるかもしれない。結局、私は実害を受けなかったし、大輔にも何ひとつ得させなかった。そう言い聞かせて、通報をやめた。……翌日。出社した私は、そのまま理沙の部長室に入った。彼女が何か言うより早く、思いきり平手を打った。理沙は目を見開き、信じられないという顔をした。だが、いつもなら噛みついてくる彼
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第96話

私は冷たく笑って言った。「思わなかったって?あなたは優子に操られた時点で、もう私を潰すつもりだったんでしょ。理沙、私、人を見る目がないね!」そのまま、私は警察に連れて行かれた。取り調べ室の蛍光灯はやけに明るくて、容赦なく顔を照らしてくる。悪いことなんてしていないはずなのに、容疑者扱いされて取り調べを受けるのは初めてで、正直、怖くないわけがない。警察は矢継ぎ早に質問を投げかけ、私は全部正直に答えた。でも、私の話は「被害者」だという大輔の訴えと食い違っているらしく、さらに調べを続けると言った。胸がざわついて、思わず聞いた。「ここに、あとどれくらいいなきゃいけないんですか?」警察官は事務的に答えた。「ご主人にはすでに連絡しました。迎えに来て保釈の手続きをすれば、今日中に出られます」「ご主人?時生?」その名前は、今の私にはもう死んだも同然だった。必要なときに、一度だって現れたことなんてなかった。通知するなら、結城家か紗奈にしてほしかった。けれど警察は配偶者は直系親族として最優先で通知しなければならないと言った。取り調べが終わると、小さな個室に押し込まれた。数平方メートルほどの狭い部屋は湿っぽく薄暗い。閉じ込められる恐怖が一気にのしかかる。私は半ばしゃがみ込むように隅に座り、スマホもネットもなく、外の世界から完全に遮断された。時間の進みは遅く、一秒一秒がやけに長く感じられた。どれくらい経っただろう。ようやく外から足音が近づき、ドアが開く。「昭乃さん、ご家族が迎えに来られました」私はようやく目の前に光が差し込むのを感じ、しびれた膝を支えながら立ち上がった。会見室に時生がいた。私を見るなり眉を寄せ、頭からつま先までざっと見て、言った。「行くぞ」警察は彼にやけに丁寧だった。「時生さん、ここに署名をお願いします。上からも言われていますが、進展があればすぐご連絡します。大輔の件は厳しく対処しますので」「……ああ」彼はペンを走らせると、そのまま私の手首を強くつかんで外へ引き出した。車に向かうまで、時生は一言も発さず、唇を固く結び、黙り込んでいた。私は納得がいかなかった。どうして怒っているのが彼のほうなのか。理不尽な目に遭い、脅かされそうになったのは私なのに。まさか、保釈に来たせいで優子
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第97話

私は車のドアを開けて降りようとした。でも彼が手首をつかんで、強く引き戻した。「どうして病院に行かないんだ?」疑わしそうな目で問い詰めてくる。「もし病気にかかっていたら、どうするんだ?」私は皮肉っぽく笑った。「病気?それがあなたに何の関係があるの?どうせ私たちはもう終わってる。まさか、あなたにうつすとでも?」「まだ強がるのか!」時生の顔はさらに険しくなった。「前から言ってただろ。余計なことはするな、家で大人しく黒澤家の妻でいろって。ほら見ろ。俺から離れれば、結城家から離れれば、君なんてただの獲物なんだ!」こみ上げる悔しさで喉が詰まった。氷のような瞳を正面からにらみ返し、私は震える声を絞り出した。「でも昨日――あなたはそこにいた。あなたがいてもいなくても、何が違った?助けてって言ったのに、助けてくれた?」時生は少し黙り、不審そうに眉をひそめた。「いつ俺に助けを求めた?」胸が押し潰されるみたいで、言葉が嗚咽に変わった。「そうよ。あなたの目は優子しか見てなかった。胸が痛いって言っただけで、彼女を抱えて運んでいったじゃない。当然、私なんか気づくはずないわよね」「昨日……あれは、君だったのか?」ようやく彼も、あのときの悲鳴を思い出したらしい。茫然とした顔に、私はかすかに笑みを浮かべた。「だから言うのよ、時生。あなたに私を責める資格なんてない。たとえ私が汚れたとしても、あなたは共犯者よ」そう言って、私はドアを押し開け車を降りた。今度は、彼も止めなかった。外に出ると、明音から電話がかかってきた。晴人も警察に連れて行かれたという。容疑は、私と同じ「傷害罪」だった。私は慌ててタクシーを拾い、警察署へ向かった。晴人のために証言するつもりで。けれど意外にも、時生の車がずっと後ろをつけてきた。署の前で降りると、彼も車を降りてきた。「やっと保釈させたってのに、また戻ってきて何をする。俺を罰したいのか?後悔させたいから、もう一度入れっていうのか」あまりの言葉に呆れて笑った。「私がそんなことのために自分を犠牲にすると思う?頭おかしいんじゃない?」「じゃあ何しに来た」署の入口で立ちふさがれ、仕方なく説明した。「昨日、晴人が私をかばって大輔を殴ったの。だから証言しに来たのよ」時生の黒い瞳が細まり、鋭く光った
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第98話

時生は帰らず、ずっと車に座っていた。夜の帳が静かに降りて、湿った冷たい空気が漂っていた。気づけば、時生は車を降りていた。龍涎香の匂いがする上着が、ふいに私の肩に掛けられる。思わず外そうとしたが、彼は私の手を押さえた。「そんなに心配か?」語尾を少し上げた声には、不機嫌さがにじんでいた。私はむっとして言った。「あなたが優子を心配するのと同じよ。本気で心配してるの!」彼はそれ以上何も言わず、スラックスのポケットから煙草の箱を取り出し、少し離れた。ライターの青い火が一瞬はじけ、彼の冷たい横顔を浮かび上がらせた。三十分ほど待った頃、黒澤グループの弁護士チームがやっと姿を見せた。時生が警察関係者へのコネも動かし、晴人は無事に保釈された。彼は両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、何事もなかったような顔で現れた。そして、私と時生が並んでいるのを見て、目を見開いた。「昭乃、この馬鹿女……まさか俺を助けるために、またあいつに身を任せたんじゃないだろうな?」私は冷ややかに睨み返した。「考えすぎよ!」晴人の頭の中は、恋愛小説でも書いたほうがいいくらいだ。本当に勝手な妄想ばかり!挑発を感じ取った時生は、外では面子を守ろうとしたのか、反論はせず、その代わりに私の手を握った。「約束は果たした。だから一緒に帰ろう」私はその手を振り払った。「時生、あれはあなたと優子の家よ。私の荷物は、もう全部出した」声を低くして、彼が言った。「もうやめにしないか?さっきの約束、もう忘れたのか?誰に教わったんだ、そんな二枚舌」私は笑みを浮かべた。「あなたに習ったのよ。プロポーズのとき、大勢の前で盛大な結婚式を約束したけど、果たした?一生愛すると言ったけど、果たした?あなたこそ、約束を破ったんじゃない?」時生は言葉を失い、喉元が微かに動くのが見えた。何かを必死に抑えているらしい。その陰のある顔を見つめてて、私は言った。「私たち、どっちも裏切った側の人間よ。だから、これでチャラ。さようなら」そう言って、道端でタクシーを拾おうとした。すると晴人が慌ててついてきて、助手席に座ればいいのに、わざわざ隣に腰を下ろし、犬みたいにへらへら笑った。「昭乃、やるじゃん!俺はてっきり、時生が指一本動かしたら、またすぐ戻ると思ってたのに!」
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第99話

耳を揉みながら、私は吐き捨てた。「ほんと、外で待たなきゃよかった。あなた、カラスみたいにやかましいんだから!」晴人は怒るどころか、むしろ楽しそうに笑って言った。「強がんなよ。今日ので分かったろ、お前の心の中には俺がいるって」自惚れ屋に付き合う気もなく、私は住所を聞き出し、さっさと彼の母親のところへ送り届けようとした。ところが返ってきたのは、なんと私の住むマンションの名前だった。「晴人!あなたを家に入れる気なんてないから!」思わず声を荒げた。まるで学生時代に戻ったみたいだった。あの頃も彼はしつこくまとわりついて、本当に厄介だった。鼻先を指でこすりながら、彼は真顔で言った。「なんだよ、あのマンション丸ごと買ったのか?お前が住んでいいなら、俺だっていいだろ」信じられない思いで見返すと、晴人はさらに説明した。「お前の部屋の上の階、もう俺の家なんだ。これからは上下でお隣さんってわけだ」「はあ?」頭の中で警報が鳴り響いた。エレベーターに乗って初めて、それが冗談じゃないと分かった。明音がすでにその部屋に引っ越していて、晴人は孝行息子を気取り、母と同居するつもりらしい。私たちが帰ると、明音はにこやかに迎えてくれた。「昭乃、今日は本当にありがとう。ちょうどご飯できたの。一緒に食べていかない?晴人のお父さんもすぐ帰ると思うわ。久しぶりに会うでしょ?」晴人の父――つまり時生の父で、私にとっては義父にあたる人だ。気まずさを考えれば、断るしかなかった。「いえ、おばさん。お気遣いなく」にこっと笑い返し、私は答えた。「昨日は晴人に助けられたから、今日私が助けたのは当然です。夜は仕事があるので、これで失礼します」晴人はまだ食い下がろうとしたが、明音に腕を引かれ、そのまま家の中へ連れていかれた。……帰宅するなり、私はすぐにシャワーを浴び、一日のいやな気分を洗い流した。そのあとインスタント麺を煮て、トマトとハムを入れ、大口でかきこんだ。人って、苦労を経ないと、ちょっとした幸せすら感じられないのかもしれない。食事の最中、口座の通知が鳴った。思いがけず、原稿料の入金だった。――二百万円。目を疑うような金額だった。執筆を始めて、まだ一か月ちょっとしかたっていないのに。きっと、どこかに道はあるってことかな。
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第100話

晴人は鼻で笑った。「前から言ってただろ。お前は恩知らずだって。あの日、俺と彼がいなきゃ、お前なんかとっくに骨まで食われてたんだぞ。今、面と向かってお礼を言うくらい普通だ、どうしてそれすら嫌がるんだ?」「でも……私は彼に会う機会なんてなかったし。お礼のためだけにわざわざ会いに行くなんて、かえって不自然じゃない?」私は何度も同じことを説明した。晴人は片目をつむって、にやりと笑った。「今夜、神崎家のおばあ様がチャリティーパーティーを開く。潮見市中の名士が集まるんだ。彼はその孫だから、当然出席するさ。命の恩人に礼を言うチャンスだ、自分でよく考えろよ」私はため息をついた。「でも神崎家から招待状なんて来てない。ああいう場は招待状がなければ、警備で止められるでしょ」すると晴人は懐から一枚の封筒を出した。「俺が持ってる。お母さんの分もあるんだ。お母さんは今夜は行きたくないって言ってるし、その一枚をお前が使えばいい」いくら言っても、コートを代わりに渡す気はなさそうだった。仕方なく私は、晴人に連れられて神崎家のチャリティーパーティーに参加することになった。目的はただ一つ、高いクリーニング代まで払ったあの高級コートを神崎高司(かんざき たかし)に返すため。あのコートはとんでもなく高価だ。どうしても返さなきゃいけない。家を出ると、晴人は私のベージュのカシミヤコートを見て、眉をひそめた。「その格好で行くつもり?時生に散々苦しめられて、頭までおかしくなったのか?前はパーティーに出るたび、いつも華やかで美しかったじゃないか」その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。女は、好きな人のために着飾るもの。以前は、時生に一番きれいな自分を見せたくて、たまらなかった。でも今は、もう自分を見てくれる人はいない。晴人は何か思い出したように、私の手を強く引いた。「ついて来い」連れて行かれたのはメイクアップサロンで、もう午後四時を過ぎていた。「一時間やる。彼女を一番美しく仕上げてくれ」「承知しました、晴人様」メイク担当者は晴人と顔なじみらしく、からかうように笑った。「また違うお嬢さんを連れてこられましたね」私は晴人をじっと見た。彼は気まずそうに鼻先をこすりながら、私に向かって言った。「今度からはお前だけだ」私は顔をしかめて言い返した。「私を
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