Todos os capítulos de 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ: Capítulo 301 - Capítulo 310

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第301話

どうして今日は、こんなにも苦しいのだろう。しばらくそのまま座り続け、外がすっかり暗くなってから、奈穂はようやく立ち上がり、会議室を後にした。その時、君江からボイスメッセージが届いた。再生した瞬間、スピーカー越しに彼女の大きな声が響く。【奈穂ちゃん!今夜カラオケ行かない?もう個室は押さえてあるし、友達も何人か呼んでるよ。来ようよ来ようよ、みんなで遊ぼう!】メッセージの最後には、わざとらしく調子外れに歌う声まで入っていた。奈穂は、思わず口元を緩めた。君江が自分を元気づけようとしていることは、分かっている。正修との冷戦で、ずっと沈んでいる自分を放っておけないのだ。その気遣いを無駄にしたくなかったし、何より今の自分には、気分転換が必要だ。奈穂は短く【いいよ】と返した。すると、すぐに住所が送られてきた。【待ってるね。ところで、夕飯はもう食べた?まだなら、何か用意させるよ】【まだ。サンドイッチを一つでいい】それ以外は、正直あまり喉を通りそうになかった。君江からは【OK】のスタンプが返ってきた。奈穂は会社の地下駐車場へ向かい、車に乗り込んだ。ほどなく車は走り出したが、彼女は気づかなかった――駐車場の出口付近に、一台の車が停まっていた。その車の中で、ある人物が、彼女の車が遠ざかっていくのをじっと見つめていた。完全に視界から消えるまで、目を離さなかった。運転席の二郎は、バックミラー越しに正修の表情を見て、なかなか言い出せなかった。しかし、しばらくして、やはり我慢できずに口を開いた。「社長……そこまで水戸さんのことが気になるなら、直接会いに行けばいいじゃないですか。何も、こんな……」こんなふうに、こっそり人の会社の駐車場の外で待ち伏せする必要があるのか。しかも、本人の姿すら見られず、車が出ていくのを見ただけだった。二郎には、正直よく分からなかった。一体、何をやっているのか。それに、正修のそばで長く働いてきたが、こんな正修を見るのは初めてだった。――やつれている、という表現が正しいのかは分からないが。表面上は、いつもと変わらない。だが、その疲弊感は、内側から滲み出ているようだった。よほど正修をよく知っている人間でなければ、気づかない程度に。二郎はそう言い終えてからもしばらく内心びくびくしていた。叱られ
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第302話

個室に入ってから、奈穂はようやく君江が言っていた「サプライズ」が何なのか分かった。部屋の中には、端正な顔立ちの若手男性スターが一人座っていて、マイクの前で、しっとりとした優しいラブソングを歌っていたのだ。奈穂は口元をひくりと引きつらせ、横にいた君江へと視線を向けた。「前に、彼がかっこいいって言ってたでしょ?」君江はにこにこと笑いながら言う。「だから今日はわざわざ呼んだの。何曲か歌ってもらって、少しでも気分が晴れたらいいなと思って」「そんなこと、私言った?」奈穂は苦笑する。そういえば以前、君江と一緒に動画を見ていた時、何気なく「この人、結構かっこいいね」と口にした気がする。まさか、君江がそれを覚えていたとは。それも、もう何年も前の話だ。当時、この男性スターはまだ無名同然だったが、少し前に主演したウェブドラマが立て続けに大ヒットし、今ではすっかり一流俳優となっている。ギャラだって安くはないはずだ。今夜、君江が彼を呼べたということは、相当なお金をかけたに違いない。「えへへ、まあ何にしても、イケメンを見るのって気分転換にはなるでしょ?」君江はそう言って、奈穂の手を引いて席に座らせた。他の友人たちも次々に奈穂に挨拶に来る。男性スターは一曲歌い終えるとこちらへ歩み寄り、きれいな瞳で奈穂を見つめて言った。「水戸さん、はじめまして」奈穂は微笑んで軽くうなずく。「はじめまして」「演技が上手なだけじゃなくて、歌もすごくお上手ですね」君江は惜しみない称賛を送る。「音楽の道も考えてみたらどう?」男性スターは微笑んだ。「ありがとうございます。でも今は、演技をもっと磨きたいので、他のことに手を広げるつもりはなくて」「それでいいと思います。そんなに真剣なんだから、きっと将来有望よ」男性スターは再び奈穂の方を見て尋ねた。「水戸さん、何か聴きたい曲はありますか?」奈穂が来る前、君江は彼に「今夜は何としても奈穂の機嫌を取ってほしい」と念を押していた。報酬や約束された仕事の話はさておき、これほど美しい女性なのだから、彼としても喜んで協力するつもりだった。奈穂はあまり気分が乗らなかったが、せっかく君江が呼んでくれたのだから、あまり失礼にもできず、いくつか曲名を挙げた。どれも有名なヒット曲で、彼が知らないはずもない。男性スタ
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第303話

「ひどいわね、そんな冷たいこと言って。結果はともかく、努力くらいはしてるのに……」……正修が原田家に到着したものの、車は原田家の門の中にすら入れてもらえなかった。門前の警備員が車窓のそばに立ち、怯えきった様子で告げる。「申し訳ありません、ご主人様のご指示で……どなたが来られても、お通ししないようにと」正修は喉の奥で、短く二度笑った。その笑い声に、警備員はもちろん、二郎でさえ背中に冷や汗がにじむ。幸い、正修は無理に入ろうとはせず、ただ二郎に言った。「行くぞ」二郎と警備員は、同時にほっと息をついた。車が原田家の前を離れると、二郎が尋ねる。「次はどちらへ向かわれますか?」正修は一つ、住所を告げた。それは以前、正修が初めて奈穂のために自ら料理を作った、あの広いマンション。そして、二人が初めてキスをした場所でもある。到着すると、正修は車を降りた。二郎は察しよく、後をついていかなかった。部屋に入ると、リビングはがらんとしている。正修は目を閉じ、胸の奥に刺さる痛みを力ずくで押し殺してから、目を開けてソファに腰を下ろした。プロジェクターをつけ、古い映画を流す。音量はほとんど聞こえないほど小さいが、正修は気にしなかった。今の彼には、そもそも映画を観る気などなかったのだから。――奈穂は今、何をしているのだろう。スマホの画面が光り、正修は手に取る。雲翔からのメッセージだった。【さっき聞いた話、当ててみる?】そんな気分はない。正修は返信しなかった。すると、雲翔が直接電話をかけてきた。正修は通話ボタンを押し、淡々と言う。「言え」「水戸さん、今夜はセレスティアルにいるらしい」セレスティアル――それは、奈穂と君江が行っているあのクラブの名前だ。正修は唇をきゅっと結んだ。「彼女がセレスティアルに来た時、ちょうど俺の知り合いが見かけてさ。少し聞いてみたんだけど……驚くなよ?」雲翔は続ける。「その個室、イケメンの男性スターを呼んでるらしい」言い終えると、わざと強調するように付け加えた。「イ・ケ・メ・ン・の、男・性・ス・タ・ー、だぞ」正修の表情は変わらない。だが、その瞳の奥では激しい波が渦巻いていた。沈黙する正修に、雲翔は内心焦り始める。――こいつ、本当に意地っ張りだ。ずっと奈穂のことを思
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第304話

少し考えてから、君江は言った。「奈穂ちゃん、いっそ先に帰って休んだら?」奈穂は顔を上げ、君江の目に浮かぶ気遣いを見て、微笑んだ。「大丈夫よ。せっかく来たんだもの、こんなに早く帰るなんて」心の中でそっと深呼吸し、気合を入れ直す。来ると決めた以上、いつまでも沈んでいても仕方がない。確かに胸は苦しい。でも、ここに来たのは気分転換のためではなかったのか。もしかしたら、一晩しっかりリラックスすれば、正修とのこの冷戦をどう終わらせるべきか、答えが見えてくるかもしれない。「本当に?」君江は心配そうに奈穂を見る。「奈穂ちゃん、無理しないで」「無理なんてしてないわ」奈穂は立ち上がり、向こうにビリヤード台があるのに気づくと、君江の腕を引いた。「久しぶりにビリヤードしようよ。少しやってみない?」「えっ、奈穂ちゃんと?それって完全に自虐行為じゃない?」「いいから、やろう」二人がビリヤード台の前へ行くと、男性スターはすぐにマイクを置いて近づいてきた。球を並べ、キューを拭き、やたらと甲斐甲斐しい。だが、一ゲームも終わらないうちに、奈穂のスマホが鳴った。会社でトラブルがあり、至急戻って対応してほしいという。今度こそ、奈穂は本当に帰ることになった。君江は眉をひそめ、心配そうに言う。「もうこんな時間なのに、会社に戻るの?疲れない?明日に回せないの?」「ちょっと急ぎなの。先に行ってくるね」奈穂は笑って言った。「また今度、一緒に遊ぼう」この数日、奈穂は意識的に自分を忙しくしていた。だから今は、奈穂を必要とする場面も自然と多い。「分かった……無理しすぎないで」「大丈夫、自分で分かってるから」実際、まだそこまで遅い時間ではない。そうでなければ、会社の人間も奈穂に電話などしてこない。健司はすでに厳命していた。夜の休息時間に入ったら、どんな大事があっても奈穂を邪魔するな、と。奈穂はバッグを手に取り、足早にクラブを後にした。奈穂の背中を見送りながら、男性スターの目には名残惜しさがにじむ。結局、奈穂とろくに話す間もなく、彼女は帰ってしまった。次に、こんな機会があるかどうかも分からない。「何?奈穂ちゃんが帰っちゃって、寂しいですか?」君江はにやにやしながら彼を見る。男性スターは率直に笑った。「正直、少し。今
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第305話

「九条社長……」君江は、引きつった笑みを必死に作った。正修の視線が素早く個室内を一巡する。だが、そこに見慣れた姿はなかった。彼は君江に軽くうなずき、礼儀正しく口を開く。「お邪魔しています、須藤さん。奈穂は?」「彼女は……会社で急用があって、たった今帰りました」君江は表向きは平静を装っていたが、心の中では大騒ぎだった。――この二人、いったい何をやってるのよ!どうしてこんなふうに、すれ違うの!もう少し正修が早く来ていれば、あるいは奈穂がもう少し遅く帰っていれば……はあ。君江の言葉を聞き、正修の胸に、言葉にできない感情が押し寄せた。「じゃあ……今から彼女に電話してみましょうか?」君江は慌てて提案する。「いえ、結構です」正修は首を振った。「失礼しました。今夜の会計は俺が持つ。皆さん、ごゆっくり」そう言うと、彼は踵を返して歩き出した。個室のドアを出る寸前、ふと立ち止まり、振り返る。「今夜、俺が来たことは……どうか奈穂には伝えないでください」君江は一瞬言葉を失った。何か言い返そうとしたが、正修の様子を見て、結局何も言えず、素直にうなずくしかなかった。「……分かりました」「どうも」正修が去ると、周囲の人間たちが一斉に集まってきた。「どういうこと?」「今のって、九条グループの九条社長だよね?なんで急に?」「奈穂を探しに来たんじゃないの?二人、付き合ってるんでしょ?」「じゃあ奈穂は?」「さっき帰ったよ」「なんかおかしくない?君江、どういう状況?」「もう、質問しないで」君江は手を振った。「ほらほら、遊びなさい、遊び」今の君江は、頭の中がぐちゃぐちゃだ。おそらく正修は、誰かから奈穂がここにいると聞いて、居ても立ってもいられずに来たのだろう。もし奈穂がこのことを知ったら、流れで仲直りできたかもしれない。なのに、正修は「伝えるな」と言った。――それってどうなのよ!奈穂の親友としては、知らせないわけにもいかない。だが、正修のあの雰囲気を思い出すと、背筋に寒気が走る。――言うべき?それとも、言わないべき?君江は、果てしない葛藤に陥った。他の面々も空気を察し、それ以上詮索せず、それぞれの遊びに戻っていった。……正修の車は、水戸グループ本社ビルの前に停まっていた。彼
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第306話

マネージャーの好意を、奈穂が断るはずもなかった。彼女はそれを受け取り、微笑んで言う。「ありがとう。お気遣い、感謝するわ」「いえいえ、社長こそご丁寧に」マネージャーは挨拶をして、その場を後にした。奈穂は弁当箱を提げ、脇の休憩室へ向かった。空腹というわけではない。ただ、胸の奥がぽっかりと空いたようで、胃までがじんわりと不快に痛む気がした。何を頼んでくれたのだろう。もし温かいものなら、少し口にすれば楽になるかもしれない。弁当箱を開けると、中に入っていたのは味噌汁とおにぎりだった。奈穂は、一瞬戸惑った。――これは……本当に、マネージャーが頼んだ夜食?どうにも、しっくりこない。その瞬間、無意識のうちに正修の顔が脳裏に浮かんだ。指先が、かすかに震える。理由は分からない。だが、胸の内に芽生えたある予感が、次第に強くなっていく。――これは……正修が用意してくれたものなんじゃないか。けれど、二人は今、冷戦中だ。彼はどうやって、自分が会社で残業していることを知ったのだろう。それとも――ただの思い過ごし?奈穂は味噌汁を一さじすくって口に運んだ。優しい味わいで、とても美味しい。しかも、ちゃんと温かい。さらに数口飲むと、胃にあったかすかな不快感が、ゆっくりと和らいでいくのを感じた。彼女はスマホを手に取り、画面を見る。正修からのメッセージも、着信も、何一つない。……では、この夜食は?その時、廊下から足音が聞こえ、奈穂は思わず顔を上げた。入ってきたのは、恭子と健司だった。「おばあちゃん、お父さん?どうしてここに?」奈穂は慌てて立ち上がる。「残業してるって聞いて、すぐ来たのよ」恭子は心配そうに奈穂を見る。「まったく、どうしてそんなに無理するの。仕事なんて、他の人に任せればいいでしょう」「おばあちゃんが、君が会社で残業してるって聞いて、俺を叱りつけたんだ」健司は苦笑した。実のところ、健司も今夜奈穂が会社に来ているとは知らなかった。もし知っていれば、絶対に来させなかったはずだ。奈穂が出社した時間は、実際にはそれほど遅くはなかった。それでも、そう思うとやはり胸が痛む。――明日になったら、もう一度命令を出そう。夜は絶対に奈穂を邪魔するな。本当に重大な案件があるなら、直接自分のところに
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第307話

幸いなことに、恭子もそれ以上は追及せず、ただ先に夜食を食べるよう促しただけだった。食べ終えると、奈穂は家族と一緒に家へ帰った。一方その頃、奈穂に夜食を届けたばかりのマネージャーは、人目を忍ぶようにして、電話をかけていた。「もしもし?」電話の向こうから、若い男性の声がする。「二郎か。九条社長から頼まれたこと、全部ちゃんとやったぞ」マネージャーは言った。「でもな、もう二度とこんなことはさせるなよ。俺はれっきとした水戸グループの人間なんだ。お前らと一緒になって、うちの社長をだますなんて、どう考えてもおかしいだろ……」「従兄さん、これは善意の嘘だよ」二郎は至って真面目な口調だった。「考えてみて。今、水戸社長とうちの九条社長は喧嘩中だろう?もし九条社長が直接夜食を送ったら、水戸社長は食べないかもしれない。でも、従兄さんが届ければ水戸社長はきっと口にする。ちゃんと栄養も取れるし、九条社長の気持ちも伝わる。そういうことだよ」マネージャーは少し考え、確かに一理ある気もしてきた。「それならさ、そこまでうちの社長のことが放っておけないなら、素直に行って、二言三言謝って仲直りすりゃいいだろ。なんでこんな面倒なことをするんだ?」二郎は内心で、「それを俺に聞くなよ」と突っ込みたくなったが、口には出さなかった。「まあまあ、夫婦喧嘩……じゃなくて、恋人同士のことは、俺たちが口出しすることじゃないよ。とにかく、今回は一つ借りができた。ありがとう、従兄さん」「このくらい、どうってことないさ。九条社長と水戸社長が早く仲直りできれば、それでいいんだ」電話を切ったあと、二郎はすぐに正修にも電話をかけ、指示されたことはすべて済んだと伝えた。正修は感情のこもらない声で、「……分かった」とだけ答え、通話を切った。スマホの画面を見つめながら、二郎は小さくため息をつく。――恋愛中の人間って、本当に分からない。……翌日の夜。仕事を終えた奈穂は、秘書の誕生日を祝うため、レストランへ向かう準備をしていた。パソコンを閉じ、出発しようとしたその時、君江から電話がかかってきた。「ねえ、奈穂ちゃん……ちょっと話したいことがあるんだけど」君江は歯切れが悪い。「どうしたの?」奈穂が尋ねる。「えっと、その……」もごもごと要領を得ない様子に、奈穂は笑った
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第308話

もし昨夜、自分がほんの少しでも会社に帰るのが遅かったら、もしかすると――けれど、運命とは皮肉なもので、なぜかいつもすれ違ってしまうものだ。正修のことが、本当に腹立たしかった。わざわざ自分を探しに来ていたくせに、君江には自分に知らせるなだなんて。もし君江が本当に何も言わなかったら、自分は一生その事実を知らずにいたのではないだろうか。本当に、憎らしい正修……それなのに、なぜ自分はこんなにも、その憎らしい男を思い続けているのだろう。「社長?」秘書が顔をのぞかせた。「お支度はできましたか?そろそろ出発しましょう」「ええ」奈穂はぼんやりと答え、重い心を抱えたまま、秘書たちと一緒にレストランへ向かった。秘書が予約した個室は三階にあり、三階に上がったところで、ちょうど一人の人物と鉢合わせた。奈穂は他人に気を配る余裕もなく、相手が誰かなど気にも留めていなかったが、「水戸社長」と声をかけられて、ようやく顔を上げた。烈生だった。「秦社長」奈穂は無理に作ったような営業スマイルを浮かべた。「お久しぶりです。いつご帰国されたんですか?」「昨日です」烈生はじっと彼女を見つめた。父親はまだ海外で、療養中の逸斗に付き添っており、烈生に先に帰国して会社のことを任せたのだ。周囲の人間は、二人がしばらく話すのだろうと思ったのか、先に個室へと入っていった。「そうなんですね」奈穂は笑ってうなずいた。烈生と特に話すこともなく、挨拶だけして個室に入ろうとしたその時、彼が再び口を開いた。「逸斗の件ですが……ありがとうございました。以前にもお礼は言いましたが、やはり直接お伝えすべきだと思いまして」以前、海外の病院で彼女に会ったときは、正修がそばにおり、彼女も急いでいたため、きちんと礼を言えなかったのだ。――父が以前言っていた、逸斗に奈穂を口説かせるという話。そのことを思い出し、烈生の視線は複雑さを帯びていた。「そこまでお気遣いなさらなくて結構です」奈穂は淡々と微笑んだ。烈生は彼女を見つめたまま、ふいに手を上げ、彼女の髪に触れようとした。だが、その手が髪に届く寸前で、奈穂はすぐに一歩後ずさりし、眉をひそめた。「秦社長……?」手は宙を切り、烈生はぎこちなくその場で固まった。少ししてから、ようやく口を開く。「すみません。頭に…
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第309話

「社長、何かあったんですか?私も一緒に行きます」秘書は会社の用事だと思った。奈穂は首を横に振った。「大丈夫。ちょっとした私用だから」そう聞いて、秘書もそれ以上は何も言わなかった。奈穂がわざわざ誕生日を祝ってくれただけでも十分ありがたいのに、しかもあれほど高価な香水まで贈ってくれたのだ。今回はただ早めに帰るだけなのだから、不満を覚える理由などなかった。「じゃあ、私が送――」「いいの」奈穂は笑って秘書の肩を軽く押さえ、さらに立ち上がりかけた他の人たちにも座るよう目で示した。「みんなはそのまま食事してて。私のことは気にしないで」そう言って、彼女は個室を後にした。個室を出ると、奈穂はスマートフォンを取り出し、少し考えてから二郎に電話をかけた。「水戸社長」二郎の声は一見落ち着いているようで、その実、抑えきれない高揚がにじんでいた。「横村さん、突然ごめんなさい」奈穂は言った。「正修が今どこにいるか、分かりますか?」「もちろん分かります」二郎はすぐに住所を告げた。その場所を聞いた瞬間、奈穂の胸がかすかに揺れた。――そこは、自分と正修が初めてキスをした場所だった。「分かりました。ありがとうございます」電話を切った瞬間、二郎は思わず叫び出しそうになるのを必死でこらえた。奈穂が自分に電話してきたということは、間違いなく正修に会いに行くということだ。今の正修の状態なら、奈穂が自ら会いに行きさえすれば、即座に白旗を上げるに決まっている。そうなれば、二人はきっと仲直りする。自分はようやく、正修から漂ってくる重苦しい空気に耐え続けなくて済むのだ。奈穂は急いで、以前のあの高級マンションの下まで駆けつけた。車を降りると、彼女は大きく息を吸い込む。今この瞬間、彼に会いたいという気持ちは最高潮に達し、他のあらゆる考えを押しのけていた。だからもう、何も顧みる余裕はなかった。エレベーターの前に着いたその時、扉が開き、中から一人の女性が出てきた。奈穂は何気なくその女性を一瞥し、ふと立ち止まる。どこかで見たことがある――そんな気がしたのだ。女性のほうも奈穂に気づいた。「あなたは……水戸さん?」女性は眉をわずかに上げ、赤い唇をつり上げて微笑んだ。「はじめまして。私、斎木悦美と申します。……正修さん
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第310話

悦美は内心、どうしても納得がいかなかった。何かもう一言言いたかったが、奈穂の視線と正面からぶつかった瞬間、急に気後れしてしまい、結局何も言えなくなった。最後は「失礼します」とだけ言い残し、身を翻して逃げるように立ち去った。そもそも、正修は自分に「来てくれ」などと頼んでいない。彼から連絡をもらうことすらありえないのに、付き添いを頼まれるはずがなかった。この場所を教えたのは武也だ。だからこそ、悦美はわざわざここまで正修を訪ねてきたのだった。ところが、エレベーターで上階に着き、まだ一歩も外に出ないうちに、二人のボディガードに行く手を塞がれてしまった。悦美は慌てて、自分は正修の友人だと名乗り、正修に呼ばれて来たのだと嘘をついた。しかし、ボディガードは彼女を一瞥しただけで、まったく信じなかった。焦った悦美は武也の名前まで持ち出し、挙げ句の果てには、彼らの目の前で武也に電話をかけようとまでしたが、二人は微動だにしなかった。結局、どうすることもできず、彼女は再びエレベーターで下へ戻るしかなかった。そしてちょうどその時、奈穂と鉢合わせたのだ。せっかくの機会だからと、正修と奈穂の仲を引き裂こうと画策したものの、それも失敗に終わった。失敗続きで、武也に「役立たず」と罵られるのは目に見えている。何より、悦美自身が焦っていた。このままでは、どうやって九条夫人になれるというのか。悦美は気力の抜けたような足取りで、その場を去っていった。一方、奈穂はエレベーターの前に立ち尽くしていた。扉はすでに閉まっているのに、彼女はボタンを押すこともなく、俯いたまま、何かを考え込んでいる様子だった。その時、別のエレベーターの扉が開き、中から一人の男性が出てきた。彼は彼女を見るなり、一瞬驚いたように目を見開き、慌てて声をかけた。「水戸社長?水戸社長ですよね?」奈穂は振り向いた。どこか見覚えはあるものの、すぐには誰だったか思い出せない。「九条社長のアシスタントです」男は愛想のいい笑みを浮かべた。「九条社長に会いに来られたんですか?九条社長は上にいらっしゃいますよ」奈穂は軽く笑って、首を横に振った。「いえ、結構です」悦美の言葉を、奈穂は最初から信じてはいなかった。正修が、あの女性をこの場所に呼ぶはずがないことを、奈穂は分かっていたか
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