地下街の空気は湿って冷たい。香草と鉄の匂いが混じり、足もとには細い水の線が走る。皇子は裾をからげ、灯を掲げる王子の横にぴたりとついた。「ここで合図の色、確認」王子が手巾を三枚、指先で揺らす。——紅は撤退、白は停滞、藍は強行。「藍は、前」皇子は短く頷いた。公では彼が前に立ち、私室では王子が支える。その取り決めは結盟式で公に読み上げられ、司教に魔紋を焼き付けられている。条約婚は成立し、二人は国と帝のあいだの橋になった。「今日は私が前。地下では、私の声で交渉する」皇子は宣言し、肩を少し張る。王子はそれを横目で見て、微かに笑った。「合意契約の再確認」——可:視線の指示/呼吸の誘導/軽い拘束。——不可:公衆での跪き/皮膚に痕が残る行為/露出。——合図:掌三度は再開の請求。——セーフワード:『柘榴(ざくろ)』。——アフターケア:温水・蜂蜜湯・同意の再確認。声に出すたび、皇子の背筋が伸びていく。これは訓練の言葉であり、明文化された政略の手順でもある。王子は最後にうなずき、灯を少し上げた。どこからか、鐘の残響が降りてきた。皇子の喉がわずかに鳴る。「……柘榴」王子は即座に手を下ろし、灯を低くした。肩口に温い掌を添え、呼吸を合わせる。「大丈夫。戻る?」「続けられる」皇子は掌で三度、王子の手の甲を叩いた。再開の合図。鐘の音は遠のき、二人の足音が石の廊を拾っていく。◆◆◆骨壺や香炉の並ぶ細い路地。露店の老婆が乾いた声で呼び込んだ。「死者の焚香、一本どうだい。納骨堂の守りが緩むよ」王子は香を一本買い、老婆がつぶやいた名を心に留める。納骨堂——大聖堂の真下に広がる聖域。いまは聖務会と地下のギルド、そして埋葬師たちが、それぞれ権利を主張し牽制しあっている。「白骨鍵は誰の手に?」
Last Updated : 2025-09-24 Read more