All Chapters of domの王子はsubの皇子を雄にしたい: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話:やわらかな主命

香の煙が白い柱に縒れて、天蓋の金線が朝の光をほどく。 大聖堂は冷たかった。 床の石が靴底から脛まで現実を押し上げてくる。 「前へ」 侍従の声は礼儀正しいが、勝敗のない戦の号砲に聞こえた。 アルトリウスは一歩出た。 ルシアンは半歩後ろで並ぶ。 公の場では、彼が後ろ盾であると示すために。 「誓約を」 祭司の古い声。 差し出される羊皮紙。 アルトリウスは書面の文言を追い、肺に空気を溜めた。 喉が渇く。 けれど、背から微かな囁きが来る。 「肩を落とすな。三拍、ためてから」 ルシアンの声は低く、やわらかい命令だった。 いつものそれだ。 柔らかいのに、背骨に届く。 アルトリウスは三つ数え、言葉を出した。 「帝国皇子アルトリウスは、王国王子ルシアンと条約婚を結ぶ。この婚姻を両国の橋とする」 声は石に返って、大聖堂の空気がわずかに温くなる。 それからルシアンが言葉を重ねた。 「王国王子ルシアンは、私室では彼を支え、公では彼の前に立つことを誓う」 司書官が合図し、外の鐘が鳴る。 公開儀礼は成功だ。 そう、ここまでは。 巻物を掲げた伝令が滑らせた。 手が滑ったのか、天が悪戯したのか、彼の口が読み上げたのは条約文ではない。 私室用の合意契約が、澄んだ声で大聖堂に流れた。 「可──口頭命
last updateLast Updated : 2025-09-14
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第12話:舌紋の灯

鐘が十回鳴って、香が立ちのぼった。大聖堂の白い階段に、皇子が半歩前に出て、王子は肩の位置で影のように寄り添った。公では皇子が前に、私室では王子が支える——二人で決めた二重統治の始まりだった。侍祭たちが持つ銀盆に、薄い瑠璃の舌石が並ぶ。誓詞は短く、しかし具体だった。可と不可、合図と事後の手当。それを朗読する若い侍祭の声は、麦のように乾いて素直だ。可は、命令の授与、呼び名の交換、手と口づけ、軽い拘束。不可は、血と跡の残る痛み、呼吸を奪う行為、第三者の介入。合図は、王子の指鳴らし二回で進行、皇子の肩叩き一回で速度調整、二回で一時停止、三回で中止。セーフワードは「薄荷」。アフターケアは、温湯と甘味、抱擁、言葉の確認。週に一度、交替日——スイッチ・デーを暦の七日めに置く、と。「承知する」皇子が言い、舌石を舌の奥で転がす。冷たさが熱に変わり、薄緑の灯が口腔の闇で小さく灯った。舌紋の灯。それは契約の実印であり、合意の合図だ。王子の舌にも金の線が走った。二人の舌が一瞬、光で結ばれて、群衆が息を吞む。「契は成立した」侍祭長の代理が告げ、地下街の楽士が笛を鳴らす。大聖堂の陰では、納骨堂の鍵束がきい、と鳴って誰かの指で握り直された。骨壺の札——血統の札——を巡る争いは、今日も熱い。地下では商人長が小声で笑い、地上では司祭たちが笑顔で掌を合わせる。権力は、香より重い。「行こう」王子が囁けば、皇子はうなずく。儀式が続くあいだ、二人は視線だけで合図を重ねた。皇子は壇上で公の言葉を慎重に紡ぎ、王子は背に手を添え、間合いを測る。合意の稽古は、広場でも行けるのだと知る。儀礼と官能は、言葉の取り交わし方が同じだ。夜。私室は静かで、薄荷の香りが甘かった。侍女が置いた甘味に、細かな氷とミントの蜜。たぶんよかれと思って。今日は交替日の前夜。王子は絹の紐を見せて、首を振る。「不可だ。今日は触れない。代わりに、声を訓練しよう」皇子は頷いた。舌紋の灯が、彼の口内で小さく呼吸する。王子は距離を保ち、膝をついた。彼の手は膝に置かれたまま、誘導の
last updateLast Updated : 2025-09-15
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第13話:侍祭長の所見

大聖堂の鐘が三度、空の薄雲を震わせた。石畳は冷え、香の匂いが衣に沈む。皇子は短く息を整え、王子の指先が自分の手首の脈を一度、二度、と確かめるのを見た。確認の合図。承諾の合図。彼らのやり方は、儀礼の鎖より軽く、しかし契約の鎖より切れにくかった。「支度は整っております、殿下方」とセラフィナが言った。黒衣の襟に銀の糸が光る。侍祭長への謁見と、市参事会、そして地下街組合との折衝。詰め込まれた日程表を指で弾きながら、彼女は最後に別の羊皮紙を差し出した。「合意契約の更新案です。政治日程と練習日程が噛み合うように組み直しました」王子が軽く眉を上げた。「読み上げて」セラフィナは淡々と項目を追った。「可は、拘束は短時間のみ、指示語の使用、姿勢矯正、視線維持の練習、呼吸法の誘導。不可は、傷跡の残る行為、公共の場での首輪、宗教儀礼中の触れ。合図は手首への二回タップで『中止』、肩への一回タップで『休止』。セーフワードは『暁』。アフターケアは温水と糖分補給、15分の抱擁、言語による肯定の確認。週一回のスイッチ・デーは、火曜日の夕刻から翌朝まで。以上」皇子は喉の奥で小さく笑ってから、真顔に戻った。「政治の予定は」「午後から侍祭長の所見を伺い、公開儀礼の動線確認。夕刻から地下街の組合長と納骨堂の守人の仲裁です。スイッチ・デーと被るので、練習は短縮版をご提案します」王子が顎で合図をし、皇子の手を一度だけ強く握った。それは公の場では王子が支えるという知らせ。私室に戻れば、支え方は反転する。「うちの近衛が巡察に入る日だ。短縮でいい」セラフィナがほっと微笑んだ。「それと、条約婚の成立を本日、侍祭長の前で公開します。魔紋の刻印は浅く、象徴に留めます。森での出会いが神縁だったと、人々は見たがっていますから」皇子の耳たぶがうっすら紅くなった。旅立ちの朝の霧、森の湧水の音、剣先より柔らかな王子の声。あの瞬間が儀礼で言葉になると思うと、胸がむずむずした。王子は平然を装ったが、袖の下の指先は少しだけ汗ばんでいた。侍祭長の執務間は白い光で満ちていた。灰色の瞳が二人を測るように瞬いた。「所見を求められていると聞きました。条約婚は双方の国に利益をもたらすでしょう。大聖堂は公
last updateLast Updated : 2025-09-16
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第14話:近衛の剣先

剣の先は、動くたびに光を細く刻んだ。朝の回廊は石が冷たい。近衛たちの靴音が規則正しく続く。ローランは一歩も無駄にしない歩幅で列の前に立った。 「剣先、二枚。前列、半身。右、納骨堂の口」 低い声に、兵が二羽の鳥のように開く。斜めに伸びた刃の向きが、広場から大聖堂へ、そこから地下街の段にまで一本で繋がる図になった。剣の先が触れてはいけない相手を指さず、必要なものだけを守る配置。無駄がない。 「舞踏儀礼の間、鐘の七打。黙礼から半拍遅れで交差。誰も触れるな。触れるのは目だけだ」 「応」 乾いた返答。帝都は騒がしいのに、ここだけ海の底のように静かだった。 皇子は柱の陰からそれを見ていた。衣の裾を手の中で折りたたみながら、息をひとつ置く。細い肩が一度だけ上下した。王子が脇にいた。彼は笑って、ひとさし指を唇にあてる。 「大丈夫。剣は君の方を向いていない」 「わかっている。君がいる」 短い囁きで、胸が少し広くなった。 条約婚は昨夜に成立した。封蝋の匂いがまだ脳裏に残っている。公開の舞踏儀礼が昼にある。皇子は公で前に出る。これは決まっている。私室では王子が支える。それも決めた。言葉ではなく、紙と印で。 二人は前夜、机をはさんで契約を読み合わせた。羊皮紙はしっとりしていた。灯の火が赤くゆらいだ。 「可。不可。合図。アフターケア。順に読もう」 王子が指で項目をなぞる。紙の縁を皇子の爪がかすめる。こすれる音が聞こえた。 「口にするのが必要だ。可は、手首を預けること。不可
last updateLast Updated : 2025-09-17
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第15話:囮の祝宴

鐘の音が大聖堂の天蓋を震わせた。香の白い煙は天に細く伸び、光の柱の中でほどけてゆく。皇子は堂々と前に立ち、胸元に縫い込まれた金糸の魔紋が脈を打つ。半歩だけ背に控えるのは王子ユリウス。剣ではなく、巻かれた条約文を抱えている。「条約婚を成立させる」まっすぐで、よく通る声。床の魔法陣が静かに浮かび上がり、金箔のルーンが二人の指へと落ちた。指輪は薄く、内側に小さな合意文言が刻まれている。公は公の条項だけを読む。だが、私の契約は互いの掌で交わされる。ユリウスが囁く。「可は拘束、指示、口付け。不可は傷跡、露見、酩酊。合図は三度の指先。セーフワードは月桂」皇子はトン、トン、トンと指先で打ち、短くうなずいた。大司教が契約印に光を落とし、群衆が沸く。公では皇子が前に立ち、視線を受け止める。ユリウスは影の位置を保ち、片手で式次第を進めながら、もう片方の手で皇子の肩甲骨に残る緊張を意識の端で数えた。祝宴がはじまる。回廊に果実酒の香りが満ち、地下街から呼ばれた楽師が鋭くも甘い弦を鳴らす。囮であることは、ごく少数しか知らない。巡礼門に近い献灯台の投函口は今夜だけ開く。反対派にとって、これ以上ない甘い罠だ。「帯を少しきつく」とユリウス。「姿勢が変わる?」「雄の背になる」皇子は笑って帯を受け取り、腹で結んだ。彼が先に立って祝辞を述べる。声は柔らかいが、言葉は硬い。「不安は知っている。ならば、共に稼ぐ道を開く」拍手が波のように広がる。ユリウスは壁際で杯を傾けるふりをしつつ、納骨堂へ下る階段の影へ視線を滑らせた。白衣の司祭が献灯台を管理し、若い従者が封緘を運ぶ。封蝋の印は海蛇――北の港のしるしだ。今夜、資金の紐が浮かぶ。「陛下、舞を」呼びかけに皇子が手を差し出す。公の舞では皇子が導き、ユリウスは半歩遅れて従う。靴先が合わなかった刹那、皇子が三度、指で合図した。ユリウスは左の掌を開き、圧をひと息だけ緩める。セーフワードを出すほどではない。合図は機能している。対位法のように、言葉と身体の了解が会場の熱を静かに統べた。小さな騒動もあった。料理長が「月桂樹の煮込みは
last updateLast Updated : 2025-09-18
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第16話:指の記憶

公開儀礼の前夜、王都の大聖堂へ続く侍楼は、息を潜めていた。高窓のステンドグラスが床に青い帯を落とし、蝋の匂いと薄い冷気が肌の上をすべっていく。皇子は窓に寄りかかり、王子の指を背で受け止めていた。二人の手首には成人の印。明日、条約婚の刻印が全都市に示される。「息を、吸う」王子の囁きが、背骨のいちばん下で止まった指の温度に重なった。皇子は吸う。胸郭が音もなくのびる。「一拍、置く」指が上へ。肩甲骨のあいだで止まる。皇子の視線がゆっくり柱を越えた。「吐いて」指が首の付け根でほどける。皇子の肩が、ふっと落ちた。触れ方の稽古だ。触れられて止まり、触れられて始める。王子は指の腹だけで合図を編み、皇子はその間(ま)で思索を整える。「指の記憶は、明日、言葉に変わる」王子が言った。「変えたい。声の速さを」皇子は短くうなずく。「速さは剣。間は盾。盾を持って前に立つのが、お前の役目」「私室で盾は?」「私が持つ」王子は帳の内の卓に紙を広げた。合意契約の文。墨痕がまだ艶を残している。「確認しよう」王子は読み上げ、皇子は目で追う。――可:口づけ、手の導き、衣の上からの触れ。――不可:露出、噛み、痛みでの合意試験。――合図:右肩を軽く叩けば中止。左手の握り三回は緩めてほしい。言葉の合図は『琥珀』。どの場でもこれが出ればすべて止める。――アフターケア:温かい茶と蜂蜜。肩の温罨法。足湯。言葉での確認を翌朝にも一度。「異論、ある?」皇子は首を振った。「ない。いまの私に必要なのは、止まり方だ」王子は笑って、紙の下端に印を落とす。皇子も続いた。契約は二人のあいだに、これ以上なく堅い盾のように置かれた。扉が軽く叩かれ、若い従者が顔を出した。「ごめんなさい、果物の皿を——」王子の指が皇子の首筋で止まった。皇子が条件反射で「琥珀」と言う。従者が皿を落としそうになる。「違う、練習だ」
last updateLast Updated : 2025-09-19
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第17話:摂政の逆提案

鐘が六つ。風は乾いて、粉砂糖みたいに舞う石灰の匂いがした。大聖堂の影が広場に落ち、エレーネは黒いヴェールを指先で整える。「宗教婚を——民が望んでいる」言葉は短く、刃のように真っ直ぐだった。皇子は指先を内側で握る。王子の視線が横から支えた。ここは公。皇子が前に立つと決めた場だ。「講和条約の婚姻条項に従い、成立はする。ただし、場所の解釈は未定だ」止める息。王子の靴先が足首に軽く触れた。合図——大丈夫、と伝える圧。エレーネは鼻で笑う。「大聖堂こそ城と同格の公権の舞台。そこ以外、ある?」ある、と皇子は思った。けれど、まだ剣(速さ)より盾(間)が要る。王子が半歩出て、公では黙る慎みを守りながら薄く笑った。「ご祝福は尊い。だが、儀礼の独占は負担になる」エレーネのまぶたがわずかに動く。それは「続けて」の合図。彼女は摂政。勝ち筋の香りに敏い。皇子は喉を鳴らし、言葉を置いた。間で盾をつくる。「地下街の誓約台帳。納骨堂の祖霊。古来、都市の契約は、鐘楼と骨のあいだで成されたと聞く。私たちの条約婚も、そうであれば、公平だ」静寂。大聖堂の石が冷えて、足の裏に伝わる。エレーネは唇の端を上げた。「逆に、こうしよう。納骨堂で契約を結び、広場で公開する。その後に大聖堂の階段で祝福を受ける。礼拝堂の扉は閉ざしたまま。祝福は鐘だけ」逆提案。負けていない顔で、退き道を自分の言葉にする。王子が胸の内で笑い、皇子も小さく息を吐いた。「承る」「承る」二人の声が揃い、鐘が七つになった。◆◆◆私室。扉を閉めると石灰の匂いは薄まり、蜂蜜を温める香りが広がる。王子が机に羊皮紙を広げた。「合意契約。公と私の境界を、私たちが決める」皇子は頷く。身体の契約と統治の契約を並べるのは、奇妙にぴったりだった。王子が読み上げ、短い句を合いの手のように交わす。――可:手首の固定は布のみ。――可:膝立ちの指示。――
last updateLast Updated : 2025-09-20
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第18話:灰の王の条件

大聖堂の鐘が三度鳴り、石床の魔紋が薄金に脈打った。王子は半歩だけ後ろに立ち、皇子の背を視界に収める。公では皇子が前に——それが今日からの二重統治の決まりだ。呼吸を整え、肩甲の革が軽く鳴る音を聞く。皇子の背筋はいつもより硬い。緊張は悪ではない、と王子は心の内で小さく突っ込んだ。悪いのは喉が渇いて誓文の言葉が絡まることだ。水、あとで絶対に飲ませる。「誓文を」と老司祭が促す。灰色の香が柔らかく鼻を刺した。皇子は一息、それから前を向く。「我らは条約によって婚姻を結ぶ。国境を開き、巡礼と商いの路を守る。戦の前に対話を、利の前に秩序を」王子が続けた。「我らは互いの身を守り、互いの領を支え合う。法の前に平等であることを示すため、今日の契約を公開する」聖壇の上、銀砂で描かれた契約紋がふっと浮き、二人の足元まで細い枝のように伸びてきた。指輪の段になると、王子はつい手癖で皇子の手を引き寄せ過ぎ、司儀の若い従者が咳払いする。「公共の場では、前に立つ方が主導を」「あ」王子は即座に手を緩めた。皇子が小さく笑い、指を差し出す。逆の手を出しかけて、二人して同時に気づいた——左右を間違えた。大聖堂に一拍の笑いが走り、緊張の糸が解ける。こういう事故は歓迎だ、と王子は内心で頷く。契約紋が金から青へと色を変え、公開儀礼は署名へ移った。王子は宮廷書記官の読み上げに合わせ、条約婚の条文に名を記す。「公では皇子が前に、私室では王子が支える」——二重統治の条。王子は横目で皇子の横顔を見た。負担ではなく、背骨にする。それが自分の役目だ。儀礼が終わると、掌が少し汗ばんでいた。歓声、楽の音、銀の鈴。外の石段に出ると陽の光は容赦なく白い。人の海が波打ち、花弁が舞った。王子は皇子の肘にそっと触れ、さりげなく日の向きを変えさせて影で目を休ませる。公の顔のままで支える。慣れれば簡単だ。慣れるまではこっそりだ。私室に下がったのは、鐘が四度目を告げてから。薄い蜜柑色の灯と、熱い茶の湯気。王子は卓に羊皮紙を広げた。個々人の契約——二人のための
last updateLast Updated : 2025-09-21
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第19話:夜更けの誓文

夜は鐘ひとつ分、長く伸びていた。古い回廊の一室。石は夜露を吸い、蝋の匂いが甘く重い。皇子は外套を脱いだ王子の背中を見つめ、息を整える。公では前に出る彼が、今はペンを握る指をわずかに震わせていた。「書くか」王子が短く言い、羊皮紙を広げる。金具の箱から封蝋と紋章印、細い青のリボン。準備の音が、やけに心地よい。皇子は肩を回し、笑った。「合意から」「うん。先に境界、次に合図、最後に手当て」言葉は短く、視線はまっすぐ。彼のやり方だ。皇子は頷き、自分の呼気に耳を澄ます。鼓動は早い——嫌な早さではない。「可は、命令口調。指示の反復。首筋への口づけ。手首を重ねての固定まで」王子の声は低い。皇子は補う。「不可は、跪きの強要。痕が残る圧。息を奪う遊び。人前での服従の演出」「了解。合図は二つ——言葉と、三回の軽いタップ」皇子は慎重に口を開いた。「セーフワードは『藍』」王子が細く笑い、指先で皇子の手を包む。掌が熱い。「いい音だ。藍、だな」「運用は即時停止、呼吸確認、水分、姿勢変更、十数える」「十数えたら、再開の可否はお前が決める」皇子は小さく息を吐き、肩から力を抜いた。迷いはない。王子は短い条文として落としていく。飾らず、端正に。「週に一度、スイッチ・デー」王子が書き、顔を上げる。皇子が瞬く。「日取りは?」「七曜の六。巡礼が少ない日」「地下街の市と被る」「……ずらすか?」扉の外で書記の咳払い。王子がため息を隠す。入ってきた書記は、顔を赤くした。「失礼。『スイーツ・デー』の件、献菓は何人前に?」「スイッチだ」王子と皇子が同時に訂正する。書記は耳まで赤くなって退いた。皇子は笑いを嚙み殺し、王子は肩を揺らす。夜に、小さな笑いが浮いた。「続けよう」王子は羽根ペンを置き、真顔に戻
last updateLast Updated : 2025-09-22
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第20話:最初の勝ち点

鐘楼の影が石畳に長く張り、夕陽の赤が輪郭を灼いた。大聖堂の前庭は香炉の煙と旗の布音で満ち、二つの国の紋章が並び立つ。皇子は一歩、前へ。背に落ちる影は王子のものだ。——公では皇子が先を行き、私室では王子が支える。その立ち位置は偶然ではない。互いの合意で、選び取り、磨いてきた「型」だ。公開の儀礼は、初めてほどには震えない。額に触れる聖油は冬の水のように冷たく、祈祷の詠唱は石壁を舐めて低く響く。皇子は腹の底で息を撫で、旅の森で覚えた腹式呼吸で胸の波を整える。その横で、王子の指が皇子の手の甲を二度、淡く押す。合図。言葉ではなく体で支える。引きすぎない、押しすぎない——「支えるために余白を残す」という訓練の成果。「誓うか」司祭長の問いに、皇子は半拍だけ遅れて頷く。「誓う」声はよく通り、石の空へ澄んだ軌跡を描いた。自分で驚いたのか、皇子は小さく笑う。王子は奪わない微笑で受け止める。所有ではなく、支援であることを示すための笑い。儀礼は進む。誓紙に朱筆、指輪の交換。幕間、王子は包みを解き、帳簿の抜粋を広げた。地下街の納骨堂に積まれた銀貨、香油商組合の印、反対派へ流れる寄付の径路。細い線で結ばれた闇の地図。「公表する」
last updateLast Updated : 2025-09-23
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