鐘が三つ、四つ。石畳に重い音が落ち、朝の霧がほどけていく。
森を抜け、次の都へ。二人はまっすぐ大聖堂の前に立った。王子は半歩うしろ、皇子が前。——公の顔はそうやって成り立つ。私室では逆転することを、二人だけが知っている。
「息、整えて」
王子の低い声。「大丈夫だ」皇子は喉を鳴らし、右手をひらいて見せた。赤い縄が手首を撫でる。儀礼のための赤、契約の色。成人の二人に課された、公と私を結わえる印。扉が開けば、香草の煙が甘く立ちのぼる。参列者の衣擦れ——地下街の商人、納骨堂の守り手、聖職者。三つの権力が同じ空気を吸っていた。
誓約台の羊皮紙には条約婚の条が細かく刻まれる。政治の文と、合意の文が並ぶ。
——可と不可。——合図。——アフターケア。——週一のスイッチ・デー。公では皇子が前に、私室では王子が支える。合言葉と解き方。すべてが署名の対象だ。「合図は、言葉と、手」
王子が確認する。「言葉は『常夜灯』。手は親指三度」「呼吸が固まったら?」「噛む」皇子は小さな木玉を口に含んだ。銀線で通された赤い玉。——二度噛めば、縄の魔紋がほどける。声が出なくても解ける仕組み。緊張に飲まれても、自分で戻れる道。
(※今都式に合わせ、公儀の停止語は『常夜灯』を採用。私室の停止語『柘榴』は従前どおり。)「ほんとに大聖堂で噛むのかい?」地下街の姐御がこそこそ笑う。
「いざという時の話だ」皇子の視線は堂々として、以前よりずっと前を見ていた。王子はその背を指先で押す。——ここで前に立つのは皇子、支えるのは自分。◆◆◆
儀礼が始まる。大司教の詠唱。赤縄が二人の手首を軽く結ぶ。祭壇には納骨堂から持ち出された小さな骨壺——祖の目。
「条約婚の成立を、この鐘とともに」鐘鐘が三つ、四つ。石畳に重い音が落ち、朝の霧がほどけていく。森を抜け、次の都へ。二人はまっすぐ大聖堂の前に立った。王子は半歩うしろ、皇子が前。——公の顔はそうやって成り立つ。私室では逆転することを、二人だけが知っている。「息、整えて」王子の低い声。「大丈夫だ」皇子は喉を鳴らし、右手をひらいて見せた。赤い縄が手首を撫でる。儀礼のための赤、契約の色。成人の二人に課された、公と私を結わえる印。扉が開けば、香草の煙が甘く立ちのぼる。参列者の衣擦れ——地下街の商人、納骨堂の守り手、聖職者。三つの権力が同じ空気を吸っていた。誓約台の羊皮紙には条約婚の条が細かく刻まれる。政治の文と、合意の文が並ぶ。——可と不可。——合図。——アフターケア。——週一のスイッチ・デー。公では皇子が前に、私室では王子が支える。合言葉と解き方。すべてが署名の対象だ。「合図は、言葉と、手」王子が確認する。「言葉は『常夜灯』。手は親指三度」「呼吸が固まったら?」「噛む」皇子は小さな木玉を口に含んだ。銀線で通された赤い玉。——二度噛めば、縄の魔紋がほどける。声が出なくても解ける仕組み。緊張に飲まれても、自分で戻れる道。(※今都式に合わせ、公儀の停止語は『常夜灯』を採用。私室の停止語『柘榴』は従前どおり。)「ほんとに大聖堂で噛むのかい?」地下街の姐御がこそこそ笑う。「いざという時の話だ」皇子の視線は堂々として、以前よりずっと前を見ていた。王子はその背を指先で押す。——ここで前に立つのは皇子、支えるのは自分。◆◆◆儀礼が始まる。大司教の詠唱。赤縄が二人の手首を軽く結ぶ。祭壇には納骨堂から持ち出された小さな骨壺——祖の目。「条約婚の成立を、この鐘とともに」鐘
朝、王妹来訪の報が入った。皇子は鏡の前で肩を回す。重い礼服の肩紐が、まだ痛点に触れていた。王子が背で布の落ちを整え、襟元を指でそっと引く。「苦しい?」「少し。……いや、少しじゃない。——青鈴」王子の手が即座に止まり、布が緩む。皇子は息を吐いた。合図は声でも触覚でもいい——二人で決めた運用だ。青鈴=完全停止、掌三度=減速。日常の小さな不快から使うのがよい、と王子は言った。異論はない。青鈴を言えた自分へ、皇子は小さく頷く。「水」「はい」蜂蜜水が渡り、甘さが喉から体へ戻る。王子は肩に手を置き、親指で筋をほぐす。「痛みが戻ったら知らせて。——今日は公のお前が前に立つ」「わかっている。……ありがとう」二重統治。その手触りが肩に宿る。私室で支えられるから、公で立てる。扉が二度、軽やかに叩かれた。約した速さ。王妹は時間に正確だ。「入って」王妹は旅装の上に宮廷色の短外套。香は軽く、目はよく笑うが底を見せない。王の妹——議席の束ね役だ。「久しぶり。礼は簡素でいいわ。今日は姉ではなく、議席の束ねとして来た」「歓迎する。……外套、似合う」「ありがとう、皇子。あなたの前置きの短さ、好きよ」王子が卓へ契約文を広げる。条約婚は、国境と流路の管理を定める条約に結びつき、その付属書として互いの合意契約が添えられている。王妹は目を走らせ、欄外の印を確かめた。「可はここ、不可はここ。合図とアフターケアの確認は付属書一。週一のスイッチ・デーは火の四日目に固定。……ええ、宮廷文書に入れても問題ない」「公的に残すのか」「曖昧にして後で攻撃されるくらいなら、明文化が強い。**『私室の契約は公の安定の礎』**と書けば、古い議員も飲む。文句があれば、私が叱る」王子はわずかに笑い、皇子の喉の奥が熱くなる。
香の煙がゆっくり広がり、白い鳩を柔らかく包んだ。羽が光を受けて一瞬だけ霞のように透け、輪郭がふっと溶ける。鐘がひとつ、予定より早く鳴る。乾いた金属音が空を割り、小姓が石段の端で足をひねったのだ。ざわめきと笑いが波紋のように広場を巡り、張り詰めた糸が一本、音を立てて緩む。皇子はその隙に、胸の奥でひとつ呼吸を落とし、一歩、前へ。——公では皇子が前に。それが、二人で選び抜いた二重統治のかたち。大聖堂の階段。白大理石は夕陽を吸って桃色に温み、司祭の掲げる紅の糸が刃のように赤く光を返す。結びの儀に使う古い掟の道具。その絹が皇子の手首に触れた刹那——体が勝手に跳ねた。指が硬直し、喉が冷たい刃で切られたように凍る。幼い日に声を奪う訓練を受けた記憶が、縄の擦れる音と皮膚の焼ける匂いまで連れて甦る。「待て」王子の声が落ちた。短く、低く、地面に重さを置くように。糸ははらりと解かれ、石段へと滑り落ちる。王子は司祭の視線を正面から受け、礼を尽くした笑みと深い一礼で、剣の先を鞘に戻すみたいに空気を収める。「式次第は尊ぶ。だが様式は選ぶ。——指の結紋で代える」朱を指に引き、王子は自分の指と皇子の指先をそっと重ね合わせた。触れたところからじわりと金の灯りが滲み、同じ紋が二人の手に浮かぶ。光は細枝のように広がって脈を打ち、皮膚の下で合意の言葉が脈絡を持ちはじめる。
鐘楼の影はゆるやかに長く伸び、白亜の大聖堂の石床に夕陽の金の欠片が散った。条約婚の公開儀礼は、群衆の喧噪を吸い込みながら、思いのほか静かに、しかし確実に幕を閉じる。祭壇の前、皇子が一歩先に立ち、王子は半歩後ろを守る。片手に指輪、もう片手に契約書。掌の温度差まで、役割の輪郭をなぞっていた。魔紋司が二人の手首に淡い紋を引く。緑と銀の線が重なり、細枝の脈のようにゆっくり鼓動しながら光を刻む。触れ合うたび微かな痺れが走り、皮膚の下で“共同”という語が温度を持つ。「共治の誓い。公では皇子が前に。私室では王子が支える。週に一度のスイッチ・デーを設け、判断の重石を共に担う」司祭の声は高く、石柱に沿って震え、天蓋の暗がりへ吸い上げられる。地下から吹き上がる冷気が裾を撫で、納骨堂の空気を思わせた。——大聖堂は、地上と地下街と骨の層を一本の柱で貫く。権力もまた、階層を上下し、音もなく形を変える。◆◆◆夜。宿の小部屋。灯火は小さく脈打ち、壁に二人の影を薄く二重写しにする。合意契約を読み合わせる声は、紙の擦れと混じって一定のリズムを刻んだ。紙の縁は湿気と汗で柔らかく、触れるたびに乾いた音が鳴る。王子が短く、区切りよく読み上げる。——可:手首まで。——不可:首輪/露出。—
鐘が七度、重く鳴った。大聖堂の白い石が昼の光を返し、ざわめく参列者の吐息まで澄んで聞こえる。皇子は喉の奥の乾きを意識し、短く息を吸った。——前に立つのは自分。公では王子が盾になる。それが二人の二重統治だ。王子が半歩後ろで、視線だけを寄越す。大司教が契約板を掲げた。条約婚の文面は簡潔にして緻密。国と国、身体と身体、権利と責任。「可は、手首まで。目隠しは儀礼内のみ。不可は、傷跡を公に残す行為と、呼吸を妨げる行為」読み上げに、ざわめきが一段上がる。敬虔な老商人が咳払いで誤魔化し、地下街の頭目は口の端を上げた。皇子は口中に熱を感じる。舌に刻まれた紋が微かに疼いた。王子が続ける。「合図は三つ——手を三度握る。唇を二度触れる。声では安全語『麦』」(公儀では『麦』、私室では従前どおり『柘榴』)と、王子は短く付け加えた。収穫の季語を持つ一語は、忘れにくく、忘れさせない。大司教が最後の句を置く。「週に一度、役割を入れ替える『スイッチ・デー』を公に定める。日曜の暁鐘後。改ざんは無効」眉をひそめる者がいて、地下街の頭目が肩をすくめた。王子は一拍空け、柔らかく刃を通す。「政務は滞らせない。公では皇子が前に。私室では私が支える」短い静けさののち、笑いを含んだ拍手が広がった。硬い儀礼の中の“間”で、緊張がほどける。皇子は胸が軽くなった。政治と身体の取り決めを同じ壇上で宣言することが、これほど楽になるとは思わなかった。誓印の接吻。王子が手袋を脱ぎ、皇子の手の甲に唇を落とす。温度が皮膚から心臓へ伝わる。皇子は視線を受け止めたまま、小さく頷いた。条約婚は、成立した。◆◆◆式後、納骨堂へ向かう階段の口で、骨守の一団が行く手を遮る。白衣に黒帯、顔は布で覆われている。背後では、鐘楼と地下街の露台からの視線が交差していた。権力は、見ている。「封印の階に入るは、舌紋持つ者と、その伴のみ」骨守の長の低い声。大司教は眉間に皺を寄せて杖を突き、地下街の頭目は手のひらを返した。&mdash
地下街の空気は湿って冷たい。香草と鉄の匂いが混じり、足もとには細い水の線が走る。皇子は裾をからげ、灯を掲げる王子の横にぴたりとついた。「ここで合図の色、確認」王子が手巾を三枚、指先で揺らす。——紅は撤退、白は停滞、藍は強行。「藍は、前」皇子は短く頷いた。公では彼が前に立ち、私室では王子が支える。その取り決めは結盟式で公に読み上げられ、司教に魔紋を焼き付けられている。条約婚は成立し、二人は国と帝のあいだの橋になった。「今日は私が前。地下では、私の声で交渉する」皇子は宣言し、肩を少し張る。王子はそれを横目で見て、微かに笑った。「合意契約の再確認」——可:視線の指示/呼吸の誘導/軽い拘束。——不可:公衆での跪き/皮膚に痕が残る行為/露出。——合図:掌三度は再開の請求。——セーフワード:『柘榴(ざくろ)』。——アフターケア:温水・蜂蜜湯・同意の再確認。声に出すたび、皇子の背筋が伸びていく。これは訓練の言葉であり、明文化された政略の手順でもある。王子は最後にうなずき、灯を少し上げた。どこからか、鐘の残響が降りてきた。皇子の喉がわずかに鳴る。「……柘榴」王子は即座に手を下ろし、灯を低くした。肩口に温い掌を添え、呼吸を合わせる。「大丈夫。戻る?」「続けられる」皇子は掌で三度、王子の手の甲を叩いた。再開の合図。鐘の音は遠のき、二人の足音が石の廊を拾っていく。◆◆◆骨壺や香炉の並ぶ細い路地。露店の老婆が乾いた声で呼び込んだ。「死者の焚香、一本どうだい。納骨堂の守りが緩むよ」王子は香を一本買い、老婆がつぶやいた名を心に留める。納骨堂——大聖堂の真下に広がる聖域。いまは聖務会と地下のギルド、そして埋葬師たちが、それぞれ権利を主張し牽制しあっている。「白骨鍵は誰の手に?」