All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 221 - Chapter 230

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第221話

歩実は、由奈宛てに誇示を込めたメッセージを何通も送った。だが、三十分が過ぎても返事はない。それでも、気分は悪くなかった。目的は、十分に果たせたのだから。そのとき、スマホが鳴った。画面に表示された名前を見て、歩実はわずかに眉をひそめる。陽子からだった。苛立ちを隠さず、通話に出る。「……急ぎの用件じゃないなら、連絡しないでって言ったはずでしょ?」「長門先生、あんた、とんでもないことをしてくれましたね!」電話口の陽子には、もはや以前のへりくだった態度はなかった。そこにあるのは、露骨な怒りと恨みだけだ。「私が池上家の人間に手を出しても、滝沢社長は気にしないって言いましたよね?でも今、私は加藤家に見捨てられて、挙げ句の果てに、夫から離婚を切り出されてるんですよ!あの時あんたの話を信じた私が、どうかしてた!」歩実の表情が、一瞬で強張った。「……それ、どういう意味なの?」胸騒ぎを覚え、声がわずかに低くなる。「今、どこに?」「どこって、そんなの決まってるでしょ!実は昨日、滝沢社長に捕まったんです。もう、逃げ回る生活はうんざりですよ!あんたみたいな妄想に囚われて、自己陶酔してる人に関わった私が不運でした。二度と連絡してこないで」そう言い捨てると、一方的に電話を切った。歩実は、しばらくその場に立ち尽くしたまま動けなかった。視線が、何かを捉えた瞬間――顔色が真っ青になる。病室のドアが、静かに開いた。祐一が無言で中に入ってくる。その眼差しは冷え切り、陰りを帯びていた。「……祐一?」歩実は必死に動揺を押し殺し、ぎこちない笑みを浮かべる。「どうして来たの?」祐一は答えず、彼女の手元に隠されたスマホへ視線を落とした。「誰からの電話だ」淡々とした声が、逆に怖い。歩実は俯いて笑う。「ただの友達よ。入院したって聞いて、心配してくれただけ」そして顔を上げ、縋るように言葉を重ねた。「ねえ祐一、しばらく健斗に会ってなくて……すごく会いたいの。退院したら、少し一緒に過ごしたいわ」――健斗は、彼女に残された最後の切り札だ。祐一が健斗をどれほど大切にしているのか、彼女は知っている。たとえ自分に対して怒りがあっても、いずれは収まるはずだ。かつて、あれほど愛してくれたのだから。祐一はベッドサイドの花束に目をやり、無造作に花弁に触れた。「…
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第222話

祐一が歩実にここまで怒りを露わにしたのは、初めてだった。その瞳には、もはや一片の情けも残っていない。物音を聞きつけ、看護師が病室に入ってくる。床に散らばった花瓶の破片を見て、一瞬だけ表情を変えたが、すぐに落ち着いた声で尋ねた。「大丈夫ですか?」祐一は淡々と答える。「問題ない。うっかりぶつけただけだ。持ち場に戻ってくれ」看護師が退出すると、祐一は踵を返した。歩実には視線すら向けない。「健斗に罪はない。彼が治療に専念できるよう手配するという約束も、守る。だが君のことに、これ以上俺は関わらない。二度と会うこともない。それから――俺の妻になろうなど、百年早い」そう言い残し、祐一は病室を後にした。「祐一――!」歩実は慌ててベッドを降り、追いすがろうとした。その瞬間、足裏に鋭い痛みが走る。砕けた花瓶の破片を踏み、体勢を崩して床に倒れ込んだ。床に着いた両手を強く握りしめ、赤く充血した瞳に、濃い憎悪が宿る。――由奈を、完全に見くびっていた。……その頃、由奈は空港で落ち着かない様子のまま、智宏の到着を待っていた。およそ十五分後、華沢私立病院の専用車と、智宏の車がほぼ同時に到着する。待機していた空港の医療スタッフがすぐに動き、浩輔の引き継ぎを行った。浩輔が無事に医療スタッフの手に渡ったのを見届け、由奈はようやく胸を撫で下ろす。智宏が車から降り、彼女のもとへ歩み寄った。「無事江川市に着いたら、忘れずに連絡してくださいね」「ええ、必ず」由奈は頷き、ふと思い出したように付け加える。「それと……お母さんにも伝えてください。江川市で待ってるって」智宏は穏やかに笑った。「分かりました」由奈は時間を確認し、「いってきます」と告げる。彼は軽く手を振った。由奈は荷物を手に取り、智宏に別れを告げてから医療チームの後に続いた。搭乗口を抜け、機内に足を踏み入れた瞬間、彼女は窓の外を見つめ、静かに息を吐いた。――やっと、ここから離れられる。……一方その頃、智宏が車で戻る途中、前方を走っていた車両に進路を塞がれ、車を止めざるを得なくなった。駿介が車を降りると、相手の車から降りてきた女性が後部座席の窓に近づき、何かを告げる。「どうした?」智宏が窓を下ろす。駿介が振り返って報告する。「前の車……滝沢社長のようです」
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第223話

勉は一瞬だけ言葉に詰まったが、言い訳などせず、由奈の異動申請書を取り出して祐一に差し出した。視線が日付に落ちた瞬間、祐一ははっと息を呑む。――三か月前。だからか。彼女があれほど大切にしていた仕事を、歩実の件で何度も揺さぶられても、まるで執着しなくなったのは。由奈は投げやりになっていたわけでも、衝動的になったわけでもなかった。ずっと前から、真剣に考えて決めていたのだ。祐一は書類の端を強く握り、皺を作ったまま顔を上げる。「なぜ、この件を俺に知らせなかった?」勉は少し遅れて我に返り、静かに答えた。「池上先生は、この異動を公にしないでほしいと希望されました。私もその意思を尊重したまでです。それに……」数秒の沈黙の後、言葉を選ぶように続ける。「社長と池上先生のご関係について、私は詳しく存じ上げていません。ただ、彼女は院内で理不尽な扱いを受けることが多く、それでも誰一人、彼女の味方になる者はいなかった。そう考えれば、環境を変えるのは、決して悪いことではなかったと思います」その言葉は、棘のように祐一の胸に刺さった。思い返せば、由奈はもともと笑わない人間ではなかった。ただ、いつからか、彼女の顔から、あの柔らかな笑みが消えてなくなっただけだ。彼女が自分を恨んでいることは、わかっていた。だが――ここまで、自分の元から離れたいと思っていたのは、想定外だ。祐一は申請書に記された「江川病院」の文字を見つめ、しばし沈黙したのち、何も言わず書類を置いて立ち去った。……飛行機は定刻通り、江川市に到着した。錦山リハビリテーション病院の医療スタッフは、すでに連絡を受け、空港で待機していた。由奈が車椅子に固定された浩輔を押し、機内から出ると、すぐに医療チームが引き継ぐ。「池上様ですね。中道様から事前に伺っています。患者さんは、こちらで責任をもってお預かりします」責任者らしき男性が、丁寧に頭を下げた。由奈は頷いた。智宏の紹介があっての対応だと分かっている。彼女自身も事前に調べていたが、錦山リハビリテーション病院は江川市でも屈指の評価を誇る高級医療施設で、設備はまるでリゾートホテルのようだ。費用も、それ相応だった。由奈は浩輔の肩にかけた上着を整える。環境を変えることが、彼にとって良い転機になるかもしれない。「どうか、よろしくお願いし
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第224話

恭介は一人の男と碁を打っていた。ゆったりとした衣装に身を包み、半ば白くなった髪はきちんと整えられている。そこへ高橋が近づいた。恭介は顔を上げ、高橋の後ろに立つ由奈を見つけると、目尻を下げて笑った。「来たか」由奈は笑顔で一礼する。「先生、ご無沙汰しております」対局していた中年の男が、ゆっくりと振り返った。「池上先生、またお会いしましたね」「……川口さん?」弘志は由奈に会釈し、恭介に視線を移す。「まさか、あなたの愛弟子が池上先生だったとは。若くして、すごい腕前をお持ちで……」「この子には才能があるんだよ」恭介は碁石を置き、守りに転じながら胸を張った。「私のたった一人の弟子だ。どうだ、お前の期待に裏切らなかったんだろ?」弘志は穏やかに笑う。「ええ。これもご縁ですね」「池上さん、中央病院にいた時、川口さんにいじめられなかったかい?」恭介は眉を上げる。年を重ねても、どこか悪戯好きな子供のようだ。弘志は一瞬、表情を引きつらせた。由奈は恭介の隣に腰を下ろし、軽口を叩く。「とんでもないです。私、先生の弟子ですから。もし手術が失敗したら、先生の顔に泥を塗ることになりますし、これ以上先生の名を借りて威張れませんからね」恭介は声を上げて笑った。「久しぶりに会ったら、ずいぶん口が達者になったな」三十分ほど談笑したあと、弘志は用事があると言って先に席を立った。その後、由奈と恭介は、果ての見えない庭園の小径を並んで歩く。「先生」由奈は歩きながら切り出した。「和恵さんが、ミトコンドリア標的型ナノ治療プロジェクトを、こちらに任せてくださいました。ただ……ヤクモヘルスグループとの今後の共同作業、私、出席しなくてもいいでしょうか」「どうした?」恭介は横目で彼女を見る。「会いたくない相手でもいるのか?」彼は、由奈と滝沢家の事情を知っていた。当時、由奈が祐一と結婚すると言い出したとき、恭介は最後まで反対していたのだ。もしあの結婚がなければ、彼女は今ごろ、すでに恭介と並べられるくらい出世していたのだろう。由奈は視線を落とし、答えなかった。恭介はその沈黙から、彼女の胸の内を察する。「君を責めているわけじゃない。誰にだって、若気の至りはある。ただ相手を見誤っただけのことだ。人生は長い。これから、君を大切にしてくれる男にも、きっと出会える」
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第225話

悠也は意外そうに眉を上げた。「お前は、彼女が罵倒に耐えていたのは、権勢や地位のためだと思っているのか?でも、彼女はそんなことをする必要はないはずだ。だって、お前の祖母はすごく彼女を可愛がっているだろ?滝沢家に嫁いだのなら、名誉も地位も手に入ったはずだ。それ以上我慢しても、割に合わないよ」祐一は、骨張った指でグラスの脚を挟んだまま、黙り込んだ。「滝沢家に嫁ぎたい女は山ほどいる。歩実だって、その一人だった」悠也は肩をすくめる。「それでも、お前の祖母が選んだのは由奈だった。あの人の慧眼を、お前も知っているだろう?由奈の本心を見抜けないはずがない。それでも迎え入れたということは、由奈は決して浅はかな人間じゃないってことだ」祐一は唇を引き結ぶ。これまで彼が池上家を疎ましく思っていたのは、義父の文昭が、たびたび「家族」の名目で利益を求めてきたからだ。由奈自身が、彼に何かを求めたのは一度きり。それも池上家のためだった。確かに彼は、池上家の成り上がりじみた振る舞いを軽蔑していた。だが――由奈は、何をしたというのだろう。彼女は滝沢家の人脈を利用したこともなければ、皆の前で夫婦関係を誇示することもなかった。ジュエリーなどをねだったこともない。バッグの一つ、服の一着すら、要求しなかった。見栄のために欲を隠していたのだとしても、彼は後にブラックカードを渡している。それでも、彼女は一度も使わなかった。離婚協議書の財産分与でさえ、由奈が求めたのは、わずか二千万。祐一にとっては、端金にすぎない額だ。「……斉藤」祐一は低く呟いた。「俺には、由奈が分からない。彼女は、なぜ俺と結婚した?そしてなぜ今になって離れた?」悠也は即座に答えた。「好きだったから、じゃないか?」――好きだった。その言葉に、祐一の瞳がわずかに揺れる。「……由奈が、俺を?」「適当に言っただけさ」悠也は笑う。「でも、もし彼女がお前の言う通り、地位や権力のためだけに結婚したのなら、お前が初恋の女を庇おうが、他の誰かを囲おうが、気にも留めないはずだろ?」祐一の表情から、重苦しい陰りが少しだけ薄れた。「まあ、この話はさておき」悠也は酒を注ぎ、表情を引き締める。「まず健斗の話をしよう。あの子はな……正直、かなり深刻だ」「高いところから突き落とされたんだ。相当なショックだったんだろう」
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第226話

受付の看護師が左手を示した。「そちらです」「ありがとうございます」由奈は案内された方向へ向かい、部屋の前で軽くノックをする。中から許可の声が聞こえ、扉を開けた。それは二人分の席がある執務室だった。デスクの向こうには山口(やまぐち)と、もう一人、若い女性医師が座っている。山口は顔を上げ、わずかに目を見開いた。「……どなたですか?」「初めまして。先週、副院長の面接を通過しました池上由奈です」由奈はそう名乗り、履歴書を差し出した。「今日からこちらでお世話になります」山口は書類に目を通し、思わず声を上げる。「前の病院では執刀医?それに、この若さ……」隣の女医も驚いた表情を隠せない。由奈は微笑んだまま、控えめに口を開いた。「ええ。今後とも、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします。それから一つお伺いしたいのですが、私の執務室はどちらになりますか?」敬意を払うその姿勢に、山口の表情が和らぐ。彼は満足そうに頷き、隣の女医に声をかけた。「東山先生、池上先生を執務室まで案内してあげて」そして、由奈に向き直る。「池上先生、こちらは東山美夏先生です」東山美夏(ひがしやま みか)は立ち上がり、由奈を一瞥すると、淡々とした口調で言った。「ついてきてください」由奈は山口に軽く会釈し、美夏の後を追って部屋を出た。廊下を歩きながら、由奈は周囲を見回す。広々とした病院内は清潔感があり、新しい環境への緊張よりも、わずかな高揚感のほうが勝っていた。一方、前を歩く美夏は、ふと振り返って由奈を見た。この病院にも容姿の整った医師や看護師は多い。それでも――目の前の女性は、明らかに別格だった。掌に収まりそうな丸い小顔、整いすぎた目鼻。まるで陶器の人形のようで、それでいて気取ったところがない。雰囲気まで、どこか他と違う。しかも、若くして執刀医。胸の奥に、言葉にできない棘のような感情が芽生える。由奈はその視線に気づき、首をかしげた。「……何か、私が失礼なことをしましたか?」美夏ははっと我に返り、慌てて笑顔を作る。「いえ。ただ……どうして、うちの病院に来ようと思ったのか気になって」「江川市に住むことになりまして」由奈は素直に答えた。「この病院が、江川市で一番だと聞いたので」「そうなんですね……」それ以上、美夏は何も言わず、一室の前で
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第227話

由奈は一瞬言葉を失った――出勤初日から、こんな目に遭うなんて。軽く息を整え、落ち着いた声で言う。「ここはあなたが押さえた部屋だとは知りませんでした。でも……出て行けと言うのなら、使える部屋がどこにあるのか、教えていただけますか?」男は椅子に腰を下ろし、淡々と答えた。「それは知りません」由奈は思わず苦笑し、そのまま向かいの椅子に腰を下ろす。「今日が初出勤なんです。院内の事情も分かりませんし、行き先が分からない以上、ここにいるしかないと思いますが」男はゆっくりと視線を上げ、彼女を観察するように見つめた。数秒後、書類を閉じて問いかける。「……名前は?」「池上由奈です」その名を聞き、男はわずかに間を置いたあと、視線を外す。そしてスマホを取り出し、電話をかけた。ほどなくして、にっこりと笑う白衣姿の男性が入ってくる。由奈の姿を目にした瞬間、目を丸くした。「うわ、白石先生、みんなに黙ってすごい美人を匿ってますね?」男が反応するより早く、その人物は由奈の前に立ち、勢いよく手を差し出した。「初めまして。彼の助手してます、稲垣裕人です」由奈も丁寧に握手を返す。「池上由奈です」「素敵なお名前ですね」二人の会話を聞いて、男が不機嫌そうに眉を寄せる。「稲垣、彼女の件を片付けるために呼んだんだが」「そう焦らないでくださいよ。執務室の話でしょう?」稲垣裕人(いながき ひろと)は肩をすくめ、由奈に向き直った。「よければ、僕の部屋に来ません?三人部屋になりますけど、隣です」「構いません」由奈は即答し、バッグを手に立ち上がった。その順応の早さに裕人は目を瞬かせ、出て行く際に振り返って男を睨む。「少しは女性に優しくしたらどうです?」男は二人の背中を見送り、しばし無言で座っていたが、やがて消毒スプレーを手に取り、周囲に吹きかけた。……由奈は裕人に案内され、隣の執務室へ向かった。そこには四十代半ばほどの女医がいて、柔らかな雰囲気をまとっている。「こちらは渡部紗由理先生です。僕はいつも、紗由理さんって呼んでます」「池上由奈です。よろしくお願いします」渡部紗由理(わたべ さゆり)は由奈の履歴書に目を通すと、思わず声を上げた。「この若さで執刀医?本当に珍しいわね」「いえ、まだまだです」「これからは同じ職場で働く仲間同士なんだか
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第228話

祐一が、自分が由奈に送ったメッセージに気づいただけじゃない。それだけで、ここまでする必要があるの?そう思うと、歩実の胸には苛立ちが込み上げた。ふと何かを思い出し、奈々美に電話をかける。だが、何度呼び出しても応答はない。――もう、どうして……!考えに考えた末、彼女は滝沢家の本邸へ向かうしかなかった。健斗は、今もあそこにいるのだから。タクシーで到着し、門の前にいる警備員に告げる。「健斗の母です。中に入らせてください」警備員は首をかしげた。健斗のことを知らず、厄介者だと思ったらしい。追い返そうとしたその時、ちょうど奈々美が中から出てきた。「奈々美ちゃん!」歩実が笑顔で呼びかける。これまでなら、奈々美は真っ先に駆け寄り、彼女をかばってくれたはずだった。だが、この日の奈々美は違った。「どうして来たの?」あまりに冷たい声に、歩実は一瞬言葉を失う。「奈々美ちゃん、どうしたの?私は健斗に会いに来ただけよ。電話もしたのに、出てくれなかったでしょう?」以前の奈々美なら、「歩実さん」と親しげに呼んだり、義理の姉になって欲しいと口癖のように言っていた。その落差に、歩実の胸に不安が広がる。奈々美は彼女をまっすぐ見据えた。「本当は、祐一さんに会いに来たんでしょう?健斗なんて、どうでもいいくせに」「奈々美ちゃん、どうしてそんな言い方を――」歩実の目に涙が滲む。だが奈々美は腕を組み、冷ややかに言い放った。「もうやめて。祐一さんから全部聞いたから。あなた、健斗を虐待して、二階から突き落としたうえに、由奈の家族に罪をなすりつけたんでしょう?まさか、あなたがそんな人だったなんて」「な、何を言ってるの……」歩実は思わず奈々美の腕を掴んだ。「私が健斗を突き落としたりなんか――」「健斗の足の傷が証拠だよ!」奈々美はその手を振り払う。「実の息子でしょう?それなのに、よくそんなことができたね。正直、怖い」「違うの……全部、説明するから……」「説明はもういい」奈々美の声には、はっきりとした拒絶があった。「前に、あなたが電話で由奈の赤ちゃんを始末するって言ってるのを聞いた時から、あなたのことを疑ってた。あなたはもう昔の歩実さんじゃない。今のあなたには、もう近づきたくない。だから、二度と連絡してこないで」そう言い残し、奈々美は背を向けて屋敷の中
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第229話

どうして、よりにもよって彼女なんだろう。祐一の胸中は、言葉にできないほど複雑だった。六年前、歩実に対いて抱いていた負い目と、真実が明らかになった今湧き上がる嫌悪と憎しみ。その相反する感情が絡み合い、彼の心を引き裂いていく。彼は本来、歩実に代償を払わせ、この因縁に終止符を打つつもりだった。だが、調べ上げた末に辿り着いた答えは、皮肉にも「歩実」だった。麗子は、そんな祐一の痛々しい様子を見て、思わず小声で呟く。「社長は昔から長門さんに肩入れをしてきましたが……結局、なるべくしてなったってことですね」祐一は彼女を一瞥し、感情を押し殺すように視線を逸らした。ソファへ向かい、資料の束をテーブルに放る。「来月、江川市の案件があったな?」麗子ははっとして頷く。「ありますが……以前、社長ご自身が見送られた件なのでは?」祐一は薬指の結婚指輪をゆっくりと回した。「取り消しだ。前倒しで進めろ」その一言で、彼の行き先を察した麗子は、一瞬ためらいながらも口を開く。「では……長門さんの件は?」「見張りを続けろ」それ以上、祐一は何も言わなかった。麗子も深追いせず、静かに部屋を後にする。祐一の視線は、再び指輪へと落ちた。その瞳は、いっそう深く、冷たい。――自分の人生に、「離婚」というものは存在しない。心の奥で、彼は再び自分にそう言い聞かせた。……その夜、江川市は激しい雨に見舞われた。大きな稲妻が夜空を切り裂き、轟く雷鳴に由奈は目を覚ます。枕元のスタンドを点けると、寝室は柔らかなオレンジ色の光に包まれ、電子時計は午前五時を示していた。由奈は額に手を当て、深く息を吐く。背中は冷たい汗で濡れていた。――もう、何年も見ていなかったはずなのに。あの忌まわしい記憶が、久しぶりに夢となって蘇ったのだ。夜が明ける頃には雨も止んでいたが、睡眠不足のせいで、由奈の体調は明らかに優れなかった。病院へ到着した時点で、疲労が顔に出てしまっている。紗由理はそれを察し、裕人に由奈を任せて病院内を案内させた。執務室を出たところで、裕人が気遣わしげに声をかける。「今日、顔色悪いですけど……どこか具合でも?」由奈は首を振り、微笑んでごまかした。「新しい職場ですし、緊張してよく眠れなくて」「それもそうですね。そういえば、前はどこの病院にいたんです
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第230話

「一目で見ればわかる?まあ、そう言わてみればそうですね」倫也がふいにこちらへ顔を向けた。視線はまず裕人をかすめ、そのまま由奈へと落ちる。その動きに気づいた美夏は、彼の視線を追って由奈を見た瞬間、顔の笑みがすっと消え、明らかに強張った表情になる。だが倫也は、特に気に留める様子もなく、何事もなかったかのように視線を外した。裕人は相変わらず大らかで、ずかずかと近づき、倫也の肩に腕を回す。「白石先生、毎日そんな仏頂面してて、将来ちゃんと奥さん見つかると思います?ほら、東山先生、あんなに真剣に誘ってくれてるのに。少しくらい反応してあげたらどうですか?」美夏は一気に顔が熱くなり、恥ずかしさのあまり視線を落とす。だが倫也はちらりと裕人を見ただけで言った。「反応はした。空いてないって言っただろ」裕人は言葉を失う。――こいつ、本当に手強い。由奈は美夏をちらっと見やり、ようやく腑に落ちた。あの日、美夏がわざわざ自分を倫也の執務室に連れて行った理由。どうやら彼女は、自分を恋のライバルとして警戒していたらしい。由奈は内心ため息をついた。自分はただ異動してきただけで、恋愛沙汰に巻き込まれるつもりなどないのに。そのとき、由奈のスマホが鳴った。画面に表示されたのは、恩師からの着信。由奈は少し離れた場所へ移動して電話に出る。その背中を、倫也がほんの数秒だけ目で追った。すぐに視線は逸らされたが、その一瞬のやり取りを、美夏は見逃さなかった。美夏は俯き、胸の奥に重たい違和感を抱え込む。……昼休み、由奈は合間を縫ってレストランへ向かい、恭介と昼食を共にした。個室には恭介のほか、弘志と真里夫妻の姿もある。「池上先生、やっぱり江川市に来たのね」真里はにこやかに由奈の手を取り、その態度はとても親しげだった。由奈も微笑み返す。「はい。今の勤め先を勧めてくださったおかげで、決心がつきました」真里はそのまま由奈を自分の隣に座らせる。それを見て恭介が少し驚いたように弘志へ尋ねた。「いつから君の奥さんは、私の教え子をこんなに気に入るようになったんだい?」弘志は妻の上機嫌な様子を見て、穏やかに笑う。「これもご縁、ということでしょうね」「ええ。弘志から池上先生があなたの弟子だと聞いたときは、私も驚いたんですよ。まさに、縁を感じました」恭介
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