LOGIN由奈は唇を軽く噛んだ。自分と同じように、綾香まで落ち込ませたくない。そこで、話題を変える。「……凪紗さんって、この数日連絡がありました?」綾香は首を振る。「ううん、全然」それから、少し不安そうに眉を寄せた。「もしかして……何かあったんですか?」由奈は一瞬だけ迷い、静かに答える。「命の危険はないと思います。ただ……自由を制限されてるだけ」「じゃあ……本当に、無理やり結婚させられてるんですか?」由奈は小さく頷いた。「もう両家で結婚式の日取りも決まってるって」その言葉に、綾香は黙り込む。凪紗の気持ちを完全に理解できるわけではない。それでも――愛していない相手と結婚する苦しさくらいは、想像できた。そのとき、販売員が笑顔で近づいてきた。「池上様、先ほどご友人とご試乗いただいたお車はいかがでしたか?」由奈はバッグからカードを取り出し、差し出す。「それにします」販売員の表情がぱっと明るくなる。「ありがとうございます!」両手でカードを受け取った。「すぐにお手続きを進めさせていただきます!」車を受け取ったあと、由奈は綾香をマンションまで送り届けた。綾香が建物の中へ入っていくのを見届けたそのとき、スマホが震えた。見慣れない番号からのメッセージだった。画面を開くと、表示されたのはたった一行。――歩実の裁判の日付だった。送信者の意図は分からない。だが彼女にとっては、もしかしたら好機かもしれない。このまま歩実を逃がすなんて……そんなの、納得できるはずがない。その頃。ホテルの湖畔レストラン。テラス席で、祐一はボディーガードのスマホでメッセージを送信していた。そしてすぐに履歴を削除し、由奈の番号も消した。スマホをボディーガードへ返し、祐一は再び椅子に深く腰を下ろし、湖の向こうに広がる紅葉林を静かに眺めた。その静かな景色の中で――突然、後ろから声がした。「ずいぶん優雅ですね、滝沢社長。やっぱり噂どおり……癌は本当らしい」麗子が振り返る。そこにいたのは圭介だった。背後には外国人の男が二人、控えている。近くにいた祐一のボディーガードがすぐに前へ出て、道を塞ぐ。圭介の部下の一人が腕を上げ、今にも手を出しそうになる。しかし圭介が手を上げて制止した。「おいおい、そんなに警戒しなくてもいいでしょう?」祐一は麗子に目
祐一の言葉を聞いた幹部は、少し顔を曇らせた。「それは……」さすがに言葉に詰まる。祐一はカップの縁を指先でなぞりながら、淡々と続けた。「歩実は刑事事件の容疑者です。それなのに、皆本先生は正式な依頼もないまま、自ら精神鑑定を提案した」わずかに意味ありげな笑みを浮かべた。「……職業倫理に反しているとは思いませんか?」相手は黙り込む。祐一はさらに静かに言った。「殺人犯が減刑を狙って『精神疾患』を利用する例なんて、珍しくもありません」しばらく沈黙が続いた。やがて幹部はグラスを持ち上げる。「……言いたいことはよく分かりました」軽く祐一とグラスを合わせた。「結果は、こちらでも注意して確認させます」会食が終わり、祐一は何事もなかったかのように席を立ち、ゆっくり店を出た。夜風が少し冷たい。駐車場で車の前まで歩いたそのとき――祐一の身体がわずかに揺れた。ドアに手をつき、急に激しく咳き込む。車内にいた麗子が慌てて降りてきた。「社長、大丈夫ですか?」彼女はすぐポケットから予備のハンカチを取り出し、差し出す。祐一は口元を押さえていた手を少し離す。ハンカチを受け取ると、そのまま車に乗り込んだ。「問題ない、帰るぞ」麗子は一瞬ためらったが、何も言わず運転席に戻る。車がゆっくり動き出し、祐一はハンカチで手のひらを拭いた。そこには――数滴の血が残っていた。だが彼の顔色は少し青白いだけで、表情は終始落ち着いていた。……二日後、皆本奈緒(みなもと なお)は歩実の精神鑑定書を監視員に手渡した。監視員は書類に目を通す。「……精神障害の疑い」そう呟き、そして顔を上げた。「家族には知らせたんですか?」「すでに連絡しています」監視員は病室の方をちらりと見た。「つまり、あなたが彼女の弁護人になると?」奈緒は微笑む。「もし彼女が以前から精神疾患を抱えていたのだとしたら、児童虐待の件も、発作的な症状の中で理性を失った結果だった可能性があります。躁うつ病や統合失調症を患うシングルマザーが、発作の最中に子どもへ暴力を振るってしまう事件は、私も何件も扱っています。もし本当に病気が原因なら――法律は情状を考慮するべきでしょう。母親で、子どもを愛していない人なんていませんから」監視員は顔をしかめ、声を低くする。「皆本先生……長門
歩実は数人に引き離された。床に倒されたままの弁護士は、まだ何が起きたのか理解できない様子で、呆然としている。監視員の一人が彼女の首元に目をやった。白い首筋に、赤い引っかき傷がいくつも浮かんでいる。監視員たちは顔を見合わせ、すぐに歩実の主治医を呼んだ。やって来た医師は事情を聞き、難しい顔をする。「自殺騒ぎのことは聞いていましたが……こちらに入院してから、身体の傷は順調に回復しています。ただ……」言葉を選ぶように続けた。「他人に危害を加える行動は、今回が初めてです」監視員はその言葉を聞きながら考え込み、一部始終をそのまま上に報告しようとした。だが、そのとき――さっき襲われた女性弁護士が歩み寄ってきた。首をさすりながら、落ち着いた声で言う。「彼女には自殺傾向がありますし、今みたいに突然人に危害を加える行動も見られました」一度間を置き、続ける。「心理的、あるいは精神的な問題がある可能性もあります。早めに精神鑑定を受けさせた方がいいのではないでしょうか」監視員は黙り込んだ。少し考えてから答える。「……上に報告して判断を仰ぎます」その一部始終を、綾香が少し離れた場所から見ていた。人が散り始めると、彼女はすぐその場を離れ、そして足早に由奈の執務室へ向かった。「池上先生!」机で書類を確認していた由奈の手が止まる。顔を上げると、綾香が息を切らして立っていた。「どうしたんですか?」綾香は机の前まで駆け寄る。「さっき、長門先生が人に襲いかかったんです!それで今、向こうの人たちが精神鑑定を受けさせようって話になってます」由奈はしばらく黙っていた。やがて静かに言う。「……そんなに都合よくいくでしょうか」綾香は眉をひそめる。「ですよね。引き継いだばかりなのに、いきなり襲うなんて」腕を組み、はっきり言った。「絶対、演技ですよ」由奈はゆっくり息を吐く。「たとえ演技でも、鑑定を受けたら結果は出ます。ただし……」綾香が顔を上げる。「ただし?」由奈は視線を落とした。「もし誰かが結果を書き換えたら――話は別です」綾香は息を呑んだ。由奈はすでに答えに辿り着いていた。もし鑑定する側に協力者がいるなら、鑑定結果を操作することも不可能ではない。それを止めるには――まず、本当の結果を知る必要がある。由奈はスマホを取り出した。検察
由奈は、祐一の腕の中でしばらく固まったままだった。頭が真っ白になり、何も言葉が出てこない。祐一の腕の力が、わずかに緩んだ。その瞬間、由奈ははっと我に返ると、すぐに彼の胸から離れた。そして慌てて話題を変える。「……飲みすぎてるのよ。土屋さんに連絡して迎えに来てもらう」祐一は小さく笑った。その視線が、まっすぐ由奈に向く。「君は……俺が酔ってるって思っても、今の言葉が本心だって、思いたくないんだな」由奈の胸の中はぐちゃぐちゃだった。けれど結局、彼の視線を避けることしかできない。祐一はゆっくり立ち上がり、コートを手に取る。「……じゃあ、酔ってたってことにしておくか」そう言ってエレベーターへ向かおうとした。その背中に、由奈は思わず手を伸ばし、袖をつかんだ。祐一がぴたりと止まる。振り返った彼の目に、かすかな期待が浮かんだが、由奈はすぐ手を離した。「お酒飲んでるんだから、土屋さんが来るまで待って。もしこのあと何かあったら……私が責任取ることになる」引き止めた理由は――未練じゃない。ただ、彼に何かあれば自分が困るから。それだけ。祐一の目に宿っていた光が、ゆっくり消えていく。そして彼は由奈の手を軽く振り払った。「……いい」そのまま歩き出した。由奈はその場に立ち尽くす。エレベーターへ向かう祐一の背中を、ただ見送る。胸の奥が、妙にざわつく。しばらく迷ったあと、由奈は急いで廊下を追いかけた。エレベーターには間に合わず、階段で下へ降りる。外に出ると――ちょうど祐一が車の後部座席に座るところだった。車が動き、赤いテールランプが遠ざかる。それを見届けて、由奈はようやく小さく息を吐いた。少しだけ、肩の力が抜ける。なんでこんなに落ち着かないのだろう。きっと――祐一に何かあったら、滝沢家に説明できないから。それだけだ。……翌朝。由奈が目を覚ますと、スマホにメッセージが届いていた。送信者は真里。由奈はすぐ内容を確認する。【東山家の奥様から聞いた話だけど、娘さんは米林圭介さんと一緒にいるそうよ。両家の結婚はもう発表されたって。披露宴は来月初めらしいわ】由奈はしばらく画面を見つめた。そして短くお礼を返信し、スマホを置く。やっぱり、凪紗は米林家にいる。しかも、結婚のことも公表された。両家が合意している以上――部
圭介は佳苗との通話を切ると、煙をゆっくり吐き出しながら悠を見た。「久しぶりです。白石さん、ずいぶん大人になったんですね」悠は一瞬きょとんとし、すぐに彼を見直す。「……米林さん?」「覚えていてくれたんですね」悠の表情がわずかに曇る。「忘れたくても無理ですよ。昔、ずいぶんいじめてくれたから」圭介は肩をすくめて笑う。「もう何年も前の話でしょ。まだ根に持ってるんですか?」「だって、あなたの顔を見るだけで気分が悪くなるんですもの」その言葉にも、圭介はまったく腹を立てない。むしろ楽しそうに煙草を指で弾いた。「ご両親は元気ですか?」悠はじっと彼を見つめる。「ええ。おかげさまで元気ですよ。気にかけてくれてどうも」そう言ってから、由奈の腕を軽く引いた。「行きましょう」由奈は圭介の横を通り過ぎる。その瞬間、ふと視線が彼のスマホに落ちた。圭介もそれに気づいたのだろう。くるりと振り返る。「池上先生」わざとらしく呼び止める。「今度、滝沢社長も連れて俺の結婚式に来てください」そう言って、手に持ったスマホを軽く揺らした。由奈の胸がぎゅっと締めつけられる――あれは凪紗のスマホだ。つまり、凪紗はやはり彼らのところにいる。由奈は拳を握りしめたまま、何も言わず悠と一緒に個室へ入った。扉が閉まると同時に――圭介の顔から笑みが消えた。冷えきった表情で、先ほどいた個室へ戻る。部屋の中、凪紗は椅子に座らされ、その背後には二人のボディーガードが立っていた。少しでも動けば、すぐ押さえつけられる。凪紗は睨みつける。「米林さん、私のスマホで親に連絡したからって、もう大丈夫だって思わないで。あなたたちの悪だくみなんて、いずれバレるんだよ」圭介は気にも留めず席に座る。凪紗のスマホをテーブルに置いた。「悪だくみなんて大げさだな。政略結婚は、お前の両親も同意してるんだ。俺たちが無理やり押しつけたわけじゃない」凪紗は唇を噛む。「それはあなたたちが嘘をついて騙したからでしょ!」圭介はワイングラスを手に取り、ゆっくり揺らした。「東山家だって利益が欲しいから結婚を認めたんだろ。だったら騙したわけじゃない。利害の一致ってやつだ」そして、ふと笑った。「それに――もし本当にお前を大事に思ってるなら、数日も連絡が取れないのに、どうしてご両親は落ち着いていられる
夕方になっても、由奈は凪紗に何度も電話をかけ続けていた。だが――つながらない。メッセージを送っても既読にならず、返事もない。やっぱり何かおかしい……胸の奥に嫌な予感が広がる。だが、もし本当に何かあったのなら、東山家が黙っているはずがない。「池上先生、まだ東山先生と連絡つきませんか?」綾香がそっと隣に来て尋ねた。由奈は首を横に振る。綾香は腕を組み、真剣な顔で考え込む。「家にもいないし、マンションにも戻ってないんですよね?いったいどこ行ったんだろう……」少しして、ふと口にした。「まさか……逃げたとか?」「逃げた?」「はい、結婚から逃げた、とか。逃げるにしても、普通はメッセージくらい見ますよね……」綾香はぶつぶつ分析を続ける。だが由奈の頭には、その「逃げた」という言葉が妙に引っかかった。由奈はスマホを取り出し、真里へメッセージを送った。送信を終えると、由奈は顔を上げる。「もう遅いから、綾香さんは先に帰ってください」「池上先生は?」「書類を片付けてから帰ります」「わかりました」綾香は少し心配そうな顔をしながらも帰っていった。由奈は執務室で仕事を続け、病院を出たのは夜七時を回ってからだった。秋も深まり、江川市の昼夜の寒暖差はかなり大きい。夜になると、一気に冷え込む。病院の玄関を出た瞬間、冷たい風が吹きつけた。由奈は思わずコートをきゅっと引き寄せ、階段を降りる。そのとき――「池上さん」突然声をかけられ、由奈は足を止めた。振り返ると、少し離れた場所に停まっている車が目に入る。運転席の窓がゆっくり下がった。そこにいたのは――悠だった。陶器の人形のように整った顔立ち。穏やかで柔らかな笑みを浮かべている。由奈は車へ歩み寄った。「悠さん?どうしてまだここに?」悠は軽く笑う。「池上さんを待ってたんです」「私を?」「まだ夕食食べてないでしょ。よかったら一緒にどうですか?」突然の誘いだったが、由奈は断らなかった。「……いいですよ」車はゆっくり市街地を走り出す。窓の外には、夜の街の明かりが流れていく。高層ビルの灯りが、映画のワンシーンのように次々と視界を横切る。悠は運転しながらちらりと由奈を見た。「断られると思いました」由奈は外を見たまま言う。「どうしてですか?」
丸一週間、由奈は祐一の姿を見なかった。院長の勉から「長門先生を連れて学術大会に出席してほしい」と頼まれた時、それが祐一の提案だと聞いても、彼女は驚かなかった。当日、由奈は勤務用のスマホから歩実に連絡を入れ、支度するようにと伝えた。返ってきたのは「わかった」の一言。病院を出た後、由奈は彼女を待った。するとほどなくして、歩実から再びメッセージが届く。【ごめんなさい池上先生、先に行っててください。あとで祐一が送ってくれるので】由奈は画面を見つめ、口元に冷ややかな笑みを浮かべた。【了解しました】とだけ返し、スマホを閉じる。車を走らせシャイニングヒルズに到着すると、偶然に
由奈は唇を噛み、目に影が落ちる。カバンを下ろしながら言う。「……ご飯、作ってくるわ」そのままキッチンへ向かい、手際よく動き出す。冷蔵庫には家政婦が用意してくれた食材がそろっている。昔、由奈に余裕があった頃は、祐一の帰りを待って毎晩のように料理をしていた。たとえ彼が夕飯の時間に間に合わなかったとしても、帰ってきたときは温め直して出していた。けれど彼は、一度も箸をつけたことはなかった。「そんなことしなくていい」と、いつも冷たく言われるだけ。六年間、妻としてできることはすべてこなしてきたが、ことごとく拒まれた。今になって、由奈はもう疲れ切ったのに、逆に妻の役目を果たせと言
歩実は満足げにメイクを整えると、鏡に向かって口元をわずかに上げた。個室の方に視線を投げてから、軽い足取りでその場を後にする。……歩実が戻り、その少し後に由奈も会場へ戻った。大会のすべてのプログラムが終わる頃、由奈は彰や二人の医療界の大御所と共に会場を出てきた。「池上先生、彰くんから聞いたよ。白石教授の最後の弟子なんだってね。若いのにもう複雑な手術を独りで任されるとは、大したものだ」由奈は控えめに笑い、「お褒めに預かり光栄です、阿部先生。私なんかはまだまだです。ここまで来られたのは恩師のおかげですよ」と答える。阿部(あべ)と呼ばれた白髪の医師は手を後ろに組み、にこやか
歩実が由奈のバッグを開けると、中から本当にダイヤのブレスレットが出てきた。周囲の空気が一気に張りつめ、誰もが息をのむ。視線が一斉に由奈へと注がれた。「まさか池上先生がこんなことをするなんて」「信じられない……」「人のものを盗むなんて、医者失格でしょ?」「ブレスレットまで盗むとは、そこまでお金に困ってるのか?」四方から浴びせられる非難の声に、由奈は冷たい海に沈められたように体が冷えていく。顔色は青ざめ、けれどやがて瞳に冷静な光が宿った。間違いない。これは歩実が仕組んだ罠だ。そうでなければ、こんな自信満々で自分を糾弾できるはずがない。それはそうと、何度も自分を陥