All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 401 - Chapter 410

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第401話

祐一への憎しみは本物だった。その薄情さが骨の髄まで許せない。だが、それ以上に――由奈の存在が憎い。彼女のせいで、自分の計画がすべて狂わされた。もし由奈が現れなければ、いまごろ自分は祐一と結婚し、目の前の悪魔からも逃れられていたはずだ。圭介はグラスの酒を軽く揺らしながら、彼女の瞳に宿る激しい憎悪を眺め、くすりと笑った。「なら、まずはお前の覚悟を見せてもらおうか」歩実は一瞬、言葉を失う。次の瞬間、彼の表情の意味を悟り、血の気が引いた。……午後。由奈は足早にエレベーターへ乗り込んだ。だが中に倫也の姿を見つけ、思わず足を止める。目が合った瞬間、彼女は視線を逸らし、軽く笑って挨拶した。「……お疲れ様です」そう言って、距離を取るように壁際へ立つ。倫也は彼女の後ろ姿をじっと見つめ、目を細めた。「今日はずいぶんよそよそしいですね」由奈は口元を引きつらせる。「そんなことありませんよ」「さっき、目を逸らしたでしょう」言葉に詰まり、ゆっくり振り返る。「別に、逸らしてはいませんけど……」――まさか、盗み聞きしたことが気づかれているのか?胸の奥がざわつく。気まずさと緊張が同時に押し寄せた。倫也は自分の頬に触れ、少し考え込む。「私の顔に何かついているんですか?」「……いえ」「じゃあ、顔を見たくないというわけですか」由奈は絶句した。本当に、遠慮というものを知らない人だ。「はは……」乾いた笑いが漏れる。「考えすぎですよ」ちょうど一階に到着し、倫也が先に降りる。由奈は少し遅れて続きながら、さすがに冷たくしすぎたかと思い、早足で追いかけた。「白石先生、あの――」彼の顔が見たくないわけではない。ただ、聞いてしまったことを整理できず、どう接すればいいのかわからなかっただけだ。倫也が突然足を止めて振り向く。由奈は止まりきれず、そのままぶつかった。彼は反射的に手を伸ばし、支える。「何をしている!」不運にも、その瞬間を祐一に見られた。祐一はゆっくり歩み寄る。その目には、冷えきった怒りが宿っていた。由奈は一歩下がり、倫也と距離を取る。だが次の瞬間、祐一に手首をつかまれ、そのまま引き寄せられる。肩を抱かれ、彼の腕の中に閉じ込められた。倫也は祐一を見据える。「滝沢社長、何か誤解されているのでは?」「誤解かどうか
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第402話

容赦がない、か。由奈は一度目を伏せ、それからまっすぐ祐一を見つめ返した。「あなたのほうこそ、私に容赦なんてなかったでしょう。しかも……何倍も残酷だった」その答えを予想していたかのように、祐一はかすかに笑う。「そうか。だからずっと俺を憎んでいたんだな。こうして俺のそばにいるのも、母さんと交わした約束を守るためだけ、というわけか」由奈の息が、一瞬止まる――千代と約束を交わしたことを、祐一が知っていたのか?動揺が表情ににじみ、視線が揺れた。それだけで、図星だと祐一ははっきりとわかった。祐一は彼女の顔を静かに見つめ、片手で額を覆う。込み上げてくる感情を、無理やり押し込めるように。「もう、行っていい」由奈は動かなかった。「……出ていけ!」突然の怒声に、体がびくりと震える。由奈は何も言わず、ドアを押し開けて車を降りた。祐一がとっさに手を伸ばすが、指先は空をつかむだけだった。遠ざかっていく由奈の背中を見つめながら、胸の奥に重たいものが沈んでいくのを感じる。喉の奥に、かすかな鉄の味が広がった。……由奈はホテルへは戻らず、タクシーを拾って美夏のマンションへ向かった。インターフォンを押すと、すぐにドアが開く。由奈の顔を見るなり、美夏は口元に笑みを浮かべた。「あら、珍しいね。あなたもつい行き場を失っちゃった?」「帰る家がなくてね」由奈は苦笑しながら中へ入る。ホテルには戻りたくない。けれどスクエアタワーに行けば、倫也と顔を合わせるかもしれない。それも今は避けたかった。とにかく、少しでも心を休められる場所が必要だった。「綾香さん、今夜は夜勤なの。ちょうど暇してたところだよ」美夏は棚から赤ワインを取り出す。「付き合ってくれる?」「もちろん」由奈は小さくうなずいた。……同じ頃、将平は古賀から連絡を受け、ホテルへ戻っていた。部屋に入ると、ベッドヘッドに凭れた祐一を見て足を止める。彼の唇の端に、赤いものが滲んでいる。顔色も前より明らかに悪い。「どうしてこんなことに?」古賀から話を聞いていた医師が振り返り、困り果てた表情で言った。「滝沢社長、ここ数日また煙草を吸われていたようで。肺がんの患者さんには、それだけで大きな負担です。このまま続けられると、状態はさらに悪化してしまいます」将平の眉間に、深い皺が刻まれ
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第403話

夜の帳が降り、窓の外には宝石を散りばめたような灯りが広がっていた。由奈は美夏とリビングでグラスを傾けていた。美夏はすでに少し酔いが回っているらしく、ふらりと由奈の肩に腕を回す。「ねえ、前からずっと聞きたかったことがあるんだけど」「なに?」由奈は首をかしげる。美夏はじっと彼女を見つめた。「白石先生のこと、好きなの?」由奈は一瞬言葉を失う。答えようとしたところで、美夏が人差し指を立てた。「正直にね。ごまかしなし」「はいはい」由奈は苦笑してその手を払いのけ、グラスを口に運ぶ。「私の状況、美夏も知ってるでしょ。白石先生と知り合ってまだ数か月だよ?そんなこと、考える余裕ないって」美夏が顔をぐっと近づける。「まったく好きじゃないの?」由奈はワインをひと口含み、視線を落とした。「まぁ……なくはない。でも、そういう気持ちとは、まだ違う」少なくとも第一印象は悪くなかった。優秀で、落ち着いていて、誠実だ。もし昔の自分だったら、心が揺れたかもしれない。けれど――人を愛するのは、思っている以上に消耗する。いろいろありすぎて、今の自分の心の中に、祐一への想いがまだ残っているのかどうかさえ分からない。そんな状態で新しい恋を受け入れるなんて、さすがに無理だ。美夏はソファの背に体を預け、天井を見上げた。「私が彼を好きになった理由、分かる?」「顔がいいから?」由奈は冗談めかして笑う。「ちがうってば!」美夏は姿勢を正した。「なんかね、似てる気がするの。あの人も、きっと内側は孤独で……誰かに分かってほしいって思ってる人」少し間を置いて、声がやわらぐ。「うち、お金はあるけどさ。私、親にとって理想の娘じゃなかったんだよね」「お姉さん、いたんだよね?」美夏は苦笑いした。「うん。十歳のとき、家族で海外旅行してて……川下りで事故に遭ったの。私、泳げなくて。姉は自分だけなら助かれたのに、私を離さなかった。結局、私は助かったけど、姉は……戻ってこなかった」由奈の視線が、美夏の首元に揺れる二つの指輪に落ちる。「その指輪、ずっとつけてたんだよね?お姉さんの?」美夏は小さくうなずき、指輪をぎゅっと握った。「『美夏』って名前、本当は姉の名前で、私はもともと凪紗っていうの。姉が亡くなってから、両親はずっと私を責めてた。だから……せめて名前だけでも、姉になろ
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第404話

祐一は、これまで見せたことのないほどの低姿勢で、謝罪をした。由奈は数秒、ただ彼を見つめていた。やがて我に返ったように、肘で彼の胸を押す。「……ちょっとクラクラするから、離してくれない?」だが祐一は動かない。暗い瞳が彼女をまっすぐ射抜く。「俺に抱かれたくないとき、君は決まって言い訳をする」図星を突かれたように、由奈の体がわずかに強張った。次の瞬間、祐一は彼女を横抱きにする。「ちょ、なにするの!」抵抗もむなしく、ベッドにそっと下ろされる。由奈は反射的に掛け布団を引き寄せ、体をすっぽり包み込んだ。警戒する彼女を見て、祐一は苦笑いを浮かべる。「俺が本気を出せば、君は逃げられると思うか?」由奈の顔色がさっと変わる。思わず言い返そうとした、そのとき――「……もう、強要はしない」祐一の低くかすれた声が、先に落ちてきた。由奈は目を見開く。疑いと戸惑いが入り混じった視線を、ゆっくりと彼に向けた。本当に信じていいのかは分からない。けれどここ最近、彼が少しずつ折れてきているのは事実だった。愛は、人を弱くする。きっと彼も、それを思い知ったのだろう。由奈が何も言わずにいると、祐一はしばらくベッドのそばに腰かけていたが、やがて視線を逸らして立ち上がった。「……ゆっくり休め」それだけ言い残し、部屋を出ていく。閉まったドアを、由奈はしばらく見つめ続けていた。――お酒のせいだ。胸の奥がざわつくのは、きっとそのせい。眠ってしまえば、朝にはすっきりしているはずだ。……翌日、郊外の病院。歩実が目を覚ますと、腕には点滴の針が刺さっていた。白い天井が、やけに遠く感じる。女性医師がカルテを手に入ってきた。「長門さん。状態を見て、二日ほど入院して経過を観察したほうがよさそうです。ご家族は?ご主人やご両親に連絡はできますか?」歩実の喉はひどく乾いていた。「……家族はいません」医師は一瞬、言葉を詰まらせる。「では、恋人の方は?」「いません」短く言い切る声には、わずかな苛立ちがにじんでいた。「必要なことだけ話してください」医師はためらいながらも続ける。「搬送時、外陰部に裂傷があり、出血も確認されています。ご自身で心当たりはありますか?もし暴力を受けているのであれば、警察へ届け出ることも――」「余計なお世話です
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第405話

由奈は倫也を見つめたまま、必死に過去の記憶をたどった。けれど、何も引っかからない。「……いつ、会ってたんですか?」倫也はわずかに口角を上げる。「あなたが滝沢社長に会っていた頃、私にも会っていたんですよ」そう言って、指先で軽く彼女の額を弾いた。「よく思い出してみて」それだけ残し、彼は廊下の奥へと歩いていく。由奈はその背中を見送りながら、立ち尽くした。――祐一に会っていた頃、倫也にも会っている?そんなはずはない。もし本当に顔を合わせていたなら、覚えていないはずがない。なのに、胸の奥がわずかにざわつく。思い出せない何かが、確かにある気がして。……同じ頃。凪紗は、フレンチレストランの窓際席で腕時計を何度も確認していた。いい加減、帰ろうかと思い始めたころ、ようやく相手が姿を現す。きっちり撫でつけたオールバック。整った顔立ち。目元は深く彫りがあり、そのせいかどこか冷ややかな印象を与える。――少なくとも、好みではない。「セロンさん、でしたっけ?」凪紗はため息まじりに言う。「来る気がないなら、無理しなくてよかったのに。どうせ親同士が勝手に決めた縁談ですし。なくなっても困りませんから」男は落ち着いた動作で椅子を引き、腰を下ろした。「お待たせして申し訳ありません。こちら、お詫びの気持ちです」そう言って、上質なジュエリーケースを彼女の前に滑らせる。凪紗は眉をひそめた。「……どういうつもりですか?」「自己紹介はまだでしたね。俺は米林圭介と言います」男――圭介は椅子の背に身を預ける。「セロンは海外で使っている名前です」凪紗はグラスのジュースをひと口飲み、肩をすくめる。「じゃあ米林さん。この縁談、あなたも無理やりなんでしょう?お詫びなんて結構です」「無理やり、というほどでもありません。誰と結婚しても同じですから」その一言に、凪紗のこめかみがひくりと動く。――男って、本当に気楽だ。ここまで言われた以上、この縁談を断るつもりはないのだろう。凪紗は腕を組み、はっきりと言い放つ。「私は好きな人がいます。あなたのことは好きになれない。もし本当に結婚しても、形だけの夫婦になりますよ?」圭介の唇に、冷たい笑みが浮かぶ。「望むところです」「……それならいいですけど」凪紗はジュースを飲み干し、バッグを手に立ち上がった。
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第406話

「私、あの二人が会ってるところをこの目で見たの」凪紗はこめかみを押さえ、苛立ちを隠そうともせず吐き捨てた。もともと政略結婚には乗り気ではなかったが、今は完全に腰が引けている。「もしあの米林って人が長門歩実と付き合ってるとしたら、私に当てつけるために来たようなもんじゃない?たとえ将来、形だけの結婚をしたとしても、絶対嫌な思いをするよ」由奈は静かにまぶたを伏せた。凪紗の横顔に浮かぶ、怒りとも不安ともつかない複雑な色を見つめる。「どうしたの?」問いかけられて、由奈は一瞬遅れて我に返った。「……なんでもない。さっき言ってた相手、米林圭介って言ったよね」「そう。彼は今まで『セロン』って名乗ってた。前の江川銀行の頭取の息子で、数年前から海外に行ったって聞いた。会った時、本名を教えてくれたの」由奈の眉がわずかに寄る。凪紗ははっとしたように声を上げた。「そうだ!父から聞いたけど、前の江川銀行の頭取って、確か米林明夫って名前だったはず。その米林圭介って、きっと息子だよ」――米林明夫。銀行頭取。その名前が、胸の奥に沈んでいた何かを不意にかき乱した。由奈の指先が、無意識に強く握りしめられる。脳裏に、断片的な光景がよみがえった。子どもたちが誘拐された、あの夜。ワゴン車の中で、意識がふっと浮かび上がった。薄暗い車内には、自分のほかに五人の見知らぬ子どもたち。泣き声を必死に殺している気配だけが、狭い空間に満ちていた。怖くて声も出せないまま、由奈はただ耳を澄ませていた。車の外で、二人の男と、雨カッパを着た男が話している。「明夫、俺たちの狙いは金持ちの連中のガキだけのはずだろ。あの嬢ちゃんはどういうことだ?」「そうだ。こっちは命張ってやってんだ。人数が増えりゃ、リスクも増えるんだぞ」雨カッパの男は煙草をくゆらせ、低い声で答えた。顔は影に隠れて見えない。「……あの子は俺たちが子供たちを連れ込むのを見てる。見逃して、あとで警察にでも行かれたらどうする?」男たちが何か言い返す。雨カッパの男は煙草を地面に投げ捨て、踏み消した。「五人も六人も同じだ。それに、一億二千万を用意できなければ銀行の穴は埋まらない。そうなれば、俺だけじゃない、お前たちも無事じゃ済まないぞ」その言葉に、誘拐犯の一人が怒鳴った。「くそっ……銀行を赤字にしたのはあの金
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第407話

上層部の面々は由奈へ視線を向けたあと、無意識に恭介の顔色をうかがった。最終的な判断を、彼の一言に委ねるつもりなのは明らかだった。その空気を察した歩実が、すかさず口を開く。「まさか、白石先生の教え子だからって、追及しないおつもりじゃありませんよね?」その言葉に、上層部たちの表情が一斉に曇る。「顔を立てている」と公然と指摘されたのだ。面目を潰されたに等しい。歩実は引く気配を見せない。顎をわずかに上げ、由奈を真っ直ぐに見据える。「ナノ医薬品の研究成果は、あなたが統括していたはずです。今回の件、きちんと説明していただきます」静まり返る室内。由奈は一歩も退かず、淡々と返した。「私が説明する内容が、あなたの望む結論とは限りませんけど」歩実の表情が、ほんの一瞬だけ硬直する。その横で、恭介がお茶を一口含み、ゆっくりと口を開いた。「私は、このプロジェクトを教え子に任せた、信頼しているからだ。彼女は自らの将来を潰すような真似をする子ではない」穏やかな声だったが、揺るぎはない。歩実の頬がわずかに引きつる。「……なぜそこまで言い切れるんですか?本当に、彼女が裏切らないと?」「私の教え子だ。あなたより彼女をよく知っている」恭介は静かにカップを置いた。歩実は拳を握りしめる。胸の奥で、嫉妬と悔しさが渦を巻いていた。――どうして。由奈は何もしなくても信頼を得られる。自分はどれだけ手を尽くしても、結局は使い捨ての駒に過ぎないのに。そのとき、由奈がゆっくりと歩実へ視線を向けた。「長門先生。己の罪を棚に上げて他人ばかりを非難するのは、感心しませんね」空気が凍る。歩実は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに笑みを作る。「……追い詰められて、手当たり次第に噛みついているように見えますけど?」「噛みついているのは、どちらでしょう」由奈はきっぱり返す。「前田さん、説明をお願いします」その名が出た瞬間、歩実の指先がぴくりと震える。前田が静かに立ち上がり、あの日の経緯を一つひとつ語り始めた。研究報告書に触れた人物、閲覧の流れ、保管状況――話が進むにつれ、室内にざわめきが広がる。「……つまり、報告書には長門先生も目を通している、と」「まさか、本当に彼女が……?」「でも彼女、アンデル教授のチームの一員だろ?」「その話、公式発表はないと聞いた
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第408話

「証拠なんてないでしょう!」歩実の叫び声が、会議室に鋭く響いた。これまで気配り上手で穏やかと評されてきた彼女の姿は、もうどこにもいない。由奈はわずかに口角を上げる。「Aグループの全員は、あの報告書が破棄されたデータだと知っていました。知らなかったのはBグループだけ」静かに、しかし確実に追い詰める声。「だからこそ――このタイミングで騒ぎ出したBグループの人間が、ノーラングループと接触していた可能性は高い、ということになります」歩実はその場に固まった。視線が、Aグループの面々へと走る。だが誰一人、驚いていない。動揺もない。まるで最初からすべてを分かっていたかのような顔をしていた。その瞬間、彼女は理解した。――自分は仕組まれていたのだと。乾いた笑いが、喉から漏れる。「……池上先生ってずいぶんと用意周到ですね」「あなたに比べれば、可愛いものです」由奈の声に温度はない。「私は一度も、あなたに仕掛けたことはありません。でもあなたは、何度も私を陥れようとした。今回、備えていなければ――また同じ目に遭っていたでしょう」上層部が短く命じる。「警備を呼べ」数分後、警備員が現れ、歩実の腕を取った。「離して!私はアンデル教授の部下よ!」歩実は必死に抵抗する。そのとき――「……これは、いったい何事ですか?」アンデル教授が駆けつけた。歩実は警備の手を振りほどき、彼のもとへ駆け寄った。「アンデル教授、助けてください!」だが、アンデル教授が状況を把握する前に、恭介が淡々と告げる。「ノーラングループに研究報告を渡したのは、彼女です」アンデル教授の目が、ゆっくりと歩実へ向けられる。「……違います!」歩実は首を振る。「白石先生、何かの間違いでは?」彼の声には、まだ戸惑いが残っていた。由奈が静かに口を開く。「間違いかどうかは、すぐ分かります。ノーラングループが研究結果の不備に気づけば、必ず報告書を渡した本人に連絡するはずですから」その言葉が落ちた、まさにその瞬間、歩実のスマホが鳴った。会議室が、水を打ったように静まり返る。鳴り続ける着信音だけが、やけに大きく響いた。由奈が眉をわずかに上げる。「……出ないんですか?」歩実は唇を震わせる。四方から向けられる視線に、逃げ場はない。アンデル教授の顔に、はっきりとした失望
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第409話

歩実は警備員に連れられていく間、意外にも暴れなかった。だが、振り返ったその目には、燃え残った悔恨が色濃く宿っていた。これまで順風満帆に歩んできた彼女にとって、この敗北は到底受け入れがたいものだったのだろう。由奈は静かに視線を外した。やがてアンデル教授が歩み寄る。「まさか、あの論文があなたのものだったとは。私が確認を怠ったせいです。長門さんの言葉を鵜呑みにしてしまいました」心からの悔恨が滲む声だった。そして、ふっと苦笑する。「もしあなたが白石先生の教え子でなければ、今すぐにでもM国へ連れて帰りたいところです」由奈は小さく首を振る。「あの論文は、当時は空論だと笑われることも多かったんです。私自身も、自信があったわけではありません。でも、教授が評価してくださったからこそ、研究として世に残ることができました。脳医学の分野では、まだまだ学ぶべきことばかりです」アンデル教授は朗らかに笑った。「本当に、私の弟子になってほしいくらいですね」「私の前で堂々と引き抜きですか、それは感心しませんね」いつの間にか近づいていた恭介が、わざとらしく咳払いをする。すでに会議室の人影はまばらだ。アンデル教授は肩をすくめた。「もっと早く教えてくださればよかったのに。惜しい逸材を逃しました」「教授こそ、何も聞かなかったでしょう?」恭介は冗談半分に言う。二人の軽いやり取りに、由奈は苦笑した。本当は、自分から説明する機会はいくらでもあったのだ。やがて三人は会議室を後にする。廊下に出たところで、恭介が足を止めた。「まだ用があるのだろう?私は一人で帰るよ」由奈は一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。「ありがとうございます、先生。では、失礼します」「ああ、無理はするなよ」短く手を振る恭介の背を見送り、由奈は研究センターを出た。スマホを取り出し、綾香に電話をかける。数コールの後、眠気の残る声が応じた。「……池上先生?」「ごめん、起こしちゃいました?」「あ、大丈夫です。明日は休みなので、これからまた寝るつもりでした」あくび混じりの返事。由奈は少し声を落とした。「前に集めてくれた証拠、全部データで送ってもらえますか?そろそろ使うことになりそうです」一瞬で目が覚めたように、綾香の声がはっきりする。「はい、すぐ送ります!」「ありがと
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第410話

夜、由奈がレストランに足を踏み入れたとき、そこにいる客はただ一人――祐一だけだった。白いシャツ姿の祐一は、柔らかな琥珀色の灯りの下に立っていた。袖を手首までまくり、細い指先でマッチを擦る。小さな火が揺れ、テーブルの燭台へと静かに移った。背後の大きなガラス窓の向こうには、ネオンが幾重にも重なり合い、夜の江川市を縁取っている。――ずいぶんと、気取った演出だ。もしこれが昔だったなら、きっと胸が熱くなっていたはずだ。けれど今は、ただ少し足を緩めただけで、由奈は静かに席へ歩み寄った。「……どういうつもり?」祐一は手に残った火を消し、かすかに笑う。「最近、君とちゃんと二人きりで食事してなかっただろ。せっかくだから、少しだけ『それらしく』と思って」「そこまでしなくてもいいのに」「もしかしたら、これが最後かもしれないし」その言葉に、由奈はぴたりと動きを止めた――また同情を引こうとしている。椅子を引き、腰を下ろす。「末期がんでも宣告されたみたいな言い方、やめてくれる?」祐一が低く笑う。「じゃあ、俺が死んだら困るってこと?」「くだらない」それ以上相手にせず、由奈は店員を呼んで注文を済ませた。祐一は何も言わず、ただ彼女を見つめている。食事が運ばれても、祐一はほとんど口にしなかった。視線だけを上げる。「俺たち、まともなデートって……したことあったかな」由奈は一瞬、言葉を失う。祐一はゆっくりとナイフを動かしながら続けた。「旅行に行ったときに、ちゃんと埋め合わせようと思ってた。でも……結局、行けなかったな」「祐一。結局、何が言いたいの?」彼は問いには答えず、静かに言った。「君と、ちゃんとした結婚式も挙げてやれてない」――結婚式。その言葉に、由奈の表情がわずかに曇る。フォークを置いた。「それを言うために、今夜はこんなことを?」祐一は否定も肯定もしない。由奈は小さく笑った。「この世にはね、取り戻せないものがあるの。祐一、心に残った傷は、なかったことにはできないのよ」祐一の指先が白くなる。喉の奥から、かすれた声が落ちた。「……それでも、忘れてほしい」由奈の瞳から、わずかな笑みが消える。「どうして私が忘れなきゃいけないの?」祐一はまっすぐに彼女を見る。「忘れてほしいと、俺が思ってるから」由奈は静かに
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