Todos los capítulos de 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Capítulo 81 - Capítulo 90

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第81話

警察署署長の高橋誠(たかはし まこと)は険しい表情のまま、若い警官に手で合図を送り、先に室内へ入らせた。残された長谷川夫婦は顔を見合わせ、まだ状況を飲み込めずにいた。「高橋さん、それ……どういう意味ですか?」裕美は声を荒げ、苛立ちを隠しきれなかった。「今までは兄の顔を立てて、何度も助けてくれたじゃないですか。それに、うちの息子のことは高橋さんもよくご存じでしょう?」誠の表情がみるみる険しくなる。「知ってるさ。だがな、私よりもあんたたち親のほうが、よくわかってるはずだろ?頭の病気があるってわかっていながら、どうして目を離した?トラブルを起こしたのはこれで何度目だ?そのたびに尻ぬぐいしてきたのは誰だと思ってる!」怒声が響き、長谷川夫婦は息を呑んだ。反論の言葉を探そうとしても、何も出てこない。誠は苛立たしげに肩を振り払い、背を向けた。「今回はもう無理だ。私だって助けたい気持ちはある。だがな――あんたたちの息子は、絶対に関わっちゃいけない相手を怒らせたんだ。下手に動けば、俺の首が飛ぶ」「そんな……!」裕美は必死に叫んだ。「相手が誰だろうと、うちの子は病気なのよ!どうしようもないじゃない!」その無知を晒すような物言いに、誠は呆れを通り越して怒りが滲む――まったく、なんて無責任な親だ。辻元(つじもと)署長も、こんな妹を持って気の毒なものだ。「……滝沢家だ」誠は吐き捨てるように言い放った。「文句があるなら、直接言ってみろ」その名を聞いた瞬間、裕美の顔から血の気が引いた。まるで冷水を浴びせられたように、体が硬直する。……夜更け。由奈は浅い眠りの中で、ふと気配を感じた。薄く目を開けると、病室の薄闇の中に人影が見える。その瞬間、彼女の心臓が跳ねた。廊下の光がわずかに差し込み、男の輪郭を浮かび上がらせる――祐一だ。彼は脚を組み、付き添い用の椅子に深く腰を下ろしていた。指先で腕時計の盤面を弄びながら、低い声で言う。「入院のこと、どうして黙ってた?」由奈は驚きの余韻を抑え、ゆっくりと体を起こす。「……言ってどうなるんです?むしろ、滝沢社長がここにいらしたほうが珍しいですね」距離を置くような言い方に、祐一のまぶたがわずかに動いた。視線は彼女の血の気のない顔に留まる。やがて祐一は前のめりになり、静かに問う。「由奈、そんな言い方しかで
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第82話

祐一の問いに、長いあいだ封じ込めていた記憶の扉が、軋むように開いた。十一年前の春、五峰山では世間を騒がせた児童拉致事件があった。六人の子どもたちが連れ去られ、その中に祐一も、由奈もいた。彼女は、あのときのことを今も鮮明に覚えているが、祐一はもう彼女のことをすっかり忘れていた。由奈は無意識に布団を握りしめ、そしてゆっくりと離した。「……ないよ」「本当にないのか?」祐一の眉が深く寄る。「ない」その言葉が落ちた瞬間、彼の指先が彼女の顎をつまみ、顔を上げさせた。「本当に、ないのか?」由奈は平静を装って彼を見返す。「滝沢社長、もし本当に会ったことがあるなら――どうしてあなたが覚えてないんですか?」その一言に、祐一は言葉を失ったように黙り込む。「……もう寝ます」由奈は彼の手をそっと押しのけ、冷静に言った。「社長がどうしてもここにいたいのなら、付き添い用のベッドを使ってください」だが祐一は動かず、そのままベッドに腰を下ろして横になった。「俺、あの簡易ベッドじゃ眠れない」由奈は呆れたように笑い、布団を払いのけて立ち上がろうとした――その瞬間、祐一の腕が彼女の腰をさらうように伸びた。「ちょっ……!」由奈は咄嗟に身を支えようと祐一のシャツを掴んだ。勢いで二人の体が倒れ込み、彼の重みがそのまま覆いかぶさる。息が触れるほどの距離。祐一の吐息が、肌の上をゆっくりと撫でるように流れた。由奈は息を止め、無意識に乾いた唇を舌で湿らせた。その仕草に、祐一の瞳がわずかに暗く光り、指先が彼女の唇をなぞる。……その瞬間、ちょうど夜勤の看護師が廊下を通りかかった。何気なく病室を覗いた彼女の視界に、信じられない光景が飛び込んでくる。「……え?」一瞬、止めに入ろうとドアノブに手をかけたものの、看護師はハッとしたように手を止めた。この部屋にいるのは池上先生。そして、彼女を訪ねているのは……滝沢社長。顔がこわばる。軽率な行動はまずい。震える手でスマホを取り出し、そっとシャッターを切ると、脳外科の同僚に即座に写真を送信した。数分後には、ナースステーションでその噂が瞬く間に広がっていた。一方その頃、病室の中。由奈はようやく我に返り、祐一を押しのけた。血の気が引いていき、声がうわずる。「……私は病人です。言動を、慎んでもらえませんか?」
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第83話

「え、そうなの?そんな話、初耳!」「ほら、この前話題になったでしょ?池上先生がパシフィスガーデンに住んでるって。あそこ、滝沢グループの持ち物らしいよ。証拠みたいなもんじゃない?」「でもこの間、滝沢社長って、みんなの前で長門先生のこと彼女だって認めたようなもんじゃん?池上先生は……その座を奪おうとしてるの?」「……」二人の声が、病室の中まで届いた――いや、由奈に聞かせるつもりで話していたのかもしれない。由奈は思わず吹き出した。愛人?いったいどちらの方が「愛人」なのだろう。そんなくだらない噂、気にする価値もないと、由奈は思っていた。――だが、浩輔は違った。……中央病院の地下駐車場、浩輔は車の中でじっと座っていた。冷たい蛍光灯の下、彼の視線は鋭く、数メートル先で車を降りた歩実を見つめている。やがて、彼はレンチを取り出し、袖の中へと隠した。そして、無言のままドアを開け、車を降りる。歩実はエレベーター前まで歩き、そこでスマホを耳に当てた。相手の言葉が耳に入ると、顔色がみるみる変わる。「……何ですって?祐一が、あの馬鹿男の件に手を出したって?」受話口からは、陽子の焦った声が続く。「そうなんです!私もどうしてこうなったのかわからなくて……もしあの男が何かを喋ったら、お義姉さんやお義兄さんに許してもらえるはずがないんですよ!」達夫が出世できたのは、税務署長である義兄の後ろ盾があったからだ。もし今回の騒動の黒幕が陽子だとバレれば、達夫だけでなく陽子自身の立場も危うくなる。歩実は苛立ちで指の爪を噛み、低く呟いた。「まったく……あのとき硫酸でもぶちまけておけばよかった。顔を潰してしまえば、祐一だって――」その言葉を発した瞬間、背後に気配を感じて振り返ると、男の手が振り上げられ、レンチが勢いよく振り下ろされた。スマホは手から滑り落ち、ゴミ箱の脇に転がる。通話の向こう、陽子の声がまだ切れ切れに聞こえている。「……長門先生?長門先生、聞こえてますか?」……その頃。由奈は病室でおかゆを口にしていた。ふと、舌を軽く火傷し、小さく息を呑む。理由もなく、胸の奥にざわつくような不安が広がる。「奥さま、どうかなさいました?」鈴木が心配そうに尋ねる。由奈は少し間を置いて、首を振った。「……ううん、なんでもないわ」その
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第84話

郊外の廃ビル。薄暗い空間の中、時間だけがじりじりと過ぎていく。歩実は両手を縛られたまま、恐怖に支配されていた。浩輔が本当に自分を殺すかもしれない――そんな現実味のある不安が、冷たい空気のように肌を刺す。抵抗したときに擦れた手首の縄跡が赤黒く腫れ、じくじくと痛む。なんとか逃げなきゃ――この考えだけが、歩実の頭の中をぐるぐると回っていた。そのとき、彼女の目が床の隅に落ちたガラスの破片を捉えた。浩輔の姿が見えない今しかない。彼女は縛られたまま椅子を少しずつずらし、壁際の破片へと近づいていく。――あと少し。そう思った瞬間、足音が響き、浩輔が戻ってきた。歩実の顔から血の気が引く。浩輔は椅子の位置が動いていることにすぐ気づき、視線を落とすと、壁際に光るガラス片を見つけた。ゆっくりと歩み寄り、それを拾い上げる。歩実の身体がびくりと震え、口を塞ぐテープの下から「んっ、んんっ」とくぐもった声が漏れた。そのとき、彼女の足元に水たまりができているのに浩輔が気づく。彼は一瞬、動きを止めた。そして目の前で震える女の姿を見て――ふっと笑い、鋭いガラスの破片を彼女の頬に近づく。「へぇ……人の家庭を壊すような女でも、怖いって思うことあるんだな」恐怖しか感じられない歩実は、浩輔の言葉など頭に入るわけもなく、ただ喉がひゅっと詰まり、涙が頬を伝う。「泣くな!」浩輔が突然怒鳴った。「みっともねぇんだよ!」自分の姉以外、彼は女が泣くのが大嫌いだ。その一言に、歩実は息を止めるように黙り込んだ。目も合わせられない。浩輔は乱暴にテープを剥がした。自由を取り戻した口で、歩実は震える声を絞り出す。「お願い……放して。なんでも言うこと聞くから……」「なんでも?」浩輔の声が低く冷たい。歩実は必死に首を縦に振った。「じゃあ――」浩輔はガラス片を彼女の頬に当て、ゆっくりと首筋へ滑らせた。「みんなの前で姉さんに謝れ。お前があの事件の黒幕だったって、自分の口で言え」歩実の顔が凍りつく。……みんなの前で?「どうした、嫌なのか?」浩輔が力を込める。ガラスの縁が皮膚をかすめ、歩実が悲鳴を上げた。「わかった!言う!言うわ!」浩輔の目的は、最初から彼女を殺すことではなかった。彼女に真実を話してもらい、姉の無実を証明する――それだけだ。彼はスマホを取
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第85話

浩輔は一瞬、何が起こったのかわからず呆然と立ち尽くしたが、すぐに怒りが爆発した。由奈の制止を振り切り、歩実へと詰め寄る。「クソ女!姉さんを陥れたのはお前だろ!みんなの前で謝るって言ってたのに、約束を破る気か!」「浩輔、やめて!」由奈が叫ぶも、間に合わなかった。浩輔が歩実に触れてもないのに、祐一の足が鋭く振り抜かれ、彼の体が床に叩きつけられた。すぐに麗子が手を上げ、背後の二人の警備員が動く。彼らは容赦なく浩輔を押さえつけた。「放せ!俺は悪くない!」浩輔は必死にもがきながら声をあげた。「全部あの女のせいなんだ!姉さんに唐辛子液をかけたのも、あいつの指示だ!証拠の録音もある!」祐一の目が細くなり、低く問いかけるように歩実を見やる。歩実は必死に首を振った。涙が頬を伝い、震える声が響く。「違うの、祐一!あれは彼に脅されて言っただけ。言わなきゃ、殺すって……!」「長門先生、浩輔があなたを連れ去った件については、私が代わりにお詫びします。でも……あの子は、人を殺すような子じゃありません」由奈はそう言いながら、必死に気持ちを抑えていた。浩輔が歩実を拉致したと聞いたときも、彼が人を殺すとは思わなかった。弟を信じていたからだ。ただ心配だったのは――また大学時代のように、感情のままに手を出してしまうのではないかということ。そしてその一瞬の衝動で、歩実を傷つけ、自分の人生までも台無しにしてしまうのではないかということだった。「池上先生!」歩実は泣き顔のまま、鋭い声をあげた。「被害者は私なのよ!彼はあなたの弟なんだから、肩を持つのは当然でしょ!」「弟だからこそ、彼のことを――」「もういい!」祐一の怒声が響いた。その目には冷たい光が宿っている。「浩輔が人を縛って監禁した。それだけで犯罪だ。まだ言い訳をするつもりか?」由奈の喉が詰まり、言葉を失った。祐一の言う通りだった。たとえ怪我をさせていなくても、訴えられれば浩輔は確実に刑に問われる。「祐一……」歩実は涙を拭い、怯えたように声を震わせる。「彼、私を脅して録音したの。あのデータ、後で私をゆすりに使うんじゃないかって心配で……」歩実は奥歯を噛み締める。なんとしてでもこの脅威を消さなきゃ。祐一が目だけで警備員に合図する。一人が浩輔に近づき、スマホを取り上げようとするが、浩輔は必死に守り
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第86話

浩輔の力が抜け、項垂れた姿を見た瞬間、由奈の胸が締めつけられた。彼女は駆け寄って弟の腕を支えようとしたが、その手を警備員が無情に引きはがした。浩輔が警備員に無理やり連れ去られていくのを見て、由奈は慌てて祐一を振り返る。「やめて!何をするの?さっき約束してくれたでしょ?長門先生が無事なら、浩輔のことは追及しないって!」浩輔が歩実を拉致したことを祐一に伝えたとき、弟なら歩実を傷つけたりしないと説明した。そして祐一も納得した様子で、由奈と約束を交わしたのだった。だが今、祐一の視線が冷たく彼女に向けられる。「……あの額の傷が見えないのか?これが『無事』だというのか?」由奈ははっとして歩実を見た。彼女の額には、確かに赤黒い傷跡が浮かんでいた。「たしかに追求しないとは言った。だが、許すとは言っていない」祐一の声は氷のように静かだった。彼は麗子に視線を向け、短く命じる。「警察署に連れていけ。浩輔を拉致監禁の容疑で正式に手続きを」「承知しました」麗子がうなずくと、警備員たちは浩輔の両腕を掴み、無理やり引きずっていく。祐一は何も言わず、歩実の肩を抱いてその場を離れる。彼の視線は一度たりとも由奈に向けられなかった。歩実がそのとき、ふと振り返った。唇の端が冷たく歪み、勝ち誇ったような笑みが一瞬だけ浮かんだ。車に乗り込むと、麗子が後部座席を振り返り、控えめに尋ねた。「滝沢社長、池上先生はどうされますか?お待ちしますか?」祐一が何か答えようとした瞬間、歩実が小さく呻いた。「祐一……頭が……あの人にレンチで殴られたの……まだ痛くて……」祐一の眉が寄る。「病院へ行こう」どうせ、由奈は勝手に車を捕まえて帰るだろう――彼の脳裏には、そんな冷たい思考だけが浮かんでいた。……外に出たとき、由奈の目に映ったのは、遠ざかっていく祐一の車だった。……まただ。祐一が歩実のために、自分を置いていくのは、これで何度目だろう。由奈はタクシーを捕まえようとしたが、辺鄙なこの場所に車の影すら見えない。スマホでタクシーを呼ぼうとしても、表示されるのは「近くに車両がありません」の文字。見渡せば、道の両脇は空き地ばかり。照りつける陽射しにアスファルトが揺らめき、木陰すらなかった。それでも由奈は歩き出した。陽射しのもとで十数キロも歩き、汗が背中を流れ、視界が
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第87話

「あの方はどちらへ?」「さっき帰ったよ。急ぎの用事があるって。ああ、そうそう――お金もちゃんと払ってってくれたわ。優しい青年だったよ」由奈は目を伏せ、静かに頷いた。自分を病院まで運んでくれたのが誰なのか、最後まで聞けなかった。その恩を返す機会も、もう二度とないのかもしれない――そう思った。……その日の午後、祐一がパシフィスガーデンに戻ると、寝室には人の気配がなかった。由奈がまだ帰っていないと、彼はようやく気づく。すぐスマホを手に取り、彼女に電話をかけた。だが、返ってきたのは冷たい機械音――電源が切れている。あの郊外の場所は、車もほとんど通らない。そのことが頭を過り、不安が胸の奥をざわつかせた。祐一は上着を掴むと、そのまま玄関を飛び出した。庭を抜けたそのとき、視界の先にひとつの影が現れた。夕陽の光に照らされた由奈――その頬は少し青ざめていたが、光の中でどこか儚い美しさを帯びていた。祐一の険しい表情がわずかに緩む。彼女のもとへ歩み寄り、そのまま手首を掴んだ。強い力で引き寄せた拍子に、由奈の身体が彼の胸にぶつかりそうになる。「どうしてスマホの電源を切ってた?」低い声に叱責の色が混じる。由奈は数秒、ただ見上げて――淡々と答えた。「……電池が切れてただけよ」病院を出る頃には、もう充電がなかった。それを見かねた親切な女性が、小銭を渡してくれたおかげで、由奈はどうにか地下鉄に乗ることができた。けれど、最寄り駅からパシフィスガーデンまでは二キロ。一日でこんなに歩いたのは、初めてだ。靴擦れで足首がひりつき、小指は痛みにずきずきと脈打っていた。一言しか返事してこない由奈を見て、祐一の胸に得体の知れない感情が生まれる。「……俺に電話すればいいだろ?」由奈は驚いたように顔を上げ、祐一の目をまっすぐ見た。「電話して何になるの?長門先生を置いて私を迎えに来てくれるとでも?」「人をやって迎えに行かせた」「そう。それはどうも」皮肉のように笑いながら、由奈は彼の手を振りほどき、そのまま通り過ぎた。祐一は無言でその背中を見つめる。一歩ごとにわずかに足を引きずる彼女の姿が、視界に焼きつく。無視しようとしたが、体が勝手に動いた。エレベーターの前に立った由奈を、後ろから抱き上げる。「祐一……何してるの?降ろして!」「じっとし
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第88話

祐一がいつ部屋を出ていったのか、由奈にはわからなかった。気がつけば、広い部屋には冷たい静けさだけが残っていた。「君は俺と取引できるほど、特別な人間じゃない」彼の低い声が、耳の奥で何度もこだまする。一言一言が胸を刺し、もう壊れかけていた心が、それでもまだ痛みを覚えていた。――「妻」と名乗る相手が誰かなんて、正直どうでもいい。それが本当なら、なぜ今でも、自分を苦しめ続けるの?由奈は壁に背を預け、ゆっくりとしゃがみこんだ。こんなにも無力だと感じたのは、生まれて初めてだった。二日後。池上家の夫婦は、浩輔が拉致の容疑で拘束され、実刑に問われる可能性があると警察から連絡を受けたとき、目の前が真っ白になった。慌てて警察署へ駆けつけて事情を聞くと、ようやく浩輔が他人を脅し、監禁した詳細を知った。しかも――その相手は、祐一の「浮気相手」と噂される女性だった。その朝、由奈が病院に到着すると、両親がすでに建物の前で待っていた。「由奈!」文昭が駆け寄り、怒りをあらわにしたまま、いきなり由奈の頬を平手で打った。避ける間もなく、由奈の体がよろける。「あなた、何してるの!」久美子が慌てて夫の腕をつかみ、止めた。由奈は頬を押さえることもせず、ただ淡々と髪を整え、姿勢を正した。何も言い返さないその態度が、文昭の怒りをさらに煽る。「なんだその態度は?お前のために浩輔はあの女を拉致したんだぞ!弟が刑務所に入るかもしれないってのに、何も感じないのか!」指先が震えながら、彼女の鼻先を突きつける。「こんなことになるなら、最初からお前なんかひろう――」「文昭!」久美子の叫びがその言葉を遮った。文昭は一瞬、はっとしたように黙り込み、顔をそむけた。その目には、怒りと後悔が入り混じったような色が浮かんでいる。だが、由奈の耳は、たったひとつの言葉を聞き逃さなかった。「……拾う?」しばし呆然と立ち尽くした後、彼女は小さく問い返した。「今……なんて言ったの?」久美子が慌てて間に入る。「由奈、気にしないで。お父さんは取り乱してるだけだから」そう言われても、由奈の胸には妙な引っかかりが残った。両親の視線が、何かを隠しているように感じられた。久美子は一歩前に出て、娘の手をそっと握った。「由奈……浩輔のこと、本当にごめんなさい。まさか、あん
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第89話

由奈が病室の扉を開けると、中には歩実ひとりだけだった。彼女は顔を上げ、警戒心を隠さぬまま由奈を見つめる。「池上先生?何しに来たの?」由奈はベッドのそばで足を止め、深く息を吸いこんだ。「今までのことは水に流しても構いませんが、一つだけお願いがあります――浩輔の裁判に口を出さないでください」歩実は小さく鼻で笑い、見下すように顎を上げた。「水に流すって?私、池上先生に何かしたっていうの?証拠でもあるの?それに、私を拉致して脅したのはあなたの弟よ。被害者の私が口を出しちゃいけないなんて理屈、あるわけないよね?」由奈は静かに微笑んだ。「長門先生、今ここには誰もいません。録音もしていません。そろそろ本音で話しませんか?もう取り繕う必要なんてないでしょう」歩実は眉をひそめ、唇を吊り上げた。「何の話?私は被害者よ。今の、脅迫のつもり?」由奈はしばらく黙り、拳を握りしめたまま数秒だけ目を閉じた。「脅迫じゃありません。ただ――あなた、滝沢社長と結婚したいんでしょう?でも、和恵さんがそれを許すと思いますか?」その一言で、歩実の表情が固まった。瞳の奥に、露骨な敵意が浮かぶ。由奈は静かに言葉を重ねた。「滝沢社長がどんなに庇おうと、私には和恵さんにあなたたちの関係を伝えることができます。悪人になるのなんて、今さら怖くありませんから。もしあなたが帰国後、また自分の孫に近づいたと知ったら――和恵さんはどうするでしょうね?まだ今みたいに、彼のそばにいられると思います?」歩実は顔色を失い、唇を噛みしめた。「……やれるもんなら、やってみなさいよ。わざわざ私と話す必要なんてないでしょ?」「チャンスをあげたいと思ったんです」由奈は落ち着いた声で答え、そっと付き添い用の椅子に腰を下ろした。「私が直接、和恵さんに話をしたら――あなた、滝沢社長のそばにいられなくなってしまいますからね」歩実は何かを言いかけて、言葉を失った。和恵が自分をどれほど嫌っているか、誰よりも知っている。この六年間、もし和恵が亡くなっていれば、自分はとっくに祐一と結婚できていた。だが、運命は皮肉にも、和恵を長らえさせた。「……どうしてあなたの言葉を信じなきゃいけないの?祐一と一緒に住んでるんでしょ?あなたこそ、彼と結婚したいんじゃないの?」由奈は短く息を吐いた――祐一と結婚したい?結
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第90話

「浩輔は私の弟なの。たとえ刑務所に入ることになっても、きちんと罪を償って、無事に戻ってきてほしい――そう願うのは、姉として当然のことじゃないの?」由奈は静かに立ち上がり、祐一をまっすぐに見つめた。「私はただ、公平な判決を望んでいるだけ。それのどこがいけないの?」「公平?」祐一は低い声で繰り返しながら、ゆっくりと一歩、また一歩と彼女に近づいた。「彼は計画的に拉致を実行した。たとえ大きな被害が出なかったとしても、犯罪は犯罪だ。そんな状況で公平なんて語るのか?」「大きな被害がなかったなら、軽い判決になる可能性だってある。でも――あなたは、それを望んでいるの?」「いや」ためらいのない一言だった。その瞬間、由奈の心臓が跳ねた。血の気が引いて、手の先が冷たくなる。「……だから、私が公平を望んでいると言ったの」「浩輔はよりによって歩実に手を出した。それだけは許せない」歩実を庇うその言葉が、由奈の中にかすかに残っていた希望を、無惨に打ち砕いた。理屈を尽くせばわかってくれる。そう信じていた自分が、愚かしく思えた。滝沢家の力は絶大だ。冷たい祐一が、誰の味方をするかなんて――最初から決まっていたのだ。「由奈」祐一は背を向けたまま、低く言った。「浩輔の件で、もう歩実には関わるな。彼女は今回の件の被害者で、俺たちの問題とは無関係なんだ」踵を返す祐一に、由奈は涙を浮かべながら訴えた。「……じゃあ、私は?私は被害者じゃないの?」歩実が彼女にしたことは、全部許されるというの?辛い思いをしてきたのに、ただ黙って耐えろというの?祐一の足が止まる。ゆっくりと振り返ったその瞳は、底が見えないほど冷たかった。「祐一……一度くらい、私の味方をしてくれない?」ほんの一度でいい。たった一度でいいのに。祐一は淡々と、まるで決められた台詞のように言った。「由奈、俺は……歩実に償わなければならないんだ」そう告げて、彼は扉を開け、静かに出ていった。由奈はしばらく動けず、ただその場に立ち尽くした――償わなければならない。祐一の心の天秤が、最初から歩実に傾いていたことを突きつけられた気がした。息を吸うのも苦しい。胸の奥が、焼けるように痛む。それでも由奈は、かすかに笑みを浮かべた。――祐一。あなたは歩実に借りがあるというけれど……私にだって
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