プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~ のすべてのチャプター: チャプター 401 - チャプター 410

424 チャプター

第401話

啓太の傍らには、綺麗な女性が寄り添っていた。抜群のプロポーションに気品を漂わせ、そのとした姿勢や優雅な身のこなしは、まるでバレリーナか何かを思わせた。ちょうど食堂から戻る途中だった明里は、千秋と碧を連れていた。千秋は、明里が所有する研究所のスタッフとして採用された。かつて海外留学の機会こそ逃したものの、その専門スキルには疑いの余地がない。何より明里とは公私ともに仲が良く、息もぴったり合う。だからこそ、明里は彼女を個人研究所に招き入れたのだ。「明里さん、あっちの男、すっごいイケメンですね!」千秋が明里の腕にしがみつき、声を潜めて興奮気味に言った。明里が顔を上げて視線を向けると、そこには啓太の姿があった。向こうも、先にこちらに気づいていたようだ。学内では、明里のようなタイプの美女は、どうしても人目を引いてしまうのだ。隣にいた女性が不機嫌そうに啓太の腕を引く。「ねえ、どこ見てるの?」啓太はふざけた調子で嘯いた。「なんでもないさ。美しいものを愛でる心は、誰にでもあるだろう?」「あの人、うちの大学の先生よ!」女性は訴えるように言った。「でもバツイチで子持ちなんだけど。まさか、あんなのが好みなの?」啓太はポケットからタバコを一本取り出した。女性が慌てて制止する。「タバコの匂い、嫌いなんだけど」啓太は冷ややかな視線を向けた。「嫌なら俺から離れろ」女性は唇を尖らせたが、それ以上は口をつぐんだ。彼女が啓太と一緒にいるのは、結局のところ金目当てだからだ。もちろん、啓太が本気で自分に惚れ込み、首ったけになってくれればそれに越したことはない。だが今のところ、その可能性は限りなく低いようだった。それでも、啓太の傍にいれば金銭面で不自由することはない。今の彼女にはそれで十分だった。明里の姿を認めると、啓太は女性に顎で合図した。「帰っていいぞ」彼はもう随分長いこと、新しい女を作っていなかった。正直なところ、すべては河野家のあの小娘のせいだ。年の割に小賢しく、啓太が女を一人見つけるたびに、一人ずつ確実に潰しにかかってくる。今は互いを理解し合っている段階なのだから、自分を尊重してほしい――などと、もっともらしい理屈を並べ立てて。啓太は彼女と上手くいくはずがないと分かっているし、そもそも端から気にも
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第402話

明里は不快そうに眉をひそめた。「だから、あれは誤解だったと言ってるだろう?」啓太は弁明するように続けた。「潤が本気でお前のことを好きだったって、俺も後になって知ったんだよ。あの時はただ、お前に対して偏見があったんだ。謝るよ、悪かった」「別に。もう過ぎたことだし」明里の表情からは、感情の色が読み取れなかった。「他に何か?」ここ数日、彼女は仕事に追われていた。夜は資料の調査で深夜まで起きていることもざらだ。昼休みくらいは三十分だけでも休息を取りたかったし、ましてや啓太のような男に貴重な時間を割きたくなかった。「あるよ」啓太は彼女の苛立ちを察したように言った。「あいつの親友として訊きたいんだが、お前は今、どう考えてるんだ?潤はお前を好きだし、二人は元々誤解が原因で別れたんだろ。もう話し合いも済んだんなら、いつ復縁するつもりなんだ?」明里は静かに微笑んだ。「復縁する気はないわ」啓太は癖でタバコに手が伸びかけたが、禁煙マークを見て舌打ちし、手を引っ込めた。「俺には理解できないな。潤みたいなハイスペックな男の、一体どこが気に入らないんだ?気に入らないなら、なんで最初は結婚したんだよ?今でも潤はお前に未練たらたらだっていうのに、何を迷う必要がある?」明里はこれ以上、時間を無駄にしたくなかった。カバンを手に取り、席を立つ。「増田さん、他に御用がなければ、お先に」啓太は座ったまま動かず、顔だけを上げて彼女を見据えた。「駆け引きも、度が過ぎれば逆効果だぞ」明里はただふっと笑い、沈黙したまま、くるりと背を向けて歩き出した。少し考えた後、啓太はその後を追った。「お前、潤みたいな男を苦しませることに、妙な優越感でも感じてるのか?」明里は何も答えない。啓太は構わず言葉を投げかける。「だから潤は馬鹿だって言ったんだ。お前ら女ってのは、大事にすればするほどつけあがって傲慢になる。まったく理不尽な生き物だよ」「増田さん」不意に、明里が足を止めた。啓太も足を止める。「何だ?」「あなたほど大きな事業をされている方なら、さぞお忙しいでしょう」明里は振り返らずに言った。「潤のご友人なんですから、何か言いたいことがあるなら直接彼に言ってください。お時間を無駄にはできませんので」そう言って軽く会釈をすると、彼女は再び歩き出し、今度こそ立
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第403話

具体的に何を言ったかは分からないが、確実にろくでもないことだ。潤はすぐさま、携帯を取り出して明里の番号にかけた。明里はちょうど寮に着いたところだった。彼の番号を見て、電話に出る。「明里ちゃん」潤が焦ったように呼びかけた。「さっき啓太に会っただろ?あいつの言うことは無視してくれ。頭がおかしいんだ。何を言われても気にしないでくれ、いいか?」「別に」明里の声は平坦だった。「特に何もないので、切るね」「明里ちゃん、俺は本気だ。もしあいつが何か失礼なことを言ったなら、俺が代わりに謝る……」「いいえ」明里は電話の向こうでふっと微笑んだ。「実は、彼の言ったことも一理あると思うよ。あなたたちは皆忙しいんだから、私なんかに時間を使う必要は本当にないと思うわ」明里はそう言い残して電話を切った。その言葉を聞いて、潤は啓太の発言がどれほど酷いものだったかを察した。心底、腹が立った。もともと明里との関係は行き詰まっていて、どうやって彼女に許してもらえばいいか、糸口さえ見つからない状態だったのに。こんな時に、啓太がさらに事態をややこしくしたのだ。どうしても腹の虫が収まらず、潤は啓太にメッセージで文句を送りつけ、今後は二度と明里に近づくなと釘を刺した。だが、啓太を罵ったところで問題は何一つ解決しない。潤はずっと悩んでいた。どうすれば明里に許してもらえるのか。以前の自分はあまりに横暴すぎた。明里の彼氏でもなければ夫でもない今の自分に、彼女が誰と仕事をするかに口を出す資格などないことは分かっている。だが彼女が碧と一緒にいるのを見ると、激しい嫉妬に駆られるのを止められない。自分がこれほど嫉妬深い人間だとは思いもしなかった。おそらく明里の優秀さと美しさを改めて目の当たりにし、彼女が自分以外の多くの男の視線を惹きつける存在だと知ってしまったからだろう。だから、不安でたまらなくなるのだ。だが今の自分に、嫉妬する権利などあるのだろうか?彼は言葉を慎重に選び、明里にメッセージを送ったが、返信が来るとは期待していなかった。時刻を見るともう昼だったので、それ以上は何も送らなかった。だが夕方、明里が退勤して家に帰ろうとした時、駐車場で彼を見つけた。「迎えに来たわけじゃないんだ」潤が慌てて言い訳をする。「新校舎の寄贈書類にサイン
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第404話

明里は運転中だったため、携帯はホルダーに置かれたままだった。イヤホンはつけず、そのままスピーカーモードで通話に応じる。「まだ仕事中?」スピーカーから大輔の声が流れてきた。気楽で自然体で、親しみのこもった温かい声だ。潤の視線が鋭く冷たくなる。ディスプレイの表示には、やはり【遠藤大輔】の名前があった。「帰り道よ」明里が答える。「どうしたの?」「ゆうちっちを迎えに行くよ」大輔が言った。「お前の好きなレストランに料理を注文したから、家に届くようになってる」一瞬沈黙してから、明里は短く答えた。「分かった」潤が隣にいる手前、あまり多くを語るわけにはいかなかった。大輔がまた言った。「たぶんお前が先に家に着くだろうから、先に風呂にでも入っててくれ。俺とゆうちっちが帰ってから、一緒に飯にしよう」明里がまた短く応える。向こうが「じゃあな」と言って切ると、通話が終わった。車内がしんと静まり返った。潤の心臓は、万力で締め上げられたような痛みを覚えた。この二人は、一体どんな関係なんだ?なぜ、あんなに親密でいられる?彼は気軽に明里の家に行き、宥希を迎えに行き、レストランに料理を注文し、そこで当たり前のように食卓を囲めるのか。何も知らない人間が見れば、彼こそがこの家の主人だと思うに違いない。潤は以前、遊園地に行った時のことを思い出した。他人から見れば、自分と明里と宥希は、まるで幸せな三人家族のように見えたはずだ。だが現実はどうだ。自分は明里の家の玄関にすら入れてもらえない。大輔は、それをいとも簡単にやってのける。それに比べて、自分は完敗だった。潤の心は、やるせない思いで胸が苦しかった。何か言おうと口を開きかけたが、喉が乾いて張り付いたように、声が出なかった。今日もまた、信号はずっと青のままだった。十数分もしないうちに、明里の住むマンションの前に到着してしまう。明里はマンションの敷地内には入らず、車を停めた。「二宮社長、着きました」潤が来る途中で考えていた言葉は、大輔の一本の電話によって、一文字も口に出せなくなっていた。もしここで「遠藤とはどんな関係なんだ」と問いただせば、事態はさらに悪い方向へ転がり落ちるだろう。潤は初めて、これほどの葛藤を味わった。だが彼はすぐに決断を下し、シートベル
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第405話

もし三年前、誰かがこんな風に大輔を褒めたとしたら、明里は絶対に信じなかっただろう。だが今は、認めざるを得ない。大輔は、人との距離を縮めるのが本当に上手いのだ。食後、彼はまた宥希とゲームに興じ、最後に寝かしつけてから帰っていった。こうしたやり取りは、海外にいた三年の間にすっかり板についており、彼にとっては手慣れたものだった。宥希が眠りにつくと、彼は帰ると言い出した。明里は玄関まで見送りに出る。「今夜はご馳走様でした」明里が言った。「いつか、私にも食事をご馳走させてね」「『いつか』はやめてくれよ」大輔はニヤリと笑った。「『いつか』とか『今度ね』っていうのはさ、大人がつく嘘の決まり文句だからな」明里は思わず微笑んだ。「じゃあ、いつがいい?」大輔が即答する。「胡桃がいつ暇か訊いてくれ。三人で一緒に行こう」明里にとって、こういう付き合い方はとても心地よかった。彼女は笑顔を崩さずに頷いた。「いいわね」彼女が大輔と友人でいたいと思い、彼を自分の生活圏に受け入れている最大の理由は、大輔が絶妙な「節度」を持っているからだ。あれほど我が道を行く自己主張の強い男なのに、彼女を困らせるような真似は決してしない。以前、海外で三人家族だと誤解されたことがあったが、帰国してからは、外食する際に必ず胡桃も誘うようにしている。この配慮が、明里にはとても有り難かった。潤に関しては……今日、明里があえてスピーカーモードで大輔からの電話を受けたのは、他でもない。潤に誤解させ、諦めさせるために、わざとやったのだ。これからの恋愛がどうなるかは分からない。だが、友情は確実にここにある。大輔は自分の友人というだけでなく、宥希の「パパ役」でもあるのだ。そして潤と大輔は、今でも犬猿の仲だ。わざと潤に意地悪をしようとしているわけではない。ただ明里自身も思いがけなかったのだ。三年の月日は、大輔への見方を変えるのに十分だったのだ。今では心から、彼を友人だと思っている。明里は胡桃を誘ったが、残念ながら最近彼女は仕事に忙殺されており、日曜日にならないと食事の時間が取れないという。明里自身も、プロジェクトの進行に追われていた。碧も千秋も非常に優秀で専門性が高く、彼女との連携も阿吽の呼吸だった。ただ三人で夢中になって作業
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第406話

碧の頭に浮かぶ人物は、二宮潤しかいなかった。だが彼は、何も言わなかった。彼には分かっていたのだ。明里は自分のことを、ただの同僚、友人、あるいは弟としか見ておらず、恋人になる可能性など万に一つもないことを。大人になって初めて、これほど人を好きになったのだ。そう簡単に諦めがつくわけがない。今のところ彼にとっては、ただ彼女の傍にいられるだけで十分だった。日曜日、ようやく胡桃に時間ができたため、大輔を呼び、明里と宥希も一緒にレストランで食事をした。食卓を囲んでいても、胡桃はあまり食欲がないようだった。普段なら好んで食べる料理を皿に取っても、数口つついただけで箸を置いてしまう。「どうしたの、疲れすぎなんじゃない?」明里が魚の身を丁寧にほぐして皿に置いてやった。「この魚、よく煮えてて柔らかいわよ。食べてみて」胡桃は力なく首を振った。「食べたくないの」明里は仕方なく、それを自分の皿に戻した。「絶対、過労よ。今週、いくつもの場所を飛び回ったんでしょう?」「三カ国飛んだわ」胡桃がため息交じりに言った。「国内はビジネスがやりにくいから、仕方なく国際市場を開拓してるのよ」大輔が宥希に汁物をよそい、口元を拭いてやりながら口を挟む。「頼れば楽ができるって言ってるのに、頑として使わないんだからな」彼はずっと胡桃とビジネスで提携したがっていたが、胡桃は相手にしなかった。自分が多少忙しくなっても、大輔のビジネスに寄りかかって生活したくはないのだ。そうでなければ、将来、樹とのけじめがつかなくなる。この点については、樹にはどうしようもないし、大輔も彼女の頭を押さえつけて無理やり協力させることなどできない。彼女の骨の髄まで染み付いた、人に頼りたくない、妥協したくないという頑固さだ。だからこそ、若い頃のあの出来事を、今でも根に持っているのだろう。食後、胡桃はそのまま明里について家に帰った。彼女は今日半日の休みが取れたので、どこにも行かず、ただ明里のベッドで泥のように眠りたかったのだ。大輔は彼女たちを送り届けると、すぐに去っていった。明里は、彼女と樹がまた連絡を取り合ったのか訊きたかったが、胡桃がすぐに目を閉じてしまったのを見て、何も言わなかった。明らかに疲れ切っている。胡桃は午後いっぱい眠り続け、目覚めた時にはもう外は
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第407話

明里が驚いて尋ねた。「彼、何の用?」「会いたいって」胡桃が携帯の画面を見せた。「たぶん、あなたのことを訊きたいんでしょうね」これも初めてのことではない。明里は即答した。「行かなくていいわ。断って」胡桃が小さく応え、頭を下げて返信を打ち始めた。潤は返信を受け取り、一目見るなり眉をひそめた。胡桃からの断りだ。以前、潤は明里に直接尋ね、彼女が大輔とは付き合っていないと確認していた。だが、大輔と彼女の付き合い方は、胸の棘のように心を刺し続けている。あの日、車の中で大輔からかかってきた電話を、潤は今でも鮮明に覚えていた。彼が明里と話すあの親しげな口調が、さらに嫉妬心を掻き立てる。自分も、明里の生活に溶け込みたい。だが、どうやって入っていけばいいのか、その入り口が分からない。胡桃に教えを請おうとしても、無下に断られた。彼は毎日のように大学へ食事を届けさせている。明里はそれが自分だと知っているはずだが、何も言ってこない。明里に感謝してほしいわけじゃない。ただ明里に知ってほしいのだ。あの碧とかいう男のことはもう気にしていない、嫉妬などしていないと。自分だって、分別のある寛大な男になれるのだと証明したい。ただ、明里がまだチャンスをくれるかどうか、それだけが分からなかった。彼は知っていた。今日の昼、大輔がまた明里たちと一緒に食事をしたことを。胡桃も同席していたようだが、潤は相変わらず羨ましくてならなかった。胡桃は潤の誘いを断り、その夜は明里の家に泊まった。そして翌朝早くに出ていった。午前八時から会議があるため、早めに移動しなければならなかったのだ。ところが、エントランスに出てきたところで、彼女は足を止めた。そこには、潤が立っていた。目は赤く充血し、顔には疲労の色が濃く滲んでいる。胡桃が驚いて声を上げた。「まさか……ここで一晩待ってたの?」潤はその質問には答えず、ただ訊いた。「本当に時間はないか?そんなに邪魔はしない。せいぜい一時間でいい」胡桃が問い詰める。「まず教えて。一晩中、待ってたの?」潤が数秒沈黙してから、重い口を開いた。「昨夜ここに来て、君の車が停まっているのを見たから……」「はぁ、本当に……」胡桃は呆れ果てた。「何を訊きたいかは分かってるわ。でも正直に言うけど、
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第408話

胡桃の車が走り去った後も、潤はその場に立ち尽くしていた。しばらくして我に返ると、彼もその場を後にした。明里は普段通りに出勤し、午前中を忙しく過ごした。昼食の時間になると、いつものように食事が届けられた。ただ今日、それを届けに来たのはスタッフではなく、潤本人だった。潤は慣れた手つきで料理をテーブルに並べ、数人の同僚たちに声をかけた。「さあ、温かいうちに食べてくれ。明里ちゃん、今日のスープはいい味だぞ。きっと気に入るはずだ」碧と千秋は傍らに立ったまま、一瞬どうしていいか分からず戸惑っていた。潤は料理を並べ終えると、彼らに向かって言った。「そんなに堅苦しくする必要はない。君たちは皆、このプロジェクトのために尽力してくれている。むしろ俺の方が感謝すべきだ。明里ちゃん、みんなにも勧めてやってくれ」明里も彼を一瞥してから、促すように言った。「座って食べましょう」普段、三人で食事をする時は、大学での面白い出来事や仕事の話で盛り上がり、場が静まることなどないほど賑やかだった。だが今日は四人で卓を囲んでいるというのに、静まり返っている。千秋は食べる音さえ立てないよう細心の注意を払いながら、一口ずつ慎重に食べていた。彼女は時折、恐る恐る潤の方を見ては、すぐに視線を戻していた。潤が明里に料理を取り分けた。「これ、食べてみて」明里が小声で応える。「ありがとう」すると碧も取り箸を手に取り、明里の皿に料理を載せた。「明里さん、これも食べて」明里が微笑む。「ありがとう」潤がまた料理を取った。今度は千秋の皿へ。「たくさん食べてくれ」千秋は恐縮しきりで、慌てて頭を下げた。「あ、ありがとうございます!」潤がまた碧に取ろうとした。箸がまだ空中にあったその時、碧は自分の茶碗をすっと持ち上げた。「結構です。ありがとう」潤の手は空中で止まったが、すぐに方向を変えて明里の皿へ運んだ。「じゃあ、お前がたくさん食べろ」この些細なやり取りで、張り詰めていた食卓の空気が少しだけ緩んだ。千秋が勇気を振り絞って口を開く。「二宮社長、このレストランのお料理、すごくお高いんじゃないですか?」潤が笑って答えた。「そんなに高くないさ。君たちが気に入ってくれればそれでいい。飽きたら別の店に変えるしな」ようやく食事が終わった。潤が片付け
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第409話

潤が驚いたように訊き返した。「本当か?」「本当よ」明里が言った。「決まったらメッセージで教えて」潤と別れて、明里は寮に戻ってベッドに横になったが、すぐには眠気が訪れなかった。かつて彼女は、どんなに傷だらけになっても、卑屈なほどに愛を乞い、潤の傍にいようとした。そんな過去は、もう思い出したくない。同時に、潤にも同じ思いをさせたくはなかった。心が広くなったわけでも、寛大になったわけでもない。ただ、こんな方法で「人を愛する苦しみ」を学ぶ必要はないと思っただけだ。恋愛とは本来、甘く、美しく、明るいものであるべきなのだから。彼女は、自分から変わることに決めた。生まれ持った性分は変えられないと言うが、変えるべき悪癖はある。それは本性ではなく、単なる欠点だ。間違いだと気づいたなら、正すべきなのだ。翌日の昼、明里は千秋に事情を話し、彼女と碧には食堂で食べるよう伝えて、自分は潤と会うことにした。千秋と碧は食堂に行き、トレイに料理を山盛りに運んできてから、千秋が深いため息をついた。碧が彼女を一瞥したが、何も言わなかった。碧の態度は相変わらず冷たいが、千秋は今では彼と接する機会が増え、冗談の一つも言えるようになっていた。彼女はぼやいた。「一度贅沢を知ると、もう戻れないですよね。数日あんなご馳走を食べ続けたら、食堂のご飯が喉を通らないですよ」碧が淡々と言った。「我慢して食べろ」二人は急いでかきこむしかなかった。明里は車を運転して、潤が予約したレストランに向かった。彼が迎えに来ると申し出たが、彼女はそれを断ったのだ。レストランで落ち合う手筈だったが、潤は早めに到着し、駐車場で彼女を待っていた。彼女が車を停めると、潤は自然に並んで歩き出し、二人で店に入った。席についてからも、潤は食事の間ずっと彼女に気を配っていた。明里も礼儀として、取り箸で彼に料理を取り分けた。食事が一通り終わった頃、明里がようやく本題に入った。「あの日私が怒ったのは、確かにあなたの横暴さと無礼さが原因だったわ。でも後で考えたの。もし誰かを好きになって、独占欲が湧かないとしたら、それもたぶんおかしいわよねって」「いや、俺が悪かった」潤が言った。「お前のことを、もっと尊重すべきだったんだ」「尊重だけじゃない、信頼も
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第410話

潤は彼女を見つめ返した。「分かった。じゃあいくつか、俺からも直接質問させてくれ」明里が頷く。「どうぞ。何でも答えるわ」潤の瞳には、彼女しか映っていなかった。大きく深呼吸をしてから、ようやく最初の質問を口にする。答えなどとっくに分かっているのに、それでも彼女自身の口から聞きたかった。「最初、俺と結婚したのは……好きだったからか?」二人の間に沈黙が降りた。見つめ合う瞳には、お互いの影だけが映っている。潤の心臓が早鐘を打ち、息をするのも苦しいほどだった。長い沈黙の後、明里がようやく目を伏せ、それから小さく、けれど確かに頷いた。「そうよ」たった一言。だがそれは、まるで重いハンマーのように、ズシリと潤の心の奥底に響いた。喉仏が激しく上下し、呼吸が荒くなる。どうしていいか分からず、彼は慌てて水を一口流し込んだ。だが急ぎすぎたせいで、激しく咳き込んでしまった。明里が驚いて、すぐにハンカチを取り出し彼に手渡した。潤がそれを受け取ると、咳のせいで涙目になっていた。「……すまない」彼はようやく咳を鎮めて言った。「少し、取り乱してしまった」明里は彼を見て、何も言わなかった。まさか自分の一言に、彼がこれほど激しく動揺するとは思ってもみなかったのだ。この瞬間、彼女はようやく確信した。潤は本当に、心の底から自分を愛しているのだと。潤が落ち着きを取り戻し、目を伏せる。二人はしばらくの間、視線を合わせられなかった。明里もグラスの水を一口飲んでから訊いた。「他に質問は?」「ある」潤がようやく顔を上げ、彼女を見た。「質問はいくらでもあるんだ。でも今日は時間が足りない気がする。お前は帰って昼休みを取らないと」明里も名残惜しそうに言った。「じゃあ夜、時間ある?夕食を済ませてゆうちっちを寝かせた後だから、九時以降になるけど」「ある」潤は即答した。「いつでも大丈夫だ」「分かった。じゃあ私からも一つ質問があるんだけど、今訊いていい?」「ああ、訊いてくれ」「聞いたんだけど……佐川怜衣っていう人が、あなたの初恋だって本当?」潤が目を丸くした。「俺の初恋?」明里は彼をじっと見つめた。潤が苦笑する。「誰がそんな噂を流したんだ?」「違うの?」潤は真顔に戻ると、顔に少し気まずさを滲ませた。彼は視線
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