All Chapters of プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~: Chapter 651 - Chapter 660

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第651話

「ちゃんとお昼は食べたの?」明里は潤のネクタイに触れながら尋ねた。「いきなり来て、本当に邪魔じゃなかった?」「お前のせいで、ろくに食べられなかったよ」潤は少し拗ねたような、子供じみた声で言った。「終わったら連絡してくれると約束したのに、ちっとも来なくて。心配で食欲がなくなったんだ」「ごめんなさい、すっかり忘れてたわ」「あいつと会ったら、俺に連絡することすら頭から消えてしまうのか?」明里は彼の唇にそっと指を当てた。「もう、何をそんなに焼きもちを焼いているの。あなたに余計な心配をさせたくないから、食事が終わってすぐにまっすぐここへ来たのよ。そんなに嫌なら、今すぐ帰るわよ」潤は慌てて彼女の細い腰をしっかりと抱き込んだ。「それは絶対に駄目だ」明里は彼の胸にもたれかかり、首の後ろに腕を回した。「本当に、仕事の邪魔になってない?私が来たとき、小野さんが社長は会議中だって言ってたから」「ちょうど終わったところだ。他にはもう何もない」潤はしらばっくれて嘘をついた。「それにしても、今日の午後はよく来られたな」「あなたが焼きもちを焼きそうだったから、予定を変えたの。夜じゃないとできない仕事は、家に帰ってから片付けるわ」「……じゃあ、今夜は俺の家に来てくれるか?」「今日は、お母さんと裕之さんが籍を入れた大切な日だから。二人がどう過ごすつもりなのか、まだわからないし」「もしお母さんが富永さんのマンションに移ったら、お前とゆうちっちは……俺の家に来てくれないか」「お母さんと裕之さんが一緒に住むのは、籍を入れた正式な夫婦だからよ。私たちは、まだ付き合ってるだけの恋人同士だもの。たまに泊まりに行くのとは話が違うわ。同棲なんて……まだ現実味がわかないわ」「じゃあ、俺たちもすぐに籍を……」「嫌よ」明里はきっぱりと言い切った。「早すぎるわ」「じゃあ、いつならいいんだ?」「わからない」明里は困ったように微笑んだ。「結婚のことなんて、まだ全然考えていなかったし……私とただ付き合うだけじゃ、嫌になったの?」「そんなわけないだろう。結婚して夫婦になってからだって、いくらでも恋愛はできるんだぞ」「違うわ」明里は首を振った。「夫婦と恋人は、やっぱり違うもの」「わかった」潤は彼女を宝物でも扱うかのように抱き寄せた。「全部、お前のペースに合わ
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第652話

明里はいったい何をされるのかと少し身構えながら、ベッドの端の方へ身をすくめるようにして逃げた。「お昼寝するだけだからね、変なことは絶対になしよ!」潤は首元のネクタイを緩めながら、おかしそうに彼女を見た。「変なことをするなんて、一言も言ってないだろう。それとも、お前の方が期待していたのか?」「してないわよ!」潤は本当に何もしなかった。ただ彼女の柔らかい体を抱き寄せて、ふたりで少しの間うとうとと微睡んだだけだ。決して、したくなかったわけではない。ただ、明里の目の下に薄らと浮いたくまが目に入ったからだ。母親である朱美の病気疑惑のことで、昨夜は不安でろくに眠れなかったのだろう。潤は無防備な彼女の寝顔を見てひどく切なくなり、せめて今は安心してもう少し眠らせてやりたかったのだ。ふと目が覚めると、カーテン越しの空には、夕陽がもうすぐ沈もうとしていた。二時間近くも眠り込んでしまっていたらしい。明里は身を起こしてしばらくぼうっとしてから、慌ててベッドを下りた。休憩室のドアノブに手をかけ、一歩外へ踏み出そうとした瞬間――外にいる大勢の気配に気づいたが、時すでに遅かった。一斉に、何人もの視線がこちらに集まってきた。執務室の中には、潤と勳だけでなく、役員や部長クラスの重役が二、三人も揃っていたのだ。「起きたか?」潤がすっと椅子から立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた。「喉は渇いてないか?水にするか、それともコーヒーを淹れさせようか?」明里は穴があったら入りたいほどの羞恥に駆られた。「大切なお仕事中だったのね?ごめんなさい、私のことは気にしないで……」潤は彼女の手を自然に取り、外へと連れ出しながら言った。「いや、全く忙しくない。ちょうどいい機会だから、みんなに紹介しよう」勳は潤の右腕であり、他の数人も会社の重要な幹部たちだった。潤は口の端に隠しきれない笑みを浮かべたまま、明里を「俺の彼女だ」と堂々と紹介した。その場にいた全員が、嫌というほど察していた。社長は今、ただの紹介をしているのではなく、あからさまに自慢をしているのだと。この美しくて可愛らしい女性が自分の恋人なのだと、世界中に知らせたくてたまらないのだと。一通り挨拶を交わした幹部たちは、空気を読んでそそくさと退室していった。明里は顔を真っ赤にして、まだ少し恥ずかし
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第653話

「世間に向かって、私たちの結婚を堂々と宣言するおつもり?」朱美はおかしくて、笑いをこらえきれなかった。「これほどいい奥さんをもらったんだ、当然世間に公表するべきだろう」彼は誇らしげに言った。「君は完全に俺のものだと、君に余計な気を起こす不届きな連中に思い知らせてやらないとな!」「どんな連中よ、いったい」朱美は彼をじろりと睨んだ。「何もないところから、あることないこと妄想しないでよね!」「俺が知らないとでも思っているのか」裕之は不満げに言った。「以前、わざわざ社長専用のエレベーターの前で待ち伏せして、偶然を装って鉢合わせようとした小賢しい若い男の社員がいたと聞いたぞ」世の中には、いつだって近道を探そうとする人間がいる。金持ちの男に取り入って楽をしようとする女がいれば、同じように金持ちの成功した女に取り入ろうとする男もいる。その手口は驚くほど似通っているものだ。しかも、巷の女性実業家たちに比しても、朱美はとびきり若々しく、とびきり美しかった。誰がどう見ても三十代そこそこにしか見えない。たとえ彼女に莫大な財産がなかったとしても、言い寄ってくる男には事欠かないだろう。「誰からそんな噂話を聞いたのよ?」朱美は呆れて苦笑した。「あれは、取引先の若い社員が急ぎの書類を届けに来ただけでしょう。それが話に尾ひれがついて、そんなおかしなことになってるのね」「その後も、そいつはしつこく追いかけてこなかったか?」朱美はその話題をさらりと聞き流した。「いいこと、明日の検査結果が出てから、式を挙げるかどうかを二人で決める。それでいいわね」「挙げる」裕之は有無を言わさず一言で締めた。「結果がどうであれ、俺たちは式を挙げるんだ」「そんなに強引に決めつけないでよ」「強引だと?」裕之は彼女をまっすぐに見据えた。「前に俺が横暴に振る舞わなかったせいで、君は平気な顔をして俺を騙し、遠ざけたんだろう。あの時のことを、俺は今でもひどく後悔しているんだ」「もうわかったって言ってるのに、まだそのことを根に持ってるの」朱美はなだめるように言った。「式のことは、結果が出てからじっくり考えましょう。あなただって仕事が忙しいし、結婚式の準備ってとても大変なんだから……」「愛する妻と結婚式を挙げるための時間くらい、どうとでも作れる」「式って、本当に何かとご
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第654話

明里が渡された書類に目を通し始めた瞬間、最初の数行を読んだだけで、視界が涙でぐにゃりと滲んだ。「お母さん、これ……遺言書とまったく同じじゃない!」明里は声を震わせて泣きながら言った。「こんなの、絶対に見たくない!」「馬鹿ね、こんなの生きていれば当たり前の準備よ」朱美は娘の涙を優しく拭ってやった。「おじいちゃんもおばあちゃんも、私たちが後でごたごた揉めないようにって、ずっと前にきちんと書いておいてくれたのよ」それでも、明里の胸に広がる暗い雲は少しも晴れなかった。朱美は静かに説明を続けた。「何か特別な意味があって書いたわけじゃないの。以前に、私の一部の資産はすでにあなたの名義に移してあるけれど、まだ私の手元で管理しているものがいくつか残っていてね。万が一のとき、それをきっちり三等分し……一つはあなたたちに、一つは慈善団体への寄付に、そしてもう一つは裕之に渡すようにしてあるの」明里はひどく鼻をすすりながら聞いた。「このこと、裕之さんは知ってるの?」「いいえ、知らないわ」「どうして裕之さんに見せないの。どうして私ばっかり、こんな辛いものを……」朱美は少し困ったような、哀しげな顔をした。見せる勇気がなかったのは本当のことだ。あれほど自分を案じている彼のことだから、こんなものを見せたらどれほど取り乱すか、想像に難くない。でも、この世の誰か一人には、万が一に備えて知っておいてもらわなければならない。だから、一番信頼できる明里に託すしかなかったのだ。「アキ、お母さんの体はね……たとえ今回の検査で何ともなかったとしても、これから先のことは誰にもわからないでしょう?それに、人間は、遅かれ早かれ誰もが平等に逝くものよ。だから、この世の終わりみたいな絶望した顔をしないで。とにかく、これだけはしっかり覚えておいてね。もしお母さんに何かあったときは、この書類を……」明里は泣きじゃくりながら、ただ何度も何度も頷くしかなかった。「泣かないの、本当に馬鹿な子ね」朱美は彼女の背中を抱きしめた。「潤とは、あれからちゃんとうまくいってる?」「うん……」「結婚を急かしたくはないけれど、お母さんとしては、やっぱり早めに結婚した方がいいと思っているの。ゆうちっちの心の成長にとってもその方がいいし、あなた自身はどう思っているの?」「お母さんの気持
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第655話

いつもなら家族のように打ち解けた空気で、食事の席も笑顔と賑やかな声で溢れているはずなのに、今日ばかりはとても世間話などできる雰囲気ではなかった。誰もが心ここにあらずといった様子で、ぽつりぽつりと短い言葉を交わすだけだった。やがて、重苦しい沈黙を破るように院長室のドアが開き、院長が数枚の検査資料を手に、入ってきた。「結果が出ました」潤と明里が、弾かれたようにソファから立ち上がった。朱美は動けなかった。裕之が彼女の代わりにすっと立ち上がり、大股で院長に歩み寄った。「……どうでしたか」院長は、満面の笑みを浮かべて口を開いた。「大丈夫ですよ、安心してください。全ての検査項目において、数値は完全に正常範囲内でした。あとは、これまで通り定期的な健康診断を続けていただければ全く問題ありません」明里は、あまりの喜びに自分の耳を疑った。そして、念を押すように尋ねた。「悪性の可能性は、完全に否定できるのですね」「ほぼ問題ないと断言していいでしょう」院長は力強く頷いた。「ただ、念のため今後二年間は、三ヶ月に一度のペースで造影CTと血液検査の受診をお勧めします」「はい、必ず受けさせます」重苦しい空気が一掃され、病院を出る頃には、皆の顔に心からの安堵の笑顔が戻っていた。裕之だけはあふれ出そうな感情を必死に抑え込むように、ただ静かに唇の端をわずかに緩めただけだった。明里は午後から大学に戻る必要があり、潤が車で送っていくことになった。ふたりの乗った車が遠ざかるのを見送ってから、裕之は朱美の冷たい手を引いて自分の車の後部座席に乗り込んだ。そして、運転席に人がいるのも構わず、彼女の肩を抱いてそっと引き寄せた。朱美は少し居心地が悪そうに身をよじった。「ちょっと、人が見ているわ……」運転手は心得た様子で、無言のまま車を降りて遠くへ離れていった。「朱美……」裕之の低い声が、かすかに震えていた。朱美は笑いたいような、それでいて泣き出したいような、どうしようもなく切ない気持ちになった。「もう、何ともなかったんだから、泣くことなんてないでしょう。いい年した大の大人が、みっともないわよ」裕之だって、決して泣きたいと思っていたわけではなかった。ただ、この数日間の暗闇の中で、これまでの数十年分よりもずっと多くの涙を流した気がしたのだ。
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第656話

裕之の息子である富永保人は、すでに自身の家庭を持ち、外務省の官僚として多忙な日々を送っていた。妻は彼の大学時代からの付き合いで、実家は手広く商売をしている。保人夫婦の仲は良く、朱美との顔合わせの席も、終始穏やかで和やかな雰囲気のまま無事に済んだ。これで、裕之がずっと心の底で気にかけていた家族の顔合わせが、ようやく果たされたことになる。一方その頃、潤のスマホには、父親である湊から突然の着信があった。「おい、明里の母親の朱美さんとやらが、あの富永裕之と籍を入れたというのは本当の話なのか」潤の声は、氷のように冷徹だった。「それが、あんたに何か関係があるのか」「俺はお前の親だぞ!」湊は、息子の冷たい態度に怒りをあらわにした。「親に向かって何という言い草だ!」「では、どんな言い方をしてほしいんだ」潤は淡々と返した。「以前、彼女にあんな非道な真似をしておいて、今さら俺から礼儀正しく接してもらえるとでも本気で思っているのか」「俺が何をしたって言うんだ。あの頃は、あの子のところへ一度顔を出して忠告しただけじゃないか。それに、今はもうお前たちの交際に反対などしていないんだぞ……」「あんたが反対しなくなったのは、ただ単に、朱美さんが彼女の母親だとわかったからだろう」図星を突かれた湊は少しきまり悪そうに口ごもったが、すぐに強引に話をすり替えた。「何にしてもだ、お前たちが今うまくやっているというのなら、親としても安心だ」「で、ほかに何か用があるのか」「近いうちに、明里を連れてうちで食事でもしろ。お前たちがまた一緒になったんだから、あちらの親御さんとも一度きちんと顔を合わせて、挨拶をしておかないとな」「それは、追い追い考える」「追い追いとは何だ!」湊が再び声を荒らげた。「そんな大事なこと、さっさと日取りを決めろ!」潤は適当な相槌で受け流して、早々に電話を切ると、こみ上げる苛立ちを抑え込むようにこめかみを揉んだ。自分がどう思おうと、湊が血の繋がった父親であるという事実は変えられない。これから明里と結婚して生きていくなら、親族として顔を合わせる機会は絶対に避けられないだろう。それに、筋合いから言えば、相手の親である朱美に会って挨拶をしたいという湊の言い分も、理解できなくはない。しかし、真奈美の底意地の悪い顔を思い出すと、
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第657話

さらに続けて、潤は釘を刺すように言った。「それから、万が一今後二つの家族で顔を合わせる機会があったとしても、朱美さんが会うのは、親父一人だけだ。ほかの人間は絶対に連れてこないでくれ」「どういう意味だ!」湊が激昂して怒鳴った。「お前の実の母さんが亡くなって、もう何年になると思っている!真奈美だって母親代わりだ……」「親父以外の人間は、絶対に連れてこない」潤は感情を一切排した声で繰り返した。「俺の条件が聞けないというなら、食事会の話はこれで終わりだ」潤はそれだけ言い捨てて、一方的に電話を切った。残された湊は、怒りのあまりあと少しで手元のスマホを床に投げつけるところだった。明里の本当の母親があの大富豪の河野朱美だとわかったとき、湊にそこまで真っ黒な野心があったわけではないが、やはり可愛い次男である隼人の将来のことを考えずにはいられなかった。二宮家の莫大な資産と会社の実権はすでに長男の潤が完全に握っており、隼人に残される分け前はごくわずかしかない。妻の真奈美が傍で毎日のように悲観的なことを吹き込むこともあって、親としては何とかして次男に少しでも有利な状況をと願っていたのだ。もしこの機会に朱美とよしみを通じておくことができれば、あちらの広い人脈から何か良い縁談を紹介してもらったり、河野家の事業と取引を一つまとめるだけでも、隼人が独立するための大きな足がかりになる。そういう親心からの算段だったというのに、潤はまるで付く入る隙もない。実のところ、潤は湊のそんなちっぽけな胸算用など知る由もなかった。彼はただ、真奈美と隼人という存在が心底嫌いで、自分と明里の両家の顔合わせの席に、あいつらが図々しく混じってくることを、生理的な嫌悪感を抱いているだけだった。真奈美に、母親の席は絶対に与えない。理由はただ、それだけだ。父親との不毛な電話を切ってから、潤はすぐに朱美へ折り返した。「朱美さん、今回の親父の無礼は本当にお詫びします。あの人の言うことは……どうか気になさらないでください。これからはもし親父から着信があっても、一切出ていただかなくて構いませんから」朱美は少し困ったような、気遣うような声を出した。「潤、あなたがそう言うなら従うけれど、それでも彼はあなたのお父様よ」「以前から申し上げていた通りです。もし今後、二つの家族で顔を合わ
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第658話

潤は彼女の首元のマフラーを優しく直してやりながら聞いた。「寒いか?もう家に帰るか、それともこの辺りを少し歩くか」「せっかく外に出たのに。夜の散歩をしようって誘ったのはあなたでしょう?」「お前が寒がっているんじゃないかと思って」「全然寒くないわ」潤は彼女の冷たい手をそっと取り、繋いだまま自分のコートのポケットの中へと滑り込ませた。「じゃあ、少し歩こう」明里は彼の温かい肩にぴったりと寄り添いながら歩き、今この瞬間がたまらなく愛おしく、幸せだと感じていた。「この前、朱美さんにもはっきりと伝えた通りだけど」潤はぽつりと口を開いた。「俺が親父に会うとしても、あいつ一人だけだ。俺たちの結婚式にも、あの後妻と弟の二人だけは絶対に呼びたくない」「私たちの結婚式は、私たちが好きに決めることよ」「俺の味方をしてくれるのか?」「当然じゃない」明里はきっぱりと言った。「あなたが嫌いな人は、私も嫌いよ」潤はふいに立ち止まり、彼女の体を強く抱きしめたまま、彼女をその場に引き留めた。明里は少し焦って彼の胸を押した。「ちょっと潤、こんなところで……人に見られるわよ」「愛し合う恋人同士が抱き合って、いったい何が悪い。ほかに何かやましいことをしているわけでもないのに」それでも、明里はやはり恥ずかしかった。この辺りの高級住宅街には、母である朱美と昔から顔見知りの家が何軒もあって、すれ違ったらおじさん、おばさんと呼んで挨拶をするように言われている人たちも住んでいるのだ。そんなご近所さんに、こんな抱擁の現場を見られたくなかった。「じゃあ……俺のとこに来るか?」潤が熱っぽい瞳で問いかけると、明里はわずかに頬を染めてこくりと頷いた。それを見て、潤はふっと満足そうに笑い、彼女の手を引いて自分の住む別棟の方へと歩き出した。二分もしないうちに、彼の部屋のドアの前に着いた。鍵を開けて部屋に入るなり、潤は待ちきれない様子で彼女を壁に押し当て、深く口づけた。明里の全身から一瞬で力が抜けてしまうような、甘く深い口づけだった。ようやく潤が名残惜しそうに唇を離すと、彼はそのまま彼女の体をお姫様抱っこをして、寝室の奥へと向かった。ふわりと柔らかいベッドに下ろされると、すぐに彼の大きな体が覆い被さってくる。明里は乱れた息も整わないまま、慌てて
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第659話

裕之と明日の予定を話し合ってから、朱美もほどなくして深い眠りへと落ちていった。今回の病気騒動のおかげで、自分の体を何よりも大切にしなければならないという思いが、彼女の初めて骨身に沁みた。もともと健康には自信があったし、定期的な人間ドックも欠かしたことはなかった。それでも今回の疑いは、本当に心底怖かった。かつての自分――愛する娘と奇跡のように再会する前、そして裕之というかけがえのない伴侶と出会う前の孤独だった頃の自分なら、もしかしたらこれほど死を恐れることはなかったかもしれない。でも今の自分は、人生で手にできるすべての幸せを、ようやくこの両手で掴み取ったのだ。このまま病であっけなくこの世からいなくなるなんて、考えるだけで無念で、悔しくてたまらない。幸いにも、神様はそんな彼女を哀れんでくれた。次に待っているのは、愛娘の明里と潤の結婚式という、この上ない慶事だ。樹の元にも、潤と明里が近いうちに正式に一緒になりそうだという嬉しい知らせが届いていた。裕之と朱美が結婚し、潤と明里が長年のすれ違いを乗り越えて復縁する。皆が次々と幸せなゴールへと進んでいくというのに、自分ときたら、愛する胡桃との間に子どもまで授かっているというのに、ふたりの関係は一向に結婚へと進展しないままだ。樹は、我ながら本当に情けない男だという気がしていた。とはいえ、重い悪阻に苦しんでいた胡桃の体調は、今ではすっかり落ち着いていた。あの過酷な妊娠悪阻が続いた日々は、樹にとっても今思い出すだけで胸が締め付けられるような苦しい記憶だ。毎日泣きながら吐き続けていたのは胡桃の方なのに、代われるものなら自分がすべて代わってやりたかった。胡桃は体重が十数キロも落ちてまるで別人のように痩せ細り、つきっきりで看病していた樹も、同じくらい痩せこけてしまった。でも、あの地獄のように苦しい時期はようやく過ぎ去った。今となっては、樹にとってそんな苦労は些末なことだった。樹はもともと、弁護士一本で生きていくつもりだったし、実際に法曹界で若手のエースとして目覚ましい結果を出してきた。しかし胡桃の妊娠と体調不良をきっかけに、彼はきっぱりと家業を引き継ぐ決意を固めた。これは将来の様々なリスクを考えた末の、彼なりの重い決断だった。弁護士という職業は、あまりにも多忙す
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第660話

この時期の郊外の自然公園は、木々も芽吹いておらず、外にはこれといって見るべきものもない。それでも樹は、少しでも胡桃に自然の空気を吸ってリフレッシュしてほしかった。冷たい風の中をゆっくり歩いて、柔らかい日差しを浴びて、ふたりで外の空気を楽しむ。荷物をベンチに置いて落ち着くと、静かな湖のほとりを並んでゆっくりと歩いた。ここ数日、樹は胡桃の機嫌がいいのを見計らって、さりげなく結婚の話題を振っていた。「二宮さんと明里の結婚式、いったいどんなふうにするんだろうな。」彼は楽しげに言った。「朱美さんと富永さんの式もあるし……なんか、こっちまで楽しみになってきたな」胡桃は彼の回りくどい本当の意図などとっくに見抜いていて、横目で彼をちらりと見た。「何がそんなに楽しみなのよ。自分は新郎でもないくせに」「これまでいろいろあったふたりが、無事に結ばれるのを見るのは、純粋に嬉しいじゃないか」「まあ、それは私も嬉しいけど」胡桃は素直に頷いた。「どうせなら、早く式を挙げてくれるといいな。俺も早く参加したいから」樹は言った。「あまり日取りが遅くなったら、君が出産してしまって、出席できなくなるかもしれないし」樹の本当の狙いは、胡桃に華やかな本物の結婚式を体感させることだった。友人の晴れ姿に感動して、少しでも自分との結婚を前向きに考えてくれるかもしれないという淡い期待だ。可能性は限りなく低いが、ダメ元でもやってみる価値はある。そうして他愛もない話をしながら歩いていると、向こうから華やかな装いの若い女性のグループが賑やかにやってきた。今日の最高気温は、まだ十度にも満たない。出がけに、樹は過保護なほど胡桃をしっかり着込ませた。分厚いヒートテックのインナーも、厚手のマタニティタイツも、ぜんぶ彼が手伝って着せたのだ。生まれてこのかた、垢抜けないタイツなど、一度も穿いたことのなかったおしゃれな胡桃が、妊娠してからというもの、樹の小言のせいでこんなものを毎日穿かされるはめになっている。向こうから歩いてくる女の子たちは、若くて溌剌としていた。この低い気温でも、短いミニスカートに春物のトレンチコートを羽織り、ヒールの高いショートブーツを颯爽と歩いている。胡桃はその華やかな姿をちらりと見て、少しだけ羨ましくなった。樹もそちらの集団に目をやると、すか
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